カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

唐津の夜

2006-11-10 | 雑記
 唐津に出張だった。シンポジスト(っていうんだっけ)の役割があって気が重かったが、終わってしまうとなんということもない。人間って結局プレッシャーのストレスが大きいのかもしれない。ただの時間の経過のみでこんなに精神的に楽になるのなら、老後も楽しみというものだ。

 さて、そういう役割もあって打ち合わせなどもあり、現地に前日から入る。夜になって都合があって一人になってしまい、食事を取ろうと思ってぶらぶら歩いていた。しかしながら考えてみると一人で夕食というのも味気ない気がする。昼は蕎麦を食ったので、系統は違っても麺類を食う気になれない。バーガー屋が目に止まるが、パンを食うならワインを飲まないといけないような気がする。地元の焼き鳥屋に入る人の後に付こうとしたが、カウンターにびっしり人が並んでいるように見えた。仕方ない、もう少し歩こう。ということで、さらにぶらぶらする。いつの間にか駅前に来ていて、小さい居酒屋もけっこう目に付く。この街がどういうところか知らないが、人が歩いている様子はなくて、なんとも寂しく入りづらい。寅さんだったら店のオヤジと世話話でもしながら飲めるのだろうけれど、なんとなくそういう気分ではない。
 二十代の頃はこれでも知らない町で一人で飲みに行くことはあった。何にも怖いものがないというか、いきがっていたというか、自分の好奇心の方が強くて、行動が先に出てしまう感じなのだろうか。面白そうな感じがするだけで顔を覗かせることぐらいはできた。
 しかしながらいつの間にか、そういうことが億劫になってしまった。今は一人で飲んでもつまらないので、コンビニで適当に見繕ってホテルで焼酎ということになりがちである。
 いっそのことそういう具合にホテルに帰るという方法もあるのだが、けっこう歩いてきてしまった。その上に途中から合流して飲もうという約束もしてあって、合流するなら駅前の飲み屋街近辺にいたほうが都合がよさそうだ。そうなのだけど、タイミングがずれたというか、なんとなく踏ん切りをつけられない。またぐるぐると歩き回って、どこにも入りたくない気分になってしまった。まあ、そろそろ電話がかかる頃かもしれない。
 結局それから一時間ぐらい歩いて(二万歩近く歩いてしまった)やっと合流することになったが、彼らの目当てはスナックで、すきっ腹に発泡酒(安い店なんだね)とか焼酎とか飲んで具合が悪くなってしまった。しかしながらチャイナ服の自称19歳というお姉さんなどもいるような店で、二時間ちょっといたのに割り勘2800円なのだから、異様に安いという気もする。後で聞いたら現地価格で唐津はそんなもんだというので、かなり驚いてしまった。彼女らは時給いくらぐらいで働いているのだろう。車で一時間も走れば中州についてしまう土地柄で、この地にとどまっている何か理由があるのではないか。などと考えてしまうのであった。
 結局他の連中はフィニッシュラーメンに行くという。僕はそちらでもよかったが、もう少し酒を飲みたいという呑み助さんに付き合うことになって居酒屋に入った。結果的にそこで揚げだし豆腐とか焼き魚とか塩辛とかをつまみに飲んで、ふたりで計2500円程度である。やっぱりこの土地は物価が安いのであろう。
 しかしながら先払いしていたホテルの料金は13,000円であったそうで、これはたぶん旅行社が上っぱねはねてるのだろうな、と思われる。ものの値段はなかなか難しいものである。最近はネットで宿をとることが多かったのだが、今回はうっかり人に任せてしまった。人間楽してはいけないようである。
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切り替え困難

2006-11-10 | 雑記
 出張中でもホテルにネット検索できる状況があるとつい見てしまう。これって習慣というより中毒のような気がする。急用ができて帰ってきたが、また気になって覗いてしまう。僕は状況が替わると切り替えて違う人間になれる自信があったが、切り替わり方のベースがどこにあるのか分からなくなってきた。とりあえず用事を済ませて、帰ってから考えてみよう。
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調味料と何故か黒田投手

2006-11-07 | 雑記
 ドラえもんで「味の素の素」という道具があったが、ああいうものがつくれないかとふと思う。うまみ調味料は確かに味をよくする。魔法とまではいかないまでも、合理的であるのはまちがいない。
 添加物の人体への影響など不安視する考え方もあるが、毒というのは成分も確かに重要ではあるがあくまで量の問題なので、実はそんなに深刻ではないと思われる。天然素材だから安全であるとか美味しいという考え方のほうが危険ではないか。
味の素のようなものでなくとも、「味塩コショウ」のような商品もある。これも合理的なだけなんだが、やはりうまいアイデアである。
 テレビの実験で見たことがあるが、天然のわさびより練りわさびの方がうまいと感じる人が多いというものがあった。それだけ調味料は考えてつくられているのであろうと思う。
 もちろん料理そのものは、いろんなコツがあるということでも分かるように、総合的なアイデアの集合であり、これだけあれば済むというような単純なものではない。しかしながら、調味料で調整するというという魅力も捨てがたい。
 マヨラーとか一味党という人たちがいることも考えると、商品化することができるとあんがいでかいんじゃないかと夢が膨らむ。
 甘いとか辛いとか酸っぱいというものは多いような気がするけれど、苦いというのは少ないんじゃないか。既になんとなく廃れてしまったようにも思われる「にがり」というものはあったにせよ、なんとなく思いつかない。しかしゴーヤなんかを食っていて思うが、ああいう苦いような癖のあるものは、なんとなく中毒性が無いだろうか。渋いお茶とかなんとなく欲しくなるものだし、ビールだって苦いと感じる人(僕は残念ながらビールが苦いという感覚は分からない)もあるようだが、それだから何杯もいけるという感じかもしれない。
 何の本で読んだか忘れたが、鳥の好きな学者か何かが、実際に鳥の好んで食べる木の実などを食べてみる話があった。大抵は渋かったり苦かったり酸っぱかったりしてちっともうまいとは思えない。鳥の味覚は人間とかなり違うものではないかと推察している。そのまじめさがとても好ましく可笑しかったのだが、そういうものをジャムにしてはどうかと読みながら思ったのであった。ジャムというのは甘いだけでなく、なんとなく特徴のある味のものが面白くもある。畑正憲も苦いジャムは旨いと書いていたような気がする。
 しかしながら僕はあんまりパンは食わない。ちなみに白いところより耳のところの方が旨いと思うが、子供はどうして耳を食わないのだろう。時々何かの間違いでパンも旨いと感じることもあるけれど、すぐに忘れてしまう。絶対にパンより米を食うべきだとかいうような主義は無いけれど、人生の中でなくなっても惜しくないものかもしれない。中沢新一は「愛していないものは研究してはならない」と言っていたそうで、なんとなくかっこいいので、ジャムは諦める。
 苦いといえば、アロエは苦い。胃の痛い時期があってアロエが効くと聞いて無理に食って「おえー」っと思ったことがある。胃によくても精神的に悪そうなので懲りてしまった。そういうわけで愛してはいないが、健康的な響きはなかなかいい感じかもしれない。アロエを乾燥させるとどうなるか分からないが、透明感自体はけっしてまずそうな感じではない。商品化するにはどのような方法があるだろうか。花壇なんかで放っておいてもけっこう栄えているようで、栽培が難しい植物でもなさそうである。
 ふとそう思ってほくそえんでいたら、健康食品としてアロエは既にかなり出回っているというではないか。食品や薬品ばかりでなく、ハンドクリームのようなものもあるらしい。うーむ、先を越された。というか、誰でも考えることらしいな。我ながら平凡でありがたい。あんまり特殊な人生でなく幸せである。
 しかしながら調味料でアロエというのはまだまだ少ないのではないか。アロエをふりかけでご飯がすすむという状況は想像しがたいことではあるが、そういう発想なら何とかならないものだろうか。僕としては振り掛けるような調味料というイメージが大切な気がする。
 さて、自分で商品化するのはだんだん煩わしくなってきたが、そういう感じで商品が出ると、なんとなく欲しいような気がしないか。

 なんか最近は仕事の将来が暗いので変な想像をしてしまうようだ。やっぱり本業を何とかしないとな。明日からも出張なので、もう少しがんばって将来を考えようっと。

 ぜんぜん関係はないが、広島の黒田投手ってかっこいいなあ。出身は大阪なのに就職したチームでがんばる姿勢というのが、なによりかっこいい。日本一弱くて金の無いチームで日本一のピッチャーがいるという皮肉にいつも辛い思いで見ていたけど、自分自身で何とかしようという根性も座っていて迫力のある投球ができていたのであろう。
 人生の選択の問題なので、必ずしもこれがいいのかということは分からないけれど、人間はかっこいい生き方をしたほうが、少なくとも人の心を動かすのではないか。
 僕は黒田投手を一生覚えて生きていくと思う。僕はこの記事で泣きました。俺もがんばるぞ。
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記録を眺める楽しさ

2006-11-06 | 雑記
 朝から全日本大学駅伝。こんな面白いことを朝からやられると何も手につかなくなって困る。テレビの合間に新聞読んだりメシくったり本を読んだり資源ごみ(運ぶだけ)出したりすることになる。できるだけ無視するよう心がけるが、テレビが気になってどうしようもない。
 駅伝放送が多くなって良かったと思う。以前は新聞で結果を見るよりしようがなかった。以前は箱根駅伝でさえ復路の最後しか放送がなかったんじゃなかったっけ? 駅伝放送を見る度に、日本に住んでいる幸せをかみしめられる。今回はレースとしてもなかなかスリリングで、最後まで本当に楽しめるすばらしさだった。
 モグスレベルは反則を超えているけれど、やっぱり凄いものは素直に凄い。彼は日本語も流暢なので、基本的には反則ではない。しかしながら人間としての体力差というのは、人種によって明らかに違うということは確かだと思う。早稲田の渡辺監督の記録も、そういう意味では残しておく必要もあるんじゃなかろうか。
 向き不向きもあるにはあるだろうが、水泳の世界ではまだ黒人選手は少ない。近い将来、世界記録の更新ラッシュは、水泳界にあるんじゃなかろうか。まあ、西洋人はずるいので、気がついたら何か妨害処置をとるのだろうけれど…。まあ、駅伝や相撲界など、人種として活躍の場が広がっても、一つの基準として日本語というのが重要になる気がするのは僕だけだろうか。世界競技というものは、とりあえずたいして興味は無い。日本人が世界一である必要は必ずしも無い。しかしながら国内競技の場合、この問題がなんとなく引っかかる。だから助っ人には日本語を、と思うのだろうか。米国人も基本的には英語を話すのが米国人という考えを持っているようだ。もちろんそうじゃないという話もあるが、それはあくまでその中のコミュニティの問題だろう。群れてなければ言葉が大切というのは、なんとなく理解できる考え方である。僕が結局野球とかサッカーなんかに興味を失うのは、日本競技としての中途半端さだ。広島のブラウン監督のような人は好きなんだが、日本社会の特殊な感じで発展することがなにより楽しいんじゃなかろうか。メジャーは別の世界の野球であって、競争する必要は無い。意識すると、マイナーリーグになってしまうんじゃないか。高校野球がそれなりに楽しめるのは、代理戦争もあるけれど、野球としてプロとは明確に別物であるためだろうとも思う。米国みたいにラグビーやめてアメフットを作るというローカル性は、ある程度まっとうなことではないか。
 さて、高校駅伝の方も5日が競技ラッシュだったようだ。ネットであちこち検索して結果を探る。今のところ流石に豊川工業という感じだ。世羅も不気味な存在感がある。仙台育英は別の次元なので面白くないけれど、留学生を抜いてもちゃんと凄いところは立派である。しかしながら興味ということではやっぱり論外になるので、2位以下から15位ぐらいまでの混沌としている感じを楽しむよりしょうがない。いつもなら予選で目を引く大牟田もなんとなく平凡に感じるのはかえって時代を感じさせる。兵庫の結果がまだなのでなんともいえないところだが、各地区大会も控えていて、高校生は安定していないところが面白さもあって、これからも目が離せない感じだ。
 一人一人の記録を見比べたりしていつまでも飽きなくて、時間もどんどん浪費してしまう。このシーズンは僕の病気のような期待感で一杯になってしまうのだ。最終的な結果はここ数年あんまり満足できなかったが、今年の諫早は期待していいんじゃなかろうか。延ちゃん兄弟も集大成で気合が入っていることだろう。チームとしても伸びている感じが、本当に頼もしい限りである。なんか俺もがんばんなきゃなあ、という気分があって、何をとりあえずがんばればいいんだというもどかしさもあるわけで、また数字とにらめっこして時間を浪費してしまうのであった。
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煩わしいから議論をしよう

2006-11-05 | 時事
 核の話になると神経質になっているようだが、議論しないという態度のほうが問題だと思う。議論しないほうがこれだけ根拠があるんだよ、という議論だって必要なんだし、核だったら兵器のことだけになるし、電力としてなら原子力と使い分けている欺瞞についても議論の欲しいところである。利用の仕方で違うんだといってるけど、本当に違うのかな。
 北の脅威について核を持っていない段階で打ち込まれたとき米国が必ず報復するということであればとりあえず棚上げできそうだったけれど、今はそういう状況じゃなさそうだということが核議論の始まりのような気もする。核を撃ってきたらどうするんだということさえよくわからないことが、不安にさせられるのではないか。防衛って何だっけということだ。とりあえず飛んできた奴を打ち落とそうということは言っているようだが、どうも無理そうだし、ああ、撃っちゃったよ終わったな、というのが日本の立場みたいだ。こっちだって化学兵器なんかも持ってるもんね、という方法だってありそうなんだけど、もちろんそれってお互い馬鹿だよね、っていうことも確認しておきたい。そういうことを含めて議論が必要なんじゃなかろうか。その結果、やっぱり持たないぞ、ということになれば、それはそれでいいのである。論外視することは、持たない勇気が何であるかということも無理解に終わりそうではないか。
 まあ、核兵器はどうせ使えない(だから米国しか使ったことがないのである)ものなんだから持たなくてもいいんだけど、核クラブに入らないと議論できない世界情勢になってきている感じもしないではない。話をするために核を持たなければならない。北のやり方はそういう具合に持ってきたようだ。そのためには核を持たなくて有利な方法はないものかということも考えなければならないのだが、核クラブの連中の理屈は、もともと話し合いなんだかよくわからん状況になっているということなんじゃないか。そういう連鎖に反応しない大人としての振る舞いができる国だから尊敬されるんだよ、というようなことがわからないから核クラブなんだと証明できればいいんじゃないか。核がなければ弱い国になっているということを将軍様はわかっているから強行しているわけで、脅威というより既に哀れである。冷静に考えると、持ってない僕らには既に話がないのは当たり前で、話にならないところに彼らはいってしまったのであろう。
 タブーは何で存在するかという無思考状態でいつまでもウジウジしている日本社会というのは、やはり滑稽な感じもする。基本的なところでは、結局無知だから怖いだけなんじゃないかなあ、何てことも思う。だから話し合いの前段階で、そういうことに蓋をしてしまいたいのじゃないか。そういうのって、さらに恐怖の連鎖を呼ぶだけだという気がしてならないんだが、これも無視される考え方なんだろうか。核自体は確かに恐ろしいものだけれど、その前に生理的にタブー視する精神性のほうが、はるかに怖いと僕は考えている。
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早くもストーブをたく

2006-11-04 | 雑記

 風邪がひどくなって具合が悪い。横になっても具合が悪い。酒を飲むと少しだけ気分がよくなるみたいに錯覚するが、長続きしない。なぜなら本当は具合が悪いからである。
 僕の自慢はひと一番体の弱いことだが、すぐに体調を崩すのは無理もしているためであろうと思う。精神論は嫌いだが、根性が無いのですぐにめげる。ちょっとでも具合が悪いと非常に気が小さくなる。死んでしまうのではないかと心配になる。
 具合は悪いのだが体を動かした方がいいような気がする。そう思って買物についていって、やっぱり調子が出ない。何しろ何を見ても興味がわかない。野菜も好きだが、食べるのが好きで、買うのが好きなのではない。買物は何を買ってよいのか本当のところよく分からない。必要だから買うのだろうが、切迫したものが無いのだろう。僕には主婦の真剣さが無い訳で、卑怯なのかもしれない。
 本屋に行くと少し事情が違う。最近の本屋はたいしたものが置いてないので買いたい本は少ないが、それでもいろいろ物色できる。なんとなく世相も分かるような気がするが気のせいだろう。テレビを見ていると知らないことがどんどん流れるが、興味が無いのでつまらない。本だと分かるというのはだから幻想だ。書いている人の興味が分かるだけなのではないか。
 それにしても芸能関係の本というものもたくさん発行されているものだ。やはり買う人がいるということだろうが、僕には現実感が無い。活字社会ではシロウトの芸能人を買ってどうするんだろう。まあ、有名人の絵画など、芸術性はともあれ欲しいというのはあるんだろうな。商売というものと直結しているのが芸能なので、それは仕方のないことなのだろう。
 そういうことを考えながら雑誌をパラパラ読んで、結局三千円ちょっと買う。読むものがあるという状況は大変気分をよくする。活字はそうやって消費できる。生きているのは消費活動だ。僕は生産と消費のバランスが悪いのかもしれない。だから結局金に困るのだ。
 しかしながら本屋の便意はなぜだろうとつくづく思う。朝ちゃんとしてきたはずなんだが、少し不安になった。インク説であるとか、選択説であるとかいろいろあるようだが、姿勢ということもありそうである。立ったまま下を向くというのは関係ないだろうか。いや、背表紙を見る動作というのは必ずしも下向きばかりではないので、そうとばかり断定するわけにもいかない。この謎は簡単に解けそうにないようだ。
 雑誌の定期購読の案内があって少し迷う。送料も込なのでお得なのだが、毎月買っていいものだろうか。どうせ買うんだし買いそびれが無いのがいいけれど、本屋でパラパラするのも捨てがたいんだよね、などと思う。
 文春で宮崎哲弥が「イベント・ホライズン」が気になるというようなことを書いているので、気になってDVDを借りてしまう。感想をいうと、やっぱり気持ち悪かったが気になるということもなんとなく分かる気もする。精神的な狂気はこういう具合なのかもしれないなあと思う。本当の感想は、気持ちも悪く痛そうなので宇宙に行くのはごめんである。
 夕方のテレビでいとうせいこうの小説賞のような子供番組がある。文学というものは疎遠になっているが、面白さというものもなかなか分かりづらくなっている。紹介されている文章の面白さも分からないではないが、そういうものって、そんなに面白くも無いような気がしないでもない。消費するには時間がもったいないのではないか。餃子のついでにラーメンを頼むという表現だけはなんとなく気になったけれど、それだって狙っているとしたらやはりそんなに面白くないのではないか。いや、やはり面白い気もするな。僕には難しい問題だ。
 具合が悪いので食も進まない感じだけれど、だからといって体重が減っているわけではないようである。非常に具合の悪くなる前の昼に大量の鯖寿司を食った影響もあるだろうが、そういう美味しさは生活の楽しみなので、結果的に太ることは悲しみになってはならないという気がする。ダイエットが健康のためだという論調もあるが、たぶんそれは間違いである。人は努力で健康になるとは限らない。そういうところを了解した上でダイエットする必要があるのではないか。太るとみっともないという感覚はいいにくいことかもしれないけれど、健康という考え方のほうが暴力的だという気がする。まあ、今の風潮はなかなかそういう精神性の病気なので、通じないとは思うけれど、抵抗するのもけっこう疲れる。聞き流して生きていくより無いのだろう。年末に生活習慣病の検診があって、またバカな論調に付き合わされる不健康が、本当に体調を蝕んでしまうのであろう。現代病には救いは無い。バカは蔓延し増殖する。
 結局寝ていても体が熱いような気がして布団をはいで寒くなって目覚めてしまう。循環の悪さに腹立たしい。いっそのこと大量の汗をかいてすっきりできるといいのになあと思う。風呂にも結局入っていなくて、段々と不快は増しているようだ。
 朝からはストーブをたいて飯を食う。小琳ちゃんは前に陣取って寝ている。本当はそんなに寒くないが、季節はそろそろそういう移り変わりになっているんじゃないか。ジャンパーを着て出勤は大げさかなとやせ我慢するが、車の中はそんなに寒くは無かった。
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いじめられっ子よりいじめっ子を問題視しよう

2006-11-03 | 時事
 いじめの話が中途半端になったなと思ってはいた。結局社会が悪いという趣旨になるのは、なんとなくいいかげんな気もする。そういう論説を張るのは猫にだってできる。新聞の「天声人語」のようないいかげんな文章は、僕のもっとも嫌悪する類の劣悪さだった。反省します。
 正直に言うと、いじめはなくならないかもしれないが、いじめる人間は卑怯であるばかりでなく、断罪されるべきではないかという気がする。
 ふと小谷野敦のエッセイ集「軟弱者の言い分」を拾い読みしていたら、「いじめられっ子の怨み」という一文にあたった。小谷野敦はいじめられっ子だったらしく、

「いじめっ子だった」人間というのは、ユダヤ人にとっての、たとえ一時でもナチス党員だった人間に匹敵する存在

 であるとしている。そうなのかもしれない。
 僕はいじめを受けたと思っていたが、一時集団嫌がらせを受けていたという方が正確なのだろう。だから自殺したいとは思わなかったし、特にいやな奴は呼び出して恫喝したり殴ったりした。集団では分が悪いので、個人攻撃でしのぐ作戦だったのだ。しかし、確かに問題にはなって、暴力は退学だといわれたが、喧嘩なのだから両成敗でどちらも退学にいしてほしいとまともなことをいうと、相手の親が僕に謝った。いじめられっ子は、たぶんそんなことはしないのだろう。
 小谷野はいじめっ子の親が悪いとしている。親の責任を免責するのは天皇制的無責任だと断罪している。考えてみるとまったくそのとおりである。少なくともいじめっ子の親は、もう少し責任を感じて反省すべきではあろう。いじめっ子に加担するような卑劣な子供を持ったことを恥じるべきであろう。
 また、学校の問題とすると解決しないが、いじめる親が悪いとなると確かに解決するかもしれないとも思う。未成年の犯罪が少年法で守られるのなら、親も罪を犯した子供の軽減されただけの刑を受けるべきだと思う。まあ、そういうまともな考えは、社会は理解できないだろうが…。

 いじめられっ子は自殺を選択せず、逆切れしていじめっ子を殺すぐらいの事件を起こすべきではないかと思う。せっかく少年法で守られている上に、情状酌量で極限まで刑を軽減できるともっとよい。いじめっ子が逆用する危険はあるにせよ、それぐらい深刻な問題として頑張ってくれないと、本当にいじめの深刻さは克服できないのではあるまいか。いじめっ子に対する復讐を正当化できる社会の許容があったら、いじめは撲滅できないか。
 いかん、やっぱり社会を批判してしまう。いじめっ子を正当に批判(たとえば卑劣であるとか、かっこ悪いとか)できる精神性こそ、今必要な倫理観ではなかろうか。
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大人を何とかできないか

2006-11-02 | 時事

 最近はいじめだとかなんだとかを苦にして、自殺者が増えているような報道が多くなった。痛ましくも悲しい風潮である。いろんな意味でいじめという陰惨な出来事はきわめて難しい問題だという気がする。ミもフタも無い言い方だが、決定的な解決方法はないと思う。人間に限らず鳥や魚のような動物でさえ、いじめはやるようである。やらないのは自殺ということだけだろう。
 いじめの構造的なものは管理の問題ではないような気がする。開かれているか閉じているかの問題ではないだろうか。漠然とだが、そう思う。小さな閉鎖的社会にあって、いじめは深刻になる。もちろん広い社会にも報道で見られるバッシングなどをみても構造的ないじめは存在するが、いじめている方は気づいていないまでも、少なくとも第三者的に気づいている存在はあるようだ。それだけでもだいぶ違うような気がするし、逃げ場がありそうにも思える。
 逃げ場が無いという状態がやはり難しいのではないか。個人にとって深刻ということが難しいのではないか。究極にはその人の問題じゃないかというような突っぱねた状態が、さらにいじめを助長するのではないか。
 僕自身もいじめの体験があるように思うが、その時は確かに深刻だったようにも思うが、いつの間にか無くなった。僕自身は人とぶつかることが多く、また積極的にぶつかるので、いいのだと思う。僕をいじめにかかった連中は、極端な場合、結局退学したり、不登校になったりしたようだ。そうなると、誰がいじめていたんだという感じもしないではない。かわいそうなこともあったのかもしれないけれど、自業自得だろうとも思う。いまだにちっとも同情心がないが、彼らには運が無かったのである。
 いじめというものはなくならないが、その小さな空間は、ちょっとだけ空気は換えられるとは思う。時間は流動的で、永遠ではない。人間は、いつまでも同じ人間ではない。いじめられていた人がいじめられなくなるということは、ごく普通にあることである。つまりそういう意味では、まったく解決策が無い訳ではないのである。また新たなターゲットが変わるだけというような場合もあるだろうが、新たなターゲットが強ければ、少しは状況が好転しないか。
 強い弱いということがある限り、状況としてのいじめの構造が生まれるのではないか。ではそういうものを無くせばいいようにも思えるが、だからこそそれは不可能だ。それは個人差を認めないからである。平等社会も不公平になることは、歴史が証明している。幻想は追っていいが、無駄である。程度というものがあり、限度があるのだろう。いっそのこと弱いことを認められると、逃げられていいのではないか。そんな気もするのである。
 今は大人がたくさん自殺する。景気はいいらしいからそういう問題が中心なのではあるまい。いつの間にか平均寿命まで下がってしまった。春先には電車がよく止まるらしい。そういう状況になったら、子供も死にたくなったということはあるかもしれない。そういう意味では、異常には違いなくても、やはり世相を反映した出来事ではないだろうか。
 何も死ぬことは無い。地獄にいながらそういうことを考えられるだけでも、いじめは減らせる可能性が残っている。いじめが行われている社会を壊すためには、いじめられているターゲットの消滅が解決するのではない。ある意味では原因が残っているからこそ、構造を変化させる鍵が眠っている。
 暴力は罪である。この場合の暴力は具体的な腕力を行使する場合だけではない。強制力のある状況は暴力を含んでいるのである。そういうところから摘み取らなければ、問題はどうにもならない。逃げおおせられる状況をつくってはならない。必ずつかまるのなら、リスクを負ってまで実行するだろうか。
 そういう意味では先生の責任は重い。分からなかったというのは本音かもしれないが、本気ではなかったということではないか。学校の状況を知らないくせに言っていると思われると癪だが、いじめが行われていることは、その団体に接する機会があれば、必ず分かることである。どんなに鈍感でも必ず分かる。それは人間関係だからである。人間の関係で付き合っていない先生がいるのなら別だが、程度としていじめではないと考えたいだけの話で、分かっていたはずなのである。諦めていたはずなのである。
 少なくとも学校のような環境でいじめが発生するということがはっきりしている限り、学校の構造をどうするかという問題ではあるだろう。まあ、学校が悪いと一方的に言えるような親がいじめを助長もしているわけで、だからこそ構造問題なのだ。
 いじめ問題は日本と韓国が深刻であるという話しも聞いたことがある。アジア的な問題なのかというとそういうことでもなさそうだ。両国は確かに親戚関係のようなところがあって、ときに激しく反発しあったりしているが、同じアナの狢なのだろう。家父長制度や儒教とも関係がありそうだ。強制的にいうことを聞かなくてはならない情況はなんだ。嫁姑問題なんかも怪しい。そういう問題から抜け出せない気分というものこそ、難しい閉塞感を感じる。子供のいじめ問題は、やはり世相問題なのではないだろうか。
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根本解決できないものか

2006-11-01 | 雑記

 連日午後からの会議。昨日は時間を間違えてかなり遅刻したので早めに出発、(言い訳だけど、一緒に会場まで同乗した人が時間を間違っていたのだ。僕はずっとおかしいんじゃないかと思ってたんだけど、相手が言い張るんだもんね。困ったもんだ)会場に着いたら今度は一番乗り。今度は時間つぶしに少し困る。本も何も持ってなかった。手帳を眺めると来週も出張だなあとため息。遠くに行きたくない病なのである。
 会議の方は少し進展と考えていい内容かも。しかしまだ信用はできない。日本は倒産したのだから、野党にがんばってもらおうという意見も出る。結局どうにもなりそうに無いな。なんだかんだ言っても、安倍さん強いんだもん。
 行政のほうが僕らに野党を支持せよと信号を送ってくるっていうのは、もともと彼らは野党側なんだろうか。10月でかなり人事に移動があったようで、そういう権力のバランスがどうにかなったということだろうか。まあ、行きたくない出張の時にこの話がまた出るのだろうと思う。政治は大人に聞いてみよう。
 実は僕自身も少し情報はもっていたんだが黙っていた。僕の属する業界にもいろんな分野があって、得意なところが少しずつ違う。ようはやり方の問題なんだが、テクニックがかなり違う。恥ずかしながら僕は両方得意じゃなくて、得意じゃないものを人に講釈するのもどうかと考えてしまった。仲間なんだかどうなんだか、僕のほうが特殊なので、あんまり関係ないかもしれないし…。
 雑談になって以前はどうだったという話がちょっと出たが、僕以外のところって、ものすごく恵まれてたんだよなあ、と思う。今はオタクはいいといわれるんだが、そんなの当たり前じゃないかという気がする。苦労していた度合いが違いすぎる。彼らが楽をするために、僕らが犠牲になってきたんじゃないか。今年の正月は仕事をしなくちゃなんない、ってため息ついているけど、僕らにとってはそんなことずっと前から当たり前だったのだ。今までが当たり前だった人たちにはそれなりにショックなのだろうけど、以前から危機感を持っていた人間には、ぜんぜんそんなこと自体は大変じゃない。環境が苦しいっていうのも、捨てたもんじゃないな、とかえって考えてしまった。ホンネのところでは、まだ抵抗しようって思ってるんだろうけど、どうにかなるんじゃないかと思ってるんだろうけど、どうにもならないんじゃないだろうか。最後には一般の従業員を200万円以下の給与にしてしのごうとしてるんだろうけど、それってちっとも根本解決にならない気がする。ニートがどうだといってるけど、日本を支えているのはあんがい彼らかもよ。まともに就職されたら、誰が困るんだっけ。

 今年の初めから我慢していた首と肩の状態を、K平さんのところで診てもらう。もっとも本人はいなかったようで、電気治療と温熱療法と薬を塗ってもらった。薬を熱心に塗りこんでもらうのが気持ちよかったが、あとは実感がなかった。今日も来いとの事だったが、行けるかなあ。自己診断はよくないけど、首の問題という気がするが、肩のことだけなんで、躊躇しているのである。根本解決じゃないと駄目なんだよね。
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