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「竹下村誌稿」を読む 140 質侶庄 27

(散歩道のルエリア・グラエキザンス)

夜、金谷宿大学教授理事会に出席する。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

世は已に刈菰と乱れ、今川氏歿落後の本庄は、武田、徳川衝突の衢(ちまた)となりて、一旦武田氏に属せるもの十余年、この間庄内牧の原城にて、龍闘虎争の活劇を演じ(本稿驛路の条参照)、天正中に至り、全く徳川氏に帰せり。
※ 刈菰(かりこも)- 刈った菰の乱れやすいことから、「みだる」にかかる枕詞。
※ 龍闘虎争(りゅうとうこそう)- 互角の力を持った両者が激しく闘うこと。


却説(さて)この時代は、民間、郡郷名を係(つな)げず、単に庄名を称したりと見えたり。掛川誌横岡村の条に、


番匠屋敷、今田地となる。また鍛冶の前など云う所あり。城東郡平尾村八幡、永禄九年の鍾銘に、大工志戸呂横岡藤左衛門と云う名あり。その住せし跡なるべし。

(やが)て、織田、豊臣二氏、鋭意治を求め、海内蕩平を致すと同時に、盟主組織の新封建の世を造り、天正中、豊臣氏田制を改め、貫高法(即ち分銭法)を廃し、天下を検地して石高法を建て、諸国郡の石高を録申せしむ。これを太閤縄とも天正の石直し(こくなおし)とも云う。この時、全国の石高一千八百二十五万石と称せしも、本庄の石高詳らかならず。
※ 蕩平(とうへい)- 平定。

これより知行制となり、諸侯を封する石高を以ってし、庄園の制、全く亡ぶ。これに於いて悉(ことごと)く庄保郷里の称を廃し、直ちに郡を以って村を統(す)べ、大いに郡村の境界を正すといえども、庄郷混濫(混乱)の後を承け、またその実を失うもの少なからず。徳川氏の天下に(は)たるに及び、一に豊臣氏の故治襲用し、郷庄の界域に拘泥せずして、単に村を以って政治的基礎とし、石高を以って課税その他の標準となし、元禄中(1688~1704)、石高を重修せしむ。
※ 覇(は)- 武力や権力によって国を統一し、治めること。
※ 故治(こじ)- 古い政治。
※ 襲用(しゅうよう)- 従来の方法・形式などをそのまま受け継いで用いること。踏襲。
※ 重修(ちょうしゅう)- 重ねて調べ直すこと。


この時、全国の石高、大凡(おおよそ)二千六百万石と称す。而して本庄に属するもの四千九百七十石と云う。これより公用「質侶」を改めて「志戸呂」に作る。この時代に至りては、専ら郡村名を称すといえども、民間なお庄号を用いしものありしと見えたり。掛川誌、番生寺村大井権現、寛永九年の札に、質侶庄万生寺とあるが如し。(大正六年八月)
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