●写真①:金刀比羅神社秋季大祭で御仮屋を出る御神幸の大名行列
=福津市天神町の同神社御仮屋で、2003年9月9日午後8時撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第12回:2006.11.09
筑紫の秋祭り「放生会」の習俗
清 「11月7日の立冬で、暦の上では冬になったけど、ここで福津市津屋崎の秋祭り〝放生会(ほうじょうや)〟をいろいろ見てきたので、その風習というか風俗について、叔父さんに講釈してもらいたいね」
琢二 「つまり、〝放生会〟の習俗ということだな。筑紫の〝放生会〟のトップを切る福津市在自の金刀比羅神社の秋季大祭、別名〝津屋崎放生会〟は、重陽の節句の9月9日に行われ、筑紫路に秋の訪れを告げる風物詩で有名だ。御神幸の大名行列が、午後に在自山山麓にある同神社を出て、約2㌔離れた天神町の津屋崎海岸に近くにある御仮屋、つまり御旅所まで下り、氏子らが波打ち際で禊をする。このあと、夕方から御仮屋で約2時間休憩し、神社へ上る大名行列が午後8時ごろ御仮屋を出発する=写真①=のが習わしだった」
清 「今年は、お下りの大名行列が午後2時に神社を出て、同3時に御仮屋に着いた。1時間休憩して、午後4時にお上りの大名行列が御仮屋を出発したから、慌しかったね」
琢二 「今年は、例年午後11時ごろになる祭り終了時間を繰り上げようと、お下りの時刻が午後2時に神社を出たからな。昔はお下りの行列が御仮屋に着いて、獅子舞が披露されて日が暮れ、カーバイドをたいてアセチレンガスの灯りに照らされた夜店で子供たちが風船や綿菓子を親に買ってもらったりして、家族客で賑わったばい。今年は、御仮屋前の往還に露店もなく、風情もなくなったな」
清 「氏子さんの勤めの関係や、稚児の子供の幼稚園や学校の授業に影響せんようにと、祭りの時間が繰り上がったっちゃろうばってん、金魚すくいをしたり、おもちゃを祖父母に買ってもらったり、子供たちに夜店で楽しむ場面もないと、〝津屋崎放生会〟はつまらんね。それはそうと、なして筑紫の秋祭りは〝放生会〟と言うっちゃろうか」
琢二 「そう、そう。9月12日から18日まで行われる福岡市東区の筥崎宮(はこざきぐう)の〝筥崎放生会〟に今年行ったら、〈放生会のいわれと放生神事〉と題した謂われの説明板=写真②=が境内に掲示されとったぞ。
それによると、〈放生会は本宮の秋の大祭で、一年中で一番盛大なお祭りであります。「放生会」のおこりは「合戦の間多く殺生す、宜しく放生会を修すべし」との御神託(神様のお告げ)によって始められたものと伝えられております。延喜19年(西暦919年)筥崎宮の放生会を始めたという古い記録があって、千年以上の昔から行われ、江戸時代に一時中断していましたが、その後再興され現代に至っています。
一年一度の大祭に、御祭神の御神徳を仰ぎ、生きとし生けるものの生命をいつくしみ、実りの秋を迎えて海の幸、山の幸に感謝するお祭りを行い、併せて家庭の平和、日本の平和、更に世界の平和をお祈りしています。また、放生会最終日の18日午後2時より、稚児行列に続き、放生池にて鯉を、引き続き社前にて鳩を放つ、放生神事が執り行われます〉と書いていたな」
写真②:筥崎宮境内に掲示された〝放生会〟の謂われの説明板
=06年9月17日午前11時23分撮影
清 「なるほど。分かりやすい説明やね」
琢二 「津屋崎放生会の目玉は、黒田藩主の大名行列を真似た御神幸の〈お下り〉だな。氏子らが扮した紋付羽織の供侍(ともざむらい)から槍持ちの奴衆(やっこしゅう)、獅子楽、神輿に稚児の列まで総勢約100人の〈お下り〉行列が金刀比羅神社を出発、笛や太鼓の囃子に乗って御仮屋まで華やかに練り歩く」
写真③:金刀比羅神社を出発した供侍や奴衆、獅子楽ら秋季大祭の御神幸〈お下り〉行列
=福津市在自の金刀比羅神社下の農道で、06年9月9日午後2時19分撮影
清 「金刀比羅神社の放生会は、やっぱり大名行列が圧巻やね。黄金の稲穂が揺れる田んぼ道を御神幸行列が練り歩き、五穀豊穣に感謝する秋祭りにふさわしい季節感がある」
琢二 「大名行列は、9月21日から23日まで行われる福津市宮司の宮地嶽神社秋季大祭、〝宮地放生会〟でも登場する」
清 「そういえば、福津市古小路にある波折神社で10月8日にあった秋季大祭の〝おくんち〟でも、神輿を牽いた氏子の御神幸行列に毛槍を持った奴衆が加わっていたよ」
写真④:獅子頭を持った氏子や槍持ちの奴衆が練り歩く波折神社・〝おくんち〟の御神幸
=福津市出口で、06年10月8日午後2時12分撮影
琢二 「旧津屋崎町が同町史編集委員会の編集で平成10年(1998年)に発行した同町史民俗調査報告書『津屋崎の民俗 第四集』の中に、昔の〝おくんち〟の様子が書いてある。この本の〈北の二〉地区の〈七 年中行事〉と題した172㌻に、〈(一五)オクンチ〉として、〈十月九、十日をオクンチという。甘酒、栗御飯、寿司などをつくる。イエから出た人が里帰りしてくる。当番制で津屋崎の町中を行列があった。お下りという。お下りの主役は古小路の人達で、連日連夜太鼓をたたく稽古があり、一生懸命だった。今も受け継がれている。九日の夜は宮相撲があった。夜店が出て、金魚すくいをしたり、冷たいラムネを買ってもらった〉と触れている」
清 「お嫁に行った娘さんらが、里帰りする機会の祭りだったんやね」
琢二 「同じ本の〈天神町〉の〈七 年中行事〉にある〈(一二)九月の行事〉と題した372㌻には、〈金刀比羅様(旧暦八月九日、十日)〉として、〈九日夕方、在自の金刀比羅神社から御神幸があった。くぎや、のしや、鐘川などの大店では紋付袴で出迎えていた。その大店の前で行列舞があった。天神町のお旅所に着いて在自の氏子による獅子舞と太鼓打ちの披露があった。出店が天神町中に出た〉とある。このほか、天神町にはお旅所があるので、親類を招いて、各家では寿司、煮しめ、オバイケ、ボタ餅、甘酒をつくったことや、お旅所に着いた翌朝、お上り行列が新町、波折神社、出口を通り、田んぼ道を抜けて金刀比羅神社へ戻る――などと書かれている」
清 「ヘー、昔はお下りの翌朝がお上りという日程だったのか。時代によって変わるっちゃね」
琢二 「〈大正時代は、お旅所からわずかで浜だったので、広い浜辺で獅子舞と太鼓打ちがあった。現在は家が多くなり浜が遠くなったので、御旅所の前で獅子舞があっている〉とも書いてあるよ」
清 「今は、浜には〝海岸通り〟の海岸道路が走っているもんね」
琢二 「〈天神町〉の〈金刀比羅様〉の次には、373㌻に〈オクンチ〉の行事について書いてある。〈波折神社のお祭りである。祭礼は夕方から始まった。御神幸は幟、お神輿、お賽銭箱、稚児などが波折神社を出て、天神町のお旅所まで行列した。氏子は甘酒をカメに入れて神社に献上した。子供相撲が奉納された。オクンチから単衣から袷の着物に替わり、柿や栗が出始める〉といった内容で、オクンチが衣替えの季節行事になっていたことが分かるな」
写真⑤:06年の宮地嶽神社秋季大祭で、〝祭王〟を務めた十二単姿の演歌歌手・神野美伽(しんの・みか)さん
=福津市宮司浜で、9月23日午後0時10分撮影
清 「季節を彩る祭り行事であり、また秋の味覚など季節を感じる行事なんやね」
琢二 「『津屋崎の民俗 第一集』に収録された〈在自〉地区の〈六 信仰〉の〈金刀比羅神社「年間諸祭」〉と題した149㌻には、九月九日(旧暦)の旧藩時代祭礼について〈修験僧数十名が参加して、津屋崎まで行列していた。現在の行列は明治ごろからで、獅子舞は同じころ、勝浦豊山神社から伝授された〉と書かれており、昔は宗像、糟屋両郡内の修験道のメッカだったことなどがうかがえ、興味深いな。福津市勝浦にある豊山(ぶざん)神社の祭神は、食物神の保食神(うけもちのかみ)と火の神の加具槌神(かぐつちのかみ)で、江戸時代に豊前の英彦山から勧請されたとされる。毎年9月14日以降直近の日曜日にある秋祭り・〝勝浦放生会〟では、福岡県嘉穂郡大分村(現飯塚市)から同市練原の人たちに伝授された獅子舞が奉納されとる。京都の岩清水八幡宮から大分村に伝えられたと言われる獅子舞で、雌雄2頭の獅子を二人一組の青年が樂曲に合わせて激しく舞う」
清 「時代とともに、祭りの趣向も変わるもんやね。金刀比羅神社の獅子舞は、豊山神社からの〝移入芸能〟たい」
琢二 「同じ『津屋崎の民俗 第一集』に収録された〈宮司〉地区の〈六 信仰〉の〈宮地嶽神社秋季大祭御神幸順位及び役割表〉と題したくだりには、〈大名行列のようにヤリの受け渡しをする。(中略)神職は人力車に乗る。それ以前は歩いていた。現在は馬に乗る〉と書かれている。かつて、馬に乗っていた宮司さんが落馬して亡くなったこともあるし、乗りこなすのが難しい馬に乗るのはやめて、以前のように人力車に乗るようにしてもいいのじゃないか。御神幸行列を率いる〝祭王〟=写真⑤=なんかも昔はなかったんだし、時代によってある程度、祭りの趣向を変えてもいいだろう」