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「竹下村誌稿」を読む 128 質侶庄 15

(散歩道のハウチワマメ/4月27日撮影)

先日、古文書の教材でお世話になっている、若い古本屋のTS氏から電話があり、島田のポポロで骨董市があり、頼まれて出品しているので、覗いてみてほしいという。今朝、会場に行ってみた。TS氏は見えなかったが、古書や古文書も出ていた。一通り見て回り、一つ判ったことがあった。それは自分は骨董品には興味がないことであった。古文書も、中身を読んでみたい気持ちは強いが、古文書そのものを手に入れたいわけではない。それを再確認して、会場を後にした。

掛川からまあくん一家が合流して、お昼はうどんのリクエストであった。麺類は自分の担当だから、大鍋を用意した。孫4人、大人5人で、100gの乾麺を10束、1キログラムを茹でた。大皿二つに盛ってみて、作り過ぎたかと思ったが、結果、残らず完食であった。孫の食べ量もだんだん大人に近付いてくる。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

これらは何れの時代より起りしか詳らかならずといえども、「保」は後一条天皇の時、穀倉院領播磨国小犬丸保ありしこと、壬生文書に見ゆれば、古くよりありしことを知るべし。「名」は大日本租税志に、宇佐八幡神領記を引いて、保安(1120~1124)、天喜年間(1053〜1058)、名田の名ありとあれば、それ以前より称したりと見えたり。

王朝の末には名田のこと、諸書に散見せり。また太平記大全に、名は田壱町歩を云うなりとあり。されど源平盛衰記に、源頼朝、名田百町歩を烏帽子商人に賜いしこと見ゆれば、単に、壱町歩には限らざるものの如し。名田は原と開墾したる人の名を負わせたる地にして、後世、大小名と称するものはこの地を占有する。多きものを大名と云い、少なきものを小名と云いしより起りたる名に外ならず。

鎌倉の末には名田に限らず単に土地を多く領し家子郎党などを養う武門の領袖をも大名と云えり。室町時代には数国を領有するものを皆な大名と称せり。この名は久しく因襲し馴致して、後世に至りしものなり。

永禄三年、今川氏真寄付状に、榛原郡金谷郷深谷の内宮田名の儀と見え、江戸時代となり、土地の権利を認むる公券などにも某の名田と書かせしものあり。必(畢)竟、名は私田の一種にして、これに所有者の名を付して呼びしを以って、これを名田と云うに至る。厨、園は駿河雑記に、

御厨とは太神宮の供御料の田を云うなり。これを御園とも云えり。

とあり。これを要するにその実、皆な庄園の一種に外ならざりしなり。

大凡これら私占の庄園、国郡に編布してより、郷戸保名などの旧地、皆な庄園に変化したるのみならず、年を経(ヘ)、世を易えるに随い、大小の田土(田地)、その名の如何を問わず、一切私有世襲の習俗をなし、随いて賦課の旧制も破れて、画一の制度なきに至るものゝ如し。
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