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「竹下村誌稿」を読む 141 竹下村 1

(散歩道のセンダンの花)

班内のごみステーションを覆うようにセンダンの木が立ち、その花が今盛りなのを、今日初めて見た。秋にはたくさんの実を付けて、落ちてくるので、ごみステーションの清掃当番が大変だとは聞き、実際に実がいっぱい落ちているのを見ていたが、その花を見るのは初めてであった。地味な花だが、よくよく見れば、やっぱり地味か。しかし、黒くて丸いクロマルハナバチが目敏く花を見つけて飛んできていた。

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「竹下村誌稿」の解読も、質侶庄の節を終り、今日から竹下村の節に入る。いよいよ竹下村誌稿の核心に入るわけだが、ここには、竹下村に残る古文書もたくさん紹介されているようで、何か発見があるかもしれない。また、これらの古文書の現物が、現在どうなっているのか。大変気になることではある。合せて、調べてみたい。

      第五節 竹 下 村

明治二十二年、自治制施行の時に方(あた)り、全国の村数一万三千二百四村なりしが、爾来廃合、若しくは市町に編入して、その数を減じ、同三十七年の統計は一万一千七百六十六村と見え、竹下村を包有せる五和村もまたその一なり。
※ 爾来(じらい)- それ以来。その後。
※ 包有(ほうゆう)- 包みもつこと。内にもつこと。


按ずるに和名抄、村、無良と訓ず。村とは群の義なるべし。或るは云う、朝鮮語の転化したるものなりと。因ってこれを字書に徴するに、「人、聚居する所、これ村落と謂う」とあり。また村は里と同一なるものにて、常陸風土記逸文に、
※ 字書(じしょ)- 漢字を分類した辞典のこと。字引。辞書。
※ 聚居(じゅきょ)- 寄り集まって住むこと。


久慈郡西田里、静織里。上古の時、綾織りの機(はた)、人これを未だ知らず。時に、この村初めて織る、に因む名なり。

とあり。地名辞書にも

村は邑をも通用す。古訓、むら、あれ、すき、さと、の四訓あり。その村を佐登と訓じるは、郷と村とは一なる者にて、出雲風土記に、「仁多郡三津里云々、今、産婦、かの村で稲食わず、云々」とあるが如し。

古えは、村を村(アレ)又は邑里(ムラサト)と云いしが、後に郷と改む。大化中(645~650)、国、郡、里の制、定まるに及んで、国を以って郡を統べ、郡を以って里を統べたりしが、霊亀年(715~717)に至り、郷を用い、郷の下に里を置かれしが、鎌倉時代に至りて、郷名は概ね変じて庄園となり。天正以後には、庄郷の称を廃せしより、直ちに郡を以って村を統ぶるに至る。村をあれと云うことは、古史にも見えて、最も古き唱えなり。


読書:「残月 みをつくし料理帖」 高田郁 著
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