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クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

ワルターのマーラー<大地の歌>(3)

2007年03月08日 | 演奏(家)を語る
ようやくという感じで、今回が〔年末年始特番〕の最終回。ワルターのマーラー<大地の歌>、その締めくくりのお話である。扱う演奏の番号は前回からの通しで、6、7番となる。

6.(1960年4月16日・ライヴ) PSO ルイス、フォレスター

これは、私が昨(2006)年買って聴いたCDの中でも特に印象深かった物の一つとして、今回の特番テーマにこよなく相応しい逸品だ。現在Music&Artsというレーベルから出ている音源である。ニューヨークのカーネギー・ホールで行なわれた「マーラー生誕100年記念祭」ライヴとのこと。オーケストラ名は、ザ・フィルハーモニック・シンフォニー・オーケストラとジャケットに表記されているが、ニューヨーク・フィルの可能性もある。(※横道にそれる話だが、このCDはジャケット写真がちょっと変わっている。両手で顔を覆い隠しているワルターのすぐ脇に、一人の女性が並んで座っているというツー・ショット。「あんた、大丈夫?」とでも言っているような表情でワルターを見ているその女性は、おそらくこのライヴで歌っているモーリン・フォレスターだろう。しかし、それにしても、何でこんな写真をジャケットに使ったのだろう?w )

このライヴ演奏の大きな特徴は、特に偶数楽章にはっきり出ているようだ。まず、第2楽章。水面(みなも)に横たわる枯れた水草の上を秋の風が吹き抜けていくという蕭条(しょうじょう)たる情景を、ここでのワルターはおそらく他のどの演奏よりも鮮烈に描き出している。彩り豊かな管弦楽もどことなくセピア色がかったものに聞こえ、それが一層枯れた味わいを深めている。歌っているフォレスターの声にはちょっと癖があるものの、前回出てきたニコライディよりは安定感がある。マーラーの音楽にも深く共感しているようだ。第4楽章も良い。特に、後半部分のゆったりとしたテンポが素晴らしい。

最後の第6楽章にも、寂寥感が色濃く漂う。間奏曲にあたる部分こそそれなりに力強いものの、全体的には枯れた味わいの方がずっと支配的だ。この演奏は全曲を締めくくるコーダが特に素晴らしく、私が知っている7種の録音の中でも、これが最も胸にこたえる演奏になっている。とりわけ、最後に聞こえてくるチェレスタが絶品だ。フォレスターも、ワルターが紡ぎだす音楽と見事に一体化し、共感溢れる歌唱を展開している。

(※ところで、フォレスターは当ライヴの5ヶ月ほど前に、フリッツ・ライナー&シカゴ響による<大地の歌>のRCA・スタジオ録音にも出演していた。しかし、精密なアンサンブルや録音の良さを誇るライナー盤よりも、私にはこちらのワルター盤の方がずっと魅力的に思える。フォレスターの歌、指揮者が紡ぎだす音楽、いずれをとっても感銘度がまるで違うのである。)

(※偏りのない記事にまとめるために、このライヴCDに感じる欠点や問題点みたいなものも、ちょっと指摘しておきたい。テノール独唱のリチャード・ルイスはイギリス人歌手であるためか、ドイツ語の発音にやはり癖がある。声質としては、前に出てきたスヴァンホルムよりはずっとリリックで私には好ましいが、第3楽章が英語の歌みたいに聞こえたり、第5楽章ではオーケストラとズレちゃったりと、彼の歌唱にはいささか難がある。また、このCDはあまり質の良くないLPから板起こしをしたのか、随所にブチッ、バチッ、ブチッといったスクラッチ・ノイズが発生する。また咳払いなどの客席ノイズも、あちこちでかなり聞こえる。良いことずくめとはいかない音源である。)

7.(1960年4月18&25日) NYP ヘフリガー、ミラー

巨匠ワルターが遺した最後の<大地の歌>であると同時に、同曲唯一のステレオ録音。上記6.のライヴが行なわれた2日後に始まったセッションである。この頃のワルターはかなり衰弱していたことが傍目にもはっきり分かったと、当時この録音に参加していたメンバーの一人が語っている。【注1】だから、ここでのワルターに往年の気迫を求めるようなことは、もはや出来ない。

宇野功芳氏が『名指揮者ワルターの名盤駄盤』の中で、当ソニー盤の第1、第3楽章の演奏について、「ウィーン盤に見られたきびしさや彫りの深さがすっかり影を潜め、流れにも緊張感を欠く」と指摘しておられたが、その点は確かにその通りだと思う。特に第1楽章は、美しく広々としている一方で音楽がいささかユルみ気味になっていることも否定できない。また録音の関係もあるのか、オーケストラの音色が全体に明るめなのも、楽章と曲想によってはちょっと気になる部分がある。

しかし、このステレオ盤は、私が初めてこの曲に触れた演奏ということもあって、個人的にはやはり特別な思い入れがある。今回のシリーズ記事を書くに当たって、すべての音源を古い順に一通り聴きなおしてみたのだが、当ステレオ盤になったところで、「ああ、懐かしいところに帰ってきたなあ~。いろいろ思い出すなあ」と、しばし学生時代のことにまで思いをはせてしまったのである。良きにつけ悪しきにつけ、最初に聴く演奏から与えられる影響というのは本当に大きいものだ。しかし、その事とは別に、今聴いてもこれはやはり素晴らしい物だと思う。2人の歌手だって、一部で言われるほど悪くはない。エルンスト・ヘフリガーは確かにちょっと真面目過ぎるかもしれないが、その端正な歌唱自体は立派なものだし、メゾ・ソプラノのミルドレッド・ミラーも、すっきりとした癖のない声でオーケストラに溶け込んで、よく歌っている。

いずれにしても、ワルターが<大地の歌>を良質なステレオ録音で遺してくれていたというのは、それだけでも本当に有難いことである。全編に聴かれる管弦楽の陸離たる光彩、さらに第4楽章と終楽章の各中間部で聴かれる圧倒的なサウンドは、まさにステレオだからこそ記録できたものだろう。感謝、感謝である。

―ところで、ワルターのステレオ録音を語る際には、リマスターの問題を無視することが出来ない。ワルター語りの最後として、この点にちょっとだけ触れておきたい。CDというメディアが開発された初期のプレスでは、録音当時直接の担当者だったジョン・マックルーア氏がリマスターに携わった。その後、SBM(=スーパー・ビット・マッピング)盤が発売されて話題になる。いわゆる20ビット盤の登場である。さらに、そこからまた技術が進んで、現在はDSD(=ダイレクト・ストリーム・デジタル)盤と呼ばれるCDが一般に流布している。ちなみに、そのSBM盤やDSD盤にはマックルーア氏は関わっていない。さて、「この3種類の中で、音質的にどれがベストか」という議論になると、これがなかなか難しいのである。とりあえず、素人感覚を丸出しにした私の意見では、以下のような論旨展開になる。

{ 20ビット盤の登場によってCDの音の情報量は格段に豊かになったが、ことワルター(及び、ブーレーズ)のソニー・SBM盤については、その技術成果を素直に有り難がることが出来ない。そこでは、音がだだっ広く伸びただけで、初期盤で聴けていた力感溢れるサウンドがまるでピンぼけてしまっているからだ。(※具体例 : ワルターの<大地の歌>~特に、終楽章〔19:18〕の金管。それと、ブーレーズの<火の鳥>全曲~トラック18「カスチェイ一党の凶悪な踊り」~〔3:49〕前後の金管。)結局、最新のDSD盤を買って聴いたところでようやく、「まあ、これならいいかな。20ビットらしい豊かな情報量と、初期盤にあったパワーが両立したみたいだし」と、胸のつかえをおろすことが出来た。 }

しかし、私が持っているようなこんな素朴な感覚は、少なくとも“平成の盤鬼”こと平林直哉氏には、おそらく笑止千万なものに映ることだろう。氏が編集長を務めておられた『クラシックプレス』の第12号(2002年春号)・19ページに、おおよそ次のような内容の囲み記事がある。

{ ワルターのステレオ録音を最初にCD化した時は、当時のプロデューサーであったマックルーア氏によってCD用マスターテープが作成された。このマックルーアによるリマスター・サウンドはLPでなじんできた、あの暖かいふっくらとした響きはそのままで、全体の厚みと輝きをいっそう増したものと評判になった。・・(中略)・・最新の国内独自のリマスターはかなり金属的で固い音となったのである。言い換えれば、LPや最初のCDでなじんできた音とは最も遠いものである。ちまたでは、「CDでワルターを聴こうとすれば、最初のCDが最高」と言われているらしい。・・見分け方は、SBMとかDSDとか表記されていないものが、マックルーアの音である。(以下略) }

このあたりの価値判断は結局、聴く人それぞれの感性の問題になってくるものと思うが、いずれにしても、良い音を巡る議論には一筋縄でいかない奥深さがあることだけは間違いない。

【注1】 「<大地の歌>と<未完成>の録音の時、ワルターは全く体が弱り、調子が悪そうで、気の毒なほどでした」。~『クラシックプレス』(音楽出版社)・第3号(2000年夏号)の27ページ。ジェシー・チェチ氏へのインタビューから。

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