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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

12月になると、どうしても思い出す人

2012-12-16 | 音楽

 ブライアン・エプスタインがいなかったらビートルズはどうなっていたか。歴史に「もし」は無いし、確かめようは無いのだが、エプスタインのドラマがあることは、ビートルズの興味において一定の深みを感じさせられることは確かである。それも32歳という若さでこの世を去ったという刹那的なことも含めて。
 ただ、僕は多かれ少なかれ、ビートルズは彼がいなくても世に出ていたのではないかという気もしている。エプスタインがビートルズの存在を知ったのは、彼の職業であるレコードショップでビートルズがバックで演奏していたレコードの売れ行きが良かったことからだとされているが、既にある程度やはり注目されていたということもあっただろうと思われる。そういう注目のバンドに懸けてみようという決断は素晴らしかったと思うものの、やはり素材が良かったということの証明であったとも思われるのだ。
 もちろん、そのプロデュースの仕方も良かったし、献身的なマネジメントも良かったことは間違いないが、多かれ少なかれ彼らの地が露出していく訳だし、戦略的なものが当たるような背景を読む力があったとは言っても、むしろこの個性的な4人をまとめる技量の方が優れていたという見方の方が正解かもしれない。
 死後そのショックもあるだろうけれど、結局ビートルズは崩壊の道を歩んでいくように見える。もちろん、ブライアンの刹那的な死への道も含めて、その様な圧力は抗しがたいものがあったのかもしれないが。
 それでもやはり、エプスタインは面白い人間かもしれない。ビートルズの音楽そのものではないにせよ、やはりそのつながりを成立させている大切な要素であったことは間違い無いのであろう。つまり、ビートルズの魅力そのものに、やはり欠かせない人物のようだ。さらにジョン・レノンが暴走し、再生の道を歩むまでに、彼の影響が無かったとはいえそうに無い。いわゆるプラトニックな関係ということだけでなく、精神的な支柱になっていたということなのだろう。
 世間的にはそのようなゴシップこそ、エプスタインに注がれる興味ということなのかもしれないが、時代も変わって現代になってみると、やはり彼の早すぎる死というものの中に、内面的に果たせない思いというものがあったようにも感じる。
 その後のジョン・レノンは、自分の生き方そのものを作品化させてくように見えるが、そのプロディースを委ねて行くのがオノ・ヨーコだったのかもしれない。ちょっと関係なさそうに見えるようでいて、やはりジョンの中にあるだろうわだかまりのようなものを、そうやって埋めていく必要があったようにも思われるのである。そして、その様な彼の葛藤そのものの中に、やはりエプスタインとの関係はあったのではないだろうか。
 そうなってくると、エプスタイン無しのビートルズは、やはり考えにくいものだったのかもしれない。そしてそれが事実として残っている現実においても。彼のマネジメントそのものがビートルズという作品だったというより、彼がビートルズを発見するその必然こそが、ビートルズ物語には欠かせない宿命的な事実ということになるのであろう。
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祭典の日

2012-12-01 | 音楽

 渋谷陽一が興奮してレポートしてくれた時から既に5年も経ってるんだな、というのがまず感慨深い。どういう事情かは知らないのだけど、それくらいの時間がかかるものなんだそうだ。じっと待っているのはつらいので正直言って忘れてしまうほどのタイムラグだけど、忘れていた分、改めて衝撃を受けたということもあるのかもしれない。
 いろいろな大物バンドが再結成する大きな理由は、やはり金銭問題というのが正直いってあるらしい。以前のようには稼げないにしろ、そろそろやっておかないと困る人などがメンバーに居ると、熱心に昔の仲間を口説いたりするということのようだ。まあ、その気持ちはよく分かりますね。それぞれ家庭もあることだろうし。
 しかしながらツェッペリンが再結成しない理由も実はその様な事と逆の背景があるようで、つまり彼等は解散後も毎年100万枚アルバムが売れ続けているということもあるし、特にロバート・プラントにおいてはソロでもそれなりに実績があり続けており、生活に困るどころか、黙っていてもガッポリお金が入り続けているということで、モチベーションが上がらないということも言われているようだ。作曲クレジットのないジョン・ポール・ジョーンスだけがいまだにちゃんとバンドを持って活動している(しかし彼にも軋轢があって、再結成には消極的だという話はあった)ということも、そういう背景と関係があるのかもしれない。
 そうではあるが、それなりに再結成の噂は繰り返しあった。ペイジ、プラントの再会も過去にはあった。ペイジが別バンドでZEPの曲をやった場合もあった。そういう事件はそれなりに興奮はしたものの、しかし正直言って満足のできるものでは無かった。
 ジョン・ボーナムの息子であるジェイソンのドラミングが素晴らしいという話は、ずいぶん前から聞かされてはいた。血がそうさせるのかというは分からないが、子供の頃からボンゾ並みのドラムを聞かせるということらしかった。解散したのは、ボンゾが死んだ事が大きいのは間違いないらしくて、元のようなZEPサウンドの再現が不可能とされていた。そう言われると、そうに違いないとも思うし、しかしそれでも残念すぎる思いは消えない。そうしてジェイソンの参加ということが実際に起こって、嬉しいが、やはり不安は少しばかり募る訳だ。
 もっとも、ドラムへの不安ということよりも、もっと不安な材料というのは他ならぬジミー・ペイジのギターであるのは間違いあるまい。再結成に向けて準備中に指の骨を折ったというアナウンスも聞こえてきた。怪我が心配であるのもそうだけど、ギタリストが指の怪我をするくらいの不注意をするのが不自然だし、自分自身の不安があって怪我をしたのではないかと邪推する向きもあったのである。若いバンドと演奏するような事がある時は、主要なフレーズは若いギタリストに譲って演奏するということも聞いていた。往年のプレイに陰りがあったり、錆ついてしまっているのではないかと疑ってしまうのは、ごく自然な感情ではなかったろうか。
 ともかく期待に胸いっぱいという思いは正直であるからこそ、その不安の方も大きいというのがファン心理というものではないだろうか。いくら渋谷さんが興奮していたのを知っているとはいえ、やはりその伝説のライブを見たものは限られた人間だ。その特殊な状況に興奮しない人間がいるとも思えないから、やはりそれは割り引いて考える必要があるのではないか。期待しているが忘れていたい。かき乱されるように心が不安定なまま待つ生活をするのは、あまりにもつら過ぎるのだ。
 ということで、改めてこの音源を手に取るという瞬間を迎えて、僕の心情は複雑すぎて自分でもよく分からない状態になっていたのである。
 実を言うとこの数日この音源を熱心に聴き続けているのは、ほかならぬ妻の方である。CDを車の中で掛け、韓流ドラマそっちのけでDVDを観ているらしい。この人たちって本当にカッコいい、と繰り返し家ではつぶやいている。
 僕はというと、感激したのは確かだけど、正直言ってかなりホッとした。ちゃんとしているというか、当たり前に凄いのである。ペイジのギターは、結構ソリッドに贅肉が落ちている感じすらする。ジェイソンのドラムは、はしゃいだように晴れやかだ。ジョンジーのベースや鍵盤はさすがの一言、ほれぼれするテクニシャンだ。そしてプラントの声も存在感も素晴らしい。ZEPは基本的にインスト・バンドとも言われる曲の構成なんだけど、やはりプラントの存在感無しにはありえない事がよく分かる。歌としてカタルシスの少ない曲の多い中、これだけ楽曲に負けない声を出せる人間が他に居るのだろうか。
 確かに姿ふるまいはすっかりジイさん達になってしまったが、これがぜんぜんカッコいいのだから凄過ぎる。これで5年前だから今はもっと凄いことになっているのかもしれないけど、また集まって世界ツアーでもやってくれないものかね、と正直に思う。新作のアルバムを作るというような恐ろしいこともやってくれないものだろうか。いや、そこまではさすがに怖すぎるか…。
 ともあれ素晴らしい年末を迎えることが出来て、僕はしあわせに包まれているところなのであります。
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走る気分だけ、とりあえず思い出す

2012-10-14 | 音楽
The Rolling Stones - Gimme Shelter (Live)


 研修会で久しぶりにSギさんに会ったのだけど、かなり痩せててびっくりしたよ。
 聞くところによると、マラソン大会に出るためにジョギング練習をしてたんだとか。特に毎日走っている訳では無いらしいんだけど、週に3回程度、十キロを一時間くらいかけて走っているのだとか。いや、凄いです。まあ、以前の姿を知っているから驚く訳だけど、正直言って走る体じゃなかったからですね。
 だからと言って僕も走るかって言うと、もうすでに走るという行為はかなり危険だと思うので、安易に考えてはならない。でも、僕だって以前は走ったりしてた時期はあったんだよね。当時はウォークマン(カセットテープのやつね)にいろいろお気に入りの曲を入れて気合を入れたものでした。
 そういう曲の中でも特に、なんというか、走ってて元気になっていたのがこの曲だったという訳です。どんどん盛り上がっていく感じも心地いいんですよね。走る気分だけは思い出してダイエット頑張ろうっと。
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激しい音も静かに聞きたい

2012-09-24 | 音楽

 音楽好きと言いながら、コンサート(ライブ)が特に好きな訳ではない。アマチュアのバンドマンだったこともあるからステージを踏んだことはあるんだけど、他人の演奏を聞くのが上手じゃないというところがあるようだ。スタジオとか小屋なんかで練習しているときは熱心に他人の演奏を注視することはあるんだけど、コンサートのようなところではあんまりそれが叶わない。そういうところが不満らしい。立ちあがって踊ったり、手拍子したりして忙しい。汗かいたりして気持ちが悪くなる。適当なところで疲れてしまって早く終わんないかな、などと考えてしまう。
 ちょっと前に泉谷しげるをテレビで観ていたら、演奏の途中で曲を止めてしまった。観客が手拍子するのが気に食わないらしくて、この曲では手拍子をするな、と言ってまた最初から曲をやり直していた。客は多少面喰っていたようだけど、手持無沙汰になりながらも体をゆすったりして、いわゆるノッて聞いている風だった。まあ、それだけなのでどうということは無いのだが、そんな感じの方が楽な聞き方かもしれないな、とは思った。
 これも少し前の話だが、クラッシックの少人数でのアンサンブルの演奏会を観に行った事がある。その時演奏者の誰かが、演奏を聞きながら寝てもらって結構だ、と言っていた。会場はなんとなくウケていたが、まんざら冗談ということでもない風だった。気持ちよく客を寝せるような演奏を本当に心がけたいというような思いがあるらしいのだ。そういう気持ちはよく分からないな、とは思うものの、彼らの考え方は本当に変わっているのかもしれない。本当に寝せてしまえる力もいい演奏というのを信じているということか。いい訳ではなさそうではあったし、確かに演奏自体は澄んでいて、分からないながら心地よかったのだけれど。
 普段は圧倒的にCDやらMDなんかの音源に向き合う姿勢で音を聞いている。自分がどんな態度をとろうが、演奏者には関係が無い。もちろん根本的に生というのは違うので当てが外れているけれど、そういう姿勢に慣れ過ぎて聞き手はわがままになっているのだろうか。客席とステージとの一体感というのは、生では大切なことである。それは分かるが、一方の立場が不得意というのはあるとは思う。出来ればじっと聞いていて、終わったら拍手というのは普通にいいな、と思う。
 ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」という映画があるのだが、劇中にヤードバーズが演奏しているのだけど、客は円陣を組んだりして座って大人しく見ている。演奏は激しくジェフ・ベックはギターを壊したりしてるんだけど、客は曲が終わると拍手している。今の感覚からはなんともシュールなんだけど、これはこれでいいなと思う。いつも盛り上がるのはどうなんだろうという感じかもしれない。もちろん全部がどっちらけではお互いに不幸なのかもしれないのだが…。
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儀式も必要な訳で

2012-09-06 | 音楽

 退院するに当たって自分の気分の高揚に合うような曲を聞きたいと考えた。病院に迎えに来てくれたつれあいの車からは、当たり前にツェッペリンで、それも「祭典の日」がかかっていた。これはこれでなかなかいいぞ、ということで帰宅にはふさわしい気分だった。
 外に出てみるとなんだか太陽がまぶしくて、しかしやはり心が晴れやかになる。実はそんなに退院を待ち焦がれていた訳でも無くて、曲がりなりにもそれなりに慣れてきちゃったよ、という気分が少しばかりはあったのだけど、やはりその太陽の力は素晴らしい。そんな思いが単なるやせ我慢だったことが自分でもよく分かった。余裕かましてまだ大丈夫みたいな気分になりたかっただけなのだろう。外の世界はそのような自分の内面をみるみる表に剥がして持ち上げてくれるような感じなのだった。
 さて家に帰ってみると、愛犬もよろこんで飛びかかってくる。僕がどこに行っていたか説明のしようが無かったから、やくざに帰ってこないだけだとでも思っていたのだろうか。いや、帰ってきたから興奮している訳だから、帰ってこない理由は考えていないかもしれない。いつも帰ってくると喜んでくれるのだけど、さらに数日という間隔があるせいか、もう少し興奮度が高いような気がするんだけど、まあ、それは僕の勘違いかもしれない。帰ってくるのが嬉しいのは僕も嬉しいが、しかし何かの期待もあるに違いない。おやつをやって、まだ散歩には日が高いからな。しかし歩くには少し不安だ。期待にこたえられる帰還では無いかもしれないよ。
 家に帰ると子供たちの手前もあるから、大音量で音楽をかける訳にもいかない。そう言えば近所に寄るところがあったりするし、外に出るなら自分の車で何か聞いてみようと思った。
 エンジンを掛けたら流れてきたのはニール・ヤング。おいらも相変わらず古い人間だよ。その後の曲はスミスだった。車の中にあるCDを物色してみると、ちあきなおみとかビートルズとかチャイコフスキーなんかがあった。なんかバラバラじゃん。小林秀雄の講演とか快楽亭ブラックの落語なんかもある。ああ、これは家族じゃ聞けないもんな。
 もう少しゴソゴソしてみると、あれっ、マイケミがあるのであった。子供にウケようと思って買ったのかもしれない。何となくピンと来て、当然のようにwelcome to the black parade を聞くことにした。
 まあ、何と言いますか、これがそれなりに当たりなんですよね。ちょっと大げさすぎるとはいえ、だいたい大げさな生還なんだしさ。普段はちょっぴり馬鹿にしてごめんな、という感じ。
 これで病院の垢は完全にはげ落ちてしまったという訳でした。
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前だけを向く生き方の人

2012-06-28 | 音楽
The Jam - Eaton Rifles - 1979


 英国では国民的なスターであるポール・ウェラー。僕らが子供の頃にはパンク・ロックということで紹介されていて、絶大な人気があった。とんがっててとっつきにくそうなところが良かった訳だが、特に行き詰っている感じもないのに、何の惜しみもなく(という感じがした)解散して、急におしゃれな感じのポップな曲の多いスタイル・カウンシルというバンドを結成した。なるほどこれがやりたかったのか、などと勘繰っていると、それもあっさり解散してしまった。
 昨今、昔の名前で出ています、という感じの再結成が盛んになっているが、ポール・ウェラーの場合、当然この二つともぜひとも再結成して欲しいというファンの要望が根強いものであろう。
 ところがあるインタビューで、どちらかのバンドで再結成しなければ殺すと言われたらどちらのバンドにしますか?と問われて、
「それなら死を選ぶ」
 と言ったそうだ。
 如何にもという感じである。つまり生き方がパンクなんだろうね、このおっさん。
 まあしかし、殺されるとしなくても、またやってみたくなんないものなのだろうか。そんなに嫌な体験だったんだろうかね。
 分からんが、過去を振り返らずに生きていくということで解釈するより無いのだろう。もちろんそれはそれで爽快な生き方なのかもしれません。
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過去にとらわれるものに未来など無いが

2012-06-21 | 音楽

 僕は未だに車の中では、主にMDプレイヤーを使って音楽を聴いている。時々同乗する人が驚いたりしているので、確かに古臭い人間には違いないと思う。これは以前にも書いたことではあるけれど、すべてストックの所為である。今までに録音した音源に膨大なストックがあって、移行するのがめんどくさいのだ。もちろんMP3用の再生プレイヤーは中東のメーカーのをひとつ持っているし(なにしろ安いからいくつか衝動買いした)、併用しているという側面はあるにせよ、中心になっているのはやはり未だにMDであることに変わりがない。時々不便じゃないかと問われることはあるけれど、実はやはり便利だからそうなっているという現実があるのだ。
 もちろん、不便というのはあるにはある。今や圧倒的に少数派だから、再生プレーヤーはもちろん、ラジオの受信機なんかでも玉数が少ない。さらに少ないゆえに現在売れ残っている(のだろうと思う)ものは幾分割高という感じもする。いま持っているミニコンポの調子が悪い時があるのだが(しかしいつもいつの間にか復活する。偉い!)買い替えるのにも不安がある。いずれは駆逐されて消えてしまう運命であることも薄々気づいているからだ。さらに車のカーステレオも、わざわざMD用のものに付け替えている。これも友人に探してもらって格安だったけど、次もそのように手に入るものかは微妙だ。生き残れないのを悟っていながら使い続けなければならないというのはつらい。
 それでもMDを使っているという最大の理由は、やはり編集が容易だということに尽きる。僕は未だにCDは買うのだけれど、それはそれとして聞くというスタイルが変わらない。アルバムというのはその構成にも意味があって、一連の流れで聞くほうが落ち着くというのが捨てがたいのである。もちろん時にはピックアップするけれど、だんだんそういう作業をしなくなってしまったということもある。それに実はそこまで手が回らないわけがあって、それは基本的に昔ながらにラジオ番組を予約録音して、気に入った曲を取り出してMDに落とし込んで聞くということをしているせいである。そのような編集が他の媒体では実に面倒なので、結局手軽にやりなれたMDに頼っているというのが真相で、しかし手軽と言いながら、一時間番組から曲だけ取り出す作業には、15分から20分程度時間を割かれる。時々さぼって数カ月放置すると、丸々半日とか一日、ラジカセの前でガチャガチャと操作を繰り返している。家人もそんな姿には呆れている様子で、実はずぼらな性格だからそういう作業が好きなわけでもないから、ひたすら出来上がったMDを聞くという楽しみのためだけに、その作業を繰り返しているにすぎない。そうして苦労して編集してたまっていくMDの束に対して、奇妙な愛着が生まれてしまうという図式に縛られていくというわけなのである。この悪循環からはなかなか抜け出せそうにないし、抜け出せるとしたら、その他の編集作業をさらに効率よくマスターするという技能と意欲の問題になるのだろうと思われる。今のところ僕の知らないだけのことで、おそらく方法はあるだろうということは予想ができる程度で、さらに大きな脅迫であるとか必要性に迫られない限り、この世界から足を洗えないということなのである。
 しかしながら物理的に今まで貯め込んだものを全部再生しようと思ったら、すでに数ヶ月か数年の時間は潰せてしまうだろう。要するにストックが溜まりすぎると結局検索に労力を使い、なおかつ不必要なところまで増殖して手がつけられなくなっていく。そうしてやはり新しいものを積み立てて楽しんでいくというようなことになっていく。
 考えてみるとたくさんのレコードやカセットテープは段ボールに詰められて、実は職場の倉庫に積まれている。もうたぶん取り出して聞くこともないはずなのだけれど、それはそうしてスペースを占拠するだけの物体になってしまっているのである。MDはその名の通り形が小さく場所を取らないとはいえ、結局はそのような運命を待っているだけの存在なのかもしれない。その悲しい立場というのが、さらに郷愁を誘い、僕に意固地にさせているのかもわからない。
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ボブ・ウェルチ逝く

2012-06-12 | 音楽
Bob Welch performs Paris' "Big Towne, 2061" LIVE on U.S. TV 9/79



 ボブ・ウェルチが亡くなった。健康問題を苦にしての自殺だという。多くの記事には元フリードウッド・マックのメンバーという紹介がされている。もちろんその通りだけれど、それでは彼のキャリアでピンとくる人の方が少ないのではあるまいか。
 彼の最大のヒットとなったのは、ソロによる「フレンチ・キス」である。もちろん僕も買ったが、ちょっと残念な感じだった。それまで2枚のアルバムを発表していたパリスというバンドの音とは、まったく違うポップなものだったからだ。その後の活動がパッとしなかったこともあるけれど、僕自身はそのような失望のままボブ・ウェルチのことはほとんど忘れてしまっていた。
 パリスの2枚のアルバムについては、本当に興奮して聴き続けていた覚えがある。シンプルだけどとにかくカッコいい。ギターのリフが強烈な曲ばかりで、とにかく強い印象を受ける。日本では渋谷陽一が熱を込めて紹介したせいで(僕ももちろんその影響にあったわけだ)何となく盛り上がったようにも思ったが、海外では今一つだったようだ。アルバム・ジャケットの写真を見る限り、何となく奇矯なファッション・センスだし、今になってみると、やっぱり70年代っぽい古さも感じられる。けっこう洗練された曲もあるにはあるけれど、はっきりと時代に合っていなかったのかもしれない。
 もちろんそういう方向性については本人が気付いていたらしいことに、後のヒットを飛ばすポップ路線へ、大きく舵を切ることができたということになるのだろう。パリスは好きなことを好きなようにやって、いわば実験的過ぎたので奇跡的に日本のファンを獲得したということなのではなかろうか。そのような盛り上がりこそ奇跡的だとも言えて、つまり、本当に残念だ。
 いくら熱を入れても盛り上がらない上に、自分としては残念な方向へ行った途端に多くの人には受け入れられるようになったことで、僕としては妙な挫折を味わう気分だった。もちろんそれまでも、あくまで洋楽という分野を聞くという行為は、本当は少数派の楽しみというものであったかもしれない。ろくに英語も分からないくせに、鼻歌でも歌えないくせにこのような世界に浸るというのは、どうも普通の道を外れた行為のようにも思える。それは反抗期における自分の表現だったかもしれないのだけれど、同時にやはりどこか認めて欲しいという気持ちもあったものだろう。
 本当は心のどこかで、ボブ・ウェルチは復活してロックらしいバンドを再結成するのではないかと期待していたとも思う。ぜんぜん大御所という感じの人では無いから、気楽になってやりたいことをやりだすんではないか。
 結局儚い願いは永遠に叶わないままこのような結末になってしまった。静かに哀悼の意を捧げたいと思う。合掌。
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最近は真剣に向き合うということをしていない

2012-05-02 | 音楽

 若いころはテープに録音したものであれレコードであれ、どういう訳か繰り返し真剣に音楽を聴いていたような気がする。出来れば姿勢を正して全身を音楽に傾けるというような聴き方をしていたように思う。そうしておこがましいのだが、これはひょっとすると自分にしか分かっていないのではないか、などと考えたりしていた。若いというのは一途だけれど恐ろしいものです。
 基本的にロックばかり聴いてたわけだけど、時々モーツアルトなんかも聞いていた。モーツアルトは当時のポップ・ソングだよな、などと思っていた。しかしやっぱりある程度つきあうとロックに戻っていく。
 同じものばかりは確かに飽きるからいろいろ聞く訳だけど、やはり何度かは聞かないことにはしっくりと体に馴染んでいかないというような、そんな気分はあった。だからプログレのような大仰なものも好んで聴いていた。そうしてやはり同じような個所に差し掛かると、同じように高揚感を味わって満足していた。今のように携帯電話とかメールが来るような事が無いから、誰も邪魔をしない。もちろん途中で中断するような事があると猛烈に腹が立ってモノを壊して回ったに違いない。
 友人の家なんかでダべっていてかけ流している曲を聴くともなしに聴いていると、いつの間にか話がなんだったっけということになってしまったりした。ヤバい、よく話を聞いて無かったな、と思うんだけど、どんどん話はちぐはぐになったりして、「なんだかお前、もういいよ」などと言われたりした。曲がかかってるから悪いんだよな、などと心の中で言い訳していた。真剣なんだか不真面目なんだか分からない。
 このままでは人間関係を築けなくなってしまうなどと心配したりはしないが、大人になってもたまにそういうことはあって、主にそれは話している内容があんまり興味の無い物だったりして、流れている音楽に逃避してしまうのだろうとは思う。自分が話しているときは絶対聞いてくれないと不機嫌になるだろうから、やはりそれなりにわがままなのだろう。
 しかしながら最近はやはり体力的な衰えというものがあって、この集中して真剣に聴くというのがなんだか苦手になってきた。通勤などに車で音楽を聴くというのが中心になっているが、曲名などはほとんど覚えていない。もうどこの誰の曲だというのさえどうだっていいという感じだ。
 僕はながら聴きというのが得意じゃ無かったのだが、今では何となく出来るようになってしまった。本を読んでいるときなど好きな曲がかかってしまうと集中できないので、本に集中できるまで音楽はかけないようにしていたものだけど、今は音楽のなっている中でも読めるようである。まあ、確かに出来るだけ邪魔しない曲の方がいいけれど。
 音楽の無い生活なんて考えられないと以前は思っていたようだが、これから先は特に無音でも生きていけなくもないような気がしないではない。もちろん退屈はいまだに嫌だから、無理になくすことも無いのだが。執着しない生き方を理想としていた訳で、人間枯れてくると自然に望むと望まないとにかかわらず、そうなってしまうのかもしれない。くりかえずが、無理に取り上げたりはする必要も無いんですけどね。
 でもまあ、時々無暗にCDを買いまくったりしてしまうので(アマゾンからたくさん送られてきて、いったいこれ、誰が注文したんだ! と過去の自分に悪態をつきたくなる)、ずっと枯れた生き方というのはまだまだ難しいです。
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人の目を気にして生きるなんてつまらない事さ

2012-03-27 | 音楽

 カーペンターズのドキュメンタリーを観た。
 当時は売れている絶頂期にあって、ほとんどの音楽誌や批評家に酷評されたということだった。いわゆるアメリカの時代の空気にぜんぜん合っていないにもかかわらず、売れに売れまくったからである。時代に合っていないのに売れるというが彼らの実力の高さを今となっては証明している訳だが、何しろ当時はマリファナ吸いながら強烈なことを言わなければ面白くもなんともないし、過激な時代批評なしに歌を歌うことはくだらないこととされていたらしい。
 僕はまだ小・中学生だったから何となくしか分からないが、そういう過激さが日本に足りないから不満だったくらいで、確かにカーペンターズは町中に流れて知っていたものの、若い僕は何の興味も無かった。どう考えてもツェッペリンの方が数段かっこいい。同級生の連中は、なんでこのカッコよさがわからんのだろうと、本当に心配してたくらいだ。
 まあしかし僕がカレンに感心したのは、実は彼女がドラムを叩きながら歌うのを見てからである。なんとカッコいいんだろう。ドキュメンタリーでは本人は歌うドラマーという認識があったらしく、歌に専念するのを大変にためらっていたそうだ。しかし周囲の要望がそのような希望を許さず、仕方なく徐々に歌だけに専念せざるを得なくなる。実にもったいないことだったとつくづく思うのであった。何しろリズム感やテクニックが、非常に抜きん出ているではないか。
 後にカレンは摂食障害(拒食症と過食症を繰り返したりしたらしい)がもとで亡くなることになるのだが、親子関係や若いころに少し太めだったことを気にしていたことが、その症状を引き起こした原因になったのではないかといわれている。
 しかしながら僕はこのドキュメンタリーを見ていて、彼女の周りの要求に合わせるという性格が、そのような症状となって自分自身を苦しめたのではないかと疑いを持った。カーペンターズが世界中で愛された一番の要素は、彼女のストレートな歌い方だったようにも思うにせよ、カーペンターズそのものの核となる才能は、やはり兄のリチャードによるものだろう。兄のあり余る才能に感化され、尊敬もし期待に応えようとして、さらに自分を完全な形で表現しようとしていた妹の姿が、手に取るように感じられるのである。
 実際に期待以上に才能を発揮し、兄自身も実は妹のシンガーとしての偉大さに嫉妬に似たようなものも感じていたようにさえ思われた。ピアノプレイヤーとしてだけでなく、曲を作ったりアレンジしたりする人より優れた才能があるという自負を持ちながら、もし神様に何か一つお願いが出来るならば、シンガーとしての才能を欲しいと願っていたと告白するのである。
 暗に、この兄の強い願望が、妹のカレンを逃げ場のない苦しみへ追い込んだのではないだろうか。ドラムが好きな歌の上手い女性が、人々の要望のままに歌に専念せざるを得なかったのである。ドラムをたたきながらだから自由に表現できた歌が、不自由な姿勢で歌わざるを得なくなるということになってしまったのではなかろうか。
 摂食障害になるのは、圧倒的に女性が多いのだという。自分をどの様に見せたいという考え方とも関係があるのだろうけれど、ある意味で自分自身をどの様にかするというのは、人目に対する期待にこたえるという、自分をある意味で曲げるような行為を含んでいるとは考えられないだろうか。自分自身の食べたいという欲求を捻じ曲げてまで、必要以上に見た目を気にしすぎるということが、病的な摂食障害を引き起こしてしまうのではなかろうか。
 つくづく人のための人生を送るというのは、やはり本当には自分のための人生では無いのかもしれない。もともと他人に迷惑をかけるからこそ、人が生きていくという正直な証となるのかもしれない。もちろん程度問題はあるにせよ、そのようなことを許しあえる人間社会でなければ、個人の幸福など実現できないような気がしたのであった。
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少し前のMDを聞いていて

2012-03-26 | 音楽
<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/VVvAteP9Vps" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

 少し前に録音していたのをぼんやり聞いていて、やはり思い立ってCDを買ってしまったバンド。個人的にはアークティック・モンキーみたいでかっこいいと思うんだけど、どうだか。映像では洗練されてなくてかえっていい感じではありますね。若いってのはカッコイイだけじゃつまらないですから。

 アルバムには「ホッキー」と日本語表記してあるんだけど、ホッケーなんじゃないかとも思う訳で。いや、別に発音は詳しくないんだけど、ヤーヤーヤーズだっている訳だし、日本ではそういうことになったんだと言われると、知らなかったよ、というしかないです。
 別に盛りあがって無いので聞き流してくださいませ。


<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/9E5erMtKzFo" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
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ヘリコプターの演奏

2012-03-05 | 音楽
Robot Quadrotors Perform James Bond Theme


 もの凄さと何となくの間抜けさがいい感じです。
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イアン・ハンターとモット・ザ・フープル

2011-11-08 | 音楽
IAN HUNTER 3 Central park n West 3 of 10 NYC 81


 とにかく懐かしくなって。遠征試合の移動の車の中でウォークマン(もちろんカセットテープ)で聞いてました。僕は万年二軍選手だったから試合で活躍できる機会は少なかったけど、移動の車の中でみんなが寝ているときにウォークマンを聞きながら風景を眺めているのが好きでした。

 実はイアン・ハンターがモットだったとは知らずに聞いてました。当時はインタビュアーの質問が気に食わなくて殴ったとかそういう話題が多かったようですが、まあ、そういう時代の空気というのは、何故だか歓迎されていたようにも思いますね。もっとやってくれっていう感じでしょうか。
 確か頭が薄くなってどうだとかいう話題もあったような気がするんだけど、映像では分かりませんね。まあ、分からなくて何も困らないんだけど。

Mott the Hoople All The Young Dudes
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スマパン

2011-11-02 | 音楽
The Smashing Pumpkins - 1979


 中国留学から帰ってきたらスマパンが流行っていて、当然のように繰り返し聞いていた。その頃はいろいろあってなんとなく失意の毎日を送っており、スマパンの表裏のある曲の変化に妙に同調して感じ入っていたということなのかもしれない。
 当時は現物のビリー・コーガンの姿はまだ知らなくて、後にそれなりに驚いた。きっと繊細な感じのか細い人だと勝手に思っていたようだ。

 最近また活動しているようで、なによりでございます。


スマッシング・パンプキンズ 「トゥナイト、トゥナイト」
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Eric Clapton. I shot the sheriff

2011-10-12 | 音楽
Eric Clapton. I shot the sheriff


 録画していたクラプトンを見た。
 エピソード自体は周知のものだったけれど、なんとなく話のトーンは現在のクラプトン人気を基にしているという感じだった。そういう空気のようなものは、それなりに以前からのファンである自分にとっては、ちょっとばかり違和感はある。彼はもう少しいい人じゃないような感じのほうがいいんじゃないだろうか。待てよ、以前にもそんなこと言ったっけか?

 クラプトンに興味を持ったのはジミー・ペイジつながりで、すなわちヤードバーズ。だから最初はクリームの人で、当然全部過去の人。既に古典的な伝説の人ではあった。アマチュアバンドでレイラをやる大人は多くて、僕より先輩たちはそんな感じなのだろうなと思っていた。

 そういう巨匠ではあるものの、クラプトンの最大の功績は、実はレゲエの紹介にあったのではないかという話は、今となっては歴史的に大きくなっているようにも思う。つまり優れた翻訳書を出した研究者のような感じではないか。
 そう言うと誤解する人もあるかもしれないが、それなくして今の音楽の歴史が変わったかもしれないのだから、やはり重要なのだ。優れた理解者だからこそ、今の時代は自然に豊かになったということもいえるのではなかろうか。
 要するに、やっぱりいい人でもいいのであった。
 
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