ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

人権の核心としての生存権1

2008-03-03 19:02:05 | 時事
 人権擁護法案の危険性について、2月24日に書いた。本日の産経新聞「正論」に、埼玉大学教授の長谷川三千子氏が、人権に関して哲学的な考察を書いている。全文は後ほど転載することにして、まず氏が提示している問いに注目したい。
 「誰か或る人が、自分が生き延びるためには或る別の誰かを殺すことが必要だと判断し、それを実行したら、それは基本的人権の行使といふことになるのだらうか? そんなことを認めたら、いたるところで殺し合ひがおきて、生命尊重、幸福追求どころのさわぎではなくなつてしまふのではないか?」
 この問いは、人権を考える時に、一つの出発点とすべき問いである。

●人権の核心には生存権がある

 現行憲法は基本的人権の尊重を謳っているが、そこにいう基本的人権の主要な内容は、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(第13条)である。生命、自由、幸福追求と並べられているが、自由も幸福も命あってのものだから、権利の基本は、生命を維持・発展する権利である。これを哲学や社会学では自己保存権といい、政治学では生存保存権という。簡単に生存権と呼ぶことにする。

 人が自分の生存を守ろうとするとき、他の人も自分の生存を守ろうとしているわけだから、対立や摩擦が生じ、権利の侵犯が起こる。個人の権利を追及する争いは、激化すれば殺害にまでいたる。どちらかが生き残り、どちらが死ぬまで権利というものは、ぶつかり合う。<個人と個人の生存権のぶつかり合い>である。社会を維持するには、そのぶつかり合いを調整したり、融和させたりする必要がある。それに失敗すると、その社会は崩壊する。崩壊の結果は、個人が自分の権利を守ることのできないような無秩序な状態にいたる。

 では、<個人と個人の生存権のぶつかり合い>を、誰が調整したり、融和させたりするのか。兄弟げんかなら、親が怒れば、仲直りがされる。○○家と△△家のいざこざなら、土地の有力者が間に入れば、手打ちがされる。地域のボスと、隣接地域のボスとの争いなら、そのボスたち以上の実力者が仲裁すれば、妥協がされる。では、その実力者と互角の実力者の戦いなら? <個人と個人の生存権のぶつかり合い>は、こうして社会全体の大問題となる。そして、ここに政府というものの必要性が浮かび上がってくる。

●生存権のぶつかり合いを避けるには

 さきほど、上記の問いは、人権を考える時に一つの出発点とすべき問いだと書いたが、実はこの問いは、人権に関する歴史的な出発点そのものだった。
 長谷川氏は書く。「かうした厄介な〈人権の逆説〉にいち早く気付き、警鐘をならしたのが、17世紀英国のトマス・ホッブスである。実は、彼はまさにかうした「個人の権利」としての人権といふ考へを最初にうち出した張本人なのであるが、同時に彼は、そのことの危険を誰よりもよく見抜いてゐた。それまで有効にはたらいてゐた、英国の「古来の法」やキリスト教神学にもとづく「自然法」といつた共通の価値基盤が崩れてしまつたとき、もし〈人間が人間であるかぎりにおいてもつ権利〉を各個人にばらまいてしまつたら、いかに悲惨な無秩序状態が現出するか-彼の人権論はそれを見据ゑたところに始まつてゐるのである。」
 ホッブスは、こうした人権論を名著『リヴァイアサン』で展開した。彼の結論は、個人の権利と個人の権利がぶつかり合うのを、上から抑えたり、折り合いをつけさせるには、絶対的な権力が必要だ、それがないと、社会は万人の万人に対する闘争が繰り広げられる自然状態に戻ってしまうということだった。ホッブスの理論が先駆けとなって、社会契約論や抵抗権・革命権の理論が登場した。その延長上に、国連憲章や日本国憲法の人権条項が存在する。今日では、様々な新しい権利が、人権という用語のもとに付け加えられているが、そうしたもろもろの権利の核心には、生存権がある。
 長谷川氏は、「人権擁護法案では、「人権侵害」はもつぱら「不当な差別」として想定されてをり、基本的人権の第一にうたはれる「生命」の権利については言及すらない。」と指摘している。これは、鋭く深く人権擁護法案の欠陥を突く指摘である。人権の問題を考えるには、もう一度出発点である<個人と個人の生存権のぶつかり合い>というテーマに戻って考えてみる必要がある。
 長谷川氏は、「国民全体の安全と幸福の確保、といふ政治の原点に立つて交通整理するための基本的な法律」が必要であり、「国民全体のための真の人権擁護法案」が必要だと主張している。氏が具体的にどのような法案を、真の人権擁護法案として構想しているのか、私は強い興味を引かれた。これまでにも長谷川氏には学ぶことが多いが、今後も氏の言論に注目したい。
 なお、人権に関する私見は次回に書く。
 
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●産経新聞 平成20年3月3日付

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080303/plc0803030256000-n1.htm
【正論】埼玉大学教授・長谷川三千子 「人権」の正しい歴史認識が必要
2008.3.3 02:54

■もし「擁護法案」を作るにしても…

≪「常識」を反映するが…≫
 いま人権擁護法案がふたたび国会に提出されようとしてゐる。この法案の危険性については2月19日付の本欄で百地章氏がすでに意を尽くした解説をしてをられるので、ここでは少し角度をかへて、もしわれわれが本当の「人権擁護法案」を作るとしたら、それはどんな法案でなければならないのかを考へてみることにしよう。
 3年前に発表された案によれば、この法案の第1条には「人権尊重の理念を普及させ、及びそれに関する理解を深めるための啓発」といふことが目的の一つにかかげられてゐるのであるが、この〈人権についての理解〉といふことこそ、法案を作る人間自身にとつて、もつとも重要なことなのである。人権といふものについて、今更これ以上知るべきことなどない、といつた思ひ上がりほど危険なものはないと言つてよい。
 たしかに一見すると、人権といふものはただわれわれの素朴な常識を反映してゐるにすぎないやうにも見える。たとへば日本国憲法第13条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」について「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定めてゐるのであるが、これは古今東西を問はず、およそすべての「よき政治」が目指す大目標として広く認められてきた事柄である。
 国民の生命を守れないやうな国政は失政であるし、さらに注文をつけるなら、国民が自由にのびのびと豊かな生活を楽しむことのできる政治が望ましい-このことに反対する人は一人もゐないであらう。だからこそこれらは「基本的人権」と呼ばれて、人権概念のなかでも最優先の重要課題とされてきたのだ、と理解できるのである。

≪ホッブスの貴重な洞察≫
 ただ、ここで唯一の、そして最大の問題は、これらが「個人の権利」として認められてゐる、といふことである。たとへば極端な話、誰か或る人が、自分が生き延びるためには或る別の誰かを殺すことが必要だと判断し、それを実行したら、それは基本的人権の行使といふことになるのだらうか? そんなことを認めたら、いたるところで殺し合ひがおきて、生命尊重、幸福追求どころのさわぎではなくなつてしまふのではないか?
 かうした厄介な〈人権の逆説〉にいち早く気付き、警鐘をならしたのが、17世紀英国のトマス・ホッブスである。実は、彼はまさにかうした「個人の権利」としての人権といふ考へを最初にうち出した張本人なのであるが、同時に彼は、そのことの危険を誰よりもよく見抜いてゐた。それまで有効にはたらいてゐた、英国の「古来の法」やキリスト教神学にもとづく「自然法」といつた共通の価値基盤が崩れてしまつたとき、もし〈人間が人間であるかぎりにおいてもつ権利〉を各個人にばらまいてしまつたら、いかに悲惨な無秩序状態が現出するか-彼の人権論はそれを見据ゑたところに始まつてゐるのである。

≪個人の権利ばかりでは≫
 18世紀末、「人権」の概念がアメリカ革命とフランス革命といふ二つの革命の熱狂によつて広まつたとき、ホッブスのこの貴重な洞察はほとんど無視されて、ただ〈個人の権利としての人権〉といふ発想ばかりが引き継がれてしまつたのであるが、よく見れば日本国憲法の内にもホッブスの洞察はからうじて活かされてゐる。
 すなはちそこには「公共の福祉に反しない限り」といふ一言がつけ加へられてゐて、これが非常に大切な意義をになつてゐるのである。もしもこの歯止めの一言がなければ、たちまち人権が人権を喰ひつくす〈人権の共喰ひ状態〉とも言ふべき事態に陥り、人権概念自体が崩壊してしまふことは間違ひない。
 したがつて、もしも本当の人権擁護法案を作らうとするならば、かうした「人権」概念の危険な特色をよく見極め、〈人権の共喰ひ〉をふせぐといふことを法案の柱となすべきであらう。ことに近年のやうに、新しいさまざまの「人権」が登場してくると、たとへば「プライバシー権」と「報道の自由」のやうに人権の概念同士が衝突し合ふといふ事態が多発すると予想される。それらを、国民全体の安全と幸福の確保、といふ政治の原点に立つて交通整理するための基本的な法律を作つておくのは大切なことだと言へよう。
 ところが、3年前に作られた人権擁護法案では、「人権侵害」はもつぱら「不当な差別」として想定されてをり、基本的人権の第一にうたはれる「生命」の権利については言及すらない。何をか言はんや、である。いまわれわれが必要としてゐるのは国民全体のための真の人権擁護法案なのである。
 (はせがわ みちこ)
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