カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

一人が体験できるもしもの恋愛劇   ミスター・ノーバディ

2015-12-25 | 映画

ミスター・ノーバディ/ジャコ・ヴァン・ドルマル監督

 簡単に言ってしまうとSF映画なんだが、しかしちょっと簡単な映画ではない。主人公の一人を中心とした物語だが、いくつもの話が複雑に断片的に語られ、しかも同時代である時と過去と未来が錯綜し、宇宙にも出てしまう。その説明もちゃんとされるわけではないし、事実かどうかもはっきりしない。夢に出てくるだけの話かもしれないし、徐々に明かされるように主人公のニモが書いたお話かもしれないし、願望なのかもしれない。基本的にある出来事を中心に何の選択をしたかということで人生が分かれるわけだが、その別れた人生が同時進行した場合には、このようなことになったということなんだろうと思う。そうして時間というのは我々の人生では一方方向でしか進まないが、ひょっとすると逆行する時間の存在もあるのかもしれない。それは物理的な理論だけの話ではなく、ありうることなのではないのか。
 そういう考えを映像化したらこうなったということかもしれない。ピカソの絵だって、平面に内面の顔を同時にあらわしたりするような無理をしたりしてちょっと変だけど、人物の顔であるくらいは分かる。さらにそれがちゃんと絵画として面白いということも、恐らく多くの人には理解されているのだろう。だから映画であってもこれくらい変だって、ちゃんと理解してくれる人もいるのかもしれない。
 しかしながらそれぞれのエピソードは基本的に恋愛劇で、親のものがあるにせよ、主人公が体験する愛の物語だ。ハッピーなものもあるし、しかしながら悲恋も多い。破局と死の恐怖と病がある。舞い上がり地に落ちる。一つ一つは夢から覚めるように突然断片として切れてしまうが、後からあとから、恐らくその後のエピソードも明らかになっていく。時には先に語られている断片もあって、過去が種明かしになる。最初から何もかもわかるわけではないし、後からの謎も生まれないではないが、混乱を楽しんでいるうちに、それなりにお話を会得していく感じである。それは映画をそれなりに楽しめていることでもあり、実際に、これはなかなか面白いじゃないかとも思う訳だ。特に僕らは日本人だから、漫画世界などでこれくらいのパラレルには耐性がある。無茶に難解すぎるわけでもないけれど、全部の謎がきれいになるわけではないにせよ、それはそれでまあいいかという作品である。いくつかのエピソードが気に入れば、それに勝手に肩入れすればいいだけの話で、嫌な部分はスパイスだと割り切ればいいとも思う。死の暗示にはちょっとしつこすぎる感じもするけれど、そういう恐怖感というのは、生きている間には避けられないものかもしれない。
 ともかく、これがそれなりに映画として成立するくらいにはよくできた作品である。後は多少の好みの問題もあろう。前衛的すぎるわけではなく、ちゃんと娯楽作としても成立しているところこそ、この映画の凄さかもしれない。そうしてSFだけれど基本的に恋愛映画というところも、かなりヨーロッパ的である。いや、少女マンガ的なのかもしれない。あんまり深く考える必要もないので、楽しんで混乱していただきたいものである。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歌の上手い基準 | トップ | 動機は能年玲奈目当てだった... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。