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「竹下村誌稿」を読む 151 竹下村 11

(散歩道のニワゼキショウ)

かっては、庭の芝の中から沢山出て、細かい花を咲かせていたけれども、いつか見なくなった。

午前中、掛川のまーくん(四年)、あっくん(二年)の小学校の運動会を一人で見に行く。途中で、カメラが電池切れになり、しかも朝早く起きたのが応えて、身体がだるく、二人の徒競走が終ったところで帰ってきた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

正保二年(1645)十月、本村の地図を代官所へ録進す。蓋し、正保国図の資料たりしなるべし。この地図は村内を四字に区分したる見取図にして、字毎に、一の坪または二の坪として、字内にある田畑、宅地の反別を記入せしものなり。これより先、幕府、諸藩に命じて、郡村山川石高諸藩城図を製せしむ。これを正保の国図と云う。また元禄中(1688~1704)改定図を作らしめ、寛政中(1789~1801)に至り、伊能忠敬をして日本輿地実測図を製せしむ。これを伊能図と云う。十八年にして成る。世人始めて自国の真形を見ると云う。天保中(1831~1845)、諸国の図を改定す。これを天保図と云う。元禄、天保の二図、全く(完全に)存すと云う。

(正保)三年(1646)十二月二十日、代官長谷川藤兵衛検地あり。反別未詳、高百五十三石二斗八升四合となる。これより先、幕府諸国の田を検し、石高帳を録申せしむ。これを正保の検地と云う。また元禄年間に至り、田園高帳を定む。これを元禄の高帳と云う。

(正保)四年(1647)頻年、諸国豊作打ち続き、米価大いに下落し、金拾両に遠州米百十五俵となり、再び、翌、慶安二年(1649)には騰貴して、九十五俵となる。(熙庵遺書)
※ 頻年(ひんねん)- 毎年毎年。連年。
※ 熙庵(きあん)- 山下煕庵。江戸時代、前期-中期の医師。明暦3年生まれ。遠江横須賀藩の典医香取自庵に学ぶ。医業のかたわら「古老物語」などを著した。


慶安三年(1650)六月二十日、遠駿の地、大震あり。

(慶安)四年(1651)七月、江戸剣客由井正雪、反逆を謀る。こと発して、静岡に自尽す。与党三十余人、品川に磔(はりつけ)せらる。このこと直接本村に関せず焉(えん)といえども、一時世人の注目を引きしものなれば、特に記するのみ。
※ 関せず焉(かんせずえん)- 関係がない。(漢文的な読み方。焉は通常読まないが。)


読書:「流転の虹 沼里藩留守居役忠勤控」 鈴木英治 著
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