カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

妻へのわかりえない愛   K

2024-02-02 | 読書

K/三木卓著(講談社)

 亡くなった奥さんとの出会いから、その夫婦生活から闘病の最後までを綴った小説。これまたなんで僕が持っているのかよく分からないのだが、だいぶ前に買っていて、ちょっとは読んで放り出していたものだと思う。その時は気分に合わなかったのかもしれないが、今度はちょっとのつもりで読んで止まらなくなった。素直に面白いのは、なんと言ってもこの詩人でもあった奥さんの訳の分からなさである。著者は足に麻痺があって不自由なようだが、若い頃にはそういう負い目のようなものがあって、ちょっと女性と付き合うのに躊躇があったようだ。それでも今でいう合コンのような感じになったときに、勇気を奮って地味目だと感じた彼女に声を掛け、それが成功して、付き合うようになったばかりか、そのまま彼女は洗面器をもってやって来て、同棲を始めて、その勢いで親には報告だけ出して結婚してしまうのだ(もちろん、仲間内でも結婚式なんてしない)。しかしながら極貧とまではいかないかもしれないが、ふつうに共働きしないとやっていけない貧乏暮らしで、しかし彼女は気に食わないと仕事を辞めてしまうし、給与を袋ごとやれば、親切だと思って全部使ってしまう。いわば意思疎通が簡単ではない人のようで、ちゃんと何かを伝えないとこちらの考えはまるで分らないようだし、彼女はそもそも何を考えているのかよく分からないのだ。
 そういう顛末を、作家である僕の視点であれこれ語られていく。最初は編集者をやっていたのだが、なかなか食えない上に、出版社が倒産したりなどあって、転々としながらも、結局作家としてやっていこうとする。そういう中で娘が生まれるが(これも大変で、この人の有名な小説のエピソードにもなり、映画化もされるのだが)、今度は妻は娘にかまってばかりになり、なんだか夫が邪魔になったようで、作家として集中して仕事をすることも相まって、別居生活が後半の長きにわたるようになる。それでも夫婦は夫婦であって、あれこれ何を考えているのかお互いにあまり分かり合えないまま、別居をしながらも連絡は時々とったりしてあれこれ考えて、つきあいはつづく。さすがにこれが長くなってどうなんだろうとも思うのだが、しかし離婚してもいいかもとは思うものの、そのままでいたら妻が病気になって……、という具合になる。ドラマチックな物語では無いのかもしれないが、まあ、いろいろある訳で、この夫君は、妻の考えのあれこれをたぶんいろいろ理解はしているものの、その時々は結局よく分かっていないのだ。こういう夫婦もあるんだなあ、とも思うが、しかし実際男女というのは、これくらい訳の分からなさがあるものかもしれないとも思うのだった。
 これを読んだ後に、なんとなくほかのネットの感想を読んだりもしたのだが、多くのものはなんだか意外で、妻のことを理解しない夫、というような形骸的な感想を持つ人もいるようだった。いったい彼(彼女)らは何を読んだのだろう。この作品は、妻への愛の物語であって、その思いをかなり正直に告白した、男の恥ずかしい部分も含めた物語なのであるはずなのだ。わからない生物である女性というものに向き合い苦悩しながら、しかし抗いがたく生きていく男の物語なのである。つまりそれは、他の多くの男たちと同じような……。
 だから面白い、のでもあるし、貴重なのでもある。こういうことを書ける作家というのは、あんがい少なくて、みな自分の都合で装飾して、いわば美化して、小説を書くはずである。三木卓という作家は、彼を信じるならばであるのかもしれないが、かなり客観的に自分を分析し、さらにできるだけ素直に、この物語を紡いだのではなかろうか。なんだかわからないまま、しかしこれを読んで感動しないほうがおかしいとさえ感じる。そう思わなくても結構なのだが、こういうストレートな夫婦愛があるのだという事を、読んでみるのも有意義なのではなかろうか。
コメント
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