ほそかわ・かずひこの BLOG

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民主対専制14~プラトンの考察:独裁制はなぜ生まれるか

2022-01-13 10:15:30 | 国際関係
●古代ギリシャの民主主義(続き)

・プラトンの考察~独裁制はなぜ生まれるか
 古代ギリシャを代表する哲学者プラトンは、アテネで活躍した。紀元前428年か427年の生まれ、前348年か347年の没である。アテネの民主政は既に最盛期を過ぎていた時代である。アテネが紀元前431年から前404年にわたってペロポネソス戦争を戦ってスパルタに敗れたのは、彼が23~24歳の時である。敗戦後、アテネの民主政は次第に衰退した。プラトンはそういう時代を生きた。
 プラトンは『国家(ポリティア)』の第8巻で、民主主義はどのようにして最悪の政治体制である独裁に陥るか、その過程を考察している。以下は、早稲田大学教授・豊永郁子の所説に負っている。
 プラトンによれば、民主制国家が善と規定する価値は、「自由」である。自由を求める風潮が極限に達すると、社会のあらゆるところに無政府状態が広がる。民衆は国の統治に与る人々を疎ましく思うようになり、民衆指導者(デマゴーグ)がこれを扇動する。彼らは、下層の民衆の感情・恐れ・偏見・無知に訴えて権力を得たり、政治的な目的を達成しようとする。彼らの中から、強い独裁者が生まれてくる。
 民主制の前には、富裕者が統治する寡頭制がある。少数者の集団による独裁である。寡頭制のもとでは、貧富の格差を背景に、無為徒食のならず者たちが生まれる。プラトンは、彼らのことを、雄蜂族と呼ぶ。雄蜂族は、自然界の蜂の雄蜂と同じく、毒針は持たず、働きもしない。怠惰と放縦の産物であり、零落したり悪事に走ったりする。だが、ときに才覚があり、大胆で、毒針を持つ雄蜂が現れ、針のない雄蜂たちを従える。民主制のもとでは、こうした雄蜂族が政治の舞台に進出する。
 民衆は、雄蜂族から現れた扇動的な民衆指導者を独裁者に担ぎ上げる。民衆が追い求めているのは「自由」である。だが、独裁者は、民衆の「自由」を規制する。「自由」に価値を置く民主制が、「自由」を奪う独裁者を生み出してしまうーープラトンは、このように考察した。
 アテネの歴史に基づくならば、プラトンの考察が最も良くあてはまるのは、紀元前6世紀中ごろのペイシストラトスの僭主政の登場だろう。プラトンの生きた時代にも、「自由」を奪う独裁者が登場したのだろう。民主制においては、いつでも似たような独裁者が現れ得る。そこに「自由」を求める民主主義から、「自由」を奪う専制主義へという転換が起こり得る。
 豊永氏の所説を受けて私見を述べると、古代ギリシャの都市国家(ポリス)において、自由民と奴隷は大体1対4~5の比率だった。特権的な市民は奴隷ではないという意味で自由だった。だが、ギリシャには、今日われわれがいうところの自由に正確に対応する言葉はなかった。ギリシャ人たちが深い関心を持っていたのは、「善い生き方」「善い活動」などの「善い」ということ、善(アガトン)だった。自由民は、参政権を含む権利を持つ自由な状態にあったから、それ以上に自由を望むことはなく、自由な立場で追求したのが、「善い生き方」を実現することだった。
 「善い生き方」とは、個人的私的な意味で善い生き方ではなく、ポリスにおいて集団的公的な意味で善い生き方だった。ポリスの政治に参加する男性は、家庭という私的領域では奴隷を所有し、奴隷に労働をさせて生活していた。労働する必要がない彼らが、公的領域において目指した「善い生き方」とは、古代奴隷制に基づく支配集団にとっての「善い生き方」だった。
 ここにおける重要な概念が、正義(ディカイオシュネー)だった。当時の古代ギリシャでは、正義とは、人々がそれぞれのアレテーを発揮することを意味した。アレテーは、「徳」または「卓越性」と訳される。卓越性とは、人より優れた能力や性質である。そして、正義は、各人がそれぞれの身分や職能において卓越性を発揮し、ポリスの秩序を維持し、調和することだった。いわばすべてのものが、その所を得た状態である。ポリスという国家共同体にとっての善、公共善が正義だった。
 ポリスにおける正義は、対内的な正義と対外的な正義が異なっていた。対内的には、市民はともに公共善の実現を目指したが、対外的には戦士の共同体として戦闘における勝利を目指した。戦いに負ければ、ポリスの成人男性は奴隷として連れ去られることさえ稀ではなかった。対外的には戦いにおける勇敢さ、対内的には礼儀正しさや寛大さが徳とされた。祖国のために身を捧げることはそれ自体が正しく称賛に値する行為であり、勝利への貢献は名誉だった。その貢献に応じて地位や名誉が配分された。こういう二重の性格を持った共同体が、ポリスだった。
 対内的に正義が成り立つのは、支配―被支配の関係が安定している時であり、また対外的に独立を維持し得ている状況においてだった。国内で支配―被支配関係が動揺したり、国家の独立を失ったりすると、正義は成り立たなくなった。
 ポリスにおいて民主主義が統治の形態として有効だったのは、古代奴隷制に基づく支配集団にとっての「善い生き方」が実現されている状態においてだった。「善い生き方」は、支配集団の考える正義に基づく。正義は、各人がそれぞれの身分や職能においてアレテー(徳・卓越性)を発揮し、ポリスの秩序を維持し、調和している状態である。民主制においてはその正義の維持・実現が目指されたが、独裁制においては正義が崩れ、さらに失われることになった。
 民主主義と専制主義は、相対立する二極ではなく、前者から後者への転換が起こり得ることを我々は、プラトンから学ぶことができる。この転換は、古代ギリシャ文明のアテネの民主主義においてだけでなく、近代西洋文明で発達した民主主義でも起こり得る。民主主義から専制主義への転換は、政治体制の違いに関わらず、直接民主制でも、議院内閣制でも、大統領制でも起こり得る。また、古代ギリシャにおけるように、外からの侵攻によって民主主義が蹂躙され、専制主義の国家に支配されることが起こり得ることにも注意しなければならない。

 次回に続く。

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