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「竹下村誌稿」を読む 145 竹下村 5

(散歩道に戦闘機?)

この所、暑い日が続いていたが、今日は好天気の中、涼風が心地良い。昼食後、散歩に出る。時ならぬ轟音がして、上空を戦闘機らしき機影が4機見えた。そして、しばらく行ったり来たりが続いた。静岡空港の発着陸の音はたまに聞こえることはあるが、こういう機影を見るのは珍しい。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

掛川誌牛尾村の条に、

潮山は昔相賀村より続きたる駿河方の山なり。昔は大井川、この山に衝き当り、西に折れ、山と横岡の間を流れ、南、金谷の河原町を経て、東南、島田の方に流れて、直に北より南に流さんために、この山を切り割りて、遠江方に属せり。それより山(潮山)と横岡の間に堤を築き、大井川の跡を開墾して、遂に五ヶ村の田地となせり。或るは云う、この山を切り開きたるは、天正十八年の事なりと。

とあり相伝う。永禄中、大井川大水により、牛尾山と相賀の間、低窪なる所を破壊し、川は山を挟んで東西に分流せし事ありしが、その後に至り、人為を加えて現状となし、山西に堤防を築き、大井川の跡を開墾して田地となせりと云う。因って惟(おも)うに隣村嶋の如きは、河流の分流せし当時より、その中間に開きたるなりしより、その名の因って起りしものならん。また牛尾山開墾に関することは、本稿大井川の条、参照を要す。

按ずるに、大井川の河道を村落となせし当時に在りては、開墾に従事するもの、日を逐(お)い、月を重ねて、各所より来集し、専ら身を畚鍤に委ね、以って今日の平田坦圃となしたるものなり。本村の芝切りたる下島氏に伝うる記録に、
※ 畚鍤(ほんそう)-(「畚」もっこと「鍤」すき)開墾のこと。
※ 平田坦圃(へいでんたんぼ)- 平坦な田圃。
※ 芝切り(しばきり)- 草分け。最初に土地を開拓して新しく町や村を創始すること。


元和七酉年(1621)、中野七蔵様御代官所の時、八左衛門願い上げ候て、高五十四石五斗六升六合畑方に御請仕り、開発いたし、それより段々百姓を入れ替え、川原を切り起し、一村を開き、その後に、寛永六巳年(1629)駿河大納言様御竿入れ、その後に、正保三戌年(1646)十一月、長谷川藤兵衛様御竿入れ、その後に、寛文十戌年(1670)二月、再び長谷川藤兵衛様御竿入れ、都合四度御検地にて、高二百五十三石二升と相成り申し候。
※ 駿河大納言(するがだいなごん)- 徳川忠長(ただなが)。江戸時代前期の大名。従二位大納言。家康の孫。駿遠甲の計55万石を知行。乱行を理由として、寛永9年改易。

元和元卯年(1615)、志戸呂村下嶋源吾の子、八左衛門、初めて竹下村を開く。その節、皆な河原へ縄張りを致し、竹下と名付く。一村を取立て、屋敷相立て切り開き、御年貢は見取りに少々ずつ上納仕り、段々切り開いて、六年目に御竿を相願い申し候事。
※ 見取り(みとり)- 江戸時代、やせた土地や開発後間もない新田などで、収穫が不安定な場合、石高をつけずに、坪刈りをして納米高を決めたこと。
※ 御竿(おさお)- 間竿ともいう。太閤検地以来、検地の際に使用された測量用具で、検地のことを竿入・竿打などともいった。
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