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「竹下村誌稿」を読む 134 質侶庄 21

(庭の松に着くセッコク)

亡くなったWK氏が、我が家の松に着けてくれたセッコクが、今年も花を咲かせた。松の幹をぐるりと巻いて、随分大きな株に増えて、花の数も半端ではない。WK氏が亡くなってからも、もう10年ほど経つ。おそらく自分が生きている内は、毎年この季節にセッコクの花を見て、WK氏を思い出すだろう。果たして、WK氏に、そんな思惑があったのかどうかは、分らないが、年に一度はWK氏のことを思い出す。

夕方、掛川のO氏のお通夜に行った。掛川の娘の嫁ぎ先の叔父さんに当る人で、養鶏場を経営されていた。たくさんの卵を頂いたこともある。享年69歳と聞き、自分より若かったのだと知る。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

かくて、応仁以後の本庄は、前に述べたるが如く、一旦寺家を離れて、今川氏に帰したるものなるべければ、或るは云う、鶴見氏は当時今川氏の被官として、本庄を領せしものゝ如しと。されど疑いなき能わず。鶴見氏は今川氏の被官たるが如き形跡の存せるを認めず。而も、同じ今川氏の被官たる河井氏を襲撃するが如きこと、なかるべき筈なり。この辺の消息、伝わらざるのみならず、鶴見氏の戦没せし年代、史実考うべからずといえども、掛川誌、鶴見氏落城の条に、
※ 被官(ひかん)- 武家の家臣。

今川家の時、大井川の東、相賀村に偽旗を張り、奇兵を長者原より下して、この城を陥したりと云い伝う。
※ 奇兵(きへい)- 敵の不意を討つ軍隊。

とあるは、明応中(1492~1501)、鶴見氏が今川氏の股肱の臣たる河井氏を襲殺したるを以って、今川氏の兵来りて鶴見氏を攻撃し、城を陥したる時のことなるべし。
※ 股肱(ここう)- 主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下。腹心。

因みに鶴見氏に遺子(遺児)あり。大蔵と云う。落城の時逃れて僧となり、大存と云う。(後、勧勝寺を創む)晩年、郷里に帰り、専ら里民を勧めて、大井川の空閑地を開拓せしむ。今、本庄横岡に大蔵新田と称し、この城付近に十数町歩の田地あり。この田地はこの大蔵の力によりて成功せしを以って、その名残(なごり)なりと伝え称す。この地の灌漑用として、この田地を串(くし)通しにする大蔵あり。その水源に大蔵圦樋あり。皆な開拓の当時より名実存続して、今に至れるものなりと云う。
※ 空閑地(くうかんち)- まだ開墾・整地されていない荒れ地。
※ 井(い)- 湧き水や川の流水を汲み取る所。
※ 圦樋(いりひ)- 水を引き入れたり出したりするために設けた水門の樋(とい)。
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