カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

狩猟をするという生き方

2019-08-22 | 境界線

 京都で兼業猟師をやっているという、千松信也さんのドキュメンタリーを見た。鉄砲ではなく罠を仕掛けて、イノシシやシカを捕らえる。後で補足的にネットの記事などでも確認したが、誰かが殺して肉だけを食べるということの漠然とした疑問があったようで、自分が生きていくために食べる肉は、自分で捕ろうということのようだ。二人の息子と妻と四人家族で、捕ってきたイノシシなどを解体して食べる様子などが紹介されていた。
 僕は知らなかったのだが、近年は狩猟というのはそれなりにブームになっていて、猟をする人は増えているのだという。いろいろ考え方はあるようだが、自然の中に生きるということとか、ジビエのような料理に注目があつまるなど、様々な要因が絡んでのことらしい。また、いわゆる農業被害の拡大に伴う駆除として、農家などが自営的に行っているものが、自治体などの援助を受けて、仕事として請け負うような人もいるようだ。食べていけるような専門の猟師もいるらしい。
 先に書いたように千松さんは生き方として猟師をしているということで、もちろん経済的にも肉を買う必要が無い分収入を減らせる(運送の仕事もしているようだが、肉が捕れたら仕事を制限して、あまり働かなくて済むということのようだ。肉などを買う現金が必要ないのだから)という考え方をされているようで、副業なのだが、イノシシや養蜂などから得られる収入もそれなりに考えて、仕事をしているようだった。子供も二人いるわけだし。これは想像だが、そういうことに特化してお金を考えているのではないか。
 哲学的に面白い人なのだが、ドキュメンタリーでは、この捕らえた動物を仕留めて殺す場面を克明に描いていた。狩猟のリアルを伝えるためだとは思うが、それなりに残酷である。罠にかかったイノシシを、棒で頭などを叩いて弱らせて、動きが弱くなったら心臓に刃物を突き刺して絶命させる。イノシシは断末魔の叫びとともに絶命する。命をいただく代償は、このような残酷さと向き合う苦痛を伴うということなのだろうか。
 要するに我々は、この大切な部分を端折って生きている訳である。イノシシ(豚や牛や鳥だろうが)の生きている(または死んでいる)姿は、まったく意識しなくても、肉はグラム幾らの商品として、食材として、クリーンに食べている。死ぬときに叫び声をあげたことなど、知りはしないし、想像もできない。それは、単に逃げているからかもしれない。
 さて、この苦痛を知らない僕らはしあわせなのだろうか。知っている千松さんは、しあわせなのだろうか。もともとそのようにして里山で暮らしていただろう人々も、それは昔はいたのだろうが、経済活動の変貌とともに廃れてしまった。そうして千松さんのような人は、実はきわめて現代的な生き方の一つをしているのではなかろうか。恐らく、自分で生きる満足感と、家族とともに、そのようにして生きていこうというスタイルが、彼を狩猟へと駆り立てているのではあるまいか。そうしてやはり、希少だからこそ、やっている価値があるということなのだろう。
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