ちょっと前にどこかの大学の先生が、学生からのメールで自分に対して苗字に「様」をつけてよこしたことに立腹して、単位をやらないとツイッターかなんかで書いてしまって、炎上していた。
反応として、先生とはそんなに偉いのか、ということや、この先生自体が、何か変な人であるという事ではあるらしい。まあ、場所が悪かったというのはあるようですね。
しかしである。この問題は、あんがいこの先生の方が正しいとはいえる。本来は先生に対しての宛名というのは、様であるのは失礼であるのは当たり前だからである。いや、当たり前だったというべきか。先生はそんなに偉いのか、という問題は、今の先生は偉くないという前提に立って考えているので厄介で、本来は先生というのは、教わる側からすると、それくらい偉いという前提の方が当たり前なのである。手紙の作法においては元来そうすべきであって、もう廃れてしまった風習であろうかとは思われはするものの、どちらかと言えばこの変な先生の方が正しい反応かもしれない。
ただし、これは先生方が愚痴る場合だけの限定の話で、自分自身でそうすべきだというのは、なかなか難しい場合が多い。実際そうしない人が増えているにせよ、そうすべきだとまわりの人間が諭すべき問題だったのかもしれない。それが手紙などの一定のマナーだったのは、そう遠くない昔からの話である。
さらにしかしであるが、実は僕も以前は年賀状などに、先生と書いていた時期あったのだが、大人になってから止めてしまった。失礼は承知ながら、やめたのである。それというのもある先生の話で、古風に先生と書かれるより、様でかまわない、というお話を聞いたことがあるからである。受け止める先生の方で、そのように感覚が変わっている現実があるのだという事を知って、なるほど、と思ったからである。実際のところ現実としては、ほとんどの場合様書きに変化していることだろうと思われる。いくら先生の方が正しいと言い張ったところで、もはや少数派に過ぎないことだろう。もちろん正しいのは先生の方だから、そうしたい人はそうすればよろしい。そういう問題に変わってしまったというべき問題になってしまったのではなかろうか。
さらに思うことは、先生という言葉は、教師という言葉から逸脱して、少しばかりいかがわしい響きが含まれているようにも感じられる。いわゆる媚びるというようなニュアンスが混ざってしまって、敬称として現代では通じない偉すぎる感覚かもしれない。
教師以外にも先生と言われる職種というのがあって、そういう場合の先生の質が、全体的に下がってしまっていることもあるかもしれない。
僕なんかでも時折先生と言われることがあるのだが、そういう場合には余分に金を払わされるような感覚になって、精神衛生上よろしくない。いや、そうでない純粋な人もいるが、出来れば止めてもらいたいものだな、とは思う(これは一部僕らの業界の古き習慣がある為である)。もちろんこちらからは言いにくい問題だ。実際にものを教えるような場面もあるかもしれないが、いわゆる教師として教えることは無いし、それで収入を得る訳でもない。厳密に言ってそういう立場であれば、もう先生で無い方がいい。
また、外国のことはよく分からないが、国際的な水準のような語感でも、もはや儒教的に先生という敬称はあまりないのではあるまいか。一部の芸能の世界であればいまだにそのような感覚はあるかもしれないが、このような序列が自ら廃れないような業界というものも、近い将来は、なんとなく廃れるようにも思われる。まあ、関係ないからかまわないだけの話であって、先生の継承としての地位というのは、そんな感じになっているのではなかろうか。
恩師からお叱りと受けるのは恐縮ではあるが、そんな人間であるのは、分かりきっている問題であろう。ならば失礼でもかまわない。そういうものがあるのではないか。
もっとも炎上問題は、そのような葛藤は微塵もなく起こってしまったように見える。偉い先生にはとっては、もはや受難の時代から逃れられなくなっているのではなかろうか。