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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

先生と言われるほどには…

2018-08-23 | ことば

 ちょっと前にどこかの大学の先生が、学生からのメールで自分に対して苗字に「様」をつけてよこしたことに立腹して、単位をやらないとツイッターかなんかで書いてしまって、炎上していた。
 反応として、先生とはそんなに偉いのか、ということや、この先生自体が、何か変な人であるという事ではあるらしい。まあ、場所が悪かったというのはあるようですね。
 しかしである。この問題は、あんがいこの先生の方が正しいとはいえる。本来は先生に対しての宛名というのは、様であるのは失礼であるのは当たり前だからである。いや、当たり前だったというべきか。先生はそんなに偉いのか、という問題は、今の先生は偉くないという前提に立って考えているので厄介で、本来は先生というのは、教わる側からすると、それくらい偉いという前提の方が当たり前なのである。手紙の作法においては元来そうすべきであって、もう廃れてしまった風習であろうかとは思われはするものの、どちらかと言えばこの変な先生の方が正しい反応かもしれない。
 ただし、これは先生方が愚痴る場合だけの限定の話で、自分自身でそうすべきだというのは、なかなか難しい場合が多い。実際そうしない人が増えているにせよ、そうすべきだとまわりの人間が諭すべき問題だったのかもしれない。それが手紙などの一定のマナーだったのは、そう遠くない昔からの話である。
 さらにしかしであるが、実は僕も以前は年賀状などに、先生と書いていた時期あったのだが、大人になってから止めてしまった。失礼は承知ながら、やめたのである。それというのもある先生の話で、古風に先生と書かれるより、様でかまわない、というお話を聞いたことがあるからである。受け止める先生の方で、そのように感覚が変わっている現実があるのだという事を知って、なるほど、と思ったからである。実際のところ現実としては、ほとんどの場合様書きに変化していることだろうと思われる。いくら先生の方が正しいと言い張ったところで、もはや少数派に過ぎないことだろう。もちろん正しいのは先生の方だから、そうしたい人はそうすればよろしい。そういう問題に変わってしまったというべき問題になってしまったのではなかろうか。
 さらに思うことは、先生という言葉は、教師という言葉から逸脱して、少しばかりいかがわしい響きが含まれているようにも感じられる。いわゆる媚びるというようなニュアンスが混ざってしまって、敬称として現代では通じない偉すぎる感覚かもしれない。
 教師以外にも先生と言われる職種というのがあって、そういう場合の先生の質が、全体的に下がってしまっていることもあるかもしれない。
 僕なんかでも時折先生と言われることがあるのだが、そういう場合には余分に金を払わされるような感覚になって、精神衛生上よろしくない。いや、そうでない純粋な人もいるが、出来れば止めてもらいたいものだな、とは思う(これは一部僕らの業界の古き習慣がある為である)。もちろんこちらからは言いにくい問題だ。実際にものを教えるような場面もあるかもしれないが、いわゆる教師として教えることは無いし、それで収入を得る訳でもない。厳密に言ってそういう立場であれば、もう先生で無い方がいい。
 また、外国のことはよく分からないが、国際的な水準のような語感でも、もはや儒教的に先生という敬称はあまりないのではあるまいか。一部の芸能の世界であればいまだにそのような感覚はあるかもしれないが、このような序列が自ら廃れないような業界というものも、近い将来は、なんとなく廃れるようにも思われる。まあ、関係ないからかまわないだけの話であって、先生の継承としての地位というのは、そんな感じになっているのではなかろうか。
 恩師からお叱りと受けるのは恐縮ではあるが、そんな人間であるのは、分かりきっている問題であろう。ならば失礼でもかまわない。そういうものがあるのではないか。
 もっとも炎上問題は、そのような葛藤は微塵もなく起こってしまったように見える。偉い先生にはとっては、もはや受難の時代から逃れられなくなっているのではなかろうか。
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詩を聞きに出かけられるか

2018-07-12 | ことば

 先日テレビを見ていたら、中東のある国で詩の朗読で活躍する女性の紹介がされていた。趣旨としてはイスラム文化圏で女性が詩の朗読で男性に交じって賞を取るようなことは大変に稀であることから、このような文化圏での女性の地位向上のようなことを言っているらしい。それはいいのだが、イスラム文化圏では、本当に詩の朗読を皆が楽しんで観ているのだろうか。僕は大変にそれが気になった。いや、大変に注目を集め人気があるから、そういうニュースになっているんだろうが、詩の朗読が人気のある背景が知りたいのだ。
 想像にすぎないが、やはりポップミュージックなどの規制がある所為ではないのか。いや、キリスト教文化圏のような音楽の流入に対して、何らかの抵抗があるのではないか。そう思ったのだ。詳しくないのでそれ以上は知らないが。
 それというのも、日本で詩の朗読をやったとして、どれほどの注目があるだろうか。以前は詩のボクシングというのがNHKでやっていた記憶があるが(なんとググったら今もあるらしい!)、そんなものに本当に大衆は興味があるのか。もちろん詩はいまだにあるだろうが、何かとても恥ずかしく個人的なものになっているような気がする。谷川俊太郎くらいしか、現代では詩で食える人はいないとも聞いたことがある。詩人はいるだろうが、そのような例外を除くと、専業ではやっていけないのではないか。
 僕はアニメの赤毛のアンのファンだが、やはりアンも詩の朗読を代表でやって、マリラやマシューは大変に名誉に思って素晴らしいのだが、しかしこれは古い時代のそれもカナダの片田舎の習慣のように思われる。そんなことを現代でやっても、一部の動員をかけられた人しか集まらないだろうし、面白いのだろうか。もちろんそれは偏見だが、ヒップホップを聞いている人々が集まるとはとても考えにくい。
 確かにラップとかヒップホップや、ロックミュージックなんかは、詩の朗読の変形なのかもしれない。海外の文化では、そのような形で詩の文化は残っているという考え方は出来るかもしれない。中国でも古いものでは詩人は偉大だったとも聞いている。日本でも斎藤茂吉のような国民的なスターは、かつては居たようだ。しかし今はどうなのだ。中島みゆきや井上陽水の詩が素晴らしいのは少しだけわかるが、やはり曲のついた歌だからいいのではないか。
 純粋に詩を楽しめないのは、他に詩だけでない文化が伸びた所為ではないか。詩が必要なくなったとまでは思わないが、大衆的な娯楽では、少なくとも無くなってしまったのではないか。そうしてきわめて詩的な心象風景として、自分自身の為だけに書かれるものが主流になっているのではないか。詩という方向性が、外向きから内向きへ変わったのが、現代なのではなかろうか。
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残さず食べる。間に食べる

2018-06-24 | ことば

 業務報告の食事の件で「カンショク」という表現を聞くようになった。もちろん以前も時々はあったと思うが、残量どれくらい、というようなことか、残さず食べた、という報告が多かったように思う。漢字だと「完食」と書く様で、まあ、知らないでは無い。一般的にテレビの影響で、主に大食い番組などで大量の食物を全部食べ切った時などに使われていたのが広がったとされる。もちろん、それは予想の範囲である。要するに使われる場面のことで、やはり日常でこれが食事のことで出るとなると、「間食」との音の混同があり、さらに意味がかなり違うので厄介だという事だ。
 困るのは、若い人に限らず、中堅の人が使い出したことだと思う。要するに既に定着が済んだという事である。業務であっても混乱の危険があっても、これを使った方が都合がいいというか、一定の理解が広まったとも取れる。医療が入ると遠慮があるようにも思うが、おおむね相手方も分かるような顔もされている。これを使わないようにしようという注意が無い限り、これはもう使われていくだろう。
 ところが、一般的に完食と言うかというと、やっぱりあんまりそういう機会は無いのではないか。ラーメンも残さず食べたら汁まですすった、というように言うし、弁当を完食したなんて大人はあんまりいない。だいたい残すかどうかなんて周りはあんまり気にしない。全部食べたというのを気にするのは、ちょっと特殊な状態というか。やはり大食いであるとか、子供であるとか、仕事の患者さんの状態であるとかいう事でない限り、めったに気にしてないのかもしれない。だから仕事で忽然とこの言葉が市民権を得るようなことになると、少し尋常でない印象を受けるのではなかろうか。
 さらにやはり間食という言葉の方が完全に市民権としては上で、こちらはこちらでそれなりに聞くわけだ。強さとしてはまだまだ健在。そうすると完食の浸食があっても、そう簡単には牙城は崩れないという事だろうか。
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こだわりの嫌悪

2018-05-23 | ことば

 自分自身では、特に物事にはこだわらない性格であると思っている。しかしこの、「こだわる」という言葉自体が好きでは無い。こだわったからなんだというのか。食い物にこだわりがあるのは煩わしいし、何かのうんちくというのは、興味が無ければウザったいだけである。みんなそう思っている癖に、こだわりがある方がいいと思っている人が居そうである。そういう感じがとても嫌で、こだわりという言葉がさらに嫌になる。人がしあわせになる為には、こだわりを捨てることだと仏教では教える。物事のこだわりが、しあわせを阻害するのである。皆が仏教を信仰している訳では無いから教えを知らなくて当然で(実際僕も知らないが)あるが、そういう感覚を知ることは有用である。
 しかしながら、こだわりは簡単には捨てられないのである。だからしあわせは遠い。別にこだわりたくないのにこだわってしまうのが人間性で、何もこだわりが無い人間というのは既に人間なのかは疑わしい。食い物にこだわるのは煩わしいと最初に書いておきながら、やはり刺身は醤油で食うべきだと思っているし、朝から納豆を食いたいという人だって相当いるだろう。そうしてそれが当然と思う人とそう思わない人がいる。どちらにもこだわりがある訳である。
 もっともこのこだわりというやつは、恐らくもっと極端なものを指しているとは思う。黄色い傘で無いと雨の日に外に出られないだとか、コーヒーを一杯飲まないと寝られないとかいうものは病的にも思えるが、いわゆるそれがこだわりだ。それは個人の趣向性として際立っているものであれば、面白くもあり楽しいという事かもしれない。そういうものを全部ひっくるめてこだわりを嫌っている訳では無いのだが(むしろそういうのは好きだが)、こだわりがいいことであるという感覚が、どうにも引っかかるのかもしれない。
 恐らくだが、物事を突き詰めて考えていて玄人っぽいところにいったものをこだわりと認識しているようなものが、なんとなく嫌なのかもしれない。いや厳密には、そうであるならばそれは素晴らしいはずなのだが、実はそんなところに行っていない人がこだわっているようなことが、嫌なのである。そういう境地に達していないにもかかわらず、本人はこだわりの末にそう思っているらしい感じである。
 まあ、勝手なんであるから、そんなことは放っておけば済むことである。実際ほとんど放っているが、心の中で嫌気がさしている。何というこだわりの心であろうか。そういう自分が嫌で、こだわらないと勝手に思っているのかもしれない。
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読めない店に通えるか

2018-02-12 | ことば

 熊本でよく見かけるラーメン屋さんに「味千ラーメン」というのがある。外国にも多数出店している有名店なんで今更であるが、最初はこのネーミングはまずいんじゃないかと思っていた。何しろ「味がしない」って自分で言っているような感じだから。しかしまあそれだけ店舗を増やしている訳で、一定の支持があってのことだろう。やっぱり漢字の影響で引きずられない語感があるんだろうか。
 長崎市には「吉宗」という茶碗蒸しで有名な老舗がある。たいていはひらがなのルビがふってあるようだが、知らなければとても「よっそう」とは読めない。いや、長崎市の人でこの店がヨシムネだと思っている人はたぶんいない訳で、また読めない人がこの店に他の人を案内することはまずなさそうで、そういう意味では話題としてまっとうな店なのかもしれない。歴史があるからこそできる芸当だが。
 店名ではないが、以前に蕎麦屋の「生蕎麦」の文字が読めず難儀した。字体をかなり崩して書いてあるところは多い。確かに昔から蕎麦屋には書いてあるから、知っているのが当然という記号なのかもしれない。また、そういう由緒ある店という信号である可能性もある。もちろん生蕎麦を売っている店なんだからそういう情報をいろいろわかる人に伝えているという事になるんだろうか。
 鳥栖にアウトレットモールがあるが、僕はそこにいくとほとんどの店の名前が読めない。外国の店の店名なので、何と発音するのか分からないからだ。英語表記なのかどうかさえ分からない。たぶん違うのが多いんじゃないか。ブランド名というのは宣伝で音を伝えてあるのか知らないが、皆が読めて当たり前という態度なんだろうと思う。僕はブランド名を聞いても知らないので覚えられない。ひらがなでルビを振ってもらいたいと思うが、それではブランドイメージが損なわれるという事なのかもしれない。さらに僕が買わないとしても僕の家族は買うことがあるのだから、客が失われているという事実とはつながらないのかもしれない。まさか読めないからありがたいという日本人が多いとは思えないが、やはりそのロゴのままがカッコいいという事があるのかもしれない。
 美容室なんかは読めない店というのが結構ある。あれは固定客ばかりを相手にしてるんだろうか。初めての客が読めないまま店に入るのに躊躇は無いだろうか。店の名前が読めないまま、何年も客として通っている人もいるのではないか。そういう場合今さらもう聞けないだろうし、何かもやもやしたものを抱えて生きて行くことにはならないのだろうか。まあ、それは僕の人生ではないのだから、構うことは無いのだけれど。
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ハリスンはアメリカに近く、マイケルはアイルランドに近い

2017-10-05 | ことば

 外国人の名前は、時々苗字なのか名前の方なのか分からないのがある。まあ日本にも無い訳では無いが、日本語だと意味が分かるのでそこまで不安にならない。三木さんや吉尾さんと漢字で書かれると、苗字とわかる。南さんが女の人だと、ちょっと分からないかもしれないが。音だけだと分かりにくいものはあるものの、まあ、そこまで気にならない。
 外国人の場合そんなにたくさんのケースを知っている訳では無いが、例えばジョージ・ハリスン(harrison)とハリソン(harrison)・フォードなんていう有名人の場合などにちょっと混乱した。日本語だと何故だかカタカナ表記が違うけれど、どちらもあちらではハリスンに近い同じの音であるはずだ。こういうのは、俺は名前だけどお前は苗字だな、などとお互いに気にならないのだろうか。ジョージ・マイケルとマイケル・ジョンソンとかもいるよね。
 意味が分からないので不安になるのかもしれない。ちなみにハリスンの語源を調べてみると、ハインリヒのラテン語名へリンクスを経てヘンリーとなるというような流れと、それを語源とするフランス語名アンリが、イングランドに渡ってnの発音が出来なくてハリー(Henri→Harry)になった音をもとに、ハリスHarrisや ハリソンHarrisonになったとされる。ちょっとややこしいが、ヘンリーさんの親戚のような変遷で変化した末の名前らしい。ちなみに元の語源のハインリヒはハイネ、ハイネケン、ヘンドリク、エンリケなどにも近い語感らしい。ハリスンの原初的な名であるヘンリカスという名は、イタリアで変化してエンリケやエンリコ、エンドリチ、エッリキ、エッリゴ、アリゴ、アメリチ、アメリゴ、などと変化し、ラテン語ではアメリゴはアメリクスと変化してその女性形の呼び名がアメリカである。ハリーやハリスンの音にアメリカの変化を見出すなんてことは、日本人にはちょっとピンとこない話だ。
 マイケルの方はミカエルからきているらしい。天国の番人である四人の大天使の名前の一つで、キリスト教には馴染みのある名前のようだ。ミケルとかミゲルとかの名前も聞いたことがあるだろう。これがアイルランド系の名前として定着するときに、マイケルになったようだ。ミック・ジャガーのミックは、マイケルの愛称である。ミッキーもマイケルの愛称であるが、アメリカにおいてはアイルランド系移民に対する差別意識が強く、もとはアイルランド系を広く指す蔑称だったらしい(ジャガイモだとかカトリック教徒を意味する俗語でもあるという)。ウォルト・ディズニーはアメリカに移住してきた祖父母を持ち、苦しいながら成功への道を歩んだ自分になぞらえて、あえてこのミッキーをネズミの名前に選んだようだ。可愛い名前もなかなか複雑なものである(要するにミッキーマウスは、マイケルマウスが正式という事か)。
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ケナインとはどんな生き物?

2017-07-23 | ことば

 警察犬のことをK-9ということはなんとなく知っていた。まあ、暗号みたいなものかも、と思っていたし、確か映画にもなっていた。麻薬捜査など特殊任務のこととも関係あるんだろう、くらいにしか思ってなかった。しかしながら英語ではdog以外にも犬のことをcanine(ケナイン)というらしい。音で略してK9という訳らしい。だから警察犬に限らずK9でいいということなんだね。まあ、日本語に犬という言葉があるんだから、わざわざそういう必要も無いけど。
 しかしながら犬のことはワンちゃんと言ったりワンコと言ったりする。ペットとして飼っている人がほとんどだろうから、可愛い方がいいのかもしれない。いまだに猟のために飼っている人なんてほとんどいないだろうし。橇の為なんて人もほとんどいないだろうし。
 以前巨人軍の仲畑選手が、王監督のことを陰ではワンちゃんと言っているという話があった。親が台湾の人だから王はワンで愛着を込めて言っていると本人は弁明したらしいが、まあ、ばれたものは苦しいですね。でもまあそんな古い話どうでもいいですか。
 しかしながら犬といっても徳川五代将軍の時は「お犬様」だったこともあるし、中国皇帝しか飼うことが許されなかった犬なんてのもあったようだ。もっとも罰せられても飼う人はいたようで、あんがい取り決めは大らかだったのかもしれないが。
 人間の場合でもイヌといわれる場合があって、警察のイヌと言えば警察と通じているような卑怯な感じがあるかもしれない。他にもスパイのように情報を嗅ぎまわる場合もイヌ呼ばわりされたりするようだ。ことわざの「犬も歩けば棒にあたる」だって、犬のようにかぎまわっていると(余分なことに首を突っ込むと)、棒でたたかれるような酷い目にあうぞ、という戒めである。
 犬が吠えるのを「ワンワン」というが、英語ではBowwow(バウワウ)というのを習った。でもよく考えてみると、大きめの犬はそんな音で吠えているようにも思う。ご近所の保育所の園児が散歩しているが、犬がいると、先生が「わんわん」と教えている。子供が素直に犬のことを何というのか、なんとなく知りたい気がする。一度ワンワンと憶えて、もう少し成長するとイヌと言ったりケンと言ったりすることを再度習う訳で、人間の子供も大変だな、と考えたりします。
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認知症:めんどくさい、近所づきあい我を救う(かも)

2017-06-19 | ことば

 「認知症」という言葉自体が認知症予防を妨げているという。順を追って話すと、認知症というのは検査によって、「認知症予備軍」と診断された状態であれば、十分にまだ進行を止められるし、あるいはある程度までは改善することが可能であるという。ということで検査をするわけだが、診断結果が、このいわゆる「予備軍」といわれるところに分類をされると、多くの人がその事実を拒否してしまうのだそうだ。それは考えてみると分からないことでは無いが、予備軍はあくまで認知症の最終通達では無い。さらに恐らく認知症としての自覚がほとんどない場合と、ひょっとしたらそうかもというような自分に対する疑心暗鬼のようなものがあるのだろうと思われる。そうして事実を認めたくないという拒否反応と、さらに羞恥心のようなものもありそうだ。大変に複雑で困ったことだが、その拒否によって対策を受け入れず、結局認知症を進行させてしまうというのだ。さらに検査そのものさえ拒否して、そもそも失礼とばかりはねつけて、結局進行させてしまう予備軍らしき人たちが、それなりにいるのだという。
 認知症という言葉は、いわば「ガン宣告」に近い響きを持ってしまったのではないかといわれている。その恐ろしい響きが、人々をダイレクトに傷つけてしまう。破壊力が大きすぎて、近寄りがたい。そのために必要な処置でさえ拒否し、結果的に自分の身をさらに傷つけてしまうのだ。
 現在は認知症に変わる言葉を作ろうという動きもあるらしい。しかしながらそれは一時の間はそれで通用するかもしれないが、過去に認知症は痴呆症などと言われたものから言い換えられた経緯もある。何度も言葉を変えるうちに、その意味本来が見えにくくなることは無いのだろうか。例えば物忘れなどは誰でもすることで、そんなに気にすることは無いが、そのことと認知症のような状態というのは、厳密には違う。混同して恐れすぎることの弊害もあろうし、そのような誤解で気を病む人を結果的に増やすことになるかもしれない。
 そもそもの検査というと重々しいが、それとなく皆がゲームをするように検査のようなものを受けて、それらしき人々の集団に、自然にプログラムとして予防法に取り組んでもらうようにできないものか。
 しかしながら問題の多くは、そのような場にさえ顔を出さないような環境の人ほど、やはり発見は遅れてしまうのだという。個別にいうと核家族化と独居問題かもしれない。
 結局地域力とか、コミュニケーションの問題から掘り下げるよりなさそうだ。そもそも人間というのは集団行動をベースに生きていた生物なのかもしれない。もちろん孤独を好む性質の人もいるのは確かだろう。しかしながらやはり程度問題で、いつまでも孤独がいいというような人は、孤独の本質さえ分からずに言っているだけのことかもしれない。
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エリカ様を見習う

2017-06-09 | ことば

 テレビ見てたらエリカ様が、「私って〇〇じゃないですか」といって話す女にイラッとすると言っていた。なんとなくわかる気がするが、確かに時々聞く言い回しである。
 意味としては「私は〇〇のようなところがあるのですが…」「私は〇〇という考え方をするのですが…」の変形であろうとは予測できる。そういう前提をまずは分かって欲しい、ということと、そうである自分の確認であろう。しかしながらイラッとくる最初の原因は、そういうところがあるということをまだ知らない間柄であるのに対して、知ってるでしょ? という感じが横柄に聞こえるためであろうと思われる。相手が知ってて当然は、自分が何か既に立場が上というか、それだけ有名人というか、気に掛けられているのであるという表明にも聞こえる。そんなの知らないよ、と言いたくなる場合は、要するにイラッとするわけだ。
 さらにこれは合いの手を求めている話しぶりというのがある。「…じゃないですか」の後には、「はいはい」とか「ほうほう」とか「うんうん」とか、言わなければならないような要求が見える。要するに「私の話に(強引に)関心があるでしょ、あなた」というような心情が透かして見えるということだ。それなのに、こんな風な話しぶりの人に限って、たいして面白い話で無かったりする場合も多いということでは無いか。期待させやがってなんだよ、ということか。しかし結論の前にイラッとするので、どうせそんな話だろ、というような徒労感が先に来る感じというのがあるのではないか。
 要するにこのような言い回しの段階で、その先の話が猛烈に聞きたくなくなるのである。エリカ様は素直に、もう聞いてない、と言っていた。基本的に素直な人らしい。
 しかしながらそのような話しぶりをする人であるということが分かれば、以後仲良くしなくてもいいというサインであるとも考えていいのではないか。これは合わない人であるな、ということがよく分かる。仕事上義理があるのなら仕方ないが、友達になれないのなら仕方がない。誰とでも仲良くするような生き方なんて、堅苦しくって仕方ないじゃないか。
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笑いを求めているからこそ

2017-05-19 | ことば

 僕は基本的に絵文字を使わない。特に信念があってそうしているという意識は無い。しかし、今後もたぶん使わないと思う。使っている人を批判するつもりはないけれど、それはスタイルのようなものかもしれない。
 厳密には絵文字以前の問題だが、一時期、(笑)というのがついた文章がやたらに増えて、これは意味は分かるが、なんだろうという違和感が消えなかった。インタビュー文なんかが始まりだったと思うのだが、実際に受け答えのどちらかが笑ったという場合や、冗談で強く否定するような場合の語尾に(笑)がつけられている。漫才なんかの影響なのか、「何言うとんねん(笑)」というような文章がやたらに目につくようになった(中には(怒)というようなのもあるが、これもなんだかな)。紙面の字数制限でもあるんだろうか、などと最初は思っていたが、どうも違うらしく、そう表現しないと、冗談であることに気づかない人への配慮みたいな考えがあるらしいことも、薄々気づくようになった。ある意味で親切なのかもしれないが、人によってはおせっかいかもしれない。
 単なる保守的な感覚かもしれない。普通の文章にそれは無い方が自然じゃないか。しかし、それは思い込みのようなものかもしれないし、事実あるものを使えないのは不自由かもしれない。学術論文のようなところではあり得ないかもしれないが、論文を書いている訳では無い。特にブログの世界では、そのような自主規制なんて何の意味も無かろう。実際たまにコメントを下さる人の中には、(笑)のようなものが無いために文中の一部で冗談を理解せずにお怒りになる人もおられるようだ。よく読めば分かるはずだというのは書いているこちら側の思い込みで、単に分かりにくい配慮の足りない、さらに文章力が未熟なだけの誤りかもしれない。それでも改めないのであれば、単なる傲慢である可能性すらある。
 使わないと言いながら、今回は使っているじゃないか。本当は使いたかったんじゃないか、という意見もあるかもしれない。説明のためとはいえ、ルールは厳格じゃないし、簡単に破ってもいいものかもしれない。
 でも子供の頃に読んでいた北杜夫とか遠藤周作とか、あれはユーモア文という感じもあったけれど、そういうのを読んでクスクス笑っていたものである。文章を読んでいるというのは、(笑)が無くてもにじみ出てくるおかしみで十分なのではないか。さらに硬い文章のようでいて養老孟司のような人もいる。ツボにはまるとゲラゲラ笑いながら読んでしまうが、これが分からない人がいるらしいのも分からないではない。こういうのは分かるのが当たり前だと思うものの、(笑)が無いからこそ笑える名文なんだと思う。養老さん流に言うと、まさに他人の事など知ったことでは無いというべきか。
 という訳で、お笑い文を目指しているからこそ越えられない、一線のようなものなのかもしれない。
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偉くなってロクでもない人間にならないために

2017-03-24 | ことば

 落語は好きで時々聞くが、落語界に対していいとばかり思っている訳では無い。例えば東京の落語家が真打になると「師匠」と呼ばれる。それそのものはいいのだが、それが業界外に聞こえてくると、なんとなく恰好が悪いのではないか。業界の風習だから自分らで何とかするよう考えるべき問題であると思う。特に業界以外の人間が、これを真似て「師匠」という言葉を使うのが良くないのである。近頃は芸人が司会を務めている番組も多いので、その人が業界にならっている場合なら仕方がない。しかし一緒にいる局のアナウンサーなら、業界外の人なのだから、さん付けにした方が自然だろう。医師がテレビに出ている時は、テレビは普通にさん付けを採用しているように見えるので、出来ないことは無かろう。楽屋内の様子でそのような言葉遣いが飛ぶのは分からないではないが、楽屋から普通の芸能世界に移ったのなら、常識が変化して当然ではなかろうか。
 漫画家も、業界的には先生と呼ばれる存在であるらしい。漫画雑誌には、作家はすべて丁寧に先生として呼ばれている。だから雑誌だけでなく、表のレポートを受ける場面などにおいても、漫画家は普通に先生として敬称が消えないまま出てくるというのが多い。編集者などは飯の種の人だからそのように呼んでいるのだろうと思うが、漫画家を志さない多くの一般人が、漫画家を先生として対峙している姿は、やはり無理があるだろう。これは当然使い分けが必要で、今は混在して必ずしもうまくいっていない現場があるにせよ、もう少し整理し直して紹介できる場を提供していく努力が必要なのではあるまいか。先生と呼ばせているヤクザな世界を、あまり表に出さない方が健全である。
 外食などに行くと、もう完全に「様」付けが定着してしまった。これは本当に残念なことだと思う。お客様は神様だったことは歴史上一度も無い。人間は得体のしれないものにはなれない。もちろん人間でも様付されるような偉い人はおられるのだろうけれど、相対的に頻繁に様にのし上がるのはどうしたものか。さん付けで呼んでくれるような店が増えると、精神的にはずいぶんハッピーなんだけどな、と思うのだけど。
 ということで、あんまり予約は取らずふらりと寄っても空いてるような、流行らないところを探して歩くより無いのかもしれません。
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わかりましたでいいじゃん

2017-03-14 | ことば

 若い人と話をしていて言葉づかいに引っかかることは、世代が違うので当たり前だと思う。そういう前提はありながら、やっぱり時々なんだろうな、と思うことがあるのは、似ている表現を使いながら、なんとなく感覚が違うらしいというのが一番かもしれない。なんとなく自分の言葉づかいまで揺らぐ感じだ。
 それで以前からなんとなく気になっていたのは、「承知しました」かもしれない。ずいぶん丁寧に持って回って言うもんだな、というのが最初だったか。
 それでしばらくは忘れていたんだが、ある時ネットで「了解しました」はビジネス用語では通用しない、というのを見た。特に目上には失礼なんだとか。代わりに「かしこまりました」とか「承知しました」を使うようにと書いてあった。
 正直に言って驚愕しましたね。何だろう、その感覚は。
 結論からいうと「了解しました」で失礼だと感じる感性というのはどうなんだろう。なんだか自分が馬鹿だと告白しているみたいに感じる。馬鹿だから仕方ないということか。でもその馬鹿の元で言葉の指導を受けて働かなければならない若者がいるなんて、ちょっと不幸である。
 しかしまあ、もっと驚くべきことは、このような言葉づかいを指導するビジネス・マナーの講座のようなものが蔓延しているらしい。要するに新しく働く若者の多くは、新人研修の場などにおいて、このような間違いを教わっているらしい。恐ろしい。
 でもまあ僕だって、その手の研修は受けたことがあるんだよな、実際。言葉遣いだけの話じゃなくて、元来の日本文化の美しさとか、江戸文化に学べとか、本当に怪しいを越えて間違いばかり話す講師にずいぶん付き合わされたものだ。中にはなるほどと思ってしまった過去の自分もいる訳で、仕方なかったこととはいえ、人生の汚点として恥ずかしいものだ。
 しかしながらそういうウソを生産して植え付けるマナー講座というのは、それなりに需要が高い感じもする。良い職場の条件として、そのような研修を受けさせるという視点もある。結果的にこのような間違いが蔓延して、事実として定着してしまう社会がある。悪いのはぜんぶ大人の所為だという気もする。もちろんその中に紛れて自分もいる訳だ。
 部下などが、承知しました、とかいう環境に慣れてしまう自分って嫌なものだな。時代が下ると、そんなような感覚は、単に笑い話になるんだろうか。
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身体的に受け付けにくい?

2017-02-14 | ことば

 最近は、フィジカルは無いまま曲がヒットする、などという。もちろん意味は知っている。というか、文脈から分かりはする。近年のネット環境から、ダウンロードなどで音楽を楽しむことの方が中心になり、いわゆる物理的なCDの売り上げを重視しない流れを受けてのことだろう。しかしそのフィジカルであるCDの売り上げがまったくない訳では無く、そのような統計はいまだに取られてはいる。さらにそれが「売れた」という一つの形態であることに変わりは無い。もっとも日本の場合、僕のような高齢化世代か、オタク文化のコレクションとしての物理的な収集を指しているらしいが。
 しかしながらフィジカルという言葉がなんとなく引っかかるのは、日本語化しない単語の語感というのがある。例えば音楽の場合は、いわゆるデジタル化した商品対義語としては、日本語的にアナログという感じがある。しかし英語の語感だと、デジタルの対義語にフィジカルで何らおかしくないようだ。そういう感じが、なんだかな、というものを残している感じがする。
 また、やはり肉体的身体的という意味で、スポーツ界で広く使われている語感に引っ張られる。精神面とフィジカルと、とか、フィジカルに勝る外国勢に、などという表現をさんざん聞かされてきた身としては、音楽界でフィジカルと言えばヒップポップの暴力系のことが頭をよぎったりするわけだ。勝手な勘違いであるが、そう言う感じの方が、面白く感じるではないか。
 フィジカルの反応は悪かったけど、ライブでは人が一杯で盛り上がった。などと聞くと、まあ、分かるが、日本語的にはやっぱりなんかしっくりこないな、と思う。要は単にカッコつけんじゃねえよ、という気分なんだろうけど、もうちょっと何とかならないものだろうか。
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他人事とは思えない内面の葛藤

2017-01-21 | ことば

 自分の心が狭い所為で使いたくない言葉というか、書く場合に使いたくない言葉の第一は「他人事」である。これは一定数必ずタニンゴトと読んでいる人がいる筈だろうと思うのと、だからとって人事と書くと「ジンジ」と読まれてしまう可能性も惜しい。何しろ意味が違う。辞書によってはもともと他人事と書いてあるのを、誤読を防ぐために「人事」が出たと記しているものもあるし、逆に「他人事」表記そのものを俗とするものもある。印象では巷間で使われる場合、よっぽどのことが無い限りタニンゴトが多数であろうと思う。要するに言葉としては、すでに市民権を得ているのだろう。残念ながら。
 そうであるが、雑誌の「考える人」の中の飯間浩明という人の文に、いまどきのネット世代の誤読の不寛容を紹介したものがあった。その例文の一つに「煮詰まる」が取り上げてあった。ためしに「頭が煮詰まって原稿が書けない」と書くと、たちまち指摘があがってくるのだという。そんなことは当然という気がするが、飯間氏は言語学者として、この用法を誤読とは明確に言えない、という考えを持っているようだ。「煮詰まって結論に近づく」という使い方が元であるというより、「考えが働かなくなる」という意味の方も、戦後同じ時期に使われているということであるらしい。なるほど。
 しかしながら、恐らくこれは「詰まる」の語感の方に問題がある所為だろうと思う。もとは、とことん議論をしようという考えから話を「煮詰める」という姿勢で臨んで、結論に至りそうになり「煮詰まってきた」のであって、考えが「行き詰って」「煮詰まった」ではないという立場がある。だから行き詰ったという感覚で使われた場合を誤用と言っているのであって、両方成立するのであれば真逆で困る。しかし一方で、確かに最初から行き詰ってしまった状態を「煮詰まって」しまったと考えている人は一定以上いて、現実に使われてもいる。また、そのほうが実感が伴って普通に通じている場合もあるのかもしれない。
 言葉に寛容になるのは結構だけれど、認めてしまって混在を許容することによって(言葉の)事故は増えるだろう。要するにこの事態を両側から最初から理解した人でなければ、使い分けが難しい問題ということだ。もっとも将来的には行き詰った「煮詰まる」が、語感として優勢になる可能性はある。
 やはりしかし心が狭い人間としては、それが非常に憎々しい。たとえこれが元々という根拠がなくとも、一度辞書的に優勢である現状を知っているからこそ、そう思ってしまうのではなかろうか。
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書けばやる気が出る言葉

2017-01-03 | ことば

 やる気というものを持続、または自発的に出させる手法として、単純だが紙に書いて目に見える場所に貼るというのが結構効果があるらしい。受験生などが部屋の壁に貼ったりするアレですね。で、鉢巻して頑張ったりする。勉強なんかは実際の作業は地味なんで、とにかく派手に演出した方が、本当にやる気に差が出るらしい。漫画的だが、あんがい合理的かつ効果も大きいということらしい。
 仕事の上でもこれは一緒で、目標でもいいしやるべき具体的な仕事内容でもいいし、とにかく紙に書いて貼り付けておく。繰り返し見て、実際に作業して、効率や成果は20%以上違うという話もどこかで聞いたような…。人間ってあんがい単純である。
 自分なりに元気になる言葉を書いて貼るだけでもずいぶん違うという。発奮できる言葉を選んで書くという行為だけでもいいらしい。
 ということで、自分なりにどんな言葉がいいか考えた。すぐに思い浮かんだのが、「溌剌」。オロナミンCの「元気ハツラツ」の影響だろうか。
 しかしながらわれながら爺くさい発想だな、と思うと気持ちがなえてきた。書く気も失せて、どうするかはまだ決めかねております。
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