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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

手相とあなたの転換期がキーワード

2023-10-22 | HORROR

 僕の若いころから問題になっていて(しかしオウム問題でかき消された経緯があるが)、さらにこれだけ社会的な敵になりながら、一定の信者がいて、さらに山上の母親のような頭のおかしい熱心な信者がいまだに頑張っているようなことが、なぜ起こるのか? 理解するにも苦労するのだが、いったいこれはどうしてなのだろうか。
 実は勧誘方法というのは明らかにされていて、最初は手相などを見るのだという。素晴らしい手相をしているのに、それを妨げているものがある、というような語りがあるのだという。言われた方は、その内容を自分なりに考えることになる。悩みなどがあると、勝手にそれを解釈して当てはめることになりそうだ。そうしてキーワードとして「今あなたは転換期にある」と言われるのである。まさにそれらの思い当たる問題点や、悩みのようなものの解決に向けて、導かれる思いがするのかもしれない。この時点では宗教の勧誘であるなどということはみじんも匂わせない。
 そうやって誘われて有料のセミナーなどに参加させられる。5万円とか法外の値段にもかかわらず参加したりするのだという。そこで宗教だということは知らされるというか、わかるようにはなるのだそうだが、要するに家族の不幸や、何か問題点などを鑑みて、自分が変わらなければ、とか、自分が何とかしなければならないような責任感のようなものに、駆られることになる。それに付け込んで宗教的な勧誘が推し進められていく。教団のグッズを売るなどお手伝いなどをするようになったりして、さらに活動自体にのめり込んでいって、いつの間にか自分自身で物事を考えるよりも、教団の教え通りに考えるような思考に陥っていくのだという。
 このような勧誘は、考えてみると他の営業などにも使えそうな感じもするのだが、なかなかに巧妙で、したたかである。この方法を暴露したNHKの番組は、教団から激しく抗議を受けたことからも分かるが、教団の詐欺性のようなものを自ら認めているからこそ、そのような反応をしているのだろう。もっともほかのメディアなどに対しての威嚇もあるのだろうけど。信者がいなければ成り立たない詐欺軍団なので(もはや宗教でさえないだろう)、このやり方の暴露は死活問題ということであるようだ。もっともそれを知った人が、手相を信じなくなるわけではなさそうなので、これからも使える手口でありつづけるだろうけれど。
 要するに、統一教会のような団体の手口を知ったとしても、ほんの一部の人たちにしか、騙されない有効性は保てないのではないかということを思うのである。こんな連中に騙されるはずがないと考えている多くの人は、やっぱりこのようなやり方に誘導されて騙されていく人を含んでいるはずなのだ。ほとんどの場合教団の接触が無かっただけのことで、危険から免れている人がほとんどであろうし、それくらいの少数の人を騙すだけでも、教団が成り立つくらいの資金集めが可能だということも言えるかもしれない。そうしてこれだけのことが起こった後でも、騙されている信者は目覚める事さえ妨げられている。誰かのために行動をしてしまった人というのは、それだけ強力に抜け出せなくなる人間性というものが、どうもあるらしいと考える方がよさそうだ。そこに付け込んでいるのが彼らの勧誘の行きついた方法だ、ということなのであろう。
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薬は余っていく

2023-10-11 | HORROR

 病院には通っているので、薬はもらっている。いちおう朝昼晩に飲む薬がある。朝が一番多くて一通りは朝に飲む。昼は一錠だけでたぶんいい。夜には二錠。寝る前には、場合によって。
 もうそんな風にして薬を飲みつけて、何年になるんだろう。数えてないが、何年にもなる。複数病院にはかかっているので、飲む薬が減ることは無かろうと思う。なおるようなしょぼい病気にはかかっていない。というか、お付き合いして様子を見るようなことが今後続いて、おかしくなったらまた考えましょう、ということなんだろう。
 そういう具合で、薬を飲むのは習慣化していて、コツコツまじめに、主に食後には薬を飲んでいる。夜だったら酒を飲んでいるので、食中に飲んでいる感じにはなるが、まあ、カバンにも入っているし、ほぼ問題なく飲んでいるはずなのである。
 ところがストックする薬はどんどん増えていく、まだ飲みきっていないのに、次の診断日が来る。診断をすると、その後薬を処方してもらって帰る。家には薬を入れるボックスを作ってもらっているけど、そこのは薬袋の列がずらっと並んでいる。なくなればそれらの袋は捨てられるのだが、中身が入っているので捨てられないのである。
 なんだかだいぶたまったなあ、とは思っていたが、飲んではいるんだから別段後ろめたいことは無い、と思っていた。今日診断に行って先生と雑談していて、ところで薬は余ってないか、と聞かれた。いや、けっこうあまってますね、というと、それだったら薬を減らすよ、と言われる。適当に今回は半分くらいにしとこうか、ということで落ち着いた。できればちゃんと数えておくと、その通り処方するから、ということだった。薬を飲んでないからという理由で怒られるのは嫌だったが、実際はそういう事ではなく、長く通っている患者の薬は、余る傾向の方が強いという。どれだけまじめに飲んでいる人であっても、長期になれば時にはそういう事が積み重なって、当たり前なのである。余っているからまとめて飲むのもいけないし、飲み忘れたら次に指示通りまた呑み始めたらいいのである。
 まんいち目の前に薬が見当たらなくても慌てなくていい、とも言われた。まあ、処方してなんだけれど、飲まなければ飲まなくてもたいしたことないよ、薬なんて。ということなのであった。ちょっと複雑な気もしないでは無いが、そうであるから僕は飲み続けられるのかもしれないな、と思ったことでした。
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後ろに何もないのは困る

2023-10-06 | HORROR

 僕は目をつむるのが怖い。暗闇が怖いのと、ある意味では似ているのかもしれない。目をつぶっていても、寝ているときは怖くはない。おそらく布団に寝ているからである。毛布などをかぶっているのも身を守っている感じだし、背中に布団が当たっているのも安心させられる。背中にスペースが無いと、安心できるのではなかろうか。
 動物なども、狭い隙間などに身を寄せて休んだりする習性のあるものがある。狩られる存在としての安全の確保は、狭い空間とも関係があるだろう。隠れているという感覚かもしれない。僕に狩られるものの習性の記憶がまだ残っているとしたら、そのような恐怖心が潜在的にあるという事にもなるかもしれない。
 実際に目をつぶっていて怖くなることがあるのは、シャンプーで髪を洗っていて目をつぶっているときもある。床屋に行って髪を洗ってもらう時にはみじんも恐怖感はないが、一人で髪を洗っていて、背中にスペースがあるらしいことを察していると、なんだかもう髪を洗っている場合ではないような気分になったりする。
 仏壇に線香をあげて目をつぶって祈っているときも、ふと恐ろしく感じたりする。背中にスペースが存在するのに、うかつに目をつぶってしまった。さらに一時は、その状態を保つべきであろうことも知っている。そのほんの少しの時間が、どうにも長く感じられる。もう目をつぶっていたくないので、習慣として線香をあげることもしなくなった。もともと信心深くもないが、そのような怖い時間をわざわざ作ることもあるまい。
 結局ひどく臆病なだけなのは分かっている。しかし夜に散歩してて墓場などを歩いていても、特に怖いとは感じない。それは目を開けているからである。僕が怖いと思っているのは、あくまで場所ではなく、目をつぶっている状態で背中のスペースが開いているかどうかなのである。そういうことがこれからの将来も、できるだけ少なく生きられるように、願っているのである。
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そこにある戦争のリアル

2023-09-04 | HORROR

 毎年のことなのだが、8月の盆の周辺の時期は、日本国内のみでの認識である終戦という時期もあって、戦争に関する議論が、メディアを通じてしきりに流されていた。そういう意味ではおなじみというものではあるのだが、近年はそのリアルさにおいて、議論の質のようなものが、なんとなく変貌しているような印象を受ける。それは他でもなくウクライナ問題が第一の大きさをもって迫ってくるわけで、これまでも中東での戦闘は繰り返し行われていたにもかかわらず、それは内戦的な極地のものであるような感じ方を日本ではしていただろうこともあって、地理的には遠くのことではあっても、西側もこぞってこの戦争に加担している事実をもって、報道のリアルさがまったく別次元で感じられるものであるのだろう。さらに北朝鮮は、以前はほとんどお笑いに過ぎなかったが、いまだに挑発に衰えが見えず(それだけ北は、感じ取っているリアルさが一段と違うという証左である)、技術的にも格段の進歩がみられる。孤立している国家にあって、電子マネーをだまし取る技術が向上し、国際的な資金を、違法で確保できているという。何十億円ものを金をだまし取っても、国家内で匿っているために、犯人が捕まることが無い。まったく現代において、このような厄介なことが可能になっている漫画性があって、逆にその為のリアルが、歴然と近くに存在し続けられているのである。
 日本が積極的に関与していないと言い切れない問題もある。日本の立場として、どこかにつかなければ許さない国家もいるからである。それは当然同盟国関係ということになり、事実上属国のような立場でもあるので、地政学的に極めて厄介な問題を抱え込まざるを得ない状況である。そうして大国間というのは、きわめて好戦的な態度をとるのである。ほとんど政治ゲームなのだが、彼らのリアルというのは、要するに相手に対して優位性がありさえすればいいのであって、その周辺に対してもイニシアティブを取れればいいのである。困ったことだが、こういう状況下の方が、彼らはあいまいな態度を許さない絶好の機会だとも言えて、陣取りゲームに精を出すことになってしまうのである。きわめて危険な行為でありながら、途中で降りることはできないのだ。
 そういうなかだからこそ、それでは戦争というものが身近に感じられる若者を増やすことになる。何しろ戦闘におもむく役割は、必ず若者からであることが明確だからである。誰もそんなことは言ってないが、しかし若者は感じ取っているはずなのだ。僕が子供のころには冷戦下だったから、いつかは核戦争が起こると、それで人生は終わるというリアル感があった。それと同じようなことが、今起こっているという事であって、さらにその緊張が増している可能性もある。今の状態を考えると、解決策はほぼ和平しかありえないはずなのにもかかわらず、それの努力については、多くが払われていないようにも見える。いや、その布石はところどころに打たれているのだが、有効に見えないのである。そうしてずるずる長期化する材料ばかり増える。
 そういう事への影響は、やはりじわじわと顕在化していくことになると思う。そのような不信の襞のようなものが、少しずつ重なりをなしていくのではないか。その先にあるのは、やはり暴力のようなものであって、それをやるとまた泥沼が待っている。分かっていたはずなのにこのようなことが起こっている。馬鹿げているはずなのに、その馬鹿げたことこそが現実だ。そういうものに人間は極めて弱いというのが、歴史が語ってきたことではなかったか。今を生きている僕らにとっては、耐える強さをどのように獲得するのか、そういう事にかかっているかもしれない。
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目的を誤ると、誤解しか生まれない

2023-07-22 | HORROR

 安倍元首相が殺されて一年ということで、改めてこの事件を取り上げる特集が多かった。日本はテロによって大きく世論が動く国だと思うが、このことで何かが大きく変わったかはよく分からない。それほど不可解というか、テロという殺人が成功したにもかかわらず、その意味はほとんど無かったということが明らかになり、人々は単に分からないことに戸惑い続けた一年になってしまった。結局悪の権化である統一教会の問題が一番取り上げられることになり、そういう意味では山上という人間の思う通りに世の中は動いてくれたわけで、本人の意思はストレートに社会に伝わった可能性は高い。もっとも本当に火種だった山上の母には何の影響も無かったので(むしろさらに祈りを深めているともいうし)、狂った人には何をしても一緒なのだ、ということに過ぎなかったのかもしれない。それがこの事件の一番の徒労を感じさせられるところである。
 しかし犯人の山上に対しては、少なからぬ人が共感を持っていたことも明らかになった。山上はモンスターである母親から、宗教という背景をもって苦しめられ、自分も崩壊してしまった訳だが、いわゆるそのような毒親に苦しめられている子供たちである人々が、やはりそれなりの数として存在し、山上の逆恨みや動機に対して共感してしまう、という現象が起きたようだ。山上の減刑を求める署名が集まったり、山上への差し入れや、現金まで送る人もたくさんいるという。それは単なる勘違いであるだけでなく、ほとんど意味さえないことなのだが、山上のような境遇にあるからこそ共感してしまうという感情を抑えられない人々が存在するということと、そういう人たちがこの機会を利用して声をあげるという行動に出たとも考えられる。家庭の問題はかなり個人に帰するところが日本にはありすぎる可能性もあって、そういう部分というのは、改めて考えるべき課題であるとは思われる。安倍さんは浮かばれないことだけれど、もしもそういう毒親の存在を許さない社会への契機となるのであれば、それはそれで進めてもらいたいとも思う。
 ただしこのような世論というのは、あくまでも勘違いに過ぎない。山上の苦しみと、自分の置かれている苦しみは、何の関係も無いからである。さらにそういう事に何かの共感や期待を寄せることは、関係ないことを契機にそうやっているということを考えると、非常に危険な考え方であることを知るべきである。山上が嫌っている宗教的な妄信のようなものと、ある意味で同じものがあるのも付け加えていくべきだ。要するにそのような動きは、関係ないものから勝手に自分たちで意味を作り出して形を作ろうとする人間の危ない癖のようなものである。こういうことは前に起きた秋葉原通り魔事件でも見られた社会現象だが、あの時も派遣社員の待遇などの問題と、メディアは何とか絡めて事を大きくしようとしていたが、犯人にはそんな意思などみじんも無かったことが明らかになった。基本的にはテロや殺人などの大元は、単にわがままや偏見や自分本位で勝手な妄想にすぎない。痛ましい事件に悲しむことはできても、それらに共感などして社会を脅かすことの方が罪深いのである。
 山上の自分本位の妄想のために、母親や宗教と何の関係も無かった政治家が殺され、ましてや家族や支援者など大勢の人々の幸福までも奪った。それこそが最大の問題なのであり、そのことから目をそらすことしかできない人間の多いことに、この国の最大の問題がある。山上は、ちゃんと母親を殺すか、韓国に行って教祖を殺すべきだったのである。もちろんそれは、犯罪というくくりの中では悪いことだが、ちゃんと正当にそういうことがやれたならば、皆は芯から共感したことだろう。少なくともそんなこともやろうとしない山上は、単なる大衆を拒否できない政治家という弱いものを、もてあそぶヤクザのようなものである。そんなこともできずに目標を誤った卑怯者だったというのが、一番の真相だろう。減刑などもってのほかで、どのような刑であれ、最大の負荷をもって処すべき愚かさに反省すべきであろう。少なくとも、家族には謝れよな、ノータリン。ってことだろう。
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差別から逃れる帰国事情の顛末

2023-06-11 | HORROR

 北朝鮮帰国事業というのが、戦後大規模に行われたことがある。戦後復興に喘ぐ日本にあって、共産主義国として国家指導で重工業などに力を入れて成長著しいと漏れ伝えられていたお隣の国は、日本の知識人からも「地上の楽園」と謳われ、日本の国内だけでは崇められるような風潮があったという。さらに日本国内には、50万ともいわれる在日朝鮮人が暮らしていた。彼らは何かと日本国内で差別を受けたとされ、十分な待遇を得にくいと考える人々も少なくなかった。そうしてこの帰国事業に乗じて、家族ともども北朝鮮に移住しようと考える人々で殺到した。なかには思想的な人もいたのだろうが、朝鮮人に限らず日本人妻などもともに同行し、延べ93000人にも達したという。
 当時共産主義国から逃れて亡命する人はあっても、西側諸国から共産主義国に逃れる人は皆無と言われた。このような日本の機運に北朝鮮側も戸惑いを覚えていたが、プロバガンダ政策として、同胞ソ連などから強い要請もあり、日本からの移住を受け入れる姿勢に転じていった。
 そうして双方の大いなる夢を乗せて北に向かった船がたどり着いた北の港で、すでに喜劇的な何かの悲劇が始まっていった。北は港をあげて大歓迎の踊りで出迎えたのだが、そもそも日本では虐げられてやって来る可哀そうな一団であるという認識であった。ところが船に乗っている人々は、明らかに小ぎれいな服を着て、ヘアスタイルは多様で、実に豊かそうな人々ばかりなのだ。
 一方船の人々も、港の情景を見て、なんだか異様なものを感じていた。港に舞う土埃の中迎えに来ている人々の顔は、皆黑く日焼けしているように見えた。これは何かの間違いなのではないか。ひょっとすると騙されたのではないか。
 そのようにして悲劇の引き上げ事業は十年近くにもわたって継続された。北に渡った人々は、持ってきていた貴重品や服などを売って糊口をしのぎ、尽きるとそのまま貧困化し、飢えに苦しんだ。多くのものは、再度亡命し韓国や中国、そして日本に帰ってきた。そのまま命尽きるものも少なくなかった。日本からやって来た人々は、皆わがままで言うことを聞かず、政治犯として捕まりやすく監視下にも置かれた。日本で受けてきた朝鮮人という差別から逃れてきたにもかかわらず、帰国人としての差別を受ける生活になったということだったのである。
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改めて戦後ドイツとは何だったのか

2023-05-12 | HORROR

 ドイツの敗戦後のドキュメンタリを見た。ドイツは連合軍に占拠されたのだが、一番最初にベルリンに入ったのは、ソ連軍だった。ベルリンには百四十万人の女性がいたが、そのうち少なくとも11万人以上がレイプされた。強姦した兵士はソ連軍が一番多かったが、アメリカ兵、英国兵、フランス兵の順で、まんべんなく兵隊たちは強姦を繰り返したとされる。そのために終戦の翌年、混血の子供たちがたくさん生まれることになった(すべて記録が残っている)。
 街は飢餓におそわれ、あらゆる店では略奪が行われ、馬の死骸などに人々が群がり肉を漁った。それでも飢えをしのげる配給など十分でなく(なおかつ不定期だった)、移動の自由も制限され、人々は収容所の中で暮らすようなものだった。元ナチスだった人は皆無となり、戦時中はナチからユダヤ人を救済する手立てをした、とされる嘆願書を書く人であふれた。なかには出生を偽り、ユダヤ人に成りすますドイツ人もたくさん現れた。ユダヤ人は優先的に連合国軍により保護され、十分な配給が得られ、ユダヤ教の教会も再開した。その頃のドイツのユダヤ人は、ドイツの平均の7倍の出生率で、ベビーブームが起こっていた。
 英国などに捕らえられた捕虜の運命も、ひどいものだった。宿舎などは無く、地べたに一人ひとり穴を掘り、その中で寝た。雨が降ると水が溜まり、劣悪な環境下に病人が続出し、8,000人から4万ともいわれる兵士が病死したと言われている。
 近隣諸国で敗戦を迎えたドイツ人の運命も悲惨だった。絶え間ない暴力とリンチにさらされ、憎悪の標的となった。集団虐殺も公然と行われ、多くのドイツ人は銃殺された。殺された死体は、さらにドラックでひきつぶされた。
 ドイツ国内には多くの孤児が残された。幼い子供の中には、親の名前はもちろん、自分の名前さえ分からないものも多かった。また多くの混血児も混ざっていた。ドイツには戦後40万人の混血児が生まれたと言われる。混血児は差別の対象とされ、まともな境遇を得られにくかった。
 ナチスの犯した罪は、許しがたい蛮行だったことは間違い無かろう。しかし戦後ドイツが受けた仕打ちは、そのために許されていいものだったのだろうか。国土はその後も分割統治され、東ドイツは長く共産主義国として不自由と貧困に苦しめられた。また戦前の国土の三分の一は、ドイツとしては戻ってこなかった。
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正しいことの反対側がある(冤罪)

2023-05-08 | HORROR

 ドラマ「エルピス」を見ていたく感動したわけだが、しかしながら同時に、司法を含めた構造社会の恐ろしさというのも考えざるを得ない。まず冤罪事件というものがある。冤罪はあってはならないもので、そもそもが間違いなので正す必要がある。しかしそれが限りなくむつかしい問題なのである。何故かというと、犯人は正しく捜査された前提の上に、正しく裁判が行われ、下された罪を背負っているからである。そうした社会の正しさの積み重ねの上になされた決定を覆すのは、間違いをただしたからと言って覆せないものがあるのである。単純に言うと、そういうことだ。
 さらに冤罪でとらえられた人は、その時点で社会的な最底辺の弱者に陥る。社会的な信用は失墜するし、仕事を奪われ収入を失う。そのような人をまともに弁護する弁護士はいない(にも等しい)。何故ならまともな報酬を得られない仕事をする人なんて、まともな人ではいないからだ。だからそもそも勝てる道がほとんどなくなるのである。
 また、日本には死刑制度も残っている。死刑とは文化的な許容であるともいえるが、日本社会においては、これなくして国民全体を守られていないともいえる。詳しく述べるのがめんどくさいので止めるが、つまり現時点では多数の肯定をもって死刑制度は支持されている。冤罪というのは、それを覆す力がある。死刑囚の中に冤罪の人が含まれている状態で、執行されていいはずがないからである。それは誰が考えても許されない。だから、基本的に日本には冤罪は無いのである。
 結果が実態を曲げてしまっているわけだが、要するにそれだけではない事情がスパゲティ状に複雑に組織には絡んでいる。間違いではないかと考えている人間が、必ずその組織の中にもいるはずなのだが、その人間が間違いをただすようなことをすると、猛烈な反撃を喰らうことになる。ヤクザが残酷に裏切り者を拷問の上で殺すのは、裏切るとお前もそうなるという組織のための儀式である。日本社会はヤクザでは無いが、組織が結束を持つという手法において合理的な行動を取るのであれば、拷問はしないまでもそれに似たことを組織の人間はやるのである。日本社会にある程度の規律やほころびが少ない理由の多くに、このような社会を固持するエネルギーが働いている可能性が強い。その中での自らの過ちというのは、糺されるのが難しくなるということになる。
 それでは、あきらめるよりないのか。いや、そうであってはならない。葛藤はあるが、やはりいくら困難でも、正そうとする人がいなくてはならない。そういうものが、実際は社会自体を守ることにもつながるはずである。諦めることは、正義の反対のことなのである。
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人間の方が怖い?

2023-04-28 | HORROR

 僕の母の口癖のようなものに、「幽霊やお化けのようなものは怖くない。生きている人間の方が怖い(大意)」というようなものがある。彼女にとっては、亡くなってしまったが、会いたい思いが強くお墓に行ってその人が出てくるのを待っていたことがある、という過去の美談の前置きとして語られるいいまわしなのだが、そんなことを実際にしたのかはともかく、しかし、確かに幽霊そのものより生きている人間の方が怖いというのは、それはそれでそうかもしれない、とは思う訳だ。
 僕はホラー映画は苦手で、それは他ならぬ怖がりだからで、わざわざ怖いのに見たくない。しかし時にはサスペンスとか興味本位で観てしまう場合もある訳で、そういう意味では娯楽であることは分かる。怖いけど、スリルは面白い経験である。
 問題は人間の怖さである。確かに僕らはまだ生きていて、実際に暗がりが怖いようなものとは別に、生身の人間として付き合っている人々がいて、そうして時には、その中の人が怖かったりするのである。それは時々目にすることなのだが、いわゆる恨みであるとか、妬みのようなものを垣間見るときに多い気がする。そういう感情は、残念ながら誰にでもあることだろうと思うのだが、普段は隠している。だから日頃の生活で頻繁に目にすることは無いのだが、時にこぼれ出るように目にすることがあるわけだ。そういうことがあると、嫌な感じとともに、ジワリと人間の持っている恐ろしさを思うのである。
 誰にでもある感情だと書いたが、実際のところ自分のことを鑑みても、あいつはいいよなあ、とかあいつは気に食わないな、というのは、ほとんど一時的な感情のようにも思う。それこそ若い頃には、気に食わない奴としばらく付き合わなければならないような状態というのはあったかもしれないが、すでに過去のことである。大人になると、いつまでも気に食わないというのは、ほとんどなくなる。というか、付き合わなければいいだけなので、あくまで表面的にやり過ごせばいいだけのことだ。相手だってそんなもんだろう。
 しかしながら、ライバル関係のようなものがあるようで、時にいつまでも続いてやっている人がある。傍目に面白がる人もいるようだが、そういうのはやめた方がいい。彼らは本気であって、火に油を注ぐようなことにもなりかねない。できれば近づかないことである。
 実はそういう関係なのかもしれないが、長年にわたってある人から嫌われている人を知っているのだが、近年少し体調がすぐれない様子なのである。周りの人もそのことを気遣っていて、それでも何とか気丈にしておられる。ところが実際はいろいろと都合の悪いところがあって、ふらふらしたり、ちょっとした失敗をしたりすることが増えている。それで、もうあんまり無理をしないようにという話になるのだが、ふと振り返ると、恨んでいるらしい人がその様子を見て、微笑んでいるのである。僕がみるとさっと無表情になるのだが、その前は明らかに笑っていた。うーん、と思うが、やはりそういうことなのだろうな。人間にはそういう楽しみがあるということなのだろうか。
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またしても橈骨神経麻痺に

2022-12-01 | HORROR

 目が覚めてすぐに異常には気づいた。左腕が重たくなっていて、特に掌の外側ガビリビリと麻痺している。指先の麻痺がより強い。そうしてわずかだがむくんでもいる。左足は動くので半身麻痺ではなさそうだ。手は持ち上がるし、手のひらも上にあげられる。とりあえず動かせるのでホッとするが、いわゆる橈骨神経麻痺というものだろう。なぜそう思うかというと、すでに何度も経験があるからだ。一度は心配だからということでいろいろ病院で検査も受けたことがある。専門の先生に紹介されて再検査もされた。もちろんその時と全く同じなのかどうかは自信が無いのだが、だいたいにおいて同じだろう。もっともその時は、橈骨神経麻痺なのかどうかさえも(それがなんという麻痺なのかということも)、結局分からないとは言われたが……。それにその日は土曜日で、午前中から用事がある。とりあえず動くことは動くので何とかなるだろう。
 どうしてそうなったのかについても覚えがあるのだ。前の晩に首の凝りが気になって、自分でいろいろと揉んでいた。酔っぱらっていたので、自分のコリのツボをゴリゴリ押していると、その程度の加減がよく分からない。首や肩、肩甲骨のツボを押しながら左腕を動かすと、痛みが連動するのが分かる。首から鎖骨の内側の筋を押しながら手を回すと、びりびりと手のひらが麻痺する感覚がある。面白いのでずっとやっていると痛くて気持ちがいいような感じもする。考えてみると、その時も腕の筋もビリビリしていたかもしれない。酔っ払いというのは、自分でもよく分からない。脳が麻痺しているので、自分の人格も壊れている。既に自分では無いのかもしれない。飲むと本心が現れるという人がいるが、それは明確な間違いで、別の人格が形成されるだけのことである。
 荷物を運んだり作業したり、そうして食事もするが、すべてに軽く不自由がある。特に手が顔に近づくようなときに麻痺の影響が強いと感じる。眼鏡をあげるような日常の動作に、注意を向けなければうまくできない。風呂に入ると、さらに体が洗いにくい。シャンプーで頭を洗うのがつらい(手が重たい)。髭剃りのシェービングクリームを左手でうまく塗れない。
 本を読んでいて、ページをめくったり保持するのもちょっとイライラする。パソコンのキーボードでの印字も上手く指か動いていない。なんとか落ち着けば打てるのだが、売っていて乗り切れない感じがある。指先の麻痺を打つたびに感じて、くすぐったいような感じがする。
 とにかくいろいろ不便なのだが、もう少し我慢が必要な日々が続くのだろう。実はこうなって書きながら3日が過ぎてしまった。今度は腕のいろいろなところ(おそらく橈骨神経が通っている周辺の筋肉)が凝りだしている。二次被害でないことを祈ろう。
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手帳の切り替え時期の所為だ

2022-11-19 | HORROR

 既にひと月ほど前から来年の手帳を購入している。しかしながら実際に記入するのは、ぼちぼちと始まったばかりで、年度末の業界の総会などの早々に決められているものを書いているに過ぎない。手帳は内ポケットなどに入る小さいものを二十年ばかり続けて使っている。携帯電話などに記入していた時期もあったが、やはり文字をペンで書く方が格段に速いし俯瞰しやすい。事予定に関しては、手帳に勝るツールは無いのではないか。
 そうではあるのだが、この時期というのは、実はたいへんに危ない季節である。何故かというと、先の予定を二冊の手帳にかき分けることに問題があるからである。基本的には連動させて順に書きさえすればいいことのはずだが、さっと記入する際に、どっちかに先に書くことになる。あとで両方で確認して書き足せばいいのだが、それはやはり後回しになる場合が多い。基本的には今年の手帳を用いることが多いので、あとで新しい方を照会して書き足せばいい。それはそうなのだけれど、ときどき両方で違う予定が書かれていることに気づくことがあるのだ。
 電話やラインやメールなどで、同時に予定を調整する機会は多いが、こういうのは便利な反面、複数の予定日を候補日として記入する場合が多い。先のことだから、空いている日を書いて送信する。これは当たり前だ。そういう予定を、僕の場合記号を用いて、例えば白丸(〇)は委員会、などと手帳に書いておいて、空き日に〇の印をつける。次の会議なら△とかにする。空いてる日にこの〇や△は◎とかAとかBなどの記号や文字が並ぶことになる。決定すると赤ペンで〇などに線を引いて、決定した会議などの予定をしっかりと書きこむ。あんまり複数の記号を使うとかえって面倒なので、〇を消したら、新しい予定候補にまた〇を用いたりするわけだ。そうすると、一度消した〇のところに、新たな〇がついたりする。消したところだから完全に空いているはずだという思い込みが起こる。候補日は、時に変更を伴うことがある。一度決まったはずの予定日が、何かの都合で変わることがある。多くの場合ずいぶん前から事前に調整されるものには、新しくいろんな記号が重なったりする。そういう時に予定のブッキングが起こりやすいものと考えられる。あとの予定の方がさっさと決まって重ねられた後に、空いていたよね、とその日に過去の調整のものがかぶさって来る。こうなると、もう再調整がかなり難しい。そういうものを二つの手帳を用いてやると、さらに複雑になって混乱する。ただでさえ手帳は年末年始の予定のあわただしい時期に変える。だいたい11月の最終週くらいから新しい手帳へと切り替えるが、その時にはもう二つの手帳には複数の記号で埋まっていて、自分でも判別が難しくなっているのである。
 という訳で、僕が会議に欠席しているのは、それなりに理由があるのである。飲み会に欠席しているのは、それなりに理由があるのである。悪しからずご了承のほどを。
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イノシシが撥ねられる

2022-11-13 | HORROR

 いつもの散歩道は、おそらく赤道で残されている線路を横断する小径がある。それで線路渡って畔に行こうとすると、どうもなんだか異様な匂いがする。ひどく臭いが、なんの臭いなのか。レバーののような生臭さと、泥と墨が混ざったようなものと、草をこすって苦い汁が飛び散ったような、複雑な臭いが立ち込めている。線路を改めてよく見ると、臙脂色に飛び散った何かの破片跡があり、鉄にも白くこすれて伸びた線が残っている。コンクリートと焦げ茶色の木材の枕木にも激しくこすれて傷つけたような、がさがさとした線がいくつも走っている。ところどころ臙脂色の破片がこびりついている。
 今時の列車が線路に汚物を落としていくとは考えにくいが、何か汚いものをまき散らして捨てていったような、そんな情景とも取れなくもない。そういえばさっきまでカラスが複数羽群れていて、何かをつついていた。よく見ると長く縮れた赤いひも状のものが落ちている。草木のそれとは違って柔らかさがありそうで、これは腸なのではないか。すると、何かの動物? 猫か何か……。4.50m先とさらにみると、黒いずんぐりとした塊が線路に横たわっているのをやっと発見した。ああ、あんなに大きいのはイノシシだ。イノシシが跳ねられたのだ。
 近寄って歩くと、さらに肉塊やちぎれた腸や、他の臓物らしきものが飛び散っているのが分かった。腸もあちこち伸びて千切れている。大きな塊のイノシシ本体の死体は、真横にゴロンと転がった形で、ちょうど線路の真ん中にぴったりと収まる形で横たわっている。触りたくないので動かすつもりになれないが、この体の下側に曲がって隠れている頭があるのか、もしくは頭は千切れてどこかに飛んで転がっているかもしれない。角度かもしれないが、頭の無い丸く黒い塊には傷や穴が開いていて、そういうところから、これまで見てきたような臓物が飛び散っていったのだろう。先ほど僕が見た現場あたりで最初に跳ねられ、そのままゴロゴロと、もしくは引っかかりながら引きずられ、ここまで来て落ち着いたのだろう。ナムアミダ。
 それにしても臭いが凄いが、跳ねられたのはいつ頃のことだろうか。すでに昼になっていて、いくら田舎でも、何本もの列車が行き交ったはずである。運転手はギョッとしただろうが、どうすることもできず、上を通り過ぎて行ったことだろう。最初に跳ねた運転手は当然気づいていたはずで、そうするとその人が会社には連絡したはずだとは思う。それでもすぐに片付けることができなくて、こうして死体が横たわったままになっているのかもしれない。
 その後もカラスの鳴き声がずっとあたりを支配していた。夕方暗くなってからは、もう近づかなかった。
 それで翌日になってみると、驚いたことにちゃんと片付いていた。夜のうちに片づけた人が居たのだろうか。線路のあい中に挟まるくらいだったとはいえ、丸々していたし、100キロ以上は少なくともある個体だったはずである。何か道具を使うにしても、複数人で葛藤したのではなかろうか。どういうお仕事の人が処理されたものか知らないけれど、実際大変だったろうと思う。処理したのちのことは更に知らないが、もう食べるわけにもいかないだろうしね。
 飛び散っていた肉片などもあらかた片付けられていた。多少線路内での引きずられた跡かたは残っていて、やっぱり夢じゃなかったんだな、という程度にきれいになっていた。臭いだけは残っていて、野生というのは、身近にありながら、やっぱりワイルドなんだな、と思った。

※ なお、写真はかなり生々しかったので、やっぱりあげないことに致しました。悪しからずご了承ください。
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生まれる前から病気知らず

2022-11-03 | HORROR

 遺伝子の組み換えは、様々なところで行われている。それは組み替えることで、何らかの都合の良いと考えられることが可能になるからだろう。もっともそれは、多くの場合人間に都合の良い、何か別のものであって、人間の遺伝子そのものを変えてしまうことは、多くの倫理問題が残っているはずであった。しかしながらそれが、例えば病気の治療のためであるとかということになると、軽々とそのハードルを越えてしまうことになる。そもそもの出発点が悪いことではなく、良いことであるはずだからだ。自分には関係の無いことだと思っている人は多いかもしれないが、しかしこれは着実に自分にも降りかかる深刻な問題であるということも、次第に分かりかけていくのではないか。
 それというのも、そもそもコロナワクチンも、一時的に遺伝情報を変えてしまう仕組みを利用したものだった。もっとも壊れやすい性質を利用して、一定期間を過ぎると壊れてしまうので問題が無いとされていた。それよりも感染を防いで、これ以上の被害を食い止めなければならない。結局日本で開発されることが今現在でもなかったが、先に開発されたからこそ使えた日本、というのもありそうな気がする。まあ、それは議論をしようとする本文ではないのですっ飛ばすけど、それはそれで問題だったのである。
 病気の治療のための薬の開発の中にも遺伝子を操作するものはあるが、一応これも今回は抜いておく。何らかの遺伝情報を変えることで、その人の病気そのものを治療しようとする試みが、すでに多くの場面で行われているらしい。それが難病であるとか、特定の疾患の治療に有効であるらしいことが次々に分かってきていて、実際に治験として成果をあげているものもあるという。それはその病気で苦しんでいる本人にとっても、福音に違いない。
 問題はそのために、その病気になってしまう原因の遺伝子も、分かっていくという話にもなる。そういうものが遺伝的にあるために、病気になってしまうということが明らかになる。そうであればということで、それが生む前に分かるために堕胎するというケースもある。それは病気になるだろうということが確率論的な可能性の問題であって、生む生まないは、選択できることにはなる。しかしそう判断された後に生むと選択されるケースは、当然少数になってしまう。そういう問題が明るみになる段階で、当事者もそうでない人も、うーんと考えてしまうことになる訳だ。
 さらに、そうした病気のリスクの少ない遺伝子操作が可能であると考える研究者は多い。生まれる前に精子や卵子の遺伝情報を事前に調べて、組み替えることも理論的には可能になり、実際にそうしているケースもありそうだ。そうやって遺伝子情報を変えたうえで、体外受精で母体に戻せばいいということか。そうしてそういう「治療」を望む人というのも、たくさんいるのではないか。もちろんそれは生まれてくる子供ではなく、生もうとする大人の問題である。
 今は流れとして、これらの産み分けのような倫理問題が解決されぬまま、技術と実験が繰り返されている状況かもしれない。どこかの国で実際の例が積み上がっていくと、自然と倫理問題も動かされていくことになるのではないか。そうして気が付くと、そうしている出産が主流化する可能性もある。すでにそのような未来を描いた小説だってあるやにも聞く。人間の欲求というのは、叶わないものがほとんどのようでいて、しかし大きな時間の経過とともに、考えた方に流れていく傾向がある。もちろんそれが、個人にとっても幸福なことばかりだといいのであるが……。
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ロシヤ大衆はおとなしい

2022-08-20 | HORROR

 ロシヤ人は、ウクライナ侵攻について、実のところどんな印象を持っているのだろうか。それは率直な疑問であり、もっと実直に取り上げられてもいいのではないかと思っていた。もっとも報道規制などがあって、ロシヤの報道上は、プーチンの主張が支持され概ね受け入れられたものであるとは伝え聞いては居た。また言論規制もあるし、デモ規制もあるために、自由な言論はそもそも封じられていて、確かめることすらできないのだとも。
 そういう中にあって、なぜそういう状況において少なからぬ不満のあるロシヤ国民は、暴動などを起こすことなくおとなしくしているのだろうか。少し前までは、西側諸国と同じように、冷戦の終わった自由な環境を謳歌していたはずではなかったのか。日本にも多くのロシヤ人はやってきていた。働いている人もいるはずだし、テレビにもロシヤ人は出ていた。そういった人々はいったいどこに行ってしまったのだろうか。本当に彼らは口をつぐんだり、国外へ、お国のロシヤに帰ってしまったのだろうか。少なからぬ人は国外逃亡したとも聞くのだが、それは金持ちや著名人などの一部の人にとどまっている感じもする。要するに大衆というのは、ロシヤ国内で、どのような心情でくらしているのだろうか。抑圧された大衆は、また冷戦時のように、押し黙って国の粛正におびえながら暮らしているのだろうか。
 もちろんそんなことは無いらしい。だいたいにおいてロシヤ人は諦めているのだ、という話を聞いたのだ。その原因というのが、そもそもの話、以前からのロシヤの報道そのものを信用している人の方が少数だからという。どういうことかというと、ロシヤの報道というのは、たまに正しいことを流すこともあるのかもしれないが、基本的にほとんどがフェイク・ニュースなのであって、起こっていることが正確かなんてことを気にしていたら生活できないのだ、という。天気予報はどうなんだ? と突っ込んでみたい気もするが、チェチェン進攻の時なども、ロシヤ側に都合のいい報道がなされ続けていたことを含め、どうせそういうものばかりのことであるし、今回のことも、まあそういう流れの一つに過ぎなくて、大きく気にしているような人というのは、少数派ということなのかもしれない。またそういうのを糺そうというようなことを考えるのも無駄そうだし、プーチンがどうだというよりも、ロシヤという国そのものがそんな感じだということは、分かり切っているということかもしれない。経済制裁でジワジワ影響があるだろうという不安はあるのかもしれないが、まだ冷戦時代のように物が枯渇してしまうという状態ではない。生活が苦しくなると言っても、経済が破綻しているわけではないのだ。
 さらにロシヤというのは、貧富の差が歴然としている階級社会のようだ。もと共産主義の国がどうして? という感じもするが、確かに大金持ちが存在するものの、それは庶民とはかけ離れた大富豪であり、新興財閥にしても、政府の息のかかったエネルギーなどの限られた分野の人々である。絶対に手の届かない世界であり、望むことすら愚かしいのかもしれない。新興富豪の中には、愛人の数が100人を超えるような人間ばかりいるとのことで、それら愛人は愛人になれることで満足もしており、今後も暮らしていけるように富豪に尽くすのだという。それは貧富の差の裏返しのでもあり、生きていくうえでの仕方のない知恵である。そのような社会にあって、国がどうだのと言ったところで始まらない。そういう事を望むことがいかに無駄か、ということなのかもしれない。
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眠れない筈はないはずだ

2022-08-13 | HORROR

 そもそもそんなに寝つきは良くなかったかもしれない。しかし、そこまで意識したことも無かった。何故なら酒を飲んで横になると、いつのまにか寝てしまうから。それは寝つきがいいんだよ、という話になってしまうが、そうではない。酒を飲まない日があるからである。いろいろあって自分から言い出したことらしいが、休肝日というのがある。休肝日を取ることで、そう長くないかもしれない残りの人生においても、それなりに酒と付き合える時間が取れるはずだという漠然とした期待があるのかもしれない。それさえなくして時間を過ごすというのは、なんだかとても寂寞としたものを覚える。
 眠れないというのは、かなりつらいものだ。布団の中にあって、時間だけが経過していく。退屈である。人生は暇つぶしにあるわけで、しかし暇でないように日中は努力できる。その努力ができないのが、寝ようとしている時間だ。何か考えているようでいて、何も考えられない。いや、何か思っているが、何かが巡っているだけで、ちゃんとしたまとまりのあるものではない。建設的なことを考えているわけでもない。眠れないと眠れないその事実のことばかり考えている。そうするだけで眠れそうな気がしない。もうどうとでもなれ、と思うが、どうにもなるものではない。そうしてウトウトしだして寝たはずだが、ふと目覚めたりする。まだ周りは暗く、そうして二時とか三時だったりする。ものすごくがっかりして、絶望する。でもまあ、その後眠れることもあるし、断続的にやっぱりだめだったりする。そうして、眠れないくせに昼間は眠くなる。
 こういうのはつらいので、導眠剤を飲んでいる。処方してもらって本当に助かっている。僕には適当に効くらしく、大体眠れている。しかし、ときどきだが、なんだか寝つきが悪い時もある。そのまま効かないと、時間が経過してクスリの効き目も無くなっていくのではないか。その先には、眠れない闇が待っているのではないか。
 実は眠れないという思いが、不眠を助長しているのだという。眠れないことが気にかかるというのが、そもそもの不眠の原因なのかもしれないという。眠れない結果が眠れないということだとばかり思っていたが、結果が原因とはそれはいかに、という感じだ。もちろん、そういう結果があって、その恐怖心が、次なる不眠の布石になってしまっているということなのだろう。
 いや、大丈夫。薬は僕にはよく効くわけだし、なんだかんだ言っても、つまるところいつかは大部分の時間寝ているではないか。そうは思っている。眠れない恐怖と戦うのはまっぴらだ。僕は寝つきは良いのだ。酒を飲んでいるときは。そうでない日が違うのだと、思いたがっているだけなのではないか。それは単なる思い上がりではないか。多少違う条件だが、慣れるよりない。それも新たなる日常であり、これからの過ごし方である。そう考えるよりほかに、無いではないか。
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