守護教師/イム・ジンスン監督
主演のマ・ドンソクを観るための映画。とある地方のまちの女子高に体育教師(実際は授業料未収金回収係)として就職した男は、未収金回収の困難な行方不明になっている生徒がいることを知る。地元には後輩の警察官もいるが、捜索願さえちゃんと受理されていない様子だ。そのうち未収金があるのに逆に反抗的な女子高生が、誘拐されそうになる事件に遭遇する。町ではちょうど選挙が行われていて、なにか地元のヤクザも交えた権力闘争のさなかに、この町がどよめいている感じになっているのだったが……。
韓国映画の面白さがよく出ている。マ・ドンソクが困った顔をするだけで面白く、いつ爆発するのかずっと待ちながら映画を観ている感じだった。お話がよく出来ているというより、そういう期待に応えるべく、だんだんじらされている感じが、マゾっぽくていいのかもしれない。悪い奴はちゃんと悪いし、しかしながら考えてみると、あんまり善人もいないのだった。恋愛などはきっぱりと排除されていて、そういうところもいいのではないか。でもまあ、こういう悪の構造が成り立つというのは、日本では一昔前の事だったろうし、今後も韓国でないと作られないものかもしれない。それでいいのだが、ちょっとノスタルジックなところがある、ということになるかもしれない。ということは、昔の日本映画にはあったという事であり、それがそのまま韓国映画の魅力になってもいるということを、僕ら世代は感じているのだろう。
韓国語の原題の意味は「町内の人々」という事らしい。実際にこの映画を観終わってみると、確かにこの町が狂っているということだったのだろう。その狂いを生んでいるものが、強力な権力構造と癒着である。政治も酷いし、それに伴って警察がひどいし、学校もだめだし、まちの人々も、ということなのだ。よそから来たマッチョの体育教師一人だけまともで、困っている代表の女子高生がそれを、結果的に導く構造なのである。守護教師というのは、かなり間違った解釈だと言えるだろう。しかしまあ、「町内の人々」では、日本では興行的につかみが弱い、ということなのだろうし、そういうニュアンスは、実際韓国全体の事ではなく、この一部の地域だけのことだよ、という意味もあるのかもしれない。そういう考え方こそ、特殊なまちを形作っているということに、気づかない文化なのではなかろうか。