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「竹下村誌稿」を読む 146 竹下村 6

(散歩道のアジサイ3)

一見、アジサイらしくないが、これもアジサイである。

新聞によると、昨日の戦闘機らしき編隊機影は、航空自衛隊静浜基地の航空ショーのものであった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この記事によりて見るも、本村草創の状況は略々想像し難きに非ず。然るに掛川誌嶋村の条に、

嶋及び番生寺、竹下、牛尾、横岡の新田を志戸呂五ヶ村と称す。古えは大井川、牛尾山と横岡の間を流れ、下は金谷の河原町の経て、東南、島田の方に至りしを、天正中(1573~1593)、山を裁断して本州に属し、河を山と相賀の間に流し(牛尾山は旧駿河相賀より続きたる山なり)、北、横岡より、南、金谷河原町の間、大井川の趾を開墾して田地とす。元和中(1615~1624)、中野七蔵御代官にて、専らその事をなさしむと云う。

それより以前は、大井川の西岸、ただ志戸呂、横岡、金谷の三村あり。志戸呂は古えの郷名なり。金谷は遠江風土記に云う金峡にして、中古よりの宿驛なり。横岡もまた志戸呂郷の一村にて古き村なり。故に五ヶ村と犬牙相接すると云えども、新たに開墾したる村里にあらずと知るべし。
※ 犬牙(けんが)- 犬のきばのように、互いに食い違ったり入り組んだりしていること。

この五ヶ村開墾の初め、元和中、御代官中野氏、百姓一軒に屋舗分上畑三畝ずつ与えて、新田を開墾せしむ証文、今なお存せり。その後田畑次第に開け、戸口も多く加わりて、寛文十年(1670)二月廿五日、御代官長谷川藤兵衛検地の時に至りて、この村(嶋村)の屋敷五十軒、新屋敷十三軒あり。他の四村も大概、今の三分の二に及べり。初め、五箇村開墾の時、他州の人も来り住せしと云えども、金谷より多く開きたると見えて、竹下村、寛永中(1624~1645)免定に金谷新田の内、竹下村とあり。
※ 免定(めんさだめ)- 江戸時代の年貢の賦課率。

と云えり。されど「金谷より多く開きたると見えて、竹下村、寛永中の免定に金谷新田の内、竹下村とあり」と云えるは首肯し難きが如し。初め五箇村の開墾は天正以後に於いて、金谷と相前後して着手せしものなり。特に隣村横岡の内、大蔵新田は天正以前の開発なりと云う。

この時代は金谷は(つと)宿驛となりて、その名も世間に聞こえしかば、その付近を泛称して金谷と云い、新開地を金谷新田と呼びたりと云う。しかも牛尾の一部は最も古きにして、人文も発達し、真言の寺院(養光寺)さえ存在せし程にて、慶長六年(1601)、代官伊奈忠次より牛尾養光寺(今、曹洞養福寺)へ与えし黒印に、金谷の内、潮村とあるにても知るべし。
※ 夙に(つとに)- ずっと以前から。早くから。
※ 泛称(はんしょう)- 同類のものを一まとめにしていうこと。総称。汎称。


(慶長)八年(1603)、金谷新田の内、金谷にて開きたるものを河原町と称したりと云えり。本村、またその付近の新墾地なれば、金谷新田の内と称したるまでに過ぎざるべし。


読書:「美雪晴れ みをつくし料理帖」 高田郁 著
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「竹下村誌稿」を読む 145 竹下村 5

(散歩道に戦闘機?)

この所、暑い日が続いていたが、今日は好天気の中、涼風が心地良い。昼食後、散歩に出る。時ならぬ轟音がして、上空を戦闘機らしき機影が4機見えた。そして、しばらく行ったり来たりが続いた。静岡空港の発着陸の音はたまに聞こえることはあるが、こういう機影を見るのは珍しい。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

掛川誌牛尾村の条に、

潮山は昔相賀村より続きたる駿河方の山なり。昔は大井川、この山に衝き当り、西に折れ、山と横岡の間を流れ、南、金谷の河原町を経て、東南、島田の方に流れて、直に北より南に流さんために、この山を切り割りて、遠江方に属せり。それより山(潮山)と横岡の間に堤を築き、大井川の跡を開墾して、遂に五ヶ村の田地となせり。或るは云う、この山を切り開きたるは、天正十八年の事なりと。

とあり相伝う。永禄中、大井川大水により、牛尾山と相賀の間、低窪なる所を破壊し、川は山を挟んで東西に分流せし事ありしが、その後に至り、人為を加えて現状となし、山西に堤防を築き、大井川の跡を開墾して田地となせりと云う。因って惟(おも)うに隣村嶋の如きは、河流の分流せし当時より、その中間に開きたるなりしより、その名の因って起りしものならん。また牛尾山開墾に関することは、本稿大井川の条、参照を要す。

按ずるに、大井川の河道を村落となせし当時に在りては、開墾に従事するもの、日を逐(お)い、月を重ねて、各所より来集し、専ら身を畚鍤に委ね、以って今日の平田坦圃となしたるものなり。本村の芝切りたる下島氏に伝うる記録に、
※ 畚鍤(ほんそう)-(「畚」もっこと「鍤」すき)開墾のこと。
※ 平田坦圃(へいでんたんぼ)- 平坦な田圃。
※ 芝切り(しばきり)- 草分け。最初に土地を開拓して新しく町や村を創始すること。


元和七酉年(1621)、中野七蔵様御代官所の時、八左衛門願い上げ候て、高五十四石五斗六升六合畑方に御請仕り、開発いたし、それより段々百姓を入れ替え、川原を切り起し、一村を開き、その後に、寛永六巳年(1629)駿河大納言様御竿入れ、その後に、正保三戌年(1646)十一月、長谷川藤兵衛様御竿入れ、その後に、寛文十戌年(1670)二月、再び長谷川藤兵衛様御竿入れ、都合四度御検地にて、高二百五十三石二升と相成り申し候。
※ 駿河大納言(するがだいなごん)- 徳川忠長(ただなが)。江戸時代前期の大名。従二位大納言。家康の孫。駿遠甲の計55万石を知行。乱行を理由として、寛永9年改易。

元和元卯年(1615)、志戸呂村下嶋源吾の子、八左衛門、初めて竹下村を開く。その節、皆な河原へ縄張りを致し、竹下と名付く。一村を取立て、屋敷相立て切り開き、御年貢は見取りに少々ずつ上納仕り、段々切り開いて、六年目に御竿を相願い申し候事。
※ 見取り(みとり)- 江戸時代、やせた土地や開発後間もない新田などで、収穫が不安定な場合、石高をつけずに、坪刈りをして納米高を決めたこと。
※ 御竿(おさお)- 間竿ともいう。太閤検地以来、検地の際に使用された測量用具で、検地のことを竿入・竿打などともいった。
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「竹下村誌稿」を読む 144 竹下村 4

(散歩道のアジサイ2)

午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座に出席する。選んだ「近代秀歌」は教材の選択を間違えたか。どうも、和歌の解読は難しい。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

竹下村は遠江国榛原郡に属し、古えの質侶郡(元禄以後、公用志戸呂に改む)の一部にして、遠記伝に、志戸呂郷村十、嶋、牛尾、番生寺、竹下、志戸呂、横岡、神尾、福用、高熊、大代とある、竹下これなり。その彊域は四囲平坦なる田村(でんそん)にして、戸数七十四、土地三十九町歩、地価二万と称す。近世検地二百五十三石二升。由来、本村の前身は大井川の河道なりしが、永禄中(1558~1570)、河道の変易せし以降の草創に係るを以って、その以前は沿革の記すべきものなし。
※ 彊域(きょういき)- 境域。土地の境目。境界。
※ 由来(ゆらい)- 昔からそのようであるさま。もともと。元来。


従前五箇村と呼び倣(なら)わしたる本村、及び、牛尾、嶋、番生寺、横岡新田の五村は、古え皆な大井川の河床にして、永禄以後、相前後して開墾したるものなりも、素(もと)質侶郷の地先なるを以って、質侶庄と称し、また志戸呂五ヶ村と呼びなしたるものなり。掛川誌横岡村の条に、

小平、竈谷、新田、城下、新宿、などの名あり。新田は天正以後の開墾せし地にして、嶋、番生寺、竹下、牛尾の四村に、この村の新田を加えて、志戸呂五ヶ村と称する所なり。

因って云う、従来この五箇村及び志戸呂、横岡をも汎称して五箇村と呼びたりしが、明治二十二年、本村外十村を併せて自治区を構成し、新村名を制定するに当たり、従来呼びなしたる、この五箇村の称呼に基づき、これに好字を選(えら)みて、五和村とは名付けたるものなり。
※ 汎称(はんしょう)- 同類のものを広くひっくるめて呼ぶこと。

古えは大井川が牛尾山の西を流れたりしが、天正十八年(1590)、豊臣氏の臣、中村一氏(式部小輔)、駿河十四万石に封せられ、駿府に治す。一氏、治に居ること十一年、この間に力政に励み、土木を起し、牛尾山を截断して、流れを山(牛尾山)と相賀の間に通じ、その流域空閑の地を開墾して田園を開く。
※ 截断(せつだん)-(「さいだん」ともよむ)切断。物をたち切ること。切り離すこと。
※ 空閑(くげん)- まだ開田化されていない土地。


この時、山内一豊(対馬守)掛川城主(六万石)となり、佐野、榛原二郡の大部を領せしかば、横岡より牛尾山に至る堤防を築き、新田を開きたれば、人家次第に増殖して、今、五和村の内、竹下、牛尾、嶋、番生寺、横岡新田及び金谷町の内、金谷河原の聚落となりて、往時激流たりし趾を止めざるに至る。


読書:「京なさけ 小料理のどか屋人情帖19」 倉阪鬼一郎 著
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「竹下村誌稿」を読む 143 竹下村 3

(散歩道のアジサイが咲き出した)

明日の金谷宿大学、古文書講座の課題、藤原定家の「近代秀歌」の準備をする。島田図書館で「近代秀歌」の解説本を借りて来た。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

按ずるに、上古の村は大化改新の時、国郡里の制を定め、村を改め五十戸を里とし、里毎に長一人を置き、里中の適任者を以って里長となす。若し適任者なければ、隣里より撰任せしめたり。而して、この時の里は古代の村をそのままに据え置きたるが、将(はたま)た、分合して新区域を立てたるか、詳らかならざれども、内田博士云う。

五十戸と規定したる上は、古代の村は併合分割して新区画をなし、里編成のために大変革ありたるなるべし。播磨風土記に、里の下に村名存するを以っても、その一証となすべし。

と云えり。要するに、村は群にて、団体の群居せるより起こりたる義にして、後には郡の下にある行政上一区画の称となりしなり。

却説(さて)、本村は竹下の名を冒せり。由緒未だ、確かに証徴すべき記録なくして、ただ、次に示す所に拠りて、その概要の一端を窺うに過ぎざるを遺憾とす。即ち、掛川誌竹下村の条に、
※ 冒す(ぼうす)- 上に覆いかぶす。

竹下村 志戸呂の東北にあり。旧(もと)、竹の下と呼ぶ。寛永中(1624~1645)免定に竹の下村と記せり。同十年より竹下村と呼ぶ。寛文十年(1670)長谷川検地の時に至りて、民家二十七軒あり。この村開墾の初め、東の方、斉藤島の辺、大井川の堤に竹林ありて、その下に人家ありしより、竹の下を村名とすと云う。今なお薮下と云う所あるはその跡なり。
※ 免定(めんさだめ)- 江戸時代の年貢の賦課率。

とあり。今はこの薮下なる地点の存せざるのみならず、その名称の口碑さえ伝わらざるを以って、未だこれを知ること能わず。
※ 口碑(めんさだめ)- 古くからの言い伝え。伝説。

一説に、天正中(1573~1593)、武田氏の遺臣武田宣勝なるもの、駿東郡竹之下に潜伏し、竹之下宣勝と改め、後、縁故を以って本郡菊川に着し、慶長中(1596~1615)、一たび本村に来たり、開墾に着手す。よって竹之下村と称す。これ村名の創始にして、またその頃、豊臣氏関東とあり。密(ひそか)に将士を大阪に招く。武田氏の遺臣、これに応ずるもの多し。宣勝また脾肉の嘆に堪えず、耒耜を抛(なげう)ち、蹶起して大阪(海路)に赴きたりと云う。
※ 隙(げき)- 仲たがいをすること。不和。
※ 脾肉の嘆(ひにくのたん)- 功名を立てたり手腕を発揮したりする機会のないのを嘆くこと。
※ 耒耜(らいし)- すき(鋤)。


この説果たして信ずべきや否かは不明なれど、前記掛川誌に、旧(もと)竹の下と呼ぶ。寛永中の免定めに、竹の下村と記せりと云い、当時大阪にて将士を募りしことも、かの大阪状中にも、剰(あまつさ)え、諸浪人を抱え、籠城の用意相聞き候、とあるを、併せ考えれば、これ全く無根の説にあらざることを推想せらる。記して参照となす。


読書:「ふたり道 父子十手捕物日記17」 鈴木英治 著
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「竹下村誌稿」を読む 142 竹下村 2

(水墨画展の友人雨水氏の作品)

午後、駿河古文書会に出席する。NN氏に南部センターの古文書講座の日程を話す。毎回というわけにはいかないようだが、顔を出していただけると聞く。きっとよいアドバイスを頂けるのではないかと、力強く思う。

帰ってから、夢づくり会館に、水墨画の展示を見学に行く。UK(雨水)氏の作品も見せてもらう。6点ほど出ていて、なかなかの力作揃いであった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

志太郡誌に、国史大辞典を引きて、

村 神武天皇紀に穿邑(これ云う、于介知能務羅)とあるをムラと読みたる字の初見とす。この外、古事記に、熊野村、美奴村など見え、書記に名草邑、磯城村などの字多く見えたり。而して、神武紀に、「邑に君あり。各(おのおの)自彊を分ちて、相凌轢す」とあれば、当時の事情を知るべし。
※ 自彊(じきょう)- みずから努め励むこと。自強。
※ 凌轢(りょうれき)- ふみにじること。ふみつけにすること。


当時、同一氏族の人民が氏の上を長として一つの地域に住したるものをアレ(村)という。アレとはワレと同義なるべし。二、三氏族の人民が氏の上を長として、各団体群居して一の地域に住し、これを統一するにキミ(君)を立てたるものをムラ(邑)という。ムラとは群(ムレ)の義なるべし。
※ 氏の上(うじのかみ)- 古代における氏族の首長。一族を統率して朝廷に仕え、氏人の訴訟を裁く権限をもち、氏神の祭祀をつかさどった。

その後人口漸く増殖し何れのも二、三の氏族の群居することとなりて、アレの称は廃してムラの称のみとなるものと見え、現今に於いて、邑、村の漢字は同じくムラと訓むもこれ故なるべしと、左の説を付せり。

内田文学博士の説に、上古の村落は、一般に或る上級の領主に隷属して、その命を聞き、ある程度までは自治を享有し居りし団体なるを通則となせど、自然の発達により形成せるを以って、種々なる点に於いて、互いに赴きを異にしたるなるべし。而して、村には血縁団体より起れるものと、部民の団集より発展したるものとありて、多くは血族または部民の長が村主となりしものなるべし。
※ 部民(べみん)- 大化前代、大和王権に服属する官人・人民の総称。大別すると、技術者集団である品部(しなべ)、王権に服属した地方首長の領有民である子代(こしろ)・名代(なしろ)、中央の豪族の領有民である部曲(かきべ)に分類される。
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「竹下村誌稿」を読む 141 竹下村 1

(散歩道のセンダンの花)

班内のごみステーションを覆うようにセンダンの木が立ち、その花が今盛りなのを、今日初めて見た。秋にはたくさんの実を付けて、落ちてくるので、ごみステーションの清掃当番が大変だとは聞き、実際に実がいっぱい落ちているのを見ていたが、その花を見るのは初めてであった。地味な花だが、よくよく見れば、やっぱり地味か。しかし、黒くて丸いクロマルハナバチが目敏く花を見つけて飛んできていた。

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「竹下村誌稿」の解読も、質侶庄の節を終り、今日から竹下村の節に入る。いよいよ竹下村誌稿の核心に入るわけだが、ここには、竹下村に残る古文書もたくさん紹介されているようで、何か発見があるかもしれない。また、これらの古文書の現物が、現在どうなっているのか。大変気になることではある。合せて、調べてみたい。

      第五節 竹 下 村

明治二十二年、自治制施行の時に方(あた)り、全国の村数一万三千二百四村なりしが、爾来廃合、若しくは市町に編入して、その数を減じ、同三十七年の統計は一万一千七百六十六村と見え、竹下村を包有せる五和村もまたその一なり。
※ 爾来(じらい)- それ以来。その後。
※ 包有(ほうゆう)- 包みもつこと。内にもつこと。


按ずるに和名抄、村、無良と訓ず。村とは群の義なるべし。或るは云う、朝鮮語の転化したるものなりと。因ってこれを字書に徴するに、「人、聚居する所、これ村落と謂う」とあり。また村は里と同一なるものにて、常陸風土記逸文に、
※ 字書(じしょ)- 漢字を分類した辞典のこと。字引。辞書。
※ 聚居(じゅきょ)- 寄り集まって住むこと。


久慈郡西田里、静織里。上古の時、綾織りの機(はた)、人これを未だ知らず。時に、この村初めて織る、に因む名なり。

とあり。地名辞書にも

村は邑をも通用す。古訓、むら、あれ、すき、さと、の四訓あり。その村を佐登と訓じるは、郷と村とは一なる者にて、出雲風土記に、「仁多郡三津里云々、今、産婦、かの村で稲食わず、云々」とあるが如し。

古えは、村を村(アレ)又は邑里(ムラサト)と云いしが、後に郷と改む。大化中(645~650)、国、郡、里の制、定まるに及んで、国を以って郡を統べ、郡を以って里を統べたりしが、霊亀年(715~717)に至り、郷を用い、郷の下に里を置かれしが、鎌倉時代に至りて、郷名は概ね変じて庄園となり。天正以後には、庄郷の称を廃せしより、直ちに郡を以って村を統ぶるに至る。村をあれと云うことは、古史にも見えて、最も古き唱えなり。


読書:「残月 みをつくし料理帖」 高田郁 著
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「竹下村誌稿」を読む 140 質侶庄 27

(散歩道のルエリア・グラエキザンス)

夜、金谷宿大学教授理事会に出席する。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

世は已に刈菰と乱れ、今川氏歿落後の本庄は、武田、徳川衝突の衢(ちまた)となりて、一旦武田氏に属せるもの十余年、この間庄内牧の原城にて、龍闘虎争の活劇を演じ(本稿驛路の条参照)、天正中に至り、全く徳川氏に帰せり。
※ 刈菰(かりこも)- 刈った菰の乱れやすいことから、「みだる」にかかる枕詞。
※ 龍闘虎争(りゅうとうこそう)- 互角の力を持った両者が激しく闘うこと。


却説(さて)この時代は、民間、郡郷名を係(つな)げず、単に庄名を称したりと見えたり。掛川誌横岡村の条に、


番匠屋敷、今田地となる。また鍛冶の前など云う所あり。城東郡平尾村八幡、永禄九年の鍾銘に、大工志戸呂横岡藤左衛門と云う名あり。その住せし跡なるべし。

(やが)て、織田、豊臣二氏、鋭意治を求め、海内蕩平を致すと同時に、盟主組織の新封建の世を造り、天正中、豊臣氏田制を改め、貫高法(即ち分銭法)を廃し、天下を検地して石高法を建て、諸国郡の石高を録申せしむ。これを太閤縄とも天正の石直し(こくなおし)とも云う。この時、全国の石高一千八百二十五万石と称せしも、本庄の石高詳らかならず。
※ 蕩平(とうへい)- 平定。

これより知行制となり、諸侯を封する石高を以ってし、庄園の制、全く亡ぶ。これに於いて悉(ことごと)く庄保郷里の称を廃し、直ちに郡を以って村を統(す)べ、大いに郡村の境界を正すといえども、庄郷混濫(混乱)の後を承け、またその実を失うもの少なからず。徳川氏の天下に(は)たるに及び、一に豊臣氏の故治襲用し、郷庄の界域に拘泥せずして、単に村を以って政治的基礎とし、石高を以って課税その他の標準となし、元禄中(1688~1704)、石高を重修せしむ。
※ 覇(は)- 武力や権力によって国を統一し、治めること。
※ 故治(こじ)- 古い政治。
※ 襲用(しゅうよう)- 従来の方法・形式などをそのまま受け継いで用いること。踏襲。
※ 重修(ちょうしゅう)- 重ねて調べ直すこと。


この時、全国の石高、大凡(おおよそ)二千六百万石と称す。而して本庄に属するもの四千九百七十石と云う。これより公用「質侶」を改めて「志戸呂」に作る。この時代に至りては、専ら郡村名を称すといえども、民間なお庄号を用いしものありしと見えたり。掛川誌、番生寺村大井権現、寛永九年の札に、質侶庄万生寺とあるが如し。(大正六年八月)
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「竹下村誌稿」を読む 139 質侶庄 26

(散歩道のヤナギハナガサ)

今川義元生誕500年祭の関連事業で、臨済寺に保存されている古文書の解読が始まったとのニュースが流れた。大学の研究室の学生さん達が集って、古文書を見る様子が写っていた。自分が南部センターで解読する文書もその一部になるのだろう。ただ、学生さんたちの解読力では、かなり誤読が出るのではないかと心配する。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

小笠郡誌長松院の記事に、

明応中、今川氏親の麾下、河井宗忠、当国松葉の城にあり。敵のために、その居城を攻略され、走りて、当院境内に来たりて自殺す。氏親これを悼み、明応五年九月、采地を当院に寄与して、永く功臣の菩提を弔わしむ。
※ 麾下(きか)- ある人の指揮下にあること。部下。
※ 采地(さいち)- 領地。知行所。


とあり、この時、同院住職一訓和尚は、今川氏親に俗縁(今川範忠の子、五郎氏親の叔父)を有せし故を以って、氏親、河井氏の采地を同院に寄付して、冥霊を弔わせしむと云う。その寄付状は同院に蔵する古文書に、
※ 冥霊(めいれい)- あの世の霊。

遠江国金谷郷内、東深谷、山口郷内、奥野、下西郷内、仏道寺、並び五反田の事。
右、新所として、これを寄進奉る上は、前々の如く執務あるべきの状、くだんの如し。
   明応五丙辰九月二十六日        五郎花押
                   長松院


また宗忠遺孤あり。宗在という。宗忠戦死の際逃れて、三河に匿れ、生長して徳川氏に仕え、親信せられ功を以って、作岡城の代官となり、後、酒井家の老職となると云う。文政中、松崎慊堂の撰(えら)みたる河井氏の碑文、小孝節録に見えたれば、転写して参稽となすべし。
※ 遺孤(いこ)- 両親の死後に残された子供。遺児。
※ 参稽(さんけい)- 参考。


河井氏之系、藤将軍利仁に出ず。後七世、越前守則重と曰う。越前の河井庄に食邑し、子孫、明応の間に至り、氏を遂ぐ。父但馬、諱(いみな)宗忠君、遠江国松葉城主たり。その士、落合久吉は、陰叛し、志戸呂城主、鶴見因幡に附き、門を啓(ひら)き、敵を納(いれ)る。事、不意に出ず。宗忠、見兵を督し、奮撃して克ち、因幡及び久吉を獲える。而して、衆寡、敵ならず、士また殲(ほろ)びん。宗忠、その長子を叱咤し、奥野長松院に入り、自ら屠(さ)きて死す。宗在、なお嬰孩、その下、襁(むつき)を負う。参(州)の岡崎に匿(かく)る。既に長じて、宗忠の遺孤(遺児)を以って、勇なること、諸豪間に聞こえ、徳川公に仕える。功有りて、作岡城代官となり、後、酒井の家老となると云う。
※ 食邑(しょくゆう)- 知行所。采邑。領地。
※ 陰叛(いんはん)- ひそかに叛く。
※ 衆寡(しゅうか)- 多いことと少ないこと。多数と少数。
※ 嬰孩(えいがい)- 赤ん坊。ちのみご。嬰児。
※ 材(ざい)- もちまえ。性質。


読書:「坂本龍馬殺人事件」 風野真知雄 著
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「竹下村誌稿」を読む 138 質侶庄 25

(城北公園のカルガモ/一昨日撮影)


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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

しかも勝間田氏は常に今川氏に反きたれば、その麾下たる河井氏を讐敵視したるは当然なるべし。この勝間田氏は城東郡の人、横地氏と共に本州の名族なり。応仁以後、何れも斯波氏に党し、今川氏に叛き、文明七年(1475)四月、二氏皆な、今川義忠のために鏖滅せられしことは、今川記その他の記録に存せり。されば、この播磨守はその余類一族などの余喘を保ち、廿二年の後、(明応五年)に於いて勃発せしものなるべし。
※ 麾下(きか)- ある人の指揮下にあること。部下。
※ 讐敵(しゅうてき)- 恨みに思う相手。かたき。
※ 鏖滅(おうめつ)- 皆殺しに滅ぼす。
※ 余類(よるい)- 残った仲間。残党。
※ 余喘を保つ(よぜんをたもつ)- やっと生き長らえている。また、滅びそうなものが、かろうじて続いている。


駿河志料に、文明中(1469~1487)、横地氏の余蘗は甲斐に走り、勝間田氏の族、伊野弾正は一旦富士の根方、印野村に潜伏せりとあり。遠江古跡図会にも、明応中(1492~1501)、伊野弾正と云うもの、河井宗忠の城を攻むとあれば、これらの徒が鶴見氏と相結合して、激動せしものと見えたり。而して宗忠の終焉は明応五年(1496)九月十日にして、松堂録に、
※ 余蘗(よげつ)- ひこばえ。切り株や木の根元から出る若芽。

明応丙辰、秋の十日、菊源氏成信、侍中補安宗忠庵主、戦死す。因野贅言一章を述べ、還郷一曲と為す。以って行く餞行云爾 
 因縁時節遇冤讐  因縁の時節、冤讐に遇う
 剣刃光中皈凱秋  剣刃(けんじん)の光中、凱(やわら)ぐ秋に皈(かえ)
 端的万關透過去  端的万関、過去を透す
 一心忠義徹皇州  一心の忠義、皇州に徹す

※ 明応丙辰 - 明応5年。1496年。
※ 們(もん)- ともがら。
※ 贅言(ぜいげん)- むだなことを言うこと。また、その言葉。
※ 還郷(かんきょう)- 故郷に帰ること。
※ 餞行(せんこう)- 送別のはなむけ。
※ 云爾(うんじ)- しか云う。のみ。「以って送別の餞(はなむけ)とするのみ。」
※ 冤讐(えんしゅう)- あだ。誤って仇とされる。ぬれぎぬ。
※ 端的(たんてき)- 物事の結果が即座に表れるさま。たちどころに。
※ 万関、過去を透す - 過去のことは水に流すの意か。


とあり。この吊詞(弔辞)によりて見るも、宗忠は今川家無二の忠臣なることを知るべし。この松堂録は本郷長福寺住職、松堂和尚が平常自記せし詩文にして、室町中葉に於ける遠州の史、棄徴すべきもの殆んど少なし。この書、多く文明、明応などのことを記す。当時の人にして、当時のことを記せしものなれば、最も信憑すべきものなりと云う。
※ 棄徴(きちょう)- 取捨(?)。
※ 信憑(しんぴょう)- 信用してよりどころとすること。信頼すること。
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「竹下村誌稿」を読む 137 質侶庄 24

(城北公園のアメリカシャクナゲ/昨日撮影)

午後、金谷宿大学の「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

そは藩翰譜、安倍氏の伝中に、
※ 藩翰譜(はんかんふ)- 江戸時代の家伝・系譜書。著者は儒者の新井白石。全12巻。

かくて信玄、駿河国を攻め取りて、要害五ヶ所を構えて遠江国をも併(あわ)せんとす。元真父子また御勢八十騎を差し添えられて、彼の要害を悉(ことごと)く攻落す。徳川殿、御感斜めならず、父子に仰せて、遠江国伯耆が塚の要害に帰り、駿河国の境を守らせらる。頓(やが)て、八向山の要害に押し寄せて攻落し、進んで八向山を守る。
※ 元真父子(もとざねふし)- 安倍元真、信勝父子。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、徳川氏の家臣。
※ 御感(ぎょかん)- 貴人が感心なさること。おほめ。
※ 斜めならず(ななめならず)- ひととおりでない。いいかげんでない。


とあるものには非ざりしにや。果たして然らば、この砦も一旦武田氏に属せしものならん。

却説、鶴見氏事蹟の対象として河井氏に関する記事を伝うれば、
※ 却説(きゃくせつ)- 話題を改めるために文頭におく言葉。「さて」「そこで」の意。

遠記伝云う、松葉城跡、倉真郷中松葉に在り。川井成信居城なり。郷人曰う、成信は山名郡川井村の客居人なり。松葉城主たるの時、家臣落合九郎左衛門久吉、姦佞してこれを謀り、城飼郡勝間田播磨守、及び榛原郡志戸呂鶴見因幡守某、松葉城を鬩(せ)め数戦、城主川井成信、利あらずして破れる。時に明応五年(1496)秋日、成信、菩提淵に於いて自殺し、、御内淵に死す。二基の墓、奥野長松院に在り、云々。
※ 客居(かっきょ)- 旅ずまい。
※ 姦佞(かんねい)- 心が曲がっていて悪賢く、人にこびへつらうこと。
※ 室(しつ)- 妻。特に、身分の高い人の妻。奥方。


長松院記云う、寛延三年、河井宗忠、当時今川家の幕下にして、倉真村松葉の城主たり。その頃、勝間田播磨守(榛原郡門原村に住せり)、鶴見因幡守(同郡志戸呂村に住せり)と云うものあり。故ありて、相与に謀りて松葉の城を襲う。時に河井氏の家臣、落合九郎左衛門久吉なるもの、内に恨む事ありて、裏切りをなせしかば、宗忠たちまち利を失いて、竟(つい)に戦死するに至る。その妻女、また深淵に溺死す。その所を宗忠淵、御台淵など云う。
※ 寛延三年 - 1750年、江戸時代のことになるため、間違いと思われる。
※ 幕下(ばっか)- 将軍・大将の配下。また、家来。手下。
※ 相与(そうよ)- 相互に。互いに。


と見え、一朝事あれば勝敗を干戈に訴えるは、戦国時代の通弊なりとす。
※ 干戈(かんか)-(「干(たて)」と「戈(ほこ)」の意)武器。また、武力。
※ 通弊(つうへい)- 一般に共通してみられる弊害。


読書:「小屋を燃す」 南木佳士 著
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