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「竹下村誌稿」を読む 149 竹下村 9

(二階の戸袋に巣作りしたムクドリ)

しばらく前から気付いていたことだが、二階の戸袋にムクドリが巣作りした。長い間、雨戸の開け閉めをしなかったから、絶好の巣が出来たのだろう。頻繁に、オスメス交替で餌を運んでいる。雛の声は日毎に大きくなり、間もなく巣立ちの時が来るだろう。

明日の南部生涯学習センターの予習をした。ニ、三ヶ所誤りに気付き、資料はもう渡っているので、明日の講義で訂正しなくてはならないと思う。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

以上に於いて、既に本村草創の大要を記したり。これより以下に記述する所は、すべて一地方の行政に関し、区々たる事項多きも、本村に最も適切なるものなれば、年序を逐(お)うてこれを記する。左の如し。
※ 区々(くく)- 小さくてとるに足りないさま。
※ 年序(ねんじょ)- 年月。年数。歳月。


(そもそも)本村創始の当時は遠江宰相(徳川頼宜)の封内なりしが、宰相転封(元和五年)後幕領となり、元和七年(1621)、始めて代官中野七蔵(中泉)の検地あり。反別不明なるも全部畑請にて、高五十四石五斗六升六合、外に屋敷二十三軒分(一軒三畝歩)の地子を免除し、専ら開墾を奨励せらる。地人、七蔵様の御竿と云う。因って云う、検地に新検、古検の別あり。慶長以前のものを古検または古新田と云い、以後のものを新検と云う。
※ 遠江宰相(とおとうみさいしょう)- 徳川頼宜。徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て、紀伊国和歌山藩の藩主となった。八代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。
※ 畑請(はたうけ)- 畑として検地帳に記載されていること。
※ 地子(じし)- 室町時代以降、都市の屋敷地に対する宅地税。原則として銭納。
※ 地人(ちじん)- 土地の人。


寛永元年(1624)八月、駿河大納言(徳川忠長)の領地となる。同五年、本村芝切りたる下島八左衛門、家屋を建つ。これ本村家屋建築の嚆矢なりと云う。(下嶋氏記録)
※ 嚆矢(こうし)- 物事のはじまり。最初。

(ちなみ)に忠長は徳川三代将軍家光の同母弟にして、初め甲府に封ぜられ、権中納言に任じ遠駿二国を賜り、甲斐を併せて五十五万石を領せしより、駿府を以って居城となし、従二位権大納言に遷(うつ)り駿河大納言と称す。常に先考の寵を恃(たの)み、驕縦にして不法の行為多く、これに至りて遂に罪を得、甲斐に幽せられ、明年高崎に自尽す。
※ 先考(せんこう)- 死んだ父。亡父。ここでは二代将軍秀忠のこと。
※ 驕縦(きょうじゅう)- おごりたかぶり、勝手気ままであること。
※ 自尽(じじん)- 自殺すること。自害。


読書:「雪の重み」 松田宏 著
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