前回に続き、<サロメ>の演奏史・第2回である。今回は、1960~1970年代のステレオ期に録音された演奏に進んでみたいと思う。なお番号については、前回からの通し番号になっているので、今回は4から始まることになる。
〔1960~1970年代〕
4.ショルティ指揮のウィーン・フィル盤(1961年) 【L】
クラウス盤から7年、録音技術は革命的な進歩を遂げていた。ステレオ録音の実用化である。この<サロメ>というのはある意味、幸福な作品だと思う。クラウス盤というモノラル期の傑作のみならず、ステレオの最初期にもいきなり、こんな物凄い音の演奏が記録されたのだ。もっと年代の新しいCD群と並べても、全く遜色ないぐらいの鮮烈さとダイナミズムを持った音である。ショルティが鳴らすウィーン・フィルの音は、“音響の飽和状態”を作り出している。ヨカナーンが自ら井戸の中に戻り、やがてヘロデ達が登場して来るまでの間奏曲に当たる部分や、全曲の締めくくり部分などが特にそうだ。
指揮者の性格がよく出ている箇所としては、ユダヤ人たちが論争を始めて大騒ぎになり、ヘロディアスが「この人たち、うるさいったら」としびれを切らして叫ぶまでの場面。ショルティは昔から、いわゆる音の乱れ、あるいはごちゃついた喧騒といったものをとことん嫌う人だったという事がよくわかる。ここでショルティは、ぐっとテンポを落として、ユダヤ人たちの論争を決して蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)にさせない。普通ならやかましい騒ぎになっているはずの場面も、ショルティの指揮のもとにあっては、シンフォニックに整理される。「七つのヴェールの踊り」もやはり、交響的な性格の強い演奏になっている。この盤にあえてケチをつけるとすれば、鳴っている音楽があまりにもあっけらかんと鮮烈で、情念とか官能美とか呼べるような要素が不足していることだろうか。
当ショルティ盤ではビルギット・ニルソン全盛期のサロメが聴けるが、さすがに声の威力は相当なものだ。だが彼女の歌というのは、得てしてその強大な声ゆえに大味になりがちな欠点がある。例えば、ヨカナーンを見たいからとナラボートを篭絡しようとする場面など、もう少しコケットリーが欲しい。しかし、ラスト・シーンは良かった。かなり官能的な息づかいの歌を聴かせて、おおっ、と思わせる。
他の歌手について言えば、ヨカナーンを歌うエバーハルト・ヴェヒターがかなり良い。私の印象としては、この人は典型的な“オヤジ声”の歌手なので、(映像記録に見る演技力は別として)歌唱については気に入ったものが実はほとんどない。感心したものと言えば、ヨゼフ・クリップスの指揮によるスメタナの歌劇<ダリボル>(ウィーン・ライヴ)で歌った国王ヴラジスラフぐらいしか、今は思いつかない。しかし、その国王の名唱と並んで、ここでのヴェヒターも立派な出来を示していると言ってよいと思う。太く、かつ引き締まった声が、若くて堂々としたヨカナーン像を作り出している。シュトルツェのヘロデも(好悪は分かれそうだが)、雄弁な表現力を発揮して強い存在感を示している。また、クメントは私が知っている中で最も逞しいナラボートを聴かせる。
5.ベーム指揮のハンブルク・ライヴ(1970年) 【G】
一言で言えば、一気呵成の熱演。いかにもベームらしい、きりりと引き締まった音による強靭なシュトラウス表現だ。とにかく、聴く者に息を継がせないような緊張感がある。ヨカナーンが井戸に戻ってから、ヘロデ達が登場するまでの間奏曲に当たる部分なども、相当速いテンポで演奏されている。ただ、後述するウィーン・フィルとの映像盤に比べると、ベームの意図が十全に音化されているとは言い難い面もあるようだ。例えば、ユダヤ人たちの論争場面など、舞台上での歌手達は賑やかにやっているが、オーケストラはちょっと引いているような印象を受ける。ウィーン・フィル盤では、オーケストラともども轟然たる喧騒状態を生んでいて効果満点なのだが・・。あるいは、サロメが古井戸に近づいて下の様子を窺おうとする場面も、後のウィーン・フィル盤ほどの迫力が出ていない。「七つのヴェールの踊り」も引き締まってシンフォニックな感じで、何だか交響詩の演奏みたいに聴こえる。(※と言っても、歌劇場でのライヴの最中なのに、まるで交響詩のスタジオ録音みたいにがっちりと「サロメの踊り」を演奏しきってしまうというのは、考えてみたら凄いことではある。)
これは1970年11月4日のハンブルク劇場に於ける新演出上演の初日とかで、そのせいもあってか、出演歌手達の熱気も凄い。グィネス・ジョーンズのサロメについては、渾身の熱唱である事は評価できるものの、やや一本調子というか、サロメの性格や表現の多様性を十分に表現し切れていないような感じがした。しかし、彼女にとってはこれがサロメ役への初挑戦だったそうなので、それを思えば上々の出来と言うべきかも知れない。特に、ヨカナーンの生首を手にした場面での声は立派だった。
F=ディースカウはディクションの明晰さによって、他の誰よりも言葉に説得力のあるヨカナーンを演じていたが、声質自体がこの役にはどうかな、とも思われた。あと面白かったのは、「第一の兵士」にクルト・モル、「第一のナザレ人」にハンス・ゾーティンといった、「おいおい、凄すぎるんでないかい?」と言いたくなるような超豪華な脇役陣。こういう人たちは脇役に回っても、声に存在感がある。なので、知らずに聴いていても、「あれ、この役歌っている人、いいなあ」という感じで気がつく事が多いのである。
そう言えば、ヘロデを演じたリチャード・キャシリーも忘れてはならない。ステージ上では、サロメが踊りながら脱ぎ捨てた物を手にとって、うっとりと嗅いでみせたりしたらしい。エグイぞ。残念ながら音声だけでは、その異様な姿をうかがう事は出来ないのだが。
しかし、ベームの指揮による<サロメ>としては、このライヴの4年後にウィーン・フィルと映像付きで収録されたものの方が、さらに素晴らしい完成度を誇る。今回の枠ではとても収まりきらないので、そこからのお話は次回ということにしたいと思う。
〔1960~1970年代〕
4.ショルティ指揮のウィーン・フィル盤(1961年) 【L】
クラウス盤から7年、録音技術は革命的な進歩を遂げていた。ステレオ録音の実用化である。この<サロメ>というのはある意味、幸福な作品だと思う。クラウス盤というモノラル期の傑作のみならず、ステレオの最初期にもいきなり、こんな物凄い音の演奏が記録されたのだ。もっと年代の新しいCD群と並べても、全く遜色ないぐらいの鮮烈さとダイナミズムを持った音である。ショルティが鳴らすウィーン・フィルの音は、“音響の飽和状態”を作り出している。ヨカナーンが自ら井戸の中に戻り、やがてヘロデ達が登場して来るまでの間奏曲に当たる部分や、全曲の締めくくり部分などが特にそうだ。
指揮者の性格がよく出ている箇所としては、ユダヤ人たちが論争を始めて大騒ぎになり、ヘロディアスが「この人たち、うるさいったら」としびれを切らして叫ぶまでの場面。ショルティは昔から、いわゆる音の乱れ、あるいはごちゃついた喧騒といったものをとことん嫌う人だったという事がよくわかる。ここでショルティは、ぐっとテンポを落として、ユダヤ人たちの論争を決して蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)にさせない。普通ならやかましい騒ぎになっているはずの場面も、ショルティの指揮のもとにあっては、シンフォニックに整理される。「七つのヴェールの踊り」もやはり、交響的な性格の強い演奏になっている。この盤にあえてケチをつけるとすれば、鳴っている音楽があまりにもあっけらかんと鮮烈で、情念とか官能美とか呼べるような要素が不足していることだろうか。
当ショルティ盤ではビルギット・ニルソン全盛期のサロメが聴けるが、さすがに声の威力は相当なものだ。だが彼女の歌というのは、得てしてその強大な声ゆえに大味になりがちな欠点がある。例えば、ヨカナーンを見たいからとナラボートを篭絡しようとする場面など、もう少しコケットリーが欲しい。しかし、ラスト・シーンは良かった。かなり官能的な息づかいの歌を聴かせて、おおっ、と思わせる。
他の歌手について言えば、ヨカナーンを歌うエバーハルト・ヴェヒターがかなり良い。私の印象としては、この人は典型的な“オヤジ声”の歌手なので、(映像記録に見る演技力は別として)歌唱については気に入ったものが実はほとんどない。感心したものと言えば、ヨゼフ・クリップスの指揮によるスメタナの歌劇<ダリボル>(ウィーン・ライヴ)で歌った国王ヴラジスラフぐらいしか、今は思いつかない。しかし、その国王の名唱と並んで、ここでのヴェヒターも立派な出来を示していると言ってよいと思う。太く、かつ引き締まった声が、若くて堂々としたヨカナーン像を作り出している。シュトルツェのヘロデも(好悪は分かれそうだが)、雄弁な表現力を発揮して強い存在感を示している。また、クメントは私が知っている中で最も逞しいナラボートを聴かせる。
5.ベーム指揮のハンブルク・ライヴ(1970年) 【G】
一言で言えば、一気呵成の熱演。いかにもベームらしい、きりりと引き締まった音による強靭なシュトラウス表現だ。とにかく、聴く者に息を継がせないような緊張感がある。ヨカナーンが井戸に戻ってから、ヘロデ達が登場するまでの間奏曲に当たる部分なども、相当速いテンポで演奏されている。ただ、後述するウィーン・フィルとの映像盤に比べると、ベームの意図が十全に音化されているとは言い難い面もあるようだ。例えば、ユダヤ人たちの論争場面など、舞台上での歌手達は賑やかにやっているが、オーケストラはちょっと引いているような印象を受ける。ウィーン・フィル盤では、オーケストラともども轟然たる喧騒状態を生んでいて効果満点なのだが・・。あるいは、サロメが古井戸に近づいて下の様子を窺おうとする場面も、後のウィーン・フィル盤ほどの迫力が出ていない。「七つのヴェールの踊り」も引き締まってシンフォニックな感じで、何だか交響詩の演奏みたいに聴こえる。(※と言っても、歌劇場でのライヴの最中なのに、まるで交響詩のスタジオ録音みたいにがっちりと「サロメの踊り」を演奏しきってしまうというのは、考えてみたら凄いことではある。)
これは1970年11月4日のハンブルク劇場に於ける新演出上演の初日とかで、そのせいもあってか、出演歌手達の熱気も凄い。グィネス・ジョーンズのサロメについては、渾身の熱唱である事は評価できるものの、やや一本調子というか、サロメの性格や表現の多様性を十分に表現し切れていないような感じがした。しかし、彼女にとってはこれがサロメ役への初挑戦だったそうなので、それを思えば上々の出来と言うべきかも知れない。特に、ヨカナーンの生首を手にした場面での声は立派だった。
F=ディースカウはディクションの明晰さによって、他の誰よりも言葉に説得力のあるヨカナーンを演じていたが、声質自体がこの役にはどうかな、とも思われた。あと面白かったのは、「第一の兵士」にクルト・モル、「第一のナザレ人」にハンス・ゾーティンといった、「おいおい、凄すぎるんでないかい?」と言いたくなるような超豪華な脇役陣。こういう人たちは脇役に回っても、声に存在感がある。なので、知らずに聴いていても、「あれ、この役歌っている人、いいなあ」という感じで気がつく事が多いのである。
そう言えば、ヘロデを演じたリチャード・キャシリーも忘れてはならない。ステージ上では、サロメが踊りながら脱ぎ捨てた物を手にとって、うっとりと嗅いでみせたりしたらしい。エグイぞ。残念ながら音声だけでは、その異様な姿をうかがう事は出来ないのだが。
しかし、ベームの指揮による<サロメ>としては、このライヴの4年後にウィーン・フィルと映像付きで収録されたものの方が、さらに素晴らしい完成度を誇る。今回の枠ではとても収まりきらないので、そこからのお話は次回ということにしたいと思う。
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