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「竹下村誌稿」を読む 142 竹下村 2

(水墨画展の友人雨水氏の作品)

午後、駿河古文書会に出席する。NN氏に南部センターの古文書講座の日程を話す。毎回というわけにはいかないようだが、顔を出していただけると聞く。きっとよいアドバイスを頂けるのではないかと、力強く思う。

帰ってから、夢づくり会館に、水墨画の展示を見学に行く。UK(雨水)氏の作品も見せてもらう。6点ほど出ていて、なかなかの力作揃いであった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

志太郡誌に、国史大辞典を引きて、

村 神武天皇紀に穿邑(これ云う、于介知能務羅)とあるをムラと読みたる字の初見とす。この外、古事記に、熊野村、美奴村など見え、書記に名草邑、磯城村などの字多く見えたり。而して、神武紀に、「邑に君あり。各(おのおの)自彊を分ちて、相凌轢す」とあれば、当時の事情を知るべし。
※ 自彊(じきょう)- みずから努め励むこと。自強。
※ 凌轢(りょうれき)- ふみにじること。ふみつけにすること。


当時、同一氏族の人民が氏の上を長として一つの地域に住したるものをアレ(村)という。アレとはワレと同義なるべし。二、三氏族の人民が氏の上を長として、各団体群居して一の地域に住し、これを統一するにキミ(君)を立てたるものをムラ(邑)という。ムラとは群(ムレ)の義なるべし。
※ 氏の上(うじのかみ)- 古代における氏族の首長。一族を統率して朝廷に仕え、氏人の訴訟を裁く権限をもち、氏神の祭祀をつかさどった。

その後人口漸く増殖し何れのも二、三の氏族の群居することとなりて、アレの称は廃してムラの称のみとなるものと見え、現今に於いて、邑、村の漢字は同じくムラと訓むもこれ故なるべしと、左の説を付せり。

内田文学博士の説に、上古の村落は、一般に或る上級の領主に隷属して、その命を聞き、ある程度までは自治を享有し居りし団体なるを通則となせど、自然の発達により形成せるを以って、種々なる点に於いて、互いに赴きを異にしたるなるべし。而して、村には血縁団体より起れるものと、部民の団集より発展したるものとありて、多くは血族または部民の長が村主となりしものなるべし。
※ 部民(べみん)- 大化前代、大和王権に服属する官人・人民の総称。大別すると、技術者集団である品部(しなべ)、王権に服属した地方首長の領有民である子代(こしろ)・名代(なしろ)、中央の豪族の領有民である部曲(かきべ)に分類される。
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