カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

やはり近くて遠くもある国   ほえる犬は噛まない

2013-04-25 | 映画
やはり近くて遠くもある国
ほえる犬は噛まない/ボン・ジュノ監督

 まず韓国の食文化の背景がある。もちろん韓国に限らず広く犬は人間から食されてきたことは間違いあるまいが、近年の話である。つまり、日本で犬が失踪するということになると、食われている可能性はそんなに高くなさそうだ。しかしこの映画ではそのような需要が背景にあるから、犬たちは失踪すると極めて危ないということになってしまうのかもしれない。
 団地で犬を飼えないというのは、ある程度共通はあるかもしれない。管理上のことかもしれないし、めんどくさいからかもしれない。子供の頃友人が団地だから犬が飼えないといって遊びに来ることがあった。よその犬で楽しいのかどうはよく分からなかったが…。
 ストレスもあるのだろうが、ほえる犬を規則を無視して飼っている状況が許せない、という原因がある。しかし注意するのではなく、いきなり殺そうとするところが極めてよく分からないところだった。それはたぶん僕の犬に対する向かい方と偏見のせいだろう。そのためにかなりショッキングなホラー色の強い印象を持った。見終わった後にも、まさしくその感情が後を引いた。このまま幕が引かれることに嫌悪があるというか…。
 それは、ある意味で狙い通りなのだろうし、まんまと乗せられているのかもしれない。犬に翻弄される人間の方が、ある意味では哀れで悲しい。そのために死んだ犬も悲しいが…。
 社会的な正義感というものも背景にある。それは自分の置かれている境遇からの唯一の抜け口であるかのようだ。自分の危険も顧みず、そのような行動を起こせるということが、自分自身の価値を高めるということだろうか。今はくすぶっているが、社会的にはそのことで認められることになるだろう。犬を殺す犯人を突き止めることで、自分は社会的なヒロインになれるかもしれないのだ。
 人間の認められたい欲求というのは、若い頃には特に強いものがあるのかもしれない。大人にはなったものの、若いというのは社会的にまだ何者であるかというのが確定してはいない。そういう焦燥感と、身近に起こっている邪悪な悪との対比が、自分を駆り立てていくということだろう。
 僕にとってはホラーだったが、たぶん展開はコメディだ。そうしてやはり韓国社会への風刺にもなっているし、若い人間の本質的な悲しさも同時に共感をもって認められることだろう。後のヒットメーカーとなる監督の裁量も十分に理解できる作品である。
 ちなみに原題は「フランダースの犬」なんだそうだ。そういう意味では、韓国文化は日本の影響も大きいということなんだろう。日本人にとっては、そういう近似と差異のコントラストに、ある種の感慨を深めることにもなるのであろう。
コメント
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