goo

「竹下村誌稿」を読む 143 竹下村 3

(散歩道のアジサイが咲き出した)

明日の金谷宿大学、古文書講座の課題、藤原定家の「近代秀歌」の準備をする。島田図書館で「近代秀歌」の解説本を借りて来た。

********************

「竹下村誌稿」の解読を続ける。

按ずるに、上古の村は大化改新の時、国郡里の制を定め、村を改め五十戸を里とし、里毎に長一人を置き、里中の適任者を以って里長となす。若し適任者なければ、隣里より撰任せしめたり。而して、この時の里は古代の村をそのままに据え置きたるが、将(はたま)た、分合して新区域を立てたるか、詳らかならざれども、内田博士云う。

五十戸と規定したる上は、古代の村は併合分割して新区画をなし、里編成のために大変革ありたるなるべし。播磨風土記に、里の下に村名存するを以っても、その一証となすべし。

と云えり。要するに、村は群にて、団体の群居せるより起こりたる義にして、後には郡の下にある行政上一区画の称となりしなり。

却説(さて)、本村は竹下の名を冒せり。由緒未だ、確かに証徴すべき記録なくして、ただ、次に示す所に拠りて、その概要の一端を窺うに過ぎざるを遺憾とす。即ち、掛川誌竹下村の条に、
※ 冒す(ぼうす)- 上に覆いかぶす。

竹下村 志戸呂の東北にあり。旧(もと)、竹の下と呼ぶ。寛永中(1624~1645)免定に竹の下村と記せり。同十年より竹下村と呼ぶ。寛文十年(1670)長谷川検地の時に至りて、民家二十七軒あり。この村開墾の初め、東の方、斉藤島の辺、大井川の堤に竹林ありて、その下に人家ありしより、竹の下を村名とすと云う。今なお薮下と云う所あるはその跡なり。
※ 免定(めんさだめ)- 江戸時代の年貢の賦課率。

とあり。今はこの薮下なる地点の存せざるのみならず、その名称の口碑さえ伝わらざるを以って、未だこれを知ること能わず。
※ 口碑(めんさだめ)- 古くからの言い伝え。伝説。

一説に、天正中(1573~1593)、武田氏の遺臣武田宣勝なるもの、駿東郡竹之下に潜伏し、竹之下宣勝と改め、後、縁故を以って本郡菊川に着し、慶長中(1596~1615)、一たび本村に来たり、開墾に着手す。よって竹之下村と称す。これ村名の創始にして、またその頃、豊臣氏関東とあり。密(ひそか)に将士を大阪に招く。武田氏の遺臣、これに応ずるもの多し。宣勝また脾肉の嘆に堪えず、耒耜を抛(なげう)ち、蹶起して大阪(海路)に赴きたりと云う。
※ 隙(げき)- 仲たがいをすること。不和。
※ 脾肉の嘆(ひにくのたん)- 功名を立てたり手腕を発揮したりする機会のないのを嘆くこと。
※ 耒耜(らいし)- すき(鋤)。


この説果たして信ずべきや否かは不明なれど、前記掛川誌に、旧(もと)竹の下と呼ぶ。寛永中の免定めに、竹の下村と記せりと云い、当時大阪にて将士を募りしことも、かの大阪状中にも、剰(あまつさ)え、諸浪人を抱え、籠城の用意相聞き候、とあるを、併せ考えれば、これ全く無根の説にあらざることを推想せらる。記して参照となす。


読書:「ふたり道 父子十手捕物日記17」 鈴木英治 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )