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「竹下村誌稿」を読む 150 竹下村 10

(散歩道のサルビア・ミクロフィラ)

午後、静岡南部生涯学習センターの古文書講座、第一回を何とか終えて来た。ほぼ、予定した部分を解読したが、集まったメンバーが南部郷土史大学のグループで、それぞれテーマを持って活動されているようで、郷土史には興味があるが、必ずしも古文書の解読に興味があるグループということではなかったようであった。一回にこなす量が半端ではなかったので、かなりスピードを挙げて解読したけれども、解読についての反応はなかった。本当は古文書を解読する楽しさを伝えたいのだが、考え方を変えなければならないのだろうか。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(寛永)十四年(1637)、本村常安寺を建立す。(本稿寺院の条参照)

この年八月、大坂の遺臣、芦塚忠右衛門など、天草の天主教徒を煽動し不軌を謀り、島原城に拠(よ)る。幕府、板倉重昌、松平信綱などをして、これを討たしむ。賊軍猖獗、重昌戦死す。信綱持久して年を踰(こ)え、城を屠(ほふ)り、乱を平(たい)らぐ。世に謂う天草騒動にして、これより幕府国内に令して、切支丹宗を厳禁す。これを訴人懸賞令と称す。寛永十五年(1638)九月十三日なり。幕府、天主教を称して切支丹宗と云う。
※ 不軌(ふき)- 謀反を企てること。反逆。
※ 猖獗(しょうけつ)- 猛威をふるうこと。
※ 訴人懸賞令(そにんけんしょうれい)- キリシタンを訴え出た者に、一定の賞金を与える制度で、この懸賞令を記した高札は「切支丹札」と呼ばれた。


(寛永)十六年(1639)、これまで本村は中泉代官の支配なりしが、野田代官長谷川藤兵衛(長親)支配所となる。因って云う、長親は長盛の子なり。長盛はその先、伏見の人、天正中(1573~1593)、徳川氏に仕え軍忠あり。子孫、擢(あげ)られ代官となる。長谷川氏は父子三世(長親、長勝、長春)藤兵衛と称し、相継ぎその職を襲い、元禄中(1688~1704)に至り旗士となる。初め長谷川氏志太郡大草村に住し、後、野田村に転じ、また島田町に移る。その所内、駿遠(大井川両岸)に亘りて、大凡三万五千石を支配し、頗る勢力あり。
※ 軍忠(れい)- いくさの折に示す忠節。軍功。
※ 旗士(きし)- 旗持ちの兵。旗卒。


当時人口に膾炙せしと云い、伝うる俚謡に、「藤兵衛さまの御屋敷御覧、店から奥まで嫁入りの仕度、嫁入りの仕度に何々御座る、長持七棹、箪笥が八棹、十二の手箱が光り候、十二の手箱が光るぢゃないか、御門に御馬が四十五匹、四十五匹の御馬でやるか、御駕籠でやるか、さらば御駕籠に致しましょう」以ってその一班を推想すべし。
※ 膾炙(かいしゃ)- 世の人々の評判になって知れ渡ること。
※ 俚謡(りよう)- 地方で歌われる唄。さとうた。民謡。
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