ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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イスラーム7~罪と罰、予定説と因果律

2016-01-30 10:09:34 | イスラーム
●罪と罰

 イスラーム教の罪には、神の命に背いた罪と、人間同士の間の罪がある。
 アッラーの命にそむいた罪として、『クルアーン』に明記されているものは、まず(1)姦通、(2)姦通についての中傷、(3)飲酒、(4)窃盗、(5)追剥ぎである。
 しかし、これらの罪は、アッラーによって赦されることがあるとされる。絶対許されない罪とは何か。それはアッラー以外のものを神として崇拝することである。アッラーを唯一神とするイスラーム教では、アッラー以外の神々はすべて偶像だとし、偶像崇拝は大罪とされる。
 『クルアーン』には、第4章48節に「本当にアッラーは、(何ものをも)かれに配することを赦されない。それ以外のことに就いては、御心に適う者を赦される。アッラーに(何ものかを)配する者は、まさに大罪を犯す者である」などとある。
 アッラーは、他のいかなるものとでも一緒に並べられたら絶対に赦さない。それ以外の罪なら、気が向けば赦すこともある。だが、アッラーに並ぶものを祀ることだけは、赦されない大罪だという主旨である。この大罪を「シルク」という。シルクを犯した者は、最後の審判において、永遠の地獄に行かされるとする。ここには、寛容のかけらも一切ない。
 次に、人間同士の間の罪については、イスラーム教の教えとして知られるのが、「目には目を、歯には歯を」である。しかし、この格言は、イスラーム教独自のものではなく、ユダヤ教のものである。ムハンマドが出現した時代のアラブ社会では、もっと酷い報復が通常、行われていた。それをムハンマドは「目には目を、歯には歯を」の同害報復にまで減免したのである。

●予定説と因果律

 セム系一神教では、神は全知全能である。無から宇宙を創造し、宇宙を超越した存在である。このような神観念のもとに、この宇宙におけるあらゆる出来事は、神によってあらかじめ定められ、神の意志に支配されているという考え方が成立する。この考え方を予定説という。
 キリスト教では、このような世界観を人間の救済に適用したものを、救霊予定説という。救霊予定説では、人間が天国に行けるかどうかは神の意志によるものであり、死後救われるか救われないかは、予め神が決定しているとする。キリスト教の信仰を持ってさえいれば必ず救われるのではない。信仰が篤く善行を積んだ者でも、救われるとは限らない。神は絶対であり、人間の行為が神の意志に影響を与えることはないとする。
 このような教義が確立される前には、重大な論争があった。5世紀のペラギウスは、神は人間を善なるものとして創造したのであり、原罪は人間の本質を汚すものではない、人間は神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意志で功徳を積むことによって救霊に至ることができると説いた。これに対し、教父アウグスティヌスは、人間に選択の自由はあるが、選択の自由の中にも神意の采配が宿っており、人間単独の選択では救いの道は開けず、神の恩寵と結びついた選択によってのみ道が開けると説いた。416年のカルタゴ会議、431年のエフェソス公会議でペラギウス主義は異端として排斥された。
 人間の自由意志による救霊を否定し、救霊予定説を徹底したのが、カルヴァンの教説である。それが、プロテスタンティズムの教義の柱となった。
 ところで、宗教学者・岸本英夫氏によれば、宗教には「神を立てる宗教」と「神を立てない宗教」がある。前者は崇拝・信仰の対象として神を立てるもので、一神教・多神教・汎神教等である。後者は、神観念を中心概念はしない宗教で、マナイズムやいわゆる原始宗教・根本仏教等である。岸本氏の弟子・脇本平也氏は、前者を有神的宗教、後者を無神的宗教と呼ぶ。後者は、法、力等を中心概念とするが、それを人格化する場合は、前者に近づく。また前者のうち、神を非人格的で理法や原理を意味するものは、後者に近づく。
 予定説は、「神を立てる宗教」において、神が人格的であり、かつ人間世界に介入するという神観念のもとでのみ成り立つ。「神を立てない宗教」では、予定説は成り立たない。これに替わる論理が因果律である。物事の生成・消滅は、原因―条件―結果の関係において起こるという考え方である。
 仏教の縁起の理法は因果律であり、悟りは修行という行為が原因となって得られる結果であるとする。煩悩を消滅しようとする人間の努力なくして解脱には至れない。大乗仏教では、如来や菩薩が想定されるようになり、彼らに帰依すれば救済されると説く。称名念仏や唱題をするだけでみな極楽往生できると説く宗派もある。この場合も、そうした行為が原因となって結果としての救いを得られるとするものである。
 イスラーム教は、本質的には予定説である。六信の一つに天命があり、信徒は神の意志による予定を信じる。イスラーム教徒の慣用句に、「イン・シャー・アッラー」がある。文字通りには「もしも神が欲し給うならば」を意味する。しかし、イスラーム教は、人間の自由意志を認める。この点が、キリスト教と異なる。
 現世の物事の大筋は神によって定められているが、信徒は自らの自由意志によって、現世を生きねばならぬ義務を与えられている。イスラーム教では、アッラーは人間が自ら運命を変えぬ限り、人間の運命を変えることがないとしている。信徒にとって現世は試練の場であり、そこで彼が自らの意志で選び取ったことの結果によって、来世での地位が定められると考える。
 イスラーム教の救済の論理は、アッラーを信ずる者は、みな来世の天国に行けるというものである。キリスト教と違い、神が予め救う者を選別しない。ただし、来世で天国へ行くか地獄へ行くかは、現世でよいことをするか悪いことをするかによって決まるとする。この部分は因果律であり、仏教に似たところがある。ただし、仏教は因縁果の法則によって結果が生じるのに対し、イスラーム教では、最終的にはアッラーの意志によって決定される。またイスラーム教では、現世で罪を犯しても、他の神を信じることがなければ、最後はアッラーの赦しを受けて天国に行くことができるとする。この赦しへの期待は、アッラーを慈悲あまねく慈愛深き神と信じることによっている。

 次回に続く。

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