平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 144 竹下村 4
午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座に出席する。選んだ「近代秀歌」は教材の選択を間違えたか。どうも、和歌の解読は難しい。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
竹下村は遠江国榛原郡に属し、古えの質侶郡(元禄以後、公用志戸呂に改む)の一部にして、遠記伝に、志戸呂郷村十、嶋、牛尾、番生寺、竹下、志戸呂、横岡、神尾、福用、高熊、大代とある、竹下これなり。その彊域は四囲平坦なる田村(でんそん)にして、戸数七十四、土地三十九町歩、地価二万と称す。近世検地二百五十三石二升。由来、本村の前身は大井川の河道なりしが、永禄中(1558~1570)、河道の変易せし以降の草創に係るを以って、その以前は沿革の記すべきものなし。
※ 彊域(きょういき)- 境域。土地の境目。境界。
※ 由来(ゆらい)- 昔からそのようであるさま。もともと。元来。
従前五箇村と呼び倣(なら)わしたる本村、及び、牛尾、嶋、番生寺、横岡新田の五村は、古え皆な大井川の河床にして、永禄以後、相前後して開墾したるものなりも、素(もと)質侶郷の地先なるを以って、質侶庄と称し、また志戸呂五ヶ村と呼びなしたるものなり。掛川誌横岡村の条に、
小平、竈谷、新田、城下、新宿、などの名あり。新田は天正以後の開墾せし地にして、嶋、番生寺、竹下、牛尾の四村に、この村の新田を加えて、志戸呂五ヶ村と称する所なり。
因って云う、従来この五箇村及び志戸呂、横岡をも汎称して五箇村と呼びたりしが、明治二十二年、本村外十村を併せて自治区を構成し、新村名を制定するに当たり、従来呼びなしたる、この五箇村の称呼に基づき、これに好字を選(えら)みて、五和村とは名付けたるものなり。
※ 汎称(はんしょう)- 同類のものを広くひっくるめて呼ぶこと。
古えは大井川が牛尾山の西を流れたりしが、天正十八年(1590)、豊臣氏の臣、中村一氏(式部小輔)、駿河十四万石に封せられ、駿府に治す。一氏、治に居ること十一年、この間に力政に励み、土木を起し、牛尾山を截断して、流れを山(牛尾山)と相賀の間に通じ、その流域空閑の地を開墾して田園を開く。
※ 截断(せつだん)-(「さいだん」ともよむ)切断。物をたち切ること。切り離すこと。
※ 空閑(くげん)- まだ開田化されていない土地。
この時、山内一豊(対馬守)掛川城主(六万石)となり、佐野、榛原二郡の大部を領せしかば、横岡より牛尾山に至る堤防を築き、新田を開きたれば、人家次第に増殖して、今、五和村の内、竹下、牛尾、嶋、番生寺、横岡新田及び金谷町の内、金谷河原の聚落となりて、往時激流たりし趾を止めざるに至る。
読書:「京なさけ 小料理のどか屋人情帖19」 倉阪鬼一郎 著
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