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「竹下村誌稿」を読む 152 竹下村 12

(裏の畑のアマリリス)

夜、金谷宿大学学生代表会に出席する。昨年と比べて、会議は和やかに終わった。今年の学長、T氏は楽しい大学にしようと発言される。細かいことをつつくよりも、「教える喜び、学ぶ楽しみ」を前面に出した、大らかな大学にしようという話は、大いに賛成である。人生をここまで重ねて、今さら目くじらを立てゝいては、時間の大きな損失である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

万治二年(1659)二月九日、本村の芝切り下嶋八左衛門(初代)亡す。年六十二。八左衛門は隣村志戸呂下嶋源吾の分家なり。源吾はその出自を詳らかにせずといえども、初め篠島(今、尾張国)に住し、後、志戸呂に移住す。当時世を憚(はばか)り、本姓を称せず。先住地の音便により、下嶋を氏となすと云う。掛川志、志戸呂村の条に、
※ 音便(れい)- 日本語の歴史上において、発音の便宜によって語中・語末で起こった連音変化のことをいう。ここでは、「しのじま」→「しもじま」への変化を指す。

下嶋源吾、旧家なり。観音寺の東に住す。北条氏掛川城主の時の大庄屋なり。今、清五郎と称す。その門前に平らなるあり。昔の門の跡なりと云う。墳上古松樹あり。
※ 北条氏 - 北条氏重。江戸時代前期の大名。慶安元年(1648)~万治元年(1658)掛川城主。嗣子なく改易となる。(本稿、本文と城主年数に相違あり)
※ 墳(ふん)- 盛り上がった土。堤や丘。(ここでは墓ではない)


とあり。この北条氏重は、慶安元年(1648)より明暦二年(1656)まで、九年間掛川(三万石)の城主たり。また、この松形、丸く扁平にして四抱え許りありて、三十年前までは存在せしが、今は枯れて薪となり、僅かにその墳跡を存するのみ。この松の、大木に至らしめたるは、頗る保存に勉めたるものゝ如し。安永中(1772~1781)、当主に於いて、一旦売木せんとしことありしが、縁故者に於いて、これを代償して保存せし書付あり。次の如し。

          覚
 一 米二斗六升
 一 米二斗六升
 一 金壱分也
右は、この度、私代々源吾門松売り払いたく候に付、当村善六様、竹下八左衛門様、金谷町竹下屋様、御三人へ御相談相掛け候処、右の次第、御相談の上、書面の通り、御米、金子とも、源吾門松代金として、御了簡に預かり、慥(たしか)に請け取り申し候。然る上は、向後に至り、門松伐取申しまじく候。後日のため、書付、よって件の如し。
   安永七年(1778)戌三月          清五郎  ㊞
          善六様
          八左衛門様
          竹下屋様            (下島氏記録)

※ 了簡(りょうけん)- 処置。とりはからい。


読書:「逢魔が時に会いましょう」 荻原浩 著
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