声優夫婦の甘くない生活/エフゲニー・ルーマン監督
崩壊前のソ連から、ユダヤ人ということでイスラエルに移住した夫婦がいる。高齢に差し掛かり、第二の人生を始めるという感じだろうか。ソ連では検閲済みの西側の映画の吹き替えを担当した有名な声優だったこともあり、引き続きそういう仕事をしようと考えていた。ところが自分たちの考える声優の需要は無く、あてがわれる仕事も酷く大変な割に賃金が低かったりした。そういうなか妻は、60を過ぎた年齢ながら声優の経験を生かして、テレホン・セックスの仕事で才能を発揮して、お金を稼ぐことに成功していくのだったが……。
一般のソ連人よりも、声優の仕事を通して西側映画に精通し、さらにその芸術性も理解していた男には、そのプライドの所為もあって、十分に自分の才能を発揮できないもどかしさがある。しかし西側作品の表の流通については、イスラエルであっても十分ではないこともわかる。特にソ連からの移住者などスラブ系の人間には、ヘブライ語などに吹き替えられた映画だと十分に理解できない。映画の映像を泥棒して吹き替えたレンタルビデオ屋が、繁盛したりしているのである。そういう中、妻は香水の販売だと偽って仕事をしていたのだが、ついに夫がテレホン・セックスに電話したことで、仕事の内容がバレてしまうのだった……。
フェリーニの映画のオマージュがあったりするので、おそらくだがそのように古くて芸術性の高かった映画のことなども、映画的にはちりばめてある様子だった。小さなコント的な逸話が続いて、可笑しみがありながら悲しい、というような表現がなされている。ソ連時代も十分な流通経済の中にいたわけでは無いが、イスラエルとて、なにか不十分なチープさのある社会であることが示されている。新天地に期待するほどの奇跡は、なかなかに起こりそうにないのである。そうして妻は偽りのセックスの相手をしながら、偽装的な愛の対象となることで、妙な自信のようなものを取り戻していく様子もある。それがまた、映画的には悲しい物語も生んでいくのであるが。
北欧映画のような暗い感じもあり、その時代のイスラエルという、あまりなじみの無い文化圏の風俗もある。ユダヤ人と言っても、地域性の為か、非常に多様である。なんとか言葉を覚えて、生活圏で暮らしていこうとしているものの、彼らはもう若くはない。いまさら後戻りもできないし、それでも生きていかなくてはならない、ということなのである。そういうことが、ある意味で示唆的であって、彼らの持っている将来の見通しのようなものであるのかもしれない。今はドンパチやっているが、そういう顔とはまた違ったイスラエルの姿なのではなかろうか。