ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

集団的自衛権は行使すべし37

2008-03-10 08:55:30 | 憲法
●政府解釈による様々な不都合

 9・11以後、わが国はテロ特措法とイラク特措法を作り、前者に基づいて、海上自衛隊をインド洋に派遣し、後者に基づいて陸上自衛隊をイラクに派遣した。自衛隊創設以来、政府は自衛隊を海外派遣しないという方針を打ち出してきたため、こうした海外派遣は、集団的自衛権の行使の問題に直結する政策だった。しかし、国民の多くは国際情勢の変化を理解し、その政策を支持した。
 こうした政策の変化において、集団的自衛権の政府解釈によって、様々な不都合が生じている。特にわが国の国防の中軸となる日米安保条約に基づく活動が、あいまいなままである。例えば、周辺事態に際しては、わが国の自衛隊は米軍の後方支援に徹し、危険が迫れば当該区域からは事実上撤退することになっている。しかし、後方支援も、国際社会では集団的自衛権の行使と認識されている。わが国の政府は集団的自衛権の行使に当たらないと強弁しているが、諸外国の理解を得られるものではない。また、別の例だが、米軍と自衛隊艦船が共同で行動し、米国の艦船がミサイル攻撃を受けた際、1キロ程度離れた自衛隊艦船もミサイルの射程に入っている場合に、自衛隊が反撃することは、集団的自衛権の行使に当たるので憲法上できないとされている。しかし、現実にこういう事態になったとき、自衛隊艦船が攻撃を受けるまで、友軍の支援をせずにいるのは、信義にもとるだろう。
 対テロ戦争でも、集団的自衛権の行使という場合があり得る。実際の例として、アメリカのアフガン侵攻に際して、NATOは、昭和24年(1949)の結成以来、初めて集団的自衛権に基づいて参戦し、アメリカを援護した。集団的自衛権はまた、有志連合の正当化の根拠として使われる可能性も秘めている。21世紀の国際社会で集団的自衛権を考えるには、過去の硬直した概念では使い物にならない。

●安倍前首相は集団的自衛権を検討

 平成18年(2006)9月、小泉首相を後継した安倍晋三前首相は、戦後体制からの脱却を掲げ、憲法改正や集団的自衛権の見直しを打ち出した。安倍氏は、集団的自衛権については、明らかに不合理なケースから順次検討すべきだという考えを明らかにした。首相となる直前に出した著書『美しい国へ』(文春新書、18年7月刊行)で、安倍氏は次ぎのように述べている。
 「わが国は専守防衛を基本にしている。したがって、たとえば他国から日本に対してミサイルが一発打ち込まれたとき、二発目の飛来を避ける、あるいは阻止するためには、日本ではなく、米軍の戦闘機がそのミサイルを攻撃することになる。いいかえればそれは、米国の若者が、日本を守るために命をかけるということなのである」
 「現在の政府の憲法解釈では、米軍は集団的自衛権を行使して日本を防衛するが、日本は集団的自衛権を行使することはできない。このことが何を意味するかというと、たとえば、日本の周辺国有事のさいに出動した米軍の兵士が、公海上で遭難し、自衛隊がかれらの援助に当たっているとき、敵から攻撃を受けたら、自衛隊はその場から立ち去らなければならないのである。たとえその米兵が邦人救助の任務にあたっていたとしてもである」
 「双務性を高めることは、信頼の絆を強め、より対等な関係をつくりあげることにつながる。そしてそれは、日本をより安全にし、結果として、自衛力も、また集団的自衛権も行使しなくてすむことにつながるのではないだろうか」

 私は、特に最後の引用における日米同盟の双務性を高めることが、日本をより安全にし、周辺諸国の侵攻を抑止するという考え方に注目する。軍事力は、他国の侵攻を防ぐために抑止力として機能することが、最大の役割なのである。そこに安全保障という理念の核心がある。
 安倍氏は、戦後日本の国家としてのあり方を根本から立て直し、また厳しい国際環境に対応していくために、安全保障の整備に、強い情熱を示した。その取組みの重要性が今日、忘れられている。

 次回に続く。