カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

日本文化論のインチキ

2010-06-09 | 読書
日本文化論のインチキ/小谷野敦著(幻冬社新書)

 日本人論というのはつい使いたくなる方便なのだが、たいていの場合怪しいというのは知ってはいた。一般的に流布していてある程度国民的に同意しているものであっても、実は勘違いというものは実際に多い。学術的な立場の人は、ある意味で馬鹿らしいので放置しているということもあるのだろうけど、しかしその学術的な立場の人であっても、つい一般的なエッセイなどでは普通にトンデモ内容を披露したりするので性質が悪い。ジャーナリストはその方が面白いので飛びつくのだろうが、当然訂正などしない。放置し放題で日本人論が独り歩きしてしまうのだ。
 今だにフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ・ゲイシャ、などと言われると、流石の日本人であってもその馬鹿さ加減に呆れるものだろうけど、やっぱり多くの外国人(これもほとんど米国人というローカルな人たちを限定してよさそうだが)は当然この程度の認識で日本人を語ることに躊躇しない。まあ、外国人が日本のことをその程度の認識であってもたいしてどうでもいいとは言えるが、しかし、日本人だって実はその程度しか日本人を知らないとしたら、さてどうしたものだろうか。自分のことを知らないはずないじゃん、と思うかもしれないが、実際にはかなり怪しいものだと思うことも多いのである。
 有名なのは「菊と刀」の恥の文化というやつかもしれない。別に日本人じゃなくても恥は感じる訳で、これは最初から無理があるのに何故か一般的にも受け入れられた。害の大きな法螺だったようだ。このような文化論を立てることができるということも日本人には面白がられたようで、似たような論が生み出されるきっかけにもなったような気がする。「甘え」だとか「勤勉」だとか、民族によって決定づけられるには無理のある話がごまんと生まれた。まあ、そんな文化論の好きな民族だということは言えそうな勢いなのかもしれないが…。
 そういうものをメッタ切りにする小谷野節は相変わらず口も悪くて面白いのだが、だからと言ってそう簡単にはこのような誤解が解けるようになるとも言えないような気がして、また、以前からなんとなく騙されやすかった自分も鑑みたりして、複雑な気分にはなるのだった。まあ、目からうろこの落ちる人も多いだろうから、大いにお勧めではあるけれど。
 しかしながら日本人としてそのようなステレオタイプに特徴を語ったり共感したり悲観したりすることが楽しいというのは、共通してある欲求なのかもしれないとは思う。日本人は島国なのでという前置きがあると、皆強く「そうだ」と思って共感するし、自己主張が苦手で日本語は特に難しい言語だと信じ、外国語(英語だけしか意識してないが)が苦手で手先が器用で真面目だと思っている。農耕民族で腸が多民族より長く近眼で短足という身体的特徴であっても同意したりする。そうでない人たちであっても平均的にそうだという実感があるものらしい。これらはよく考えるとかなり乱暴だし、日本人の特徴だというにはデータの比較がちゃんと取られているようなものではないにもかかわらず、印象的に同意してしまうような魅力があるのかもしれない。
 もちろん日本人論でなくてもアメリカ人はどうだとかインド人がどうだというようなジョーク的な文化論はかなり国際的にも同意の出来るものは多いようだ。国としての民族的な特徴があらわれるものがあるのは、必ずしも間違いではないようだ。学術的には誤りであるとしてもそのようにして語りえる文化論が面白いのは確かであって、出来ることなら実際に実証できるような文化論が現れるとさらに面白いことになるんじゃなかろうかと思う。もちろんだからと言って単純な誤りの横行を許すわけにはいかないのだけれど、時にはちゃんとこの本のように検証して再度ブラッシュアップしていくことで、僕らの気付かない面白い日本人論というものが登場してくるのかもしれない。
 また、実際に一般的には知られていないにもかかわらずしっかりした比較文化というものはそれなりに存在することだろう。今度はそのような啓蒙書を体系的に表すような本が出てくることを期待したい気分である。
コメント
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