カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

価値観の転換はどこか

2006-11-13 | 雑記

 楠のある道事業のお手伝い。K又君大活躍の事業なのだが、資料の充実ぶりがまた進化している。スゴイ。
 時間的にタイトなのだが、それでも流れるように展開するように感じる。完成度が高いのである。僕は周辺手伝いなんだけど、一緒に見学できて楽しい。歴史って切り口なんだと改めて思う。断片はその辺に無造作に転がっている(残っている)のだが、当時の気持ちになって想像力を膨らますことがどれだけできるかであろう。今の視点のままでは駄目なんだと思う。もちろん、今の要望が無ければかえりみないということもあって、そこのあたりに危うさを覚えることもあるんだけど、この事業はかなりいいところまで完成していると感じる。なんども手伝いをしているが、それなりに発見があって、意義深いと思う。こんなことをまったくボランティアでやっている僕らは、歴史の中のどこの辺りにいるんだろう。
 H本さんを迎えにいって、役得でいろいろお話を伺う。以前は技術的なことを中心にお話しになっていて、突っ込んだ戦争観についてはあえてふれてはおられなかった。しかしながらご自身の人生が95歳までと考えていたものが、実際に92歳になってみると、100歳まで生きられるような気がしてきたという。そうすると、人生観そのものが変わってしまったように感じられて、積極的に戦争のことを語る心境に変化したのだとおっしゃった。面白いといったら語弊があるかもしれないが、90歳を超えてもなお、人生観が変わるということがやはり面白い。それは一種の成長ということもいえるのではないか。お年寄りが頑固で変わらない価値観を繰り返すというのが、若い人の持つ頑固な価値観なのではないか。
 最近の情勢にも明るく、米国の選挙のこと、北の脅威に対する国の対応のことなども感想を述べられていた。戦争というものは一気に戦争になるのではなく、今のような状態が戦争というものを招く状況に似ているというお話は、傾聴に値するのではないか。戦争がどれだけ悲惨なものか、知っているからこそ語らなければならないという使命感が、お元気でいられる源なのかもしれない。
 さて、無事に事業も終えて食事をとる。アンケートの感想文も充実している。僕は、次はいつ実施されるのですか、と参加者に質問を受けた。やっぱりそういうことになると、どうなるんだと少し不安になる。果てしないのも考えものだなあとは感じる。いや、必要なら供給が生まれるということもあって、これが生きる業なのかもしれない。いづれにせよ、K又君が壊れないように事業が行われるといいんではないか。
 本当にお疲れ様です。協力したことでお土産も戴き、恐縮であります。

 帰ってだらだらとテレビを見る。やしきたかじんって言う芸人は昔からいるようだけれど、初めてじっくり顔を見た。面白いということが今ひとつ分かりにくい人だが、大物感はなんとなくある。いったいそれはなんなのか。分からないが、まあいいか。
 雑誌もパラパラ熟読。今は教育問題に関心が集中しているらしいな。教師に能力主義も考えものなんだが、いったいどうなっていくんかね、今の世論は。成果を求めて、自分の首を絞めていくのではなかろうか。期待にこたえる子供が増えるというのは、たぶん究極の幻想だと僕は思うんだけどね。第一今はそんなに不公平なんだろうか。米国や中国よりずっと公平な社会だとは思うけど、確かに少しの不自由さはあるな。
 茂木健一郎が典型的なアメリカ人というジョークを紹介している。
「私は父が英国で、母が仏国出身です。私は典型的なアメリカ人です」「私の祖先はアフリカからの移民で、現在はニューヨーク在住です。私は典型的なアメリカ人です」「私の両親は香港からの移民です。私は典型的なアメリカ人です」
さまざまなバックグランドを持つ誰もが典型的なアメリカ人なのである。さて、日本はどうか、ということなのかもしれない。しかし、実は単純な社会はそういうものを統一したいというグローバル・スタンダートにあらわれているのではないかとも感じる。もともと異質なものの集合と、均質なものとの広がりとの違いなのではないか。日本はもともと公平だが不自由で、彼らは自由で不公平なのだ。しかし、そういう見方も画一化されすぎかもしれない。スタンダートなんて、ただの都合主義だろう。

 散歩していて迎えに来てもらう。ちょうど給油するんだそうだが、いつものスタンドと違うようだ。どうしてかと聞くと、以前のところは最近サービスがよくなったので、無愛想なところにかえたのだという。相変わらず面白いことをいうもんだと思うが、その気持ちはよく分かる。
 実際サービスがよいというのは皮肉で、なんとかスタンプをするとか、カードを作れとか、うるさい店が多くて困る。そういうものを作ることがお得だということだろうが、住所を書かせられたり、ダイレクトメールなんかが届いたりして、煩わしさが増えるだけである。確かに実際に割引などもあるにはあるのかもしれないけれど、そういうごみが増えたり、時間をとられることのほうが、無駄なのではなかろうか。
 よく行く店などは、普通そういうことが省略されてなんとなくよくなるものなんだけど、最近はバイトのマミュアルかなんかが徹底しているらしく、いちいち無駄な会話をしなくてはならなくてとても疲れる。ファーストフードなどはポテトがどうだとかサイズがどうだとか持ち帰りがどうだとかうるさくて、食べる前にウンザリしてまずくなってしまう。頑固オヤジで客をしかりつけるのもどうかとは思うが、普通にしている店が繁盛しなくなって、そういう過剰なサービスがはびこっていくのではないか。客が神様だと思っているような本当のバカを生産するだけで、ますます住みにくい世の中になっていくようで、面白くないことこの上ない。普通の人が普通に暮らせる国というのは、画一的な過剰サービスの上に築かれていくのは無い。まさに、いろいろな人がいるものを自分から選択できることが大切で、与えられるものではなかろう。無愛想な店が繁盛するといいんだけど、それも確かに難しい問題だ。均質な商品を売る業界は、淘汰されてしまう運命なのだろうか。
コメント (4)
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