木々の花がほぼ終わったころから、近くの山々は新緑の季節を迎える。
薄緑の葉がいっぱいに広がる。明るい薄緑の山々は見られるのは、ほんの数日だけ、里山の近くに住んでいればこそみられる美しさである。 やがて深緑となり夏を迎える。
いつから始まったか定かではないが、旧暦3月15日はわが里の火防祭である。
昔、農村の建物はほとんどが茅葺の屋根、その中で暖を取り炊事もするから当然火事が多い、その怖さ現在の比ではなかった。
火防祭は各集落の一大行事、戦後間もないころは特に盛んだったようだ。
各集落ごとにミニ山車を作り着飾った子供たちの祭囃子で鎮守の八幡様に向かう。
少し小高い拝殿の前を舞台に各集落が用意したアトラクションをやる。お母さん達が角巻(北国の防寒具)を折りたたんで金銀の紙を張り付けて相撲の化粧まわしとして「相撲甚句」を唄って大きな拍手、恐れ多くもイギリスのエリザベス女王の戴冠式を真似た集落もあって大賑わい、余興終わって各集落に帰ってからは大量に用意したどぶろくで大にぎわい、火防の神様もおおいに喜ばれたに違いない。ちなみにわが里は栃木県の古峰神社の信仰が厚い。
特にお祭りがにぎわった昭和20年代、わが里では不足しがちの田んぼの水を、戦後の混乱さなかの21年、北上川の水を利用しようという大胆な計画がされた。
北上川から第一揚水場までは隧道を掘り、そこから75馬力モーター利用で300ミリの管でポンプアップ、第ニ揚水場まで、さらに同じ規模のモーター、管で大量の水を高台に押し上げて、当時建設機械もなく人力だけで掘削した水路総延長1500㍍の水路に流した。
水がないために田んぼにできなかった原野が美田になり、従来の三郎堤の水だけでは不足しがちの地区内の130町歩にたっぷりの水が供給されたのが昭和23年といわれる。
当時戦後の混乱と食料不足の時代に米の増収、増益は大きな喜び、うれしいことだった。
その喜びが「旧暦3月15日の火防祭」が現れ、20年代のお祭りを盛り上げていたのだろう。
そのポンプ場や設備は40年代、田瀬ダムからわが里に水が供給されるまでの20数年利用された。
コロナ禍で各集落ごとに行われていた直会はまだできないが集落の代表者は今年も旧暦3月15日には八幡様に参拝し集落の安全、防火を祈った。
コロナが終息する来年こそ再びあのにぎやかな火防祭が各集落で行われるようにと・・・・
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