野良猫ロック セックス・ハンター/長谷部安春監督
町山さんがラジオで、安岡力也の追悼で観て欲しい映画として紹介していた。梶芽衣子が鶴田真由に似ている場合があることを発見したりして、面白かった。時代だからしょうがないけど、ファッションや行動が理解不能で、なんだか現代人とは違う生き物観察という感じもしたのだった。
バイオレンスは過激なんだけど、なかなか人は死なない。その上、やはり後でどうにかなりそうな問題が、何となくスルーされ過ぎているようなきらいもあるが、まあ、漫画だから(映画だから)仕方ないよね、という了解は必要かもしれない。
藤竜也の極悪ぶりも今となっては結構意外な感じもした。僕らの世代だとカッコつけてるけど人のよさそうなおじさん、で定着している感のある人だから、昔は苦労してたんだな、などと思ったりした。
戦後の女にもてるハーフの人たちへの逆恨みで虐待に情熱をそそぐギャンググループと、そのとばっちりを受けて困った末にささやかなる反撃をするあばずれ集団と安岡力也という図式である。夜は静かに飲んでいるけど昼は肉体重労働で真面目に働いているハーフたちが殴られまくって街から追い出されるのは本当にお気の毒だったが、そんな外国嫌いに見えるギャングたちが左ハンドルの進駐軍ジープに乗っているのはなんか最後まで違和感があった。
安岡力也は、まだまだ若くて線が細いのだが、確かにある種の哀愁があって、後の凶暴な何をしでかすか分からないという感じではない。ひょっとすると当時は、やはり二枚目路線で売り出すつもりがあったのかもしれない。走らされたり殴られたり、本当に散々なのだが、最後までなかなか火がつかない。二枚目役ではまどろっこしいので、すぐ発火する悪役を選択したのは間違いなかったのではあるまいか。
基本的には梶芽衣子の映画なのだけど、最終的にはなんだか違うものになったようにも感じた。それでいいと言えばいいのかもしれないが、当時はこのような激しい憎悪のぶつけあいを求める機運などがあったのだろう。
最終的には自分の中に抱えている問題の隠蔽に過ぎなかったという感じもして、そういうものが社会的に迷惑をかけるものなんだよな、などと教訓めいた感想を持つのだった。誰かに相談出来たらよかったのかもしれないですね。仲間がいても孤独というのは、ろくなもんじゃありませんです。