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「竹下村誌稿」を読む 147 竹下村 7

(散歩道のサルビア・ガラニティカ)

午前中、アクアの車検、一時間で終る。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

強いてその類例を索(もと)むれば、明応五年(1496)、今川氏親の長松院寄附状に、遠江国金谷郷内東深谷と書せしものと、略(ほぼ)同筆法なるべし。この東深谷は古えより金谷郷にあらずして、質侶郷なりしことは左出によりて自明なるべし。

掛川誌に 質侶郷に志戸呂村あり。金谷以北、横岡、大代、牧野原、菊川、東深谷、石神などの諸村、質侶郷なり。また金谷は古え質侶郷中なり。然るに後世、質侶を庄と称し、金谷を郷と称す。

とあるのみならず、金谷町志に、

按ずるに、金谷は古昔、志戸呂、牧之原、菊川などの諸邑と共に質侶庄と称す。
※ 古昔(こせき)- むかし。いにしえ。

とあり、この庄は世の推移により郷名を変じたるものなれば、金谷は質侶郷なることを町志は裏書したるものと云うべし。然るにも拘わらず、前記寄附状に質侶郷と云わずして、金谷郷と書したるものは、思うに明応の頃(1492~1501)には、世は乱れて郷庄も錯雑して弁え難く、質侶郷の名を称するものさえなければ、東西にその名の知れ易き金谷を冠(かぶ)らして、金谷郷とは称したるに過ぎず。要するに、金谷より多く開きたるを以って金谷新田と称したるに非ざるべく、時代の趨勢によりて書したるものに外ならざるべし。されば本村と金谷と何ら没交渉なりと知るべし。
※ 錯雑(さくざつ)- まとまりがなく入りまじっていること。錯綜。

また掛川志竹下村の条に、

斉藤左衛門三郎墓 村の東、斉藤島と云う所にあり。松を植えて標(しるし)とす。左衛門三郎は百姓政八が先祖なり。土人斉藤殿と称す故に、その宅地の辺りを斉藤島と呼ぶ。来歴詳らかならず。遺物、鎗一本を蔵せり。

とあり。この斉藤左衛門三郎はその来歴不明にして、如何なる縁因を有し本村に土着し、開拓に従事せしものなりや、詳らかならずといえども、大阪落城後来着せしものなりとの伝唱もあれば、或るは豊臣氏の遺臣なるが如し。されば、前に掲げし竹之下信勝と、何らかの縁故を辿りて来たりしには非ざるか。

而して、本村の芝切り、下島氏と相下らず。故に、同氏の開基に係わる常安寺境内に、墓地を設くるを欲せず、別に兆域を立ちたるもの、即ちこの墓なりと云う。この墓地、二十年前までは、斉藤松と称する松と共に存在せしが、今は犂(す)きて田となり、松は摧(くだ)けて薪となりしも、遺物の鎗は、なお当主五助氏に伝う。
※ 相下らず(あいくだらず)- 引き下がらない。へり下らない。
※ 兆域(ちょういき)- 墓地。墓所。
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