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「竹下村誌稿」を読む 148 竹下村 8

(散歩道のオオキンケイギク)

キバナコスモスに似ているが、葉の形状がコスモスとは違う。北米原産の花である。繁殖力が強く、カワラナデシコなどの在来種に悪影響を与えるとして、栽培禁止になっているというが、野生化して土手などでよく見られる。花の色はキバナコスモスよりも薄くて、咲き揃うと、なかなかきれいである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

初め斉藤氏が開墾をなすに当たり、下井用水(隣村牛尾地内)より用水路を開設して、墾田に灌漑す。これを横井川と云う。本村の地内にして、この川によりて灌漑を需(もと)むる、石高三十六石の田地は、皆な同氏の開墾せし所なりと云う。また斉藤島の近辺に籾蒔島と云う所あり。同氏が開墾をなせる当時、整地の出来ざる場所は、石河原のまま籾を蒔き付けたるを以って、その名ありと云う。また郡志に、

斉藤左衛門三郎 これ素より如何なる出自の人なるか、明らかならざれども、強いて類似の名字を求むれば、貞和年中(1345~1349)、斉藤左衛門太夫と云うものあり。勝間田氏とともに、直義のことに従い、また応安、永和の頃(1368~1379)、斉藤三郎左衛門と云う人ありて、毎(つね)に勝間田氏と同列にて、将軍義満に供奉し、八幡宮社参、及び将軍の初参内などに、その名を列すること、勝間田氏の項に挙げたるが如し。而してまた「今川記」の著者、斉藤道斎(駿河蒲原住人)が自家のことを叙したる記事中、
※ 直義(ただよし)- 足利直義。南北朝時代の武将。尊氏の弟。室町幕府成立に伴い、尊氏を補佐して政務を担当、守護級の足利一門や寺社本所勢力の支持を得たが、急進派の高師直と対立、尊氏とも袂を別ち、鎌倉で尊氏に討たれた。(観応の擾乱)

(そもそも)、我らが父祖の古え、勿論人の数ならねども、元は京都に祇候し殿中にまじわり、番役なども勤仕せしが中頃、所領につき、遠江に下りし後は、京都も乱れ、公方にもたびたび、御没落の御事なれば、おのずから奉公の望みも絶えしにや。この一、二代は今川殿の被官と成りて在園せしなり。さるから駿遠参州のことは、よく知れる事なれば云々。
※ 人の数ならねど - 人数に入らない。一人前の人として数えられない。
※ 祇候(しこう)- つつしんでお側に奉仕すること。
※ 勤仕(ごんし)- 務めにつくこと。勤務。
※ 被官(ひかん)- 中世、上級武士に仕えて家臣化した下級武士。


となせり。この書、何れの頃に成りしものなるか、明記なけれども、記事の末尾は、延徳三年(1491)伊勢長氏が伊豆の茶々丸を討ちたるまでにて、その後のことを記さゞれば、大要今川時代の人なることは、推せらるゝが如し。而してその斉藤左衛門三郎と如何なる関係を有するかは、素より不明に属すれども、或るはこれら皆な同族の人々には非ずやと想像せらるゝのみなり。
※ 伊勢長氏(いせながうじ)- 北条早雲。室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖。早雲が堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。
※ 大要(たいよう)- あらまし。概要。


と云えり。兎に角土人が斉藤殿と称し、遺物に鎗のあるのみならず、その分家たる斉藤代次氏の家に伝わる、長さ一尺五寸五分、兼定の銘のある一刀は、分家の際、紀念として与えられたるものなりと云うを見るも、斉藤左衛門三郎は素(もと)武人にして、村内に右族たりしものゝ如し。
※ 右族(ゆうぞく)- 勢力ある家柄。名門。


読書:「天の梯 みをつくし料理帖」 高田郁 著

江戸時代の料理の解読をしなければならないと、和食料理人の甥っ子に話したところ、参考に、と本を提供してくれた。さらに「みをつくし料理帖」という小説を読むと良いと教えてくれた。「みを~」はこれで全十巻を読了した。面白くて熱中して読み終えたが、参考になったかといえば、あまり参考にはならなかった。同じ江戸時代でも、精進料理はまた違う料理のようだ。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
斎藤家 (saito)
2018-05-24 13:34:40
文中、斎藤家は斎藤技研さん、分家は
斎藤秀夫さんの事
刀は戦時中供出され今は無い。
 
 
 
情報感謝! (きのさん)
2018-05-24 15:46:58
先日、斉藤技研さんが、本家の女性(年配の方)と共に、来訪され、墓石の文字解読の相談を承けました。墓石の剥落がひどくて、解読には至りませんでしたが、その女性は斉藤家のことを色々調べてみえるらしく、竹下村誌稿も付箋がいっぱい付いていて、読み込まれているようでした。
 
 
 
斎藤家 (saito)
2018-05-25 13:42:13
大代のお姉さんですね。

大阪の話はお聞きになりましたか。
技研さんに留守番を残して大阪に行ったようです。
敗戦で戻ってきたのでしょう。
そのときに一緒に何人か連れてきたすると
牛尾の臼井家文書の記述と符合するかと
思います。
 
 
 
大坂の話 (きのさん)
2018-05-25 22:10:43
大坂の話は、今読んでいる、竹下村誌稿の竹下村の項に載っていました。

牛尾の話のきっかけにはなったかもしれませんが、牛尾の話は荒唐無稽でどうにもついて行けませんでした。
 
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