goo blog サービス終了のお知らせ 

クラシック音楽オデュッセイア

2025年正月、ついに年賀状が1通も来なくなった“世捨て人”のブログ。クラシック音楽の他、日々のよしなし事をつれづれに。

暑い夏の夜に聴くショルティの<春の祭典>

2015年07月30日 | 演奏(家)を語る
2015年7月30日。今日は昼過ぎに激しい夕立があったが、このところのお天気は猛暑続き。来ましたなあ、夏らしい夏が。―ということで、最近体がちょっとバテ気味なので(苦笑)、今回はまた短い記事にて。

今月、3点ほどのCDを買った。そのうちの1枚が、ショルティ&シカゴ響の<春の祭典><ペトルーシュカ>(デッカ音源)。このコンビによる<春の祭典>は随分昔に1回聴いて、あまり気にいらなかった記憶があるのだが、長い年月を経て何となくまた聴き直してみたい気分になり、それがアンビエント・リマスター盤で安く見つかったのでポチってみた。

で、つい先程、<春の祭典>だけ聴き終えたところなのだが、若い頃と同様、やはりこの演奏には満たされなかった。オーケストラは文句なしにうまい。弦楽セクションの骨太な響きはとりわけ印象的で、曲の始めの方にある「春の兆し」あたりから、尋常ならざる迫力をもって聴き手に迫ってくる。またこのオケにすればいつものことながら、ブラス・セクションの威力も強烈無比。そして、すべての楽器が作り出す隙のないアンサンブルに加えて、デッカの名録音。・・・と、これだけ褒め言葉を並べた上でなお、不満のくすぶりが気持から消えない。

その理由はどうやら、打楽器にある。弦と金管がとにかくパワフルなため、指揮者が全体のバランスを壊さないようにと、打楽器の音をわざと控えめに扱ったのだろうか。ティンパニやバスドラムの位置が少し奥まったところにセッティングされているのが聴いていてわかるし、それらの音色自体も非常に重心の低い“ドス~ン”とくるような音なのだ。これが、私には物足りないのである。この曲の打楽器はもっと張りのある音で、ダン!ダン!と鋭く立ちあがってほしい。ショルティ盤はその点がどうも鈍く感じられて、今一つ興奮できないのである。<ペトルーシュカ>はまた後日聴いてみることにしたいが、このCDは意外と早く手放すことになるかも・・・。

ショルティ&シカゴ響によるオーケストラ曲の録音は非常に数多く存在するが、「これを聴くなら、ショルティ&シカゴが最高」と言えるものは結局、私の中では1つしかない。R・シュトラウスの<ツァラトゥストラかく語りき>(1975年録音)である。実を言うと、私はこの<ツァラトゥストラ>という曲には少なからず苦手意識を持っている。映画に使われて有名になった冒頭部分だけはご機嫌なのだが、後に続く30分余りがひたすら晦渋で意味不明。カラヤン、ベーム、バーンスタイン、メータ等、名だたる名指揮者達が評判の良い演奏録音をのこしてきてはいるものの、それこそ誰の演奏で聴いても、私には退屈で仕方がない曲だった。それがショルティ、シカゴ響のデッカ録音を聴いた時は、本当にびっくりした。面白い!え、この曲、面白いじゃないかと。作曲家の卓越した管弦楽法が、明晰な音の輝きの中に細大漏らさず開陳されており、作品の姿が手に取るように見えてくるのだ。この曲だけはもう、例外中の例外。ショルティ先生、最高!なのである。

―今回は、これにて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9歳の天才少女が歌うプッチーニ/「私のお父さん」

2015年06月06日 | 演奏(家)を語る
最近、どえらい衝撃を受けた映像。少女の名は、Amira Willighagen。年齢9歳。まずは、彼女が(おそらく初めて)TVに出演し、聴衆の度肝を抜いた時の短縮版歌唱。



続いて、マーストリヒトで行なわれた音楽会(2014年)に招かれた時のフル・ヴァージョン。



歌の才能自体はもう疑う余地なく、天才の領域。これから周囲に振り回されて消耗することなく、正しく成長していければ、彼女は将来稀代の名歌手になれるだろう。クラシック分野に進むかどうかは、未知数だが。なお、当ブログ主はオランダ語の読み方を知らないため、この少女の名前の正しいカタカナ表記がわからない。可能性としては、たとえば、アミーラ・ウィリッヒハーヘンとかになるのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベーム、VPOのブルックナー/交響曲第3番、第4番(デッカ録音)

2015年05月31日 | 演奏(家)を語る
2015年5月。先月に続いて今月もまた、グラモフォンとデッカのオリジナルス・シリーズ24ビット盤CDを何枚か購入した。昨年の消費税増税以来、食糧などの必需品以外は極力買い控えしてきた当ブログ主ではあるが、税込み767円という(おそらく期間限定であろう)超特価に惹かれ、この機会に懐かしい名盤をハイビット・リマスターの音でいくつかまた聴き直してみようと思ったわけである。消費税率は3%上がっても、本体価格がここまで安くなれば関係ないという気持ちもあった。

そうして買い集めた中から今回は、カール・ベームがウィーン・フィルを指揮してデッカに録音したブルックナーの交響曲第3番と第4番についての感想文を書いてみようかと思う。(※厳密な話をすると、今月767円で買ったのは第4番の方だけ。同じシリーズに含まれる第3番はセールの対象外だったため、全く別のルートから、もうちょっと高い値段で買った。)これらはいずれもLPレコードの時代によく聴いた懐かしい音源だが、今月まとめて聴き直してみて、両方の演奏に対してほぼ共通した感想を持つこととなった。

第1楽章を聴きながら最初に感じたのは、オーディオ的な肩すかし感。デッカ音源の24ビット・リマスターということで、ちょっと期待し過ぎたかも。当然のことながら、昔のLPレコードや初期CDの音に比べれば遥かに豊かな響きで、各楽器の分離も明晰。ダイナミック・レンジも広く、レコード発売当時の高い評価が十分に偲ばれるものではある。ただ、これはもっと良い音での再生が可能なんだろうな、という思いが抑えがたく湧き上がってくることも否定できない。このあたりは、うちで使っているオーディオ機器の限界というのもあるだろう。プレイヤーはSACD登場以前の“年代物”だし、何と言ってもアンプが昭和時代のプリメインだから(苦笑)。

そのあたりの話はともかくとして、ベームの演奏スタイルは、第1楽章から既に鮮明に感じ取れる。ウィーン・フィルの音色を随所で活かしつつ、各声部をバランスよく克明に浮かび上がらせる。曲の細部に至るまで、およそ緩みというものがない。結果、楽曲全体が非常に引き締まった印象を与える物に仕上がっており、音の彫琢が曲の隅々にまで行き届いている。とにもかくにも、“堂々たるブルックナー演奏”といってよいものだ。ただ、指揮者カール・ベームは同郷の大作曲家が遺した作品の偉大な構築性―壮大且つ堅牢に組み上げられた音響の伽藍としての音楽の佇まい―に強い敬意と共感を抱きつつも、作家の魂の逍遥に付き合うほどにはsympatheticでなかった。そこまで寄り添うべくして、ベームの精神はいささかザッハリッヒ(即物的)に過ぎた。今回2枚のCDを聴き直して、私はそのような感想を持った。

そんな風に思う最大の根拠は、両曲の第2楽章の演奏にある。特に第4番には格好の比較材料があるから、話がよりわかりやすい。クナッパーツブッシュの指揮による、有名なモノラル期の名演だ。同じオーケストラ、同じデッカ・レーベルへの録音なのに、同楽章の印象がこんなにもかけ離れて違うとは!尤も、このあたりの比較論を始めると、当ブログの場合、行きつくところが見えてしまう。宇野評論の後追い、二番煎じの文章に成り上がって終了だ。なので、この第2楽章の比較議論は省略(笑)。で、もう一方、第3番の第2楽章となると、ベームの指揮は4番以上につまらない。今回2枚聴き直した中で、ここはちょっと退屈してしまった。第4番第2楽章の方は指揮が幾分ザッハリッヒであったとしても、まだ楽しめる余地があるのだが、3番の第2楽章をこんな風にやられたら本当につまらない。音楽は立派に鳴り続けているのだが、「仏作って、魂どこよ」状態なのだ。

逆に第3楽章は、ベームの演奏スタイルと曲の性格が幸福な一致点を見出し、類例の見出しがたい成功を収めることとなる。第4番の方も勿論立派だが、第3番のスケルツォ楽章は極めて完成度が高く、聴後の充実感が半端でない。ベームのブルックナーに対しては総じて辛口の宇野センセーでさえ、この3番のスケルツォ演奏に関してだけは、「ベーム盤が完璧無類。ここだけでも価値がある」と絶賛激賞している。このあたりにベームのブルックナー演奏の、良くも悪くも真髄が示されているように思える。

で、いよいよ最後、第4楽章。第3番と第4番、どちらに於いても、演奏家の気迫漲る力演を堪能することができる。オーディオ的な面でも、第1楽章で感じていた「これ、もっといい音で聴けるはずなんだよな」という軽い失望感みたいなものが、ここではほとんど無くなる。このCDでも、あるいはうちの機械のレベルでも、これだけの音が聴ければとりあえず文句はないという気分だ。曲自体の充実ぶりもあって、第4番の方が全体的に聴き栄えのするものになっているが、最後の締め(結尾部)は第3番が格好いい。まさに、胸がすく思い。おおっ、決まったあ!と。w  将来SACDプレイヤーを買う時が来て、当ベーム盤にさらなる優秀リマスター盤が作られるまで、今回買った2枚はしっかりとCD棚に愛蔵しておくことにしよう。

―というところで、今回はいくぶん駆け足でベームのブルックナー2曲についての感想文を書いてみたが、他にも「今さらまた、そんなのを?」と自分ながら思ってしまうようなCDを今月何枚か買った。それら他のCDについても、また今後機会を見て触れていけたらと思う。

今回は、これにて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

CD買い直しモード~オーマンディ、フリッチャイ、パールマン、クナ、ムーティ

2015年04月29日 | 演奏(家)を語る
愛用のCDプレイヤーが先月、長い修理から戻ってきた。おかげさまで、それからトラブルもなく快調に動いてくれている。そのためもあってか、夜のひととき、好きな音楽に浸ることがまた多くなってきた。昨2014年4月の消費税増税以来、ぱったりと音楽CDを買わなくなっていた私だが、最近また少し買い始めている。で、それがどんなラインナップかというと、まるで申し合わせたかのように、「昔よく聴いた懐かしい名演の、新しいリマスター盤」ばかり。今の演奏家たちの新しいディスクには、殆ど興味がわかないためである。

先月(2015年3月)買った『モントゥーのフィリップス名演集成』以来、今月もまた往年の大家たちの録音ばかりを買ってきた。具体的なところを挙げてみると、まずユージン・オーマンディ。今月5日(日)に放送されたFM番組『名演奏ライブラリー』を聴き、組曲<火の鳥>(1967年録音)や<幻想交響曲>(1960年録音)等での充実しきったオーケストラの響きにすっかり感心してしまった私は、指揮者オーマンディへの見直し気分が高まり、彼のCDをまたいくつか買ってみようかと思ったのだった。で、最初に選んだのが、「バルトーク&コダーイ作品集」の2枚組(CBSソニー盤)。オーマンディはアメリカで活躍した人だけれども、故国はハンガリー。となれば、この人にとっての本当のお国物はアメリカ音楽ではなく、ハンガリー音楽ということになる。特に2枚目に収められたコダーイが聴きたくて、これを買った。<管弦楽のための協奏曲>、組曲<ハーリ・ヤーノシュ>(←長く埋もれていた旧録音)、ガランタ舞曲、そしてマロシュセーク舞曲。バルトークの同名作品に比べて思いっきり日蔭者の存在になっているコダーイのオケコンだが、オーマンディは作曲者の自演よりもはるかにスピーディで、生命感あふれる快演を聴かせてくれる。(ただ、それが最終的に感動のレベルにまで昇華しきれないのはやはり、曲自体が持つ魅力の不足なのだろう。)

コダーイ作品集と言えば、フェレンツ・フリッチャイの指揮によるグラモフォン盤も買った。実はこれ、昔持っていて一度中古売却した音源で、今月買おうという考えは元々なかった。それが、このCDを含んだ「グラモフォン・オリジナルス」というハイビット・リマスター盤のシリーズが、HMVさん、tower.jpさん共通で特価セール中となっていたため(1枚物が何と、税込767円)、この安さならいいだろうと注文してみたわけである。上記オーマンディ盤の<ガランタ舞曲>を聴いて、「もう一つ、踏み込みが欲しいなあ」と思っていたところへ、懐かしいフリッチャイ盤の限定値下げとなって、この際だから聴き比べをしちゃおうと思ったのだ。結論は、フリッチャイの勝ち。w モノラル録音というハンディはあるものの、曲想に応じたテンポと表情の使い分けが実に多彩で、時折「ここのテンポはちょっと、どうかな」と思える箇所もなくはないのだが、結局聴き終えると、「いや、お見事でした」と頭が下がる思いになる。いささか陳腐なレッテル貼りをさせてもらえるなら、これは「フルトヴェングラー的なコダーイ演奏」とでも言えるだろうか。同じ指揮者によるドヴォルザークの<新世界より>(G)がふと、思い起こされる。フリッチャイのバルトークは正直なところ私の感覚には合わなかったが、コダーイはかなりいける。

特価販売のグラモフォン・オリジナルスと言えば、もう1つ。全盛期のパールマンがバレンボイムと共演したサン=サーンスとヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲集。これも税込み767円という超特価に惹かれて買い直し、音の情報量が豊富なハイビット・サウンドで聴いて感銘を新たにした。

あと懐かしいところの買い直しが、もう1つ。クナッパーツブッシュ、ウィーン・フィルの『ポピュラー・コンサート』(デッカ盤)。LP時代に繰り返し愛聴した音源が現在、24ビット盤CDになって蘇っている。初期CDの音質には不満を禁じ得なかったが、今回のはかなり満足。値段も安い。収録曲としては何と言っても、シューベルトの<軍隊行進曲>。この愛すべき小品にここまで深い内容を孕ませた指揮者は、後にも先にも、クナ先生ただ一人だろう。

そして、当ブログのお得意分野で、オペラが2点。これらも実は、元々買う予定のなかった物。若きムーティの指揮によるヴェルディの<アイーダ>全曲と<ナブッコ>全曲(いずれもEMI)。昔さんざん聴いて、すっかり気が済んで手放した名盤を、何でまた今さら・・・という感じなのだが、これら2つについての購入動機も、単純に値段の安さ。いわゆる“限定数特価”というやつで、私は本当にこういうのに弱い(苦笑)。<アイーダ>全曲は、税込み1430円。<ナブッコ>全曲は、同じく税込みで890円。ホントかよ、って。w 1枚物のハイライト盤みたいな値段ぢゃないか!だったら、改めてまた全曲聴いちゃうぞと。w 当該商品はいずれも歌詞台本(リブレット)が参照できるCD-ROMがついた新しいプレスのCDで、音質的にも期待できそう。これら2点も今、到着待ちの状況である。

―というわけで(←何が?)、いよいよ5月の大型連休。昨年夏に続いて今月、母が膝の手術を受け、長く続いた関節の強い痛みからようやく解放される目処が立った。日中はリハビリ入院中の母を見舞いつつ、帰宅してから夜はじっくりと、懐かしい名盤の聴き直しに勤(いそ)しむことにしようかと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

F・スラットキンのガーシュウィン、グローフェ、「行進曲集」

2015年02月28日 | 演奏(家)を語る
2015年2月。今月、ちょっと懐かしい音源のCDを購入した。フェリックス・スラットキンの指揮による2枚である。いずれも中古で、随分安く入手することができた。(※指揮者スラットキンと聞いた時に大抵の人が思い浮かべるであろうレナード・スラットキンは、このフェリックスの息子。)

学生の頃だったろうか、当時のFM雑誌で、評論家の出谷啓(でたに けい)氏が書いていた記事の中に、「フェリックス・スラットキンが指揮した行進曲のアルバムは、大変素晴らしい」みたいな一節があった。その後しばらくして、その中の2~3曲だけがFM放送で流れ、それを耳にして、「なるほど、確かに良い演奏だなあ」と思ったものだった。それ以来、「今はどのお店へ行っても見つからないけど、このレコード、いつか手に入るかなあ」と、ずっと気にかけていた。それがまあ、実に30余年を経て(苦笑)、この2月、ついに輸入盤CDの形で入手できたのである。

英語版のタイトルは、“Salute to the services The Military Band”。コンサート・アーツ・シンフォニック・バンドという団体が演奏している。フル・オーケストラほどには重くなく、さりとて小編成のブラスバンドほどには軽くもなく、程良い感じのヴォリューム感。アルバムの作りとしては、アメリカン・マーチの名曲を集めて、それをメドレーで流していくという形をとっている。冒頭に起床ラッパ、続いて名行進曲の数々、そして最後にアメリカ国歌の演奏と静かな消灯ラッパが鳴らされて終了、という設計だ。スーザの名作から<星条旗よ永遠なれ><エル・カピタン><ワシントン・ポスト><雷神>などが選ばれているほか、ツィンマーマンの<錨を上げて>、ヨゼフ・フランツ・ワグナーの<双頭の鷲の旗のもとに>、バグレイの<国民の象徴>、そしてミーチャムの<アメリカン・パトロール>といった有名どころが収められている。

演奏はいずれも、間然するところのない名演である。快適なテンポ設定と、エッジの効いた音。全く緩むことのない緊密なアンサンブル。個々の楽器奏者たちが聴かせる名技。そして各曲の仕上がりに凸凹がなく、演奏のスタイルに統一感がある。決して大げさでなく、ここには行進曲演奏の一つの規範が示されているようにさえ思える。ハリウッドの映画畑での仕事が中心だったF・スラットキンの全録音の中でも、これはクラシック音楽ファンの厳しい審美眼にも十分耐え得る優れた内容を持つ名演奏と言ってよいだろう。24ビット・リマスターになっているのも、うれしいポイント。

(※惜しむらくは、収録曲数が少なくて全体の演奏時間がわずか38分53秒しかないこと。CD演奏面の半分が余白。w 「アメリカのミリタリー・マーチ集」というコンセプトで作られたアルバムのため、タイケの<旧友>という抜群の名曲が入っていないのは致し方ないかもしれないが、スーザの<士官候補生>は入れておいてほしかった!これ外しちゃ、ダメだろ。w )

―ということで、学生時代から30年以上も頭の片隅に置き続けてきた(LP時代にはついに手に入らなかった)幻の名盤をようやく手にした私は、これまた学生時代の思い出になるガーシュウィンとグローフェの作品を収めた同じ指揮者の1枚も改めて聴きたくなった。で、有り難いことに、今は生産終了となってしまっている1990年の国内盤CDが中古で安く見つかり、思いがけず楽に入手できる幸運に恵まれたのだった。中古とはいえ、盤は傷もスレもない良好な状態。そして再生してみると、かつてのLPなどよりずっと良い音が聴けて、まずオーディオ的な面での喜びを得た。

この演奏についての記憶はかなり曖昧になっていたのだが、今回CDで改めて聴き直し、「ああ、なるほど。そういうことね」と得心がいった。やはりというか、ここでもエッジが効いた鮮明な音のテクスチュアは共通しており、快速テンポによる小気味よい音楽運びが好印象を残す。たとえば<パリのアメリカ人>の快活な冒頭部分など、本当に意気揚々としたアメリカ人のおニイちゃんが目に浮かんでくるようなのだ。このあたりがF・スラットキンの基本的な演奏コンセプトになっているのだろうなと。

人気曲<ラプソディ・イン・ブルー>には名演が多いため、当スラットキン盤を1位に推すのはさすがに無理っぽいが、クラシックのフル・オーケストラとジャズ・バンドの間に入るぐらいの感覚で行なわれた演奏として、一聴に値する好演になっていることは間違いない。また、腕っこきのメンバーたちが独自の癖を出して楽しんでいるような部分はあっても、演奏そのものが緩みを見せることは決してない。指揮者がしっかりと手綱を締めている。レナード・ペナリオのピアノ独奏も鮮烈。ただ、ガーシュウィンの音楽に時折聞かれる“黄昏のような詩情”までは、十全に表現されていないようにも思える。このあたりが指揮者スラットキンの、ある意味限界だったのかもしれない。この人が本格的にクラシック界へ進出することがなかったのは、映画畑での仕事の方がおそらくずっと儲かるという生活面での事情以外にも、こういった音楽性に起因する理由もあったのではないかという気がするのである。

末尾に収録されたグローフェの組曲<グランド・キャニオン>については、何と言ってもオーマンディ&フィラデルフィア管の1967年盤が他のすべてに冠絶する圧倒的名演なので、他のどの演奏を持ってきても勝負にならないのだが、当スラットキン盤はハリウッド・ボウル響の腕利きメンバーたちが聞かせる個々の楽器の名技が緊密なアンサンブルの中で鮮明に浮き立っており、比較的小編成のオーケストラが行なった演奏として十分に楽しめるものになっている。少なくとも、やたら腰が重くて音色も暗いバーンスタインの失敗作よりは、こちらを上位に置いても良いように思われる。

―今回は、これにて。

(PS)

先月再修理に出したCDプレイヤーが、まだ帰ってこない。従って、今回の記事はミニコンポで聴いた上での感想文である。プレイヤーが戻ってきたらまたフルコンポで改めて聴き直してみるが、上に書いた感想文の本質的な部分は多分変わらないと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする