大東亜戦争は無謀な戦いであり、敗れるべくして敗れました。しかし、その中において、アジアの解放を目指して、アジア民族のために尽くした日本人がいたことを、忘れてはならないでしょう。
インドネシアは、現在、ASEANのメンバーとしてめざましい発展を遂げています。しかし、この国は、17世紀以来、3世紀半にわたって、オランダの過酷な植民地支配を受けていました。独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでにインドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれました。
その予言は、昭和17年3月1日に実現しました。日本軍が総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を行ったからです。わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏しました。予言を信じた人々が、積極的に日本軍に協力したからです。
オランダ支配下では、強制労働が行われ、オランダ語が強制され、政治的には分割統治が行われ、愚民扱いの政策が行われ、人々には政治参加の機会が与えられませんでした。独立運動は弾圧され、独立旗(メラプティ)・ 独立歌(インドネシア・ラヤ)は禁止され、インドネシア人には軍事能力を絶対に与えない政策がされていました。
後に大統領になるスカルノやハッタは、独立運動の指導者として活動していました。彼らの情熱は、第16軍の今村均中将を感動させました。今村は、彼らの運動を支援しました。「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」というのが、今村の信念でした。
また、日本は、ペタと呼ばれる祖国防衛義勇軍を組織して訓練し、3万5千の将校・兵士を育成しました。このペタが独立戦争で活躍するようになったのです。
ペタ出身の元大将スミトロ氏は、日本軍政の三年半は「インドネシア独立のアクセルとなった」と語っています。また、チョクロプラノロ氏(元ジャカルタ州知事)は、日本がインドネシア人にインドネシア語を使うように教育したことにより、「感情の統一、行動の統一、民族の統一がなされ、独立にとっての力を発揮することができた」と語っています。ケマル・イドリス氏(ペタ出身)も「独立戦争の基本となった軍事能力を与えてくれた」とも語っているのです。
日本は、オランダとは異なり、インドネシアを一つの地域として認め、中央参議院・州参議会を設置して、インドネシア人に政治参加の機会を与えました。約300もの多数の言語に分かれているインドネシア人のために国語(インドネシア語)を整備して教育し、教員学校・職業学校も設立しました。インドネシア・ラヤのラジオ放送を行い、将来の独立を承認して、最終的には独立旗・独立歌を承認しました。こうした政策は、白人が有色人種を支配した政策とは、全く違う日本独自の政策だったのです。
日本が敗戦を迎えた昭和20年8月15日の2日後、スカルノとハッタは独立宣言を発し、翌日、インドネシア共和国憲法を採択しました。しかし、イギリスとオランダは植民地の復活を狙い、独立運動を阻止しようとしました。インドネシア側には、戦いのために武器が必要でした。群衆が武器を要求して、日本軍の施設を襲う事件が起きた時、日本軍は「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下しました。そのため、暴徒に殺された日本人もいました。「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、その血文字は、今も人々に多大の感銘を与えています。
日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する動きが現れました。そして、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡されました。自らインドネシア軍に身を投じた日本人も多くいました。たとえば、その一人青木政四郎曹長は、オランダ軍が千ギルダーもの懸賞金をかけるほどの勇士で、戦闘に慣れないインドネシア人を率いて指揮をしました。青木は「民家のものは決して奪うな。日本人でも女を襲ったり物品を略奪したら撃ち殺す」という厳しい規律を貫き、厚い信頼を受けました。
オランダとの独立戦争は昭和24年12月まで、4年5ヶ月も続きました。インドネシア側の死者は80万人にも及んだといわれますが、民衆は粘り強く抵抗を続けました。インドを始めとするアジア諸国はオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行いました。国際世論に押されたオランダは、遂に植民地の回復を諦めざるをえなくなり、インドネシアは白人の支配から独立を勝ち取ったのです。
日本の敗戦後、現地に残留し、インドネシア独立義勇軍に身を投じた人々は約2千人、そのうち約千人が戦死等で亡くなったと推定されています。首都ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地には、独立戦争で特別な功労を立てて戦死した人々が祀られています。この中には11名の日本人が英雄として手厚く葬られています。
独立戦争の生き証人である宮本静雄氏(元16軍陸軍参謀)は、「敗戦後、インドネシア人に密かに武器を渡す方法を考えた。軍隊を街に残すと、インドネシア人との衝突が起こるので、軍隊を武装解除して山に入れて軍属や邦人を街に残し、インドネシア人との衝突を避けて密かに武器を渡すことに成功した」と語っています。また、小野盛氏(元16軍陸軍指令部参謀部勤務)は、「約2千人の日本人が独立戦争に参加したが、その内約千人が戦死した。何故これだけの戦死者がいるかと言うと、日本人は指揮官として第一線で戦ったからである」と語っています。
平成3年、海部俊樹首相がASEAN諸国を謝罪して回りました。この時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は、語りました。「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った海部演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。海部さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、アジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」と。
誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、アジア解放の理想のために尽くした立派な日本人がいたことを、私たちは忘れてはなりません。そして、アジアの立場に立った歴史の視点をしっかり持っていきたいものです。
参考資料:
・田中正明著『アジア独立への道』(展転社)
・名越ニ荒之助著『日韓2000年の真実』(ジュピター出版)
・『祖国と青年』平成6年2月号(日本青年協議会)
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)
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インドネシアは、現在、ASEANのメンバーとしてめざましい発展を遂げています。しかし、この国は、17世紀以来、3世紀半にわたって、オランダの過酷な植民地支配を受けていました。独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでにインドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれました。
その予言は、昭和17年3月1日に実現しました。日本軍が総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を行ったからです。わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏しました。予言を信じた人々が、積極的に日本軍に協力したからです。
オランダ支配下では、強制労働が行われ、オランダ語が強制され、政治的には分割統治が行われ、愚民扱いの政策が行われ、人々には政治参加の機会が与えられませんでした。独立運動は弾圧され、独立旗(メラプティ)・ 独立歌(インドネシア・ラヤ)は禁止され、インドネシア人には軍事能力を絶対に与えない政策がされていました。
後に大統領になるスカルノやハッタは、独立運動の指導者として活動していました。彼らの情熱は、第16軍の今村均中将を感動させました。今村は、彼らの運動を支援しました。「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」というのが、今村の信念でした。
また、日本は、ペタと呼ばれる祖国防衛義勇軍を組織して訓練し、3万5千の将校・兵士を育成しました。このペタが独立戦争で活躍するようになったのです。
ペタ出身の元大将スミトロ氏は、日本軍政の三年半は「インドネシア独立のアクセルとなった」と語っています。また、チョクロプラノロ氏(元ジャカルタ州知事)は、日本がインドネシア人にインドネシア語を使うように教育したことにより、「感情の統一、行動の統一、民族の統一がなされ、独立にとっての力を発揮することができた」と語っています。ケマル・イドリス氏(ペタ出身)も「独立戦争の基本となった軍事能力を与えてくれた」とも語っているのです。
日本は、オランダとは異なり、インドネシアを一つの地域として認め、中央参議院・州参議会を設置して、インドネシア人に政治参加の機会を与えました。約300もの多数の言語に分かれているインドネシア人のために国語(インドネシア語)を整備して教育し、教員学校・職業学校も設立しました。インドネシア・ラヤのラジオ放送を行い、将来の独立を承認して、最終的には独立旗・独立歌を承認しました。こうした政策は、白人が有色人種を支配した政策とは、全く違う日本独自の政策だったのです。
日本が敗戦を迎えた昭和20年8月15日の2日後、スカルノとハッタは独立宣言を発し、翌日、インドネシア共和国憲法を採択しました。しかし、イギリスとオランダは植民地の復活を狙い、独立運動を阻止しようとしました。インドネシア側には、戦いのために武器が必要でした。群衆が武器を要求して、日本軍の施設を襲う事件が起きた時、日本軍は「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下しました。そのため、暴徒に殺された日本人もいました。「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、その血文字は、今も人々に多大の感銘を与えています。
日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する動きが現れました。そして、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡されました。自らインドネシア軍に身を投じた日本人も多くいました。たとえば、その一人青木政四郎曹長は、オランダ軍が千ギルダーもの懸賞金をかけるほどの勇士で、戦闘に慣れないインドネシア人を率いて指揮をしました。青木は「民家のものは決して奪うな。日本人でも女を襲ったり物品を略奪したら撃ち殺す」という厳しい規律を貫き、厚い信頼を受けました。
オランダとの独立戦争は昭和24年12月まで、4年5ヶ月も続きました。インドネシア側の死者は80万人にも及んだといわれますが、民衆は粘り強く抵抗を続けました。インドを始めとするアジア諸国はオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行いました。国際世論に押されたオランダは、遂に植民地の回復を諦めざるをえなくなり、インドネシアは白人の支配から独立を勝ち取ったのです。
日本の敗戦後、現地に残留し、インドネシア独立義勇軍に身を投じた人々は約2千人、そのうち約千人が戦死等で亡くなったと推定されています。首都ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地には、独立戦争で特別な功労を立てて戦死した人々が祀られています。この中には11名の日本人が英雄として手厚く葬られています。
独立戦争の生き証人である宮本静雄氏(元16軍陸軍参謀)は、「敗戦後、インドネシア人に密かに武器を渡す方法を考えた。軍隊を街に残すと、インドネシア人との衝突が起こるので、軍隊を武装解除して山に入れて軍属や邦人を街に残し、インドネシア人との衝突を避けて密かに武器を渡すことに成功した」と語っています。また、小野盛氏(元16軍陸軍指令部参謀部勤務)は、「約2千人の日本人が独立戦争に参加したが、その内約千人が戦死した。何故これだけの戦死者がいるかと言うと、日本人は指揮官として第一線で戦ったからである」と語っています。
平成3年、海部俊樹首相がASEAN諸国を謝罪して回りました。この時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は、語りました。「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った海部演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。海部さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、アジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」と。
誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、アジア解放の理想のために尽くした立派な日本人がいたことを、私たちは忘れてはなりません。そして、アジアの立場に立った歴史の視点をしっかり持っていきたいものです。
参考資料:
・田中正明著『アジア独立への道』(展転社)
・名越ニ荒之助著『日韓2000年の真実』(ジュピター出版)
・『祖国と青年』平成6年2月号(日本青年協議会)
次回に続く。
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『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)
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