カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

喪失感に包まれる

2006-09-11 | 時事
 一泊旅行に行って、厄入り宴会に行って、本番ローカルマニフェスト型公開討論会と続いて、今朝から味噌仕込み(麦段階)をしていた。書こうと思えばそれぞれにボリュームあることが続いたわけで、十分なネタ豊富状態に飽和している感じだ。ひとつでも書き出せば止まらなくなりそうなので、パスするものである。

 ところで、9:11から丸5年なんだという。そんなになるもんなんだなあ、と遠い目になってしまう。あの日も青年会議所の例会の日で、懇親会のときに弟から戦争が始まったようだと電話を受けたものだった。周りの人間に、「おいおい、世間は大変らしいよ」といったが、みんないい気分で酒を飲んでいた。もちろんそのあとは、アメリカが大暴走して、多くの人が更に死んでしまったわけである。
 9:11以前は、多くの人は、イスラム圏の人はのんびりとした人のいい集団だと思っていたのではないか。今では多くの人が凶暴で恐ろしいと思っていることだろう。もちろん、本当に彼らが変わってしまったわけではない。変わってしまったのは、他ならぬ僕らの方である。多くの人は毎日祈りをささげて、適当にサボっては、その日を暮らしているのであろう。


 高島俊男の「お言葉ですが…」の終わった週刊文春を読むのがつらくなってきた。だいたいこの連載一本読むために買いだした雑誌だったことを思い出した。単行本も違う出版社から出るのだという。売れなくなったから連載が打ち切られたというのは本当のことなのだろうか。名人芸ともいえるエッセイがなくなる寂しさは、生活の一部が失われた切なさである。嘆いてもどうにもならないという状態は、失恋のようなものなのかもしれない。
 しかしながら、本当に残念で仕方がない。確かに多少は硬派な面もないではないが、ユーモアたっぷりだったし、思わず声を出して笑ってしまうような文章芸を持っている人なんてまれだったんだが…。
 売れないなんて本当だろうか。大抵の人は、高島俊男の本を持っていることは間違いないと思う。実際どこの書店でも気軽に目にするし、今までこの人のパクリでものを書いている人の文章も数多く目にしている。非常に影響力の強い人だと思う。「漢字と日本人」のようなベストセラーも出した人だし、むしろ売れている部類の作家だとばかり思っていた。僕にとっての超メジャー人は、巷間ではマイナーなのだろうか。
 他の週刊文春の連載を持っている人と比べても、椎名誠とか猪瀬直樹などは(人気作家として)別格としても、高島俊男だって、その次ぐらいにはくるんじゃないか。ひょっとすると林真理子とか小林信彦もキャリアがあるので売れることもあるかもしれないが、土屋賢二や室井滋より売れないなんてことはあるのか。彼らはプロではないだろうし、面白くもない。
 まあ、好みもあろうし、他の人にケチをつけても仕方がない。ただ残念な気持ちのもっていきようがなかっただけである。
 高島俊男はある意味で高圧的だし、偉そうな学者気質であったというのは、確かに感じられることなのかもしれない。しかしながらよくその文章を読んでみると、そうした調子そのものも、彼なりのユーモアではなかったかと思う。むしろ、小さなことでも学問的な不誠実については厳しく、世の中の誤解や、偏見に立ち向かっていたのだと思う。時々脱線して話が長くなってしまうのも、世の中の誤解を解くために、噛み砕いて背景まで説明しなくてはならなかったからではないだろうか。
 爺臭い感覚のわりには実際の年齢は若く(1937年だから、まだ69歳である)、世間を知らないのは、すれていないからであろう。未婚のようだし、謎も多いが、このような人が読者という接点を失う損失は、意外なほど大きなものなのではないだろうか。まだ死んでもいない人でこれだけ惜しまれるのだから、如何に彼が偉大だったか推し量ることができよう。もちろんこういう思いは、少なくないと思うから言っているのである。週刊文春は現在の姿勢を撤回し、再度高島俊男に連載を頼むべきである。彼が本当に体調不良で書けなくなるまで、多くの人々の楽しみを奪うべきではないのである。

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