吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2010年5月13日〈津屋崎学〉033:朝鮮通信使と津屋崎

2010-05-13 05:00:07 | 郷土史
写真①:津屋崎海岸に設置された朝鮮通信使と相島(向こう=福岡県新宮町)交流の石碑
     =福津市津屋崎1丁目で、2009年4月5日撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第33回:2010.05.13

朝鮮通信使と津屋崎

清 「この前、福津市津屋崎1丁目の津屋崎海水浴場の東外れば歩いとったら、『朝鮮通信使』の石碑=写真①=が駐車場の砂地に設けられとったよ。なんで、あんな石碑が、あの場所にあるとね?」
琢二 「清も、そう思うか。朝鮮通信使と相島(あいのしま)交流の案内板として、2009年3月11日に設置されとる。玄界灘に浮かぶ福岡県新宮町の相島が、朝鮮通信使との交流の島だという歴史を伝えたいのなら、相島に設置するのが当然だな。相島にではなく、なぜ津屋崎に設置するのか説明はない。設置場所も、津屋崎海水浴場の砂浜に接する駐車場の南端中央にあり、駐車場から砂浜に降りる人には障害物に思えるな」
清 「そうやね。朝鮮通信使って、江戸時代に朝鮮から日本に派遣された外交使節というぐらいの知識しかないけど、その相島での交流の石碑がなんで津屋崎にと考えても、よう分らん」
琢二 「石碑は御影石製で、縦約80㌢、横約160㌢、高さ約60㌢。『福津・慶州文化親善交流協会』(金光烈会長)が、二千七年の『朝鮮通信使四百周年』に当たり約110万円で制作、設置場所は福津市の許可を得たとされとる。碑文=写真②=には、朝鮮通信使と相島での交流について〈福間浦、津屋崎浦、勝浦からも多くの故郷の先祖たちが動員され、喜んで通信使の為に波止場の新改築、客館建築(中略)等に活躍したと伝えられています〉などと説明されている」

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写真②:「『相島(あいのしま)』は『朝鮮通信使』の島」と書かれた碑文
     =福津市津屋崎1丁目で、2010年5月10日撮影

清 「相島には、津屋崎海岸にあるような石碑はないとね?」
琢二 「平成8年9月に新宮町教育委員会が立てた『朝鮮通信使客館跡』の説明板=写真③=が、あるぞ」

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写真③:『朝鮮通信使客館跡』の説明板
     =福岡県新宮町相島で、2010年5月9日撮影

清 「へー、どんな説明文になっとうとね?」
琢二 「書き出しから引用すると、次のような説明だ。
〈江戸時代に、唯一国交を持ったのは朝鮮です。十一回にわたり、朝鮮からの使節団が、首都漢陽(かんよう)から、壱岐・対馬を経て、相島に寄港し、瀬戸内海をとおり大阪で上陸し江戸に向かいました。
最初の三回は、豊臣秀吉の二回にわたる朝鮮出兵の戦後処理のための使節で『回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし』といわれました。その後は、徳川将軍の代替わりのお祝いなどのための使節で、『朝鮮通信使』〉といわれています〉
『回答兼刷還使』という呼び方の時期があるとは、現地に行くまで知らなかったな」
清 「叔父(おい)しゃん、いつ相島に行ったとね?」
琢二 「5月9日の日曜日たい。新宮町の新宮漁港から町営渡船に乗り、17分後に7.5㌔離れた相島漁港に着いた。釣り客が、多かったな」
清 「お土産は、ないと」
琢二 「ハハハ、相島地域産物展示販売所の食堂でウニ飯を食べたが、胃袋に収めただけだ。それより、この『朝鮮通信使客館跡』の説明板の続きには、面白い記述があったぞ。
〈外国からの使節団なので、幕府は通過経路の各藩に手厚く供応するよう命じました。黒田藩は、相島を供応の場と決め、一年ほど前からその準備にとりかかりました。
 客館は毎回新築し、波止場の新修築や諸施設を建設しました。水は井戸や水溜場をつくり確保しました。食糧も天保二年の例では、豚は長崎から購入し、猪(しし)、鹿は立花山、能古島、津屋崎の渡山(わたりやま)で捕り、伊勢エビは大島から、鯛は広島から取り寄せています。黒田藩の相島での接待がいかに心をこめたものであったかがわかります〉
 ……と、ここに津屋崎の渡山でイノシシやシカを捕ったということが書かれとる」
清 「なるほど。面白いね」
琢二 「このことは、『津屋崎町史 通史編』にも載っているぞ。相島に一泊する『朝鮮通信使』を接待した福岡藩については〈福岡藩の運命を左右するほど大変なものであった。一般領民のなかで諸準備や福岡藩領内の安全な通過を確保するための中心的な役割を演じたのは主として浦の者であり、その中でも相島・新宮・津屋崎の三浦が被った迷惑は相当のものであった。(中略)朝鮮通信使の来日に際して津屋崎が果たした役割は、第一に藩主の相島への渡海地であり、第二に鯛を中心とした魚の提供であり、第三に相島への諸荷物の運送であり、第四に水夫役の遂行であった〉と書かれてとる。家老以下の渡海の場所が新宮だったのに、藩主は津屋崎から船に乗ったから、藩主乗船の漕ぎ船はその多くを津屋崎が受け持ったと思われる。鯛の準備についても、延享五年(1748年)には津屋崎の漁船13艘が鯛網漁を行っていた。水夫役の動員は通信使の相島一泊に際し、津屋崎と勝浦の両浦だけでも百人程度が50日程度、つまり延べ5千人ほどが動員されたと考えられると『津屋崎町史』の記述にあり、朝鮮との交流という場が一般領民、漁民には日々の生活に大変な迷惑事だったということがうかがえるな」
清 「藩主が津屋崎から乗船したんが、災いのもととも言えるね。ところで、客館って通信使の宿泊所のことやね」
琢二 「そうや。現在、客館跡は畑になっており、『朝鮮通信使客館跡』の小さな立て札=写真④=が立っている。新宮町教育委員会が平成6年、この畑を発掘調査し、大規模な建物跡を見つけ、この場所に壮大な客館があったことを確認した。また、井戸跡からたくさん見つかった下駄や漆器椀、肥前系の陶磁器など接待に使ったと思われる道具類の一部は、新宮町歴史資料館に展示されとる」

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写真④:畑わきの道路に立つ「朝鮮通信使客館跡」の立て札
     =相島で、2010年5月9日撮影

清 「新宮町は、客館跡の資料を大事に扱っているとやね」
琢二 「客館跡の畑の一角には、相島伝統文化保存会の『朝鮮通信使客館図』=写真⑤=も立てられていたぞ」

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写真⑤:畑の一角にある「朝鮮通信使客館図」の立て札
     =相島で、2010年5月9日撮影

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「相島」(福岡県新宮町)と福津市津屋崎の位置図

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2008年1月6日〈津屋崎学〉032:「活洲場」

2008-01-06 13:40:37 | 郷土史
写真①:曽根の鼻に突堤が残る「活洲場」跡
     =福津市津屋崎渡半島南端で、2007年12月30日午前11時20分撮影

琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第32回:2008.01.06
  「活洲場」


清 「福岡県飯塚市幸袋にある〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤傳(伝)右衛門(1860-1947)の旧邸が、一般公開されて人気やね。おいしゃん(叔父さん)、津屋崎にもあんな屋敷があったら観光の目玉になるとにね」
琢二 「清、何も知らんのか。傳右衛門は、津屋崎でも事業をしよったとぞ」
清 「えっ、本当?」
琢二 「津屋崎渡半島の南端・曽根の鼻に、『活洲場(いけすば)』の跡=写真①=が残っとる。明治40年(1907年)5月、『津屋崎活洲会社』が創立され、曽根の鼻に延長約240㍍の突堤を築き、海面約2,300平方㍍を囲んで活洲を建設した。タイ、ヒラメ、ブリなど約50種の魚を泳がせ、観覧用の堤防や中の島も設け、同41年7月から活洲の遊覧を始めた。9月からは、方形の屋根を4本柱で支えた東屋で活魚を賞味できるいけす料理を開業した=写真②=」


写真②:魚の観覧客で賑う「活洲場」
     =福津市津屋崎で、『津屋崎町史通史編』(旧津屋崎町発行)からスキャン

清 「傳右衛門は、『津屋崎活洲会社』とどう関わっていたとね」
琢二 「『津屋崎活洲会社』は資本金3万円で、地元の醤油醸造家占部太平を社長に発足したが、傳右衛門は麻生太吉や貝島栄三郎ら筑豊の炭鉱主らとともに大株主に加わった」
清 「確か、津屋崎天神町に新泉岳寺を建立した地元の実業家児玉恒次郎さんも、『活洲場』開設に参加したんだよね」
琢二 「よう覚えとったな。児玉さんは、津屋崎の観光開発に熱心やった」
清 「それで、『活洲場』は、儲かったちゃろか」
琢二 「〈魚に引かれて津屋崎遊び〉と大評判になり、いけす料理開業翌月の10月には1日平均450人の賑わいだった」
清 「へー、好調やないと」
琢二 「ところが、11月に近くでコレラが発生、伝染の恐れが出たため、1か月休業するはめになったうえ、冬場には寒さで料理の目玉のタイやヤズがショック死した」
清 「あらら、大変だね」
琢二 「明治42年11月29日には、九州北部を襲った暴風・高潮のため、『活洲場』の魚が高潮にさらわれて、沖に逃げ去るという大打撃を受けたったい。とうとう同43年5月に臨時株主総会を開き、水族館計画を含む増資案を撤回し、やりくり営業を続けたものの、会社解散に追い込まれた。〈津屋崎千軒〉として栄えた明治の港町・津屋崎の観光浮揚に、羽振りの良い傳右衛門ら炭鉱主が一役買ってでたものの、実を結ばなかったのは残念な結果ばい」

「活洲場」跡
      「活洲場」跡の位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年1月5日〈津屋崎学〉031:六人士の歌碑と六社宮

2008-01-05 20:10:38 | 郷土史
写真①:『六人士』の庄屋佐兵衛が詠んだ辞世の歌碑
     =福津市津屋崎白石浜俵瀬で、2008年1月4日午前9時06分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第31回:2008.01.05
  六人士の歌碑と六社宮


清 「おいしゃん(叔父さん)、明けましておめでとうございます。前回、津屋崎横町の『教安寺』境内に祀られとる『義民六人士』のことを聞いたばってん、『六人士』の浦庄屋佐兵衛が詠んだ辞世の歌碑のことばもう少し話しちゃらんね」
琢二 「おめでとう。『義民六人士』は『義民六人衆』とも言い、略して『六人士』、『六義士』とも言うが、佐兵衛が詠んだ〈骨くだく思いもしぶきと消へさりぬ 白石浜の今日の夕映え〉という歌の石碑=写真①=は、白石浜の俵瀬にある」
清 「俵瀬って、車で行ける所かね?」
琢二 「渡の入海(いりうみ=津屋崎干潟)西岸の旧〈玄海彫刻の岬恋の浦〉正門前の道路北側に〈六人士の歌碑〉の案内標識=写真②=が建っている。ここから、北西へでこぼこ道を車で走り、2分で白石浜に突き当たり、すぐ左の俵瀬に歌碑があるのが見える。歌碑の裏には、〈義民六士/浦庄屋佐兵衛/組頭七郎兵衛/長兵衛/甚兵衛/作右エ門/弥右エ門/寛永十七年六月一日〉と刻まれとる」


写真②:道路わきに建つ〈六人士の歌碑〉の案内標識(右は『津屋崎干潟』)
     =福津市渡で、1月4日午後2時11分撮影

清 「歌碑は、だれが建てたとね」
琢二 「津屋崎漁業協同組合が昭和43年(1968年)6月、我が身を犠牲にして漁場を守った義民として6人の遺徳をしのび、ゆかりの白石浜に建てた。寛永17年(1640年)6月1日は、津屋崎浦と勝浦浜の漁場争いが決着した日で、江戸時代初期のことたい。浦庄屋佐兵衛ら6人は、黒田藩浦奉行への直訴の罪で翌2日に断罪されている。当時、漁区は網が引けない岩場が多いうえ、漁師約50戸の勝浦の6倍の300戸の漁師がいた津屋崎浦は、六義士の犠牲により白石から勝浦浜まで約1㌔の漁場を獲得したことになる」
清 「藩の浦奉行が、三百貫(1,125㌔)の大石を6人に担がせ、綱が切れた所か、力尽きた所を境界とすると言い渡したが、6人は必死に勝浦浜まで約10町(約1㌔)歩き続け、たまりかねた浦奉行が刀を抜いて綱を切って制止した所を境界とし、約百年の漁場争いに終止符が打たれたんだったね」

俵瀬の〈六人士の歌碑〉
     〈六人士の歌碑〉の位置図
       (ピンが立っている所)

琢二 「〈六人士〉が、『三百貫の大石』を担いで、この歌碑から白石浜を北へ約1㌔歩いた勝浦浜に、この『大石』=写真③=があるばい」
清 「写真では、台の上に載せられ、囲いがしてあるね」
琢二 「津屋崎漁協が昭和55年に砂浜に埋まっていた石を掘り起こし、コンクリート台に載せて保存できるようにした」
清 「いっぺん見に行こう」


写真③:〈六人士〉が担いだとされる『大石』
     =福津市勝浦浜で、2007年12月9日午前11時16分撮影

琢二 「この『大石』の東側の松原には、〈六人士〉を祀る『六社宮』=写真④=がある。松原地区では、津屋崎浦の願いがかなったから運が強い〝勝負の神〟として信仰していると聞く」
清 「波折神社にある『六之(ろくし)神社』のほかにも、〈六人士〉を祀る社があるっちゃね」
琢二 「〈六人士〉は、断罪されて約2百年後の天保5年(1834年)3月18日、黒田藩から罪をゆるし厚く祭祀を営むよう命じられ、神に祀られた。『六之神社』では、この3月18日に義民六士の霊を慰め、教安寺では命日の6月2日に供養が行われる」


写真④:〈六人士〉を祀る『六社宮』
     =福津市勝浦浜で、2007年12月9日午前11時24分撮影

六人士が担いだ大石
〈六人士〉が担いだとされる『大石』の位置図
        (ピンが立っている所)
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2007年12月31日〈津屋崎学〉030:「教安寺」

2007-12-31 09:00:44 | 郷土史

写真①:「鷗詠山教安寺」の山門
     =福津市津屋崎横町で、2007年12月13日午前9時05分撮影

琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第30回:2007.12.31
  「教安寺」


清 「おいしゃん(叔父さん)、今年も大晦日になったね。ご先祖のお寺参りも、近ごろ行かんけど、きょうは津屋崎横町の『教安寺』のことば話しちゃらんね」
琢二 「清、津崎家の菩提寺・『教安寺』のお参りを欠かしたら、いかんぞ」
清 「分かりました。『教安寺』のことは、浄土宗のお寺ということぐらいしか知りまっせん」
琢二 「そう、浄土宗で、『教安寺』は寺号(じごう)だな。山号(さんごう)を鷗詠山(おうえいざん)=写真②=、院号(いんごう)を浄土院(じょうどいん)という」
清 「ちょっと。その寺号、山号、院号って何のこと?」
琢二 「日本の寺院は、奈良時代には平地に建てられていたが、平安時代には山に多く建てられるようになり、高野山、比叡山などが山の名の山号で呼ばれている。『比叡山延暦寺』、『成田山新勝寺』など寺の名前の上に付ける称号として山号が使われているが、のちに『金竜山浅草寺』(きんりゅうざんせんそうじ)などと平地の寺でも山号を付けるようになった。院号というのは、垣根のある立派な屋敷や建物、回廊をさす。『教安寺』の総本山は、京都の知恩院だが、知恩院は院号で、山号は華頂山(かちょうざん)、寺号は大谷寺(おおたにでら)たい」
清 「へー、そうなんや」


写真②:「鷗詠山」の山額が掲げられている『教安寺』本堂
     =12月13日午前9時05分撮影

琢二 「『教安寺』は、平安時代に浄土宗を開いた法然(ほうねん)の弟子の行音自阿弥陀仏大和尚(ぎょうおんじあみだぶつだいおしょう)が、鎌倉時代中期の寛喜3年(1231年)に開山した」
清 「それで、ご本尊は?」
琢二 「平安か鎌倉時代の作といわれる阿弥陀如来=写真③=が、本堂にあるたい。計り知れない生命力・光を持つ如来である西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来から見て右側に衆生の無知を救う仏の智慧を表す『勢至菩薩』、左側に慈悲を示す『観音菩薩』の像が脇侍として建っている」
清 「ほう、いっぺん拝んでみたい」


写真③:本堂にある阿弥陀如来像(向かって左が『勢至菩薩』像、右が『観音菩薩』像)
     =「教安寺」で、12月13日午前9時36分撮影

琢二 「本堂前には、青銅製の大地蔵菩薩=写真④=もあるばい。江戸時代に幾度もあった飢饉で亡くなった子供の供養にと、江戸後期の文政8年(1825年)に建立された」
清 「確か、日本史の授業で享保の飢饉というのを習った記憶がある」
琢二 「よう覚えとったな。徳川吉宗が将軍だった江戸時代中期の享保17年(1732年)にイナゴが大発生し、享保の飢饉が起きた。筑前領内でも死者約10万人で、福岡と博多の住民の半数が犠牲となり、黒田藩に大きな打撃となったそうな」


写真④:本堂前の境内にある青銅製の大地蔵菩薩
     =「教安寺」で、12月13日午前9時47分撮影

清 「津屋崎でも、多くの子供が飢饉で亡くなったっちゃろうね」
琢二 「そうだな。境内には『義民六人士』も祀られとるのを知っとうや」
清 「『義民六人士』の名前は聞いたことがあるばってん、詳しくは……」
琢二 「『義民六人士』は、江戸時代に津屋崎の漁場拡張を黒田藩に直訴した庄屋佐兵衛と組頭ら5人のことたい。藩の浦奉行が津屋崎白石浜の俵瀬にあった三百貫(1,125㌔)の大石を6人に担がせ、力尽きた所を境界とすると裁きをした。ところが、6人は必死に勝浦浜側まで約1㌔歩き続け、浦奉行が制止した所で境界とし、約百年の漁場争いに終止符が打たれた」
清 「それで、6人が『義民六人士』と呼ばれるようになったとね」
琢二 「6人は直訴したとして断罪されたが、『教安寺』に『義民六人士』を供養する六角堂と塚が建てられ=写真⑤=、波折神社境内には六之(ろくし)神社=写真⑥=が設けられ、神として祀られた。勝浦浜には、その大石が残され、俵瀬には佐兵衛が詠んだ〈骨くだく思いもしぶきと消えさりぬ 白石浜の今日の夕映え〉という歌の石碑が建てられている」
清 「胸の底に重く響く歌だね」


写真⑤:『義民六人士』を供養する六角堂と塚
     =「教安寺」で、12月13日午前9時06分撮影


写真⑥:『義民六人士』を祀る六之神社
     =福津市津屋崎古小路の「波折神社」境内で、12月9日午後4時44分撮影


琢二 「ただ、この浦奉行の裁きで漁場を狭められた勝浦浜人の無念もまた残されたということだ。それから、境内には江戸時代中期の寛保3年(1743年)に津屋崎塩田を開発し、黒田藩から塩浜庄屋に任命された大社元七(おおこそ・もとしち)さんの墓も祀られとるばい」
清 「『教安寺』には、津屋崎の海にまつわる歴史が詰まっとうね」

『教安寺』(福岡県福津市津屋崎横町。℡0940-52-0004):◆交通アクセス=〔バスで〕西鉄バス「商工会津屋崎支所前」下車、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約25分。

教安寺の位置図

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2007年5月24日〈津屋崎学〉029:「在自山」の高さは2説のどっち?

2007-05-24 03:17:43 | 郷土史
写真①:標高249㍍か、235㍍か、国土地理院の次回修正時の図化観測が注目される在自山
     =福津市在自で、07年5月23日午後1時36分撮影

・琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第29回:2007.5.24

  「在自山」の高さは2説のどっち?

清 「山登りにいい季節になったね、おいしゃん(叔父さん)。5月11日の吉村青春さんのブログ『津屋崎センゲン』に〝初夏の「宮地岳―在自山」縦走登山〟の〈日記〉が載っとったよ」
琢二 「そうだったな。津屋崎の東に連なる里山の縦走だが、その在自山(あらじやま)=写真①=の高さに2説あるのを知っとうや?」
清 「エーッ、初めて聞く話ばい」
琢二 「吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』の口絵2㌻に載った〈在自山から津屋崎・渡半島大峰山を望む〉写真の説明で〈在自山標高249㍍国土地理院1/2.5万地形図)〉と書いてあるのに気付いたか」
清 「いいえ。ちょっと詩集を開いてみるよ。アッ、本当や、確かにそう書いてある」
琢二 「実際、山頂には〈在自山249m〉と書いた案内板が、設置されとるばい=写真②=。青春さんに聞いた話では、山の高さは国土地理院が測定した標高で表記されると学校で教えられたが、在自山の標高を235㍍とした〈1/2,500津屋崎町基本図〉もあり、津屋崎観光協会が作った『つやざき観光マップ』や、福津市が建てた〝宮地嶽自然歩道〟の案内地図=写真③=では〈在自山235.2m〉と書かれとるから、どっちが正しいのか調べたそうたい」


写真②:山頂に設置されている〈在自山249m〉の案内板
     =福津市在自山で、2007年5月11日午前11時03分撮影

清 「ちょっと、待って。僕が持っている福津市地域生活部産業観光課と市観光協会が発行した『ふくつ観光地図』には、〈在自山249m〉と表記されとうよ。いや、ばってん、2007年3月に福津市男女共同参画地域づくり実行委員会が編集・発行し、問い合わせ先が福津市総合政策部男女共同参画推進室になっている『福津市 歴史&自然散策マップ』では、〈在自山235m〉となっとうね」


写真③:〈在自山235.2m〉と書かれた福津市設置の〝宮地嶽自然歩道〟案内地図
     =福津市在自・「金刀比羅神社」横の在自山登山口で、07年2月9日午後3時46分撮影

琢二 「そのように、2説の標高を書いた地図が出回っているわけたい」
清 「なして(なんで)、標高に14㍍も差がある2説があるんやろうか」
琢二 「青春さんが国土地理院に尋ねたところ、在自山の標高249㍍は頂上に三角点や水準点がないため、空中写真から図化機という機械を使って観測した値で、縮尺による精度や観測者の技量差で235㍍とする説もあり、縮尺の大きい津屋崎町基本図の精度が高い。次回修正時に図化観測を行い、数値の違いがあれば地形図の標高を訂正したい。貴重な指摘ありがとうございました、と回答されたそうな」
清 「フーン、そうなんだ」
琢二 「だから、青春さんの詩集では、〈在自山(標高249㍍=国土地理院1/2.5万地形図)〉と表記し、国土地理院刊行地形図に基づく標高と補足説明したそうたい。国土地理院が次回修正時に図化観測を行い、数値の違いがどう地形図の標高に反映されるか注目されるばい」
清 「在自山は、津屋崎を代表する山やけど、そう言われるとなんだか大きく見えてくる」

在自山
        「在自山」の位置図
        (ピンが立っている所)
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2007年4月22日〈津屋崎学〉028:善福寺と黒田長政公

2007-04-22 09:59:23 | 郷土史
写真①:北側の路地から見た「善福寺」境内
     =福津市津屋崎出口で、2007年4月20日午後4時10分撮影

・琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第28回:2007.4.22
  善福寺と黒田長政公


清 「おいしゃん(叔父さん)、福津市津屋崎の藤名所・出口の善福寺=写真①=のフジが咲いたと、4月12日の吉村青春さんのブログ『津屋崎センゲン』に載っとったよ」
琢二 「そうだな。例年、4月下旬が見ごろになる」
清 「ところで、善福寺って、めでたい名前のお寺やね」
琢二 「お寺を開いた人は、鎌倉時代の文永9年(1272年)に福岡県太宰府市横岳の崇福寺の住職となった圓通大応国師たい。本尊は、馬頭観世音。筑前国中33ケ所霊場第16番札所にもなっとる。言い伝えによると、昔、宮地岳西側の在自山との間の山麓にあった大力谷の海雲山善福寺というお寺が火事になり、仏像の観世音が焼けた際に、ここ出口まで飛んで来て難を避けた。そこで、お堂を建てて祀った、と言われとる」
清 「ヘー、そうね」
琢二 「善福寺境内入り口の路地の東側に、この言い伝えの説明文も刻んだ墓地改装記念の石碑=写真②=が建っとるばい」
清 「藤名所の善福寺に、そんな言い伝えの石碑があるとは知らんかったな」


写真②:「善福寺」境内入り口の路地東側に建つ言い伝えの説明文も刻んだ墓地改装記念碑
     =福津市津屋崎出口で、07年4月13日午後2時26分撮影

琢二 「〈善福寺〉は〈観音堂〉とも言うが、もう一つ、〈垣の内観音堂〉とも呼ばれとる」
清 「そらまた、なして(なんで)?」
琢二 「江戸時代に発刊された地誌・『筑前国続風土記拾遺』(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)によると、元和9年(1623年)、初代福岡藩主・黒田長政公が京都で死去し、その棺を船で博多へ運ぶ途中、風雨が強くなったため、ここ津屋崎港から出口に棺を揚げ、四方に垣をめぐらせて守った。棺は翌日、陸路で博多の黒田家菩提寺・崇福寺(そうふくじ)に送られた。地元の人たちは、ここの地名を垣の内と言うようになり、のちに観音堂を建て、長政公の〈興雲院殿〉の位牌を祀ったことから、〈垣の内観音堂〉とも呼ばれるようになった。今も、善福寺の入り口には〈善福寺観音堂縁起〉の説明板=写真③=が掲げられとる」
清 「そんな歴史があったとは、知らんかったな」


写真③:善福寺の入り口柱に掲げられた〈善福寺観音堂縁起〉の説明板
     =福津市津屋崎出口で、07年4月12日午前6時46分撮影

琢二 「善福寺は、正面に切妻の一棟があり、すぐ裏に六角堂の一棟がある。切妻の棟に入ると室内は六角堂まで続いており、ここに観音様と黒田長政公の位牌が祀られている」


写真④:観音様と黒田長政公の位牌が祀られている「善福寺」本堂
     =福津市津屋崎出口で、07年4月13日午後2時27分撮影

清 「黒田長政公の位牌が津屋崎のお寺に祀られ、ゆかりの地名まで残っているとは面白いね。でも、ちょっと疑問がある。もともと善福寺は、言い伝えによると、大力谷の海雲山善福寺というお寺が火事になり、仏像の観世音が焼けた際に、出口まで飛んで来て難を避けたので、お堂を建てて祀った、と言われとるとやろ? そしたら、すでに観音様を祀るお堂があったはずの所に、地名を垣の内と言うようになった後にまた観音堂を建てたことにならんね」
琢二 「いい着眼だ。言い伝えは、文献史料はないし、焼けた仏像が飛んで来るというお話はともかく、観音様を祀るお堂が建てられていても古くなって朽ちていたのかもしれん。そこで、長政公の位牌を祀るため観音堂を建てたという見方もできなくはない。もっとも、善福寺縁起によると、平安時代の天暦年中(947年)、観音堂が炎上、仏像が飛び去って約百㍍東のセンダンの木に留まった。この木の下に黄金があるとの神託で、近くの漁夫が木の下から黄金を掘り出し、改めて寺を建て、善福寺と号した。その後、取り壊され、廃寺同様になったが、信徒が旧跡に小堂を再興したとの説もある。この辺の事実関係を考察するのも、郷土史研究の面白いところたい」
清 「言い伝えや伝説は、興味深い話が多いね」
琢二 「旧津屋崎町が平成10年(1998年)に発行した『津屋崎町史民俗調査報告書  津屋崎の民俗(第三集) 渡・梅津・末広・岡の二、三』には、〈今の観音堂は吉田作蔵(醤油屋)が海で遭難したとき、観音様に助けていただいたので寄進した。吉田作蔵の石碑がある。毎年八月十七日にお籠りがあった。出口の人達だけで年二~三回の出方があり、皆で観音様を世話をしている〉と書かれている。ま、今が見ごろのフジ越しに六角堂=写真④=を眺め、津屋崎の歴史に思いを寄せるといい」


写真⑤:南側から見た善福寺の「六角堂」
     =福津市津屋崎出口で、07年4月20日午後4時09分撮影

善福寺(福津市津屋崎出口):◆交通アクセス=〔バスで〕西鉄バス「商工会津屋崎支所前」下車、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約25分。駐車場あり。

善福寺
         「善福寺」位置図
          (ピンが立っている所)

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2007年4月19日〈津屋崎学〉027:津屋崎祇園山笠

2007-04-19 10:28:39 | 郷土史

写真①:波折神社を出発する〈津屋崎祇園山笠〉追い山の2番山・「北流れ」(左側)と先発した1番山・「新町流れ」(右側)
     =福津市津屋崎古小路で、2006年7月16日午前9時05分撮影

・琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第27回:2007.4.19
  津屋崎祇園山笠


清 「21、22日に津屋崎千軒〉通りで、津屋崎の物産販売や絵馬の展示などがある第10回〈よっちゃん祭〉が、NPO(特定非営利活動)法人・〈つやざき千軒いきいき夢の会〉主催であるばってん、津屋崎の男の祭りと言えば、やっぱり〈津屋崎祇園山笠〉=写真①=たいね、おいしゃん(叔父さん)」
琢二 「そらー、そうくさ。〝オギオンサマ〟とも呼ばれてきた〈津屋崎祇園山笠〉が、悪疫、災害を除く神事として昔からの伝統を今に引き継ぎ、〈津屋崎千軒〉通りの狭い路地を一気に駆け抜ける一番の祭りばい。清や吉村青春さんら天神町に住む人や新屋敷・出口、沖町、裏町・蔵屋敷・門前の住人は〈岡流れ〉に所属する。東船津町、西船津町、東魚町、西魚町、横町の人は〈新町流れ〉が受け持つ。東古小路、浜ノ町、上本町、北本町、西古小路の人は〈北流れ〉になる。この三つの流れに分かれ、〈追い山〉を競う勇壮な夏祭りが〈津屋崎祇園山笠〉たい」
清 「なるほど。それで、〈津屋崎祇園山笠〉は、いつごろ始まったとね?」
琢二 「江戸時代に発刊された地誌・『筑前国続風土記附録(ちくぜんのくにぞくふどきふろく)』によると、正徳4年(1714年)たい。津屋崎の氏神・〈波折神社〉=写真②=の境内にある祇園社に、博多から祇園神をお迎えし、旧暦の6月19日に高さ10㍍という大きな三基の山笠を作って担ぎ、神様に捧げて祇園神の祭りをしたのが始まりとされとる」
清 「それから、〈津屋崎祇園山笠〉は毎年続いとうと?」
琢二 「戦争で一時中断し、戦後にいったん復活して昭和37年(1962年)まで続いて行われとった。ところが、翌38年から13年間中断していた」


写真②:波折神社に勢揃いした〈津屋崎祇園山笠〉追い山3流れを前に宮地嶽三柱太鼓の演奏を見る人たち
     =福津市津屋崎古小路で、06年7月16日午前8時58分撮影

清 「と言うと、それからまた復活したっちゃね」
琢二 「昭和50年(1975年)のことたい。〈津屋崎祇園山笠保存会〉が16人の発起人で組織され、一つの山笠が作られた。〈津屋崎祇園山笠保存会〉の人たちの情熱で、昭和54年(1979年)に〈岡流れ〉、〈新町流れ〉、〈北流れ〉の三つの流れが復活。〈岡流れ〉は旧役場跡に、〈新町流れ〉は瀬戸鮮魚店前の空き地に、〈北流れ〉は津屋崎漁港そばの波切不動堂横の空き地にと、それぞれ3基の山笠が立つようになった」

清 「そんな歴史があったとは、知らんかったな」
琢二 「今は参加者の勤務の都合を考えて毎年、7月19日に近い日曜日に〈追い山〉を行い、その前日の土曜日に〈追い山〉の安全を祈願する〈裸参り〉をしとるばい」
清 「〈裸参り〉は、小学生の時に毎年出とったよ。赤い締め込みと白の法被姿に赤鉢巻をして、手に提灯を持った大人を先頭に夕暮れの波折神社を出発、走って在自の金刀比羅神社と宮司元町の宮地嶽神社を参拝して帰った。『オイサ、ヨイヤサ』と元気な掛け声を出しながら走って、汗びっしょりになったけど、気持ちがいいもんや」
琢二 「天神町から在自に向かう田んぼの中の暗い夜道を、〈裸参り〉の赤提灯の列が動いていくのを見るのも、津屋崎の夏の風物詩たい」


写真③:波折神社前の道路を曲がる〈追い山〉1番山・新町流れと、神社で出発を待つ2番山・北流れ(左側)
     =福津市津屋崎古小路で、06年7月16日午前9時08分撮影

清 「そして、翌日ある〈追い山〉が〈津屋崎祇園山笠〉のハイライトやね」
琢二 「波折神社を出発点とし、天神町の津屋崎交番付近を到着点として競う〈追い山〉は、大勢の見物客で賑う」
清 「〈追い山〉や〈裸参り〉のほかに、〈津屋崎祇園山笠〉の行事があると?」
琢二 「年によって違うが、7月16日が日曜の年は、まず7月1日午前8時に山笠を飾る台をお清めする〈台卸し〉を行う。山笠の飾り付けは約2週間かけて行われ、江戸時代の安永年間から受け継がれ、古博多人形の流れを汲む福岡県指定特産民芸品の津屋崎人形を使った豪華絢爛の合戦絵巻の山笠が、観客の人気を呼ぶ。5日午前8時からは、山笠台を組み立てる〈棒ガラメ〉をして山笠小屋を作り、子供たちが本番さながらに宮参りする〈慣らしがき〉がある。12日午後2時からは、山笠の台に人形を飾り付けたあと、追い山で走るコース以外の自分の流れの通りを回って披露する〈回し〉を行う」
清 「へー、いろいろ行事があるっちゃね」


写真④:〈津屋崎千軒〉通りを勇壮に走る〈津屋崎祇園山笠〉追い山2番山・北流れ
     =福津市津屋崎古小路で、06年7月16日午前9時10分撮影

清 「その次の行事が、〈裸参り〉かな?」
琢二 「15日の土曜日は、午前9時から波折宮(神社)社殿で追い山の出発順序を決めるクジ取りの行事がある。各流れから各3人の代表者と山笠保存会役員9人、波折宮宮司、宮総代が参加し、3回のクジ取りをする。まず1回目のクジで3流れ代表者の席順を決め、次にクジ引きの順序を決める。3回目に本クジで1番、2番、3番山笠の順番を決めるったい。午後から、3流れ毎に山笠を担いで通りを回る〈流れがき〉を行い、午後8時に波折宮から〈裸参り〉に出発する」
清 「クジ取りの行事は、クジ引きを3回やるとか、面白いね」
琢二 「16日の日曜日が、午前9時から波折宮で神事のあと、『祝いめでた』(『博多祝い唄』)を歌い、一番太鼓を合図に〈追い山〉のスタートたい。1番山、2番山、3番山と順に境内を出て行く。〈追い山〉が終わったら、各流れは山笠小屋の前で1本締めの〈手締め〉を行い、山笠と小屋を解体する」
清 「山笠には、何人くらいが参加しとるとやろか」
琢二 「各流れの住人のほか、他地区からの応援や国際交流で外国人の参加があったり、総勢200人前後が参加している。3流れの山の鉢巻の色と他地区からの応援は、岡流れが〈赤色:応援=末広、宮司地区〉、新町流れが〈黄色:応援=在自、須多田、大石地区〉、北流れが〈桃色:応援=渡地区〉とされている」
清 「そう言えば、吉村青春さんの連載エッセー『一木一草』第37回〝山のぼせ〟(新風舎・クリエイターズワールドの吉村青春ホームページ『わが詩(うた)―柳は緑、花は紅』に06年7月10日アップの『鵲声記』134収録)で、福岡県立福岡高校2年生で16歳だった昭和36年(1961年)7月18日に、〈岡流れ〉の飾り山に台上がりした姿=写真⑤=を載せとんしゃったばい」
琢二 「〈台上がりは、山笠の舁(か)き手を『棒に付け!』と鼓舞する役です。私は、自宅近くを勇壮に走る流れ舁(が)きした台上で、〝山のぼせ〟気分に酔いました〉と、青春さんは書いとんしゃったな」


写真⑤:赤鉢巻に白法被、赤い締め込み姿で〈岡流れ〉の飾り山に台上がりした吉村青春
     =昭和36年(1961年)7月18日撮影(モノクロ写真)
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2007年4月11日〈津屋崎学〉026:「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」

2007-04-11 08:46:54 | 郷土史
写真①:明治34年に建築され、世紀を越えて残された「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」
     =福津市津屋崎新町で、2007年4月10日午後3時48分撮影

・琢二と清の郷土史談義

『津屋崎学』

第26回:2007.4.11
  「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」

清 「きょうは、津屋崎千軒の町並みの面影を今に伝える建物といわれる〈津屋崎千軒民俗館『藍(あい)の家』〉=写真①=について、おいしゃん(叔父さん)に聞きたい」
琢二 「これまで何回か話したが、もともと明治34年(1901年)に建築された藍染めを主とした染め物紺屋(こうや)の上妻家の五代目上妻善兵衛さんが建てた住まいだった。建物が解体される、ということで平成5年(1993年)8月に結成された〈津屋崎町街並み保存協議会〉の保存運動で、同6年(94年)に旧津屋崎町が上妻家から寄贈された建物を保存・管理し、同協議会が運営することになり、同年1月に〈津屋崎千軒民俗館『藍の家』〉と愛称が公募で決まった」
清 「藍染の店と分かるネーミングだよね」
琢二 「〈津屋崎町街並み保存協議会〉は、平成11年(99年)度に〈藍の家運営協議会〉と改称して運営を続けた。〈藍の家運営協議会〉は、平成10年(98年)に発足していた〈つやざき千軒いきいき夢の会〉と平成14年(2002年)に組織を統合し、同夢の会が運営を引き継いだ。『藍の家』では、シャンソンのコサートや、フェルトの帽子作り講座が開かれるなど地域の情報発信の場にもなっている」
清 「その〈つやざき千軒いきいき夢の会〉が、平成16年(04年)にNPO(特定非営利活動)法人になったんやね。それで、『藍の家』の特徴は?」
琢二 「ひとことで言うと、かつての〈町屋形式〉を示す建物たい。建築当時の状態が比較的よく残っている。海水に数年間浸けた〈塩木(しおぎ)〉=写真②=が使ってあるのも特徴の一つ」


写真②:海水に数年間浸けた〈塩木〉を使った梁
     =『藍の家』2階で、2007年2月2日午前10時30分撮影

清 「この〈塩木〉のことについて説明した張り紙を『藍の家』2階で見たことがあるよ」
琢二 「その説明の張り紙には、〈虫や腐食から護るために、長期間海水に浸した建築材。このように裕福な町家では、長く保てるよう、塩木を梁等に使っている〉と書かれとる。つまり、〈塩木〉は虫がつきにくく、普通の木材より長持ちする長所があるわけたい」

清 「そのほかに、『藍の家』の特徴はどんなものがあると?」
琢二 「1階座敷の欄間=写真③=には、〈博多東中竪町 彫刻師 近藤丑太郎〉の署名・捺印があるばい」
清 「それは、どういうことね」
琢二 「『藍の家』の欄間彫刻は、すべてこの福岡市の近藤彫刻師が彫ったというこったい」


写真③:〈博多東中竪町 彫刻師 近藤丑太郎〉が作った欄間
      =『藍の家』1階座敷で、07年3月23日午前11時44分撮影

清 「そうなんだ。『藍の家』の特徴は、ほかに何があると?」
琢二 「『藍の家』の入り口と、その左右の雨戸は、3枚の〈揚げ戸〉=写真④=になっとる」
清 「〈揚げ戸〉って、何ね」
琢二 「3枚の横長い雨戸で出来ていて、雨戸を開けるときには1枚ずつ上に繰り上げて、上の棚に納める仕組みになっている。津屋崎の町家の多くは、この〈揚げ戸〉の一番上が内側に開いて吊るす〈しとみ〉という形式になっていた」
清 「へー、面白い」


写真④:開けるときは1枚ずつ上に繰り上げて、上の棚に納める仕組みの雨戸の〈揚げ戸〉(左端)と格子戸

     =『藍の家』1階座敷で、07年3月23日午前11時43分撮影

清 「それから、『藍の家』に入ると、広い土間があるよね」
琢二 「その通り。叩(たた)き土に石灰・水などを加えて塗り、たたき固めた〈三和土(たたき)〉の広い土間=写真⑤=があるのも『藍の家』の特徴の一つたい」


写真⑤:三和土の広い土間の上がり口

    =『藍の家』1階で、06年9月16日午前11時19分撮影

清 「広い土間の中には、津屋崎の特産品や帽子、竹かごなど手工芸品の売り場=写真⑥=も設けてあるね」


写真⑥:広い土間に設けられている津屋崎の特産品や手工芸品の売り場

     =『藍の家』1階で、06年9月16日午前11時04分撮影

琢二 「津屋崎飴も、懐かしい味でうまいぞ」
清 「そう言えば、天神町生まれの吉村青春さんの詩集『鵲声―津屋崎センゲン』(新風舎刊)も、売り棚=写真⑦=にあったよ」
琢二 「津屋崎の絵葉書や、津屋崎の祭りを収録したビデオなども置いてある。来館記念に津屋崎の物産を買ってもらえるといいな。『藍の家』は、近く福津市が〈登録有形文化財〉の市内第1号として文化庁に登録申請する予定だから、登録されると明治に建てられた古い商家の価値が公認されることになり、意義は大きいばい」


写真⑦:来館記念にと詩集『鵲声―津屋崎センゲン』も置かれている売り棚

     =『藍の家』1階で、07年3月23日午後0時30分撮影

「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」(福岡県福津市津屋崎新町):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕JR鹿児島線「福間」駅下車、西鉄バス「津屋崎橋行き」に乗り、「商工会津屋崎支所前」下車、徒歩3分〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約25分。駐車場あり。問い合わせは、同『藍の家』(℡0940-52-0605=午前10時―午後4時)へ。

津屋崎千軒・藍の家
   「津屋崎千軒民俗館『藍の家』位置図
        (ピンが立っている所)
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2007年3月18日〈津屋崎学〉025:津屋崎の町名と特色

2007-03-18 08:59:50 | 郷土史
●写真①:津屋崎公民館前にある津屋崎の地図を表示した〈福津市地区案内図〉
      =福津市津屋崎天神町で、2006年11月30日午前10時11分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第25回:2007.3.18
  津屋崎の町名と特色


清 「〈津屋崎千軒〉のことは、前においしゃん(叔父さん)に聞いたばってん、きょうは津屋崎の町名と地区別の特色の話をしちゃらんね」
琢二 「そうだな。福津市津屋崎公民館の前にある津屋崎の地図を表示した〈福津市地区案内図〉=写真①=を見れば分かるが、旧宗像郡津屋崎町大字津屋崎は、津屋崎町の南西部にあり、西方の津屋崎橋が架かる津屋崎漁港の入り江から砂浜の海岸線に沿って広がっている。入り江に近い地区が北区、海岸線の内側にあるのが新町区、北側の陸地に入った地区が岡区と、大きく三地区に分けられるが、住宅が軒を接しており、はっきりした境界はない。東には、新しい住宅街の東町があり、宮地嶽神社のある宮司地区に接している」
清 「北区、新町区、岡区の三地区に大別するのは、津屋崎祇園山笠の北流(ながれ)、新町流、岡流の三地区と同じやないと?」
琢二 「いいところに気付いたな。その通りたい。津屋崎祇園山笠の北の山、新町山、岡の山の区域で分けとるのと同じばい。旧福間町と合併して今の福津市になる前の旧津屋崎町が、同町史編集委員会の編集で平成10年に発行した『津屋崎の民俗(第四集) 北の一、北の二、新町・天神町・東町』という町史民俗調査報告書がある。この本の中に掲載されている〈大字津屋崎旧町名図〉=写真②=を見ると、各地区の位置がおおかた分かるたい」


写真②:旧津屋崎町発行の『津屋崎の民俗(第四集)』に掲載された〈大字津屋崎旧町名図〉
     =福津市津屋崎で、2007年3月15日複写

清 「この〈大字津屋崎旧町名図〉を見ると、北区は大きい字で書かれた〈北の一〉と〈北の二〉に分かれとるようやね」
琢二 「そうたい。〈北の一〉には小字の北本町(ほんまち)、上(うえ)本町、浜町南が入り、〈北の二〉には東古小路(こしょうじ)、西古小路が入っとる。浜町南は、〈大字津屋崎旧町名図〉では浜の町と書かれているようだが、浜ノ町と表記されたり、昔はハマンチョウと呼ばれた」

清 「新町区に含まれる小字は、どことどこね?」
琢二 「新町区には、横町、下魚町、上魚町、上船津町、下船津町が入る」
清 「魚や船の付く町名は、いかにも港町・津屋崎らしいね。それから、〈岡区〉は、〈岡の二〉と〈岡の三〉に分かれとるようやけど、なして〈岡の一〉がないとね?」
琢二「ハハハ、よう分かったな。〈岡の二〉に入る小字は裏町、門前町、出口町、新屋鋪(敷=しき)、蔵屋鋪で、〈岡の三〉に入るのは沖町。福岡藩政時代には、旧筑前国宗像郡津屋崎村に属して〈岡〉と呼ばれていた地区が、その後分かれて〈岡の一〉、〈岡の二〉、〈岡の三〉となり、〈岡の一〉の呼び名が〈天神町〉になったとたい」
清 「へー、僕の生まれた〈天神町〉が〈岡の一〉やったとは知らんかった」
琢二 「その〈天神町〉は、戦後の人口増加で、天神東と天神西の二つの行政区に分けられとったが、昭和30年に天神東と天神西は合併して天神町区になった」

清 「すると、〈天神町〉の東が東町か。大字津屋崎の北のはずれは、末広になるとかね?」
琢二 「そうたい。天神西の旧津屋崎町役場跡にある〈福津市地区案内図〉の津屋崎の方位を示した地図=写真③=を見ると分かりやすい。赤い四角で囲まれた地域が〈福津市地区案内図〉=写真④=に大きく表示された大字津屋崎だ。津屋崎の方位を示した地図の中に、津屋崎干潟のある〈内海(うちうみ)〉と呼ばれている入り江の東岸を走る道路を北東に行った所に勝浦区の〈塩浜〉という小字が表示されとるやろ。もともと津屋崎の末広は元禄時代に塩田が開かれ、一村を形成して塩浜と呼ばれていたが、昭和30年に津屋崎町と勝浦村が合併して新しい津屋崎町になった際、勝浦に〈塩浜〉があるため末広と改称した」


写真③:旧津屋崎町役場跡にある〈福津市地区案内図〉の津屋崎の方位を示した地図
     =福津市津屋崎天神西の福津市駐車場で、06年11月17日午後2時36分撮影


写真④:大字津屋崎の地域を表示した〈福津市地区案内図〉
     =福津市津屋崎天神西の福津市駐車場で、06年11月17日午後2時36分撮影

清 「次は、大字津屋崎の地区別の特色を話しちゃらんね」
琢二 「清が生まれた〈天神町〉は、職人の町たい。鍛冶屋や津屋崎人形師などいろんな職種の人が集まり、活気がある町だった。昭和10年には、渡地区にあった町役場が移転し、町の中心地区になった」
清 「そう言えば、天神町生まれで詩集『鵲声―津屋崎センゲン』(新風舎刊)を出版した吉村青春さんのお父さんは、江戸時代から続いた大工の棟梁やったね」
琢二 「その通り。それから、旧津屋崎町役場のところに天神様が祀ってあったから、〈天神町〉と呼ぶようになった町名の由来は、前にも話したな」
清 「聞きました。ほかの地区の特色は?」
琢二 「〈岡の二〉と〈岡の三〉は、農家と商家が混在し、鍛冶屋、菓子屋、傘屋などの製造業も数軒あった。〈北の一〉は漁業中心の地区で、漁師の生活用品を扱う商家が多くあったそうだ。〈北の二〉は、昭和4年ごろまで村役場や産業組合、津屋崎製塩会社などがあり、廻船業や漁業も盛んで、料亭、商家も多く、遊郭もあった。当時、津屋崎で一番賑やかな地区だった
清 「フーン、そうなんだ。〈新町〉はどう?」
琢二 「〈新町〉は、江戸末期から明治初めまでは漁業が主だったが、だんだん商家が多くなり、料亭、旅館も集中し始め、商業地区の様相が濃くなったようだ。最後に〈東町〉は、元は松原だったが、明治の末ごろから製造業の人が移り住んだり、一般の人も住宅を構えるようになって戸数が急増した」
コメント (3)
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2007年2月15日〈津屋崎学〉024:東郷神社

2007-02-15 20:51:06 | 郷土史

●写真①:大峰山の中腹にある「東郷神社」(鳥居左側の建物が社務所、右側は喫茶「三笠」)
      =福津市渡で、2007年2月15日午前10時撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第24回:2007.2.15
  東郷神社


清 「おいしゃん(叔父さん)、きょうは、福津市の東郷公園近くにある〈東郷神社〉=写真①=のことば話しちゃるとやったね」
琢二 「旧日本海軍連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥を祀る〈東郷神社〉は、地元の獣医で今は亡き安部正弘さんが昭和10年(1935年)からお祀りし、同42年(1967年)に宗教法人化された。拝殿=写真②=は、鉄筋コンクリート製のはにわ型だ」
清 「拝殿の形としては、珍しかね」


写真②:鉄筋コンクリート製のはにわ型をした「東郷神社」拝殿
     =福津市渡で、2006年5月14日午後0時20分撮影

琢二 「安部さんの岳父・伊地知弘一さんは明治初期に、東郷元帥とイギリスのロンドンに留学した仲で、のちに日本海軍の戦艦〈高千穂〉艦長になった大佐だった。安部さんは当時18歳だった明治38年(1905年)5月27日、東郷公園がある大峰山山頂から日露戦争の日本海海戦を目撃し、壱岐の方から黒煙が何本も上がったことや、砲声が一日中聞こえたと話していたそうだ。戦後、上京して東郷元帥を訪ね、親交を結んだ。『日本海海戦で負けていたら、今の日本はなかった』と、大正7年(1918年)から50年かけて東郷神社を宗教法人にされた。神社は東郷元帥を祭神とし、毎年5月27日に春の例祭を行い、元帥の誕生日の12月22日も例祭を行っている。〈宝物館〉内には、安部さんの御子息・

安部一男氏の軍服姿の写真=写真③=も展示されている」


写真③:軍服姿の安部一男氏(安部正弘さんの御子息)の写真
     =福津市渡の東郷神社・「宝物館」で、07年2月15日午前10時45分撮影

清 「今の宮司さんは、女の人やと聞いたばってん」
琢二 「よう知っとうな。安部さんが昭和46年(1971年)に84歳でなくなり、二女で夫に先立たれた内田久美さん(88)が、翌47年に神職の資格を取って2代目の宮司になられ、今はその娘さんの川野万里子さんが3代目の宮司たい」
清 「感心やね、亡くなったお父さんの跡を継がれたったいね」
琢二 「内田さんにきょう2月15日、お目にかかって聞いたら、初代の宮司は波折神社の神職さんに兼務してもらっていたそうな。内田さんが2代目宮司になったころの春の例祭には、50人くらいしか集まらなかったが、最近は自衛隊関係者や鹿児島県人会からなどから参加者は100人くらいに増えたそうたい。境内には、入館料100円で観覧できる〈宝物館〉もあるから、清もいっぺんお参りしてこい」


写真④:東郷元帥の書や海軍将校の遺品などを展示している〈宝物館〉
     =「東郷神社」で、06年5月14日午後0時20分撮影

清 「〈宝物館〉には、何が展示してあるとね?」
琢二「〈宝物館〉は、〈宝物殿〉とも言い、東郷元帥海軍大将の書や日記書簡をはじめ、元帥を崇敬追慕してやまなかった海軍将校らの書、遺品、記念品、旗艦・『三笠』の模型など多数だ。大部分は、安部さんが収集したものたい」


写真⑤:海軍将校らの遺品や旗艦・『三笠』の模型などが並ぶ〈宝物館〉の展示室
     =「東郷神社」で、07年2月15日午前10時54分撮影


清 「津屋崎に〈東郷神社〉があることは、あんまり知られとらんね」
琢二 「そうだな。英語のみくじ=写真⑥=があることも、知らんやろう。内田さんが宮司になって間もないころ、チェコからの留学生の青年が各地の外国人を連れて、再三神社を訪れた。青年は〈ボクの国では、東郷さんを教えるのに、日本では教えませんね〉と流暢な日本語で話した。ソ連軍がチェコに侵入した後、青年の消息は分からなくなった。そこで、内田さんは青年をしのぶとともに、ロンドン留学中に独学で英語を習得した東郷元帥と伊地知艦長を見習ってほしいという願いも込めて、和英併用のみくじを作ったそうたい。きょう、拝殿前の自動販売機に30円を入れたら、ほら、英語で〈Excellent〉というて〈大吉〉が出たぞ。〈運勢〉は、英語で〈Your Fortune〉たい。みくじの裏面には、和文が赤い文字で書いてある。最近は、英語上達の軍神として、受験生に人気があるそうや。一般的な合格祈願は、学問の神様・太宰府天満宮でして、英語上達は東郷神社にお願いする医学部受験志望の高校生も参拝したとの話も聞く」


写真⑥:〈運勢〉は、〈大吉〉を英語で〈Your Fortune〉〈Excellent〉と書いた英語のみくじ
     =「東郷神社」で、07年2月15日午前11時34分撮影

清 「アハハ。〈大吉〉は、〈Excellent〉で、〈待ち人〉は〈expected visitor〉、〈争い事〉は〈game and match〉か。面白いねー」
琢二 「受験生には、〈皇国荒廃此ノ一戦ニアリ〉として旗艦・『三笠』に掲げられたZ旗が刺繍された〈勝守(かちまもり〉という800円のお守りも人気があるそうだ。内田さんは『Zは、アルファベッドの最後の文字です。もう後がないと思って、一生懸命勉強しなければなりません』と励まし、4月には東大や九州大に合格した受験生とか、希望通り就職できた若者のお礼参りがあって、嬉しいという」
清 「神様も分業やね、ハハハ」
琢二 「もう一つ、変わったものがある。境内の社務所で、東郷元帥の肖像のラベルが付いた〈アミラーリ東郷ビール〉=写真⑦=を売っとるとたい。330㍉・㍑入りで500円。日本のビールとは、ちょっと違う味ばい」
清 「えっ、それって地ビールね?」
琢二 「味は、チェコ産の麦芽やホップを使った鹿児島空港そばにある〈霧島高原ビール〉製造の地ビールに似た感じで、飲みやすいが、輸入品だ。東郷元帥は、北欧ではロシアの艦隊に勝った人物として知られており、もともとフィンランドのビール工場が海軍提督(Amiraali:アミラーリ=フィンランド語)の肖像ラベルを付けて販売した〈アミラーリ・ビール〉に東郷元帥のラベル付きのも製造を始めた。今はオランダの工場で製造されたビールに、日本の会社が東郷元帥のラベルを付けたプライベートビールの〈アミラーリ東郷ビール〉として売っとるそうたい」


写真⑦:東郷元帥の肖像ラベルを付けた〈アミラーリ東郷ビール〉
     =「東郷神社」で、07年2月15日午前11時撮影


東郷神社(福岡県福津市渡。℡0940-52-0027):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線津屋崎駅下車、徒歩40分。JR鹿児島本線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きに乗って「津屋崎橋」で下車し、徒歩30分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約30分。60台収容の駐車場あり。

東郷神社
     福津市渡の「東郷神社」位置図
        (ピンが立っている所)

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