赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼ヴォーカル大好き<同期の桜>

2021年12月08日 | ■今丼政幸君との対話

本日12月8日は日米戦争の火ぶたが切られた日本帝国海軍の連合艦隊によるハワイは真珠湾攻撃の日である。わが連合艦隊は航空母艦六隻を擁し、ここにゼロ式戦闘機を四百機ちかく艦載し太平洋の真北から一気に南下して真珠湾なる米国海軍基地の中核を急襲した。その戦果は華々しかった。

あれから80年がたつ。そこで今日は久しぶりにカラオケ屋に行きもっぱら軍歌を中心として歌ってきた。今のところ、わたしが歌える日本軍歌は次なる六曲ほどのことなれば、それでも好きだから誰がなんと言おうと往時を偲びつつ、こうして歌っている。

●海ゆかば

●戦友

●麦と兵隊

●若鷲の歌

●同期の桜

●暁に祈る

 

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▼没後二十年 江藤淳展

2019年06月04日 | ■今丼政幸君との対話

 

神奈川近代文学館 5月18日~7月15日

 

以下、赤煉瓦掲示板より

 

●かもめ
ほかでもない江藤淳氏の展覧会と云ふなれば拙者としても重い腰をあげて閲覧することあたわず。 来る6月1日(土)にでも現地に参じてみるつもりなり。 そこで提案だが、どうであろうか久方ぶりに今井政幸氏にも、お会いしてだなや。これまでのことは一切水にながしたてまつりけりにて候や。 旧交を温めてみることにいたしたく存知候にてにゃ。今井殿をはじめ年はとっても、おのおの方の根性のありどころをさらしたまえり、たまには一堂に参じてみるのも何かの縁だ。 この際今井政幸氏をはじめ、界隈のフルつぁんはっつぁん泥つぁんその他長屋住まいの下々の覚悟と、その存念をお聞きしたい。

 

●今丼政幸
ほう。 わたすもいまの君の姿をつぶさに見たい。 が、土曜日はだめだ。  昨日も今日も残業で、いまが帰りという具合に、土曜日は、いつも家でくたばっている。 なので、日曜の2日なら良いぞ。  日曜2日、江ノ電の由比ヶ浜駅に、12時だ。 お昼刻だから駅前の食堂でなんぞ美味しいものをご馳走してあげよう。 かといって、鄙びた駅前に良いところがあるかどうか知らんが。 そゆことで、よろぴく。

 

●かもめ
どうやら今井殿は勘違いをなさっているようだ。横浜には詳しい今井殿が、江ノ電などというので、わたしも鎌倉まで行きはぐったところなり。鎌倉ではあるまいに。県立神奈川近代文学館は横浜は「みなとの見える丘公園」内だ。若かりし頃、ここには今井殿に案内されて、一緒に入ったことがあったではないか。バラ園をめぐって坂を下りていったところが、それだ。15年前のことなりき。ちょうど三島由紀夫展が挙行されていた。三島の墨書が展覧されていた。三島は20歳になったばかりで徴兵検査を広島で受けた。徴兵検査は戸籍上の本籍地にて受けることになっていた。いよいよ兵隊になるのだとの決意を東京の親にあて手紙を書いた。三島の手紙を、わたしが興味津々で閲覧していると出口のほうで今井殿が手招きをしているではないか。腹減ったから、はやく飯を食いにいこうよと言うのである。だが、まだ入館して5分もたっていなかった。


●今丼政幸
おお、そっちの文学館だったか。 わたすは、三島のは、群馬の大泉の軍事工場で働いてたというのが興味深かった。 わたすは、当時、いまはなき三洋電機の仕事を扱っていて、大泉の工場は、三洋電機になっていたのだった。 あそこなら、みなとみらい線の元町・中華街駅で、そこなら、フレンチの霧笛楼がある。 2日なら、霧笛楼のフレンチをご馳走してあげたのに残念だ。


●かもめ
拙者の勤務スケジュールからして六月一日は譲れないのであって、あまつさえフレンチとは何事だ。拙者はおフランスには行ったことはないけれど、かの国については、なにもかもが大好きなのだ。その言語といい革命といい文学といい音楽といい、たしかに西洋文化の粋がある。だがおフランス自慢の料理だけは大嫌いだ。なんじゃね、あれは。大皿の真ん中あたりに冷えた肉片の少々を盛り付け、その周りに濁った小便のカスのようなものをやたらめったらジグザクと対角線上に振りかけて素材の妙味をごまかしている。あんなもんは料理といえない。やはり料理といえば中華にかぎる。炎と油の料理だ。作るほうも燃えているが、食うほうも燃えている。チャーハンといい麻婆豆腐といい焼き餃子といい舌が焦げるほどの勢いだ。さて、きたる六月一日、県立神奈川近代文学館にて13:00。拙者は、江藤淳になる最大の問題作『閉ざされた言語空間』の手書き原稿が展示されている、そこいらあたりにいることにいたそうぞ。声をかけてくだされればありがたき幸せ。当日、拙者のありようは野球帽をかぶりて黄色いワイシャツの袖をまくった姿で、そこにいるはずである。


●今丼政幸
3月に元派遣のおばさん(今は正社員)らと、4人でみなとみらいのアリスでフレンチを食べた。 その前にみんなで集まったのは去年の暮れで中華街で中華を食べた。 どちらも値段はひとり1万円のコースなのだが、わたすは、やっぱりフォアグラがあるフレンチが落ち着くな。 フレンチは美味しいぞ、食べてみな。  食わず嫌いは、大成しないよ。 わたすも、昨日も夜10時までの残業で、今日もそれくらいだから、土曜日はくたばったいる。 ひとりで文学館に行ってきてくれ。 で、江藤淳展がどんなのだったか書いて、みんなに教えてくれ。 わたすは、もう年で働くのも億劫になったし、所詮労働者で働いても全然カネにならないってことに気がついた。 なので、わたすは、フリーランスに転向する。  転送速度が速くなる5Gが日本でも来年から始まる。 なので、これからはネットが主流になる。 ばかもめはカネがないからやってないだろうが、去年、携帯を機種変更したとき、電話もソフトバンクにしたから、ネット通信もソフトバンクに変え、家ではW i Fiだ。 これだと携帯のギガ不足なんてなんも関係ない。 なので、わたすは、毎日、ネット三昧で、とりわけYouTubeにハマっている。 このYouTubeをやると、カネが稼げる。  無論わたすの登録者を最低10万人以上は確保しないとダメだが。  登録者10万人がわたすのYouTubeを見てくれることで、わたすに、宣伝料が支払われるという仕組みだ。 これだと、わたすが寝ててもカネは入ってくる。 これからは、これだね、カネを稼ぐには。  無論センスのないばかもめは、そんな大勢の登録者を確保出来なくてカネは入ってこない。 カネを儲けるには、誰からも見てもらえるYouTubeをたちあげねばならない。 で、わたすは、これからの金儲けのためにYouTubeにチャレンジするのだ。 わたすも、ばかもめも、古い人間だから、例えば、江藤淳展の文章を書いて、それを本にしてカネを儲けると、考えてしまうが、いまは、広告収入の方が、はるかに本の出版よりカネになる。 なので、江藤淳展紹介動画を全てタダで見せてしまってなんも問題ない。 むしろ、タダでばら撒くほど集客出来る。  遅かったが、働かないでというか、仕事に出ないで、フリーランスで動いた方ががっぽりカネが稼げる時代なんだね、いまは。


●かもめ
今井殿も、だいぶ年を取られた由、働きに出ることが億劫になったとな。最終的に倉庫会社のほうを辞めるってわけかね。新橋には、もう通いたくないって話だな。会社で相当いやなことにあったのだろう。この能無しのクソオヤジとか、言われたのだろう。体を動かそうとしない、掃除一つできないで食っちゃ寝食っちゃ寝のアホだったからな。今井君のばあいは。ふ~む。フリーランスとは聞こえはよいが、ようするに隠居するってことだろう。リタイヤするってことだろう。思うに今井君にとっても拙者にっとってもだが、これからが本番だと考えてみたまえ。案外長生きするかもしれないのだぞ。この後30年も生きるとなったらどうする。足をひきずりひきずりでも世間に弱みをさらして生きていくか。さもなけれは、恥をかくのが怖いので、どこか暗いアパートの一室から出ることもなく、そして誰知ることもなく野たれ死ぬか、まぁ、いずれふたつのうちのどちらかだ。

 

●今丼政幸
わたすがいつどこで死ぬかは知るよしもないが、わたすは心臓が弱いから、普通なら、自宅で心臓が止まって死ぬことだろう。わたすは、いつどこで死んでも構わない。困るのは、後片付けをしなきゃならない親戚だ。わたすは困らない。で、これからフリーランスになって、たとえ30年生きても、わたすには蓄財があるからそれを使い切る事なく死んで行く。ばかもめには関係ない。せっかくわたすが日曜でもトイレ掃除の勤務に出かけるばかもめに、会社勤めをしなくてもカネを得る方法を教えてあげているのに馬鹿なばかもめはフリーランスを理解出来ない。例えば、テレビで、これからは旅人の時代だと言っておった。ばかもめが、わざわざ、港が見える丘公園の文学館に行く。その江藤淳展の様子をレポートする。これを、動画と文章でレポートする。その動画と文章を、世界が、ネットで見て読む。馬鹿なばかもめの間抜けな道中記があざ嗤えて面白いから、評判になる。馬鹿丸出しレポートを、世界がばかもめに求め、ばかもめは、繰り返し、どこぞに出かけて、旅をして、報告をアップする。このレポートに、大勢が見たり読みにくるとなると、そこに目をつけた広告代理店が、CMを出したいといってくる。このCM料が、月に100万円となれば、ばかもめはトイレ掃除してるより、旅人をやった方が儲かるから、休日に勤めに出る必要はないのだ。ばかもめが、いつまでもトイレ掃除で食べていきたいなら、無理強いはしないが、わたすは、会社勤めより、フリーランスを選ぶのさ。司馬寮太郎の『街道を行く』のような、考察にたけた江藤淳展のレポートを期待しているよ。才能がないとフリーランスはやっていけないからね。

 

●かもめ
なにはともあれ、がんばりたまえ。今丼殿よ。誰しも年を取れば会社勤めの賃労働から足を洗わにゃならん。友達もいなくなる。家族からさえ孤立する。とてつもない孤独と退屈をなめさせられる。強情をはって若作りに急いても寄る年波には勝てないものさ。こうとなったら蓄財なんぞ何の役にもたちはしないよ。大事なのは何なのか。少なくとも金ではないよ。それらのことが老人個々に心底から試されるに違いないのだ。いずれにせよ苦難が待っている。これに耐えなければならんのだ。

 

●今丼政幸
やはりばかもめはなにも分かっていなかった。わたすが、会社仲間や鏡太郎家族と3ヶ月に一回ランチを楽しんでいるのは食事代をすべてわたすが払っているからだ。カネの意味を理解していなくて、貧乏自慢で生きてきたばかもめもようやくせっぱ詰まった人生の終焉を迎えたようだ。孤独なのは、ばかもめにカネがないからだ。寄る年波に勝てないのは生きがいを持たないからだ。わたすはいまYouTubeを立ち上げるためにプログラミングの本をも買い漁っておる。ばかもめには読書の趣味がないことが致命傷だ。Excelの本をちゃんと読み表計算ソフトをマスターしていたら、下請けで小遣い稼ぎは出来たものを。読書能力があるかどうかが人生を決めるよね。日本はどこでも図書館があるから、いつでもどこでも本が読める環境が整っている素晴らしい国だ。で、友達なんぞ、ネットで世界中で作ることが出来る。自殺の善し悪しは一概に下せないが、わたすは市川の(今は北海道にいるが)のから、今井は仕事好きだから、死ぬとしたら、会社で突然心筋梗塞を起こして、みんなが見ているところで死ぬと言われておる。ばかもめよ、ばかもめ。世の中は変わらない。ばかもめがいくら頑張っても変革出来ない。変わるのは、自分が変わるしかない。自分が変われば、世の中は、ばかもめにとって素晴らしいものとなる。ばかもめが自分を変革出来ないから、ばかもめは孤独なのだ。いま、わたすは、YouTubeをマスターすることで毎日が忙しい。孤独感なんてまったくないぞ。で、幸せに暮らしている人のやっていることを真似ろ。幸せな人が、どう考え、どう行動するか、パクってみたら、ばかもめも幸せになる。もっともカネがないばかもめには、わたすのように、みんなをランチに誘って食事代を払ってあげるなんて出来ないけどね。

 

●かもめ
「いま、わたすは、YouTubeをマスターすることで毎日が忙しい。 孤独感なんてまったくないぞ」と今井君は威張っているが端的に申してそりゃ今井君が鈍感だからさ。人生とは食っちゃ寝食っちゃ寝だけで、すべてだと、うそぶいて己がひり落とした糞の後始末を完了したつもりなら、なんぼかめでたかろうぞ。まっその調子でやりたまえ。それが君の流儀となる。

 

●今丼政幸
わたすの記憶に間違いがなければ、ばかもめが最初に雇ってもらったところでは、70になったらお役ごめんで解雇され、70になって辞める年金生活のアパート暮らしの人が、この先やっていけるだろうかとばかもめがいきり立っていたが、80まで雇ってくれるようになったのだろうか? いくらばかもめが働く喜びに萌えたところで、会社は、勤務中死亡されるのが怖いから、そうそう老人をいつまでも雇わないけどね。 わたすの主張は、ばかもめの萌えどころと論点が違って、わたすはもう日本人は会社勤めをやめるべきだという主張だ。 ばかもめと違って、わたすは通勤も辛いし、頑張って会社で働いてもボーナスが出ない。 頑張り損と知ったから、会社勤めがアホらしくなった。 いまは、ネットの発達のおかげで自宅に居ながら稼げる商売がある。 これを利用しない手はない。 まだなんもスキルを持たないわたすだが、習うより慣れろだい。 なんとか居ながらにして稼げる三段、じゃなかった、算段をつけるつもりだ。 で、出来れば、暇はたっぷりあるがカネはまったくない老人も、見よう見まねで稼いでもらいたい。 カネを稼いで、たくさんカネを使って貰わないと、日本経済が伸びて行かない。 勤めを辞めた、勤めを辞めさせられた老人の自宅での金儲けを考えてもらいたいというのがわたすの意見だ。 なんも考えていないばかもめは、安い給与に満足して80まで会社勤めをしてくれい。老人にカネがないのは当たり前? どうして? リタイヤした老人がカネを稼げないなんて誰が決めたのだ。 日本人の思考が生活の基盤は会社勤めにあると洗脳されているからデマを鵜呑みにしてしまう。 短絡思考はいけないな。 かつてばカモメですら、内職で校正をやってて月5万円の小遣いを稼いでいた。 会社勤めをしない仕事はいくらでもある。 人材を求める需要と、どこから仕事を得たら良いか知らない供給側がミスマッチなだけだ。 すると、高速ネットのいま、そんな需要と供給のアンバランスを解消する仕事斡旋のホームページが日本全国どの自治体のホームページにもあれば良い。 その自治体のホームページも、経費削減のため、老人に作成をやらせたら良い。 日本が真面目に経済活性化を願うなら、老人人材を使うのが一番手っ取り早い。 で、それらホームページには、最低限英文を併記するバイリンガルが必要だから、英語が出来る人材も必要だ。 もつと言えば、いまはネット広告で稼げるから、民間でその職業斡旋ホームページを立ち上げたら良いのだ。 人材不足なんて真っ赤な嘘で眠っている人材を適正に使いこなせていないだけだ。 それは、会社勤めででしかカネを稼げないという固定観念に毒されたから、資本主義の需要と供給のマッチングという基礎の基礎を分かってないのだ。 需要と供給を適正にマッチングさせさえすれば老人もカネは稼げるのだよ。 愚か者! わたすは、もつと便所掃除の仕事が増えてもらいたい。 もっと頻繁に掃除をしてもらわないと公共トイレは汚い。 老人が稼いで、税金が増えたら、そのカネで清掃人を雇える。 雇用が増える。 老人がカネを稼ぐよう日本が思考を方向転換したら、日本経済は安泰だ。 なんも考えが及ばないばかもめは、80まで仕事にせいをだせ。 たわけ!まだ、ばかもめは分かってない。ばかもめが、ばかもめの流儀で生きて孤独感を感じているから世話がない。どうしたら、ばかもめは孤独でなくなるのか真面目に考えろ。世の中のみんなが、ばかもめとは違う流儀で生きてて満足している。孤独でさいなまされているばかもめは、どうしたら現状から脱せられるのか、すこしは努力しろ。ばかもめは、どうして鈍感になれないのだ?鈍感になって孤独感に苛まされはことなく生きてけばいいだけよん。達者で暮らせよ。

 

●かもめ
いいかい。拙者が申しているのは感傷から沸きあがってくる「孤独感」がどうのこうのではないのだよ。人が老いることによって自覚せざるを得ない、その絶対的孤独のことさ。いわば存在論的孤独のことだ。もっと云うなら、年々、わが身からただよってくる老醜を自分の鼻でかがねばならないという現実だ。君の云う感傷から来る安っぽい「孤独感」など十歳の子どもでも感じることができるだろうさ。

 

●今丼政幸
ばかもめは救いようのない馬鹿だな。  「人が老いることによって自覚せざるを得ない、その絶対的孤独」って、  人が絶対的孤独など感じられる訳がない。 ばかもめは、言葉の意味を理解出来ない。  「絶対的」とは、現実的には、ありえない。  絶対零度のように人が実際現場に立ち会えることもあるが、それですら、  定義として、エネルギーが最低となることと規定するから、量子学的には、  原子の振動がとまることはなくて、エネルギーが最低になることはない。  「絶対的孤独」とするのは、妄想だ。 ばかもめが妄想で出口なしの寸詰まりにもがくのは、他人にとって無関係だ。 ばかもめの絶対的孤独は、十歳の子供が感じる安っぽい孤独感以下の陳腐なものだ。  現実的には、現象がすべてで、自分がどう感じているかの感傷こそが  存在論的存在そのものだ。  「わが身からただよってくる老醜を自分の鼻でかがねばならない」とは意味不明だが、  老人臭は、本人より、臭い匂いを嗅がされる周りが迷惑で、当人自体は、  たいしてなんともないものだ。 わたすは、嫌悪感からばかもめが自殺しようと止めはしないから、 ばかもめは勝手にやってくれい。 ばかもめの悩み?を聞かされること自体がわたすにとって不快で迷惑だ。 たかが一個人の悩みが、全世界にとって意味あることでもない。  死にたいなら、一人で死んでくれ。 わたすには好きな歌がある。 この曲をばかもめに送ろう。  人生は素晴らしく美しいものだ。↓
https://youtu.be/RfHnzYEHAow

 

●かもめ
さて、いつまでも今井君を相手に馬鹿馬鹿しい話にうつつを抜かしていては、こちらまで本物の馬鹿になりそうなので表題に戻らなければならない。公知した通り六月一日、県立神奈川近代文学館にて執り行われていた『没後二十年 江藤淳展』に参じてまいったところなり。想像していた通り、文士の展覧会とは、何が展覧されているのかといつでも多少の疑念が残るが、やはりこれは画家や彫刻家のそれとはちがって、ようするにまずは文字を読んでもらうほかには手法もないのであって部屋の壁にそってしつらえられたガラスケースの中には、刊行当時の著書と、その自筆原稿、または手紙の類が次から次へと開示されていた。だが、周知の通り、原稿を書く道具とは万年筆である。したためられた文字を記しているところの物質はインクである。江藤淳が書き記した原稿も、今や半世紀が経たんとしているのであって、読むには難儀するほどインクも、かすれていた。以前、藤原定家になる明月記の墨書をみたことがあったが、それはそれは黒々した文字が踊っていた。もちろん、このことは近現代の文士の責にはできない問題だ。さて、文字を読む作業から解放されるうれしい一時があったのは、江藤淳自身が写されているたくさんの写真が飾ってあったことだ。江藤淳は、どの写真を見ても、いつでも微笑んでいる。深刻ぶったところがひとつもない。このニヤけた表情が、彼の著作を読みもしないうちから、わたしに江藤淳と云ふ文士にたいして誤解を持った所以のひとつであったことは相違ない。まずは、江藤淳の書いた物を読まねば私にとっての江藤淳は、なにもはじまらない。

 

 

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▼吾輩は野良である

2019年01月04日 | ■今丼政幸君との対話

さてさて、数年前より、わが盟友である法政夜学あがりで白物家電と異名を取る今井政幸君との議論の核心となっていたのがヒト科における富と貧との問題だった。何を隠そう、わたすは法政通信教育部中退なのである。ようするに低学歴は似たもの同士ではないかと当方から夜学あがりの白物家電を甘く見て、すりよっていったのが結局は仇となり,いまやさんざんに罵倒されているしまつ。白物家電が言うに、同じ法政でも通信教育部中退なんぞ、なんの自慢にもなるわけがなく、それこそ馬鹿に決まっていると受け入れてくれる様は一向になし。同じ法政でも、俺とおまえは人種が違うとまで言われては、そのまま黙って見過ごせるわけにも行きそうらわず反弁を駆使して身を守ることあたわず。

それはともかくすなわち貨幣所有額の差と人格および思想に反映し比例しているか、または否かの問題だった。わたしの主張は富めるものほど以外に馬鹿だったという結論である。比して今井政幸君は、その逆で貧者こそ生まれながらにして最初から馬鹿だと断じてやまない。さてさて、いかなる哲学の道が開けてくるのか。ご覧あれ。

 

以下、2016年当時の赤っ恥掲示板より

●今井政幸・・・フルハラ直人君がら送られてきた乞食のカモメの写真!!(爆)

 

 

●かもめ・・・上はまさに拙者を被写した写真に違いないようだが、いずれ十年ほど前のものだ。当時職を失い妻子から放擲され食い詰めて路上生活に甘んじていた。主として秋葉原周辺を徘徊しつつ夕暮れともなればねぐらを求めてシャッターを降ろした商店の軒先で涅槃の図をきめこんでいた。だが現在は違う。路上生活のままで人生を終わらせるわけにはいかないと気がついたのだ。頭を丸めて生まれ変わり若い頃世話になった八丁堀の親分に拾われ便所掃除の職を与えられた。それから十年。笑わば笑え。いたって真面目に勤労生活にいそしんでいるところなり。

 

 ●今井政幸・・・ん?便所掃除のかもめは苦しいのか。わたすは町内会長の奥さんから物欲俗物の奇人変人だとレッテルを貼られて以来すっかり誰からも相手にされなくなり苦しいのは確かだがめげずに教養を身につけようと展覧会の中古チケットをあさりまくって充実した毎日を送っておる。先日故郷の兄嫁から手紙がとどいて末尾に「政幸さんも可哀想になぁ~」と記されてあった。

 

 ●かもめ・・・周囲からいつも嫌われつづけ、すっかり平身低頭してめげている今井のばあいも、たまには、どすて、わたすはこれほどまでにバカなのでしょうかと町内会長の奥さんに問うてみればよい。わたすはバカで変な奴でしょと自分から申し出てしまえば少しは町内会長の奥さんも許してくれるかもしれやせぬ。最初から自虐的に振舞ってしまうのだよ。さすれば町内会長の奥さんも納得してくれることだろう。そのうち奥さんの口から町内会全体に今井の人物批評が肯定的に広まり、毎夜毎夜貯金箱をガラガラ鳴らして喜んでいる今井さんも、あんな風に見えても、その実なかなか良い人なのだと評判が立つ。今井さんのばあいはああいう引っ込み思案の少し脳のたりない小口株主の全国どこにでも転がっている罪もない好人物なのだと周知され町内会から、それ以上の批難は出てこなくなる。可哀想な奴だとも思われなくなる。じゃが、周りがいくら今井のことを許してくれても、物欲俗物でアホ丸出しの今井のばあい自己嫌悪に落ち込むでしまっては元も子もない。こうなると町内会および世間と決して根のところで和解出来ない意固地な今井の末路は惨めなものとなってしまう。

  

●今井政幸・・・ばかもめは静かにしなさい。無知の爆発だ。インターネットやパソコンのモニターから芸能の本質なんてみえないよ。

 

●かもめ・・・ネットやパソコンのモニターから芸能の本質は見えないとの今井の言は、そりゃ反対現象のことですよ。では、今井に聞くが、芸能の本質以外の何が見えるのですか、ネットやパソコンモニターから。お前が申しているのは、芸能と言うより芸術のことかもしれないな。たしかに芸術というなら、それもその本質というなら、ネットやパソコンモニターなどからは、見えないものなのかもしれない。だが、拙者の場合は、芸術なんぞという概念は、そもそも相手にしたくもないオカルト現象だと決め付けているところなりけりよ。芸術なんぞ、この世にあってもなくてもどうでもよい、腹の足しにはならないイデオロギー上の産物だ。われら下等な動物のヒト科にとって、衣食住に続いてなくてはならないもの。それが芸能にごわすよ。芸能の本質にござるよ。

 

●今井政幸・・・んっ?ばかもめはインテリ嫌いかや。 低学歴で頭の悪いかもめが反芸術のインテリコンプレックスなのはしかたないとして、結局人生の最後の最後にたどり着くのは自分は何者なのかという問題だ。インテリなんてさほど憧れの対象でもなんでもない。知識を誇ったところで弄られてお笑いの対象にされるだけだ。つーか、例えば経済でノーベル賞を取る程の学者はいっぱいいるが誰一人としていまの経済不況を解決出来ない。真のインテリなら無力な自分の不明恥じて学者を廃業するだろうにそんなきとくな御仁もいない。全てはコンプレックス満載のかもめの心の中にある妄想がばかもめを苦しめているだけだ。コンプレックスこそが人間の発達進化の原動力なのだが、自分が自分にする重圧に耐えかねて大概は進歩を止める。でっも、ただの人でもいいじゃないか。かもめは、無理するな。自分の言葉に自信がないなら 。大衆演歌に依存して、これを芸だと思い込んでいる島国人をして下劣な生き物とカテゴリーして他人を否定する自分を擁護する心の流れにヒントがあるよ。とにかく静かにしなさい。かっこして笑すれば優位になれるのかな。もうやめなさい(笑)。世間知らずの傲慢高慢なばかもめは平等という粋を知らない。ばかもめがこれまで歩んで来た道は絶対絶対ばかもめが受け入れらないばかもめにとって不都合の世界だったからだ。ばかもめは、真面目に、時代遅れについて考察した事がないのか。

 

●かもめ・・・おいさっさ。 「平等という粋」とは何事かね。平等概念に粋なんて言葉をつかっては、それこそ無粋といわれても文句はあるまい。無粋ならまだよいが、そりゃ相当の馬鹿だよ。間違いなくアホだ。いいかい、平等は美に反するものだよ。残念ながらね。平等が担保されるのは、せいぜい貨幣においてだ。日夜、今井君の頭の中を駆けずり回っているカネさ。カネだけだぜ。平等なんてものを証明できるのは。されば平等なんてものこそ無粋の最たるものであろう。よく考えて御覧なさい。

さて、わたすは自分で自分のことを、どれぐらい知っているか知らないかは図りようはないけれど。自分が経てきた過去のあれこれの思い出の数々は、幾千万という記憶の場面を伴って、わたしをわたしたらしめている。これらを踏まえて改めて思うに、別にとりたてて人に比べてご立派なところなんぞは何ひとつないことは自分でよく知っている。それでも自身のことを拒否はしませんよ。もともと度が過ぎるほどの楽観主義者でした。70近くまで来て、だいたいにおいて人に恵まれ、健康に恵まれて生きてこられたと思っています。そこそこ幸福だったような気がします。これ以上の、なにを自分に望めるというのでしょうか。

もちろん多少は自分に対する不満が無いとは言えません。それは、いまのところ一編のましな文芸作品すら書けないで、のうのうとしている、というあたりですね。その点が、不満と言えば不満なのですが、書かなければ作物が産まれないのは当たり前の話です。作物を産み出すには、苦しい作業が待っている。その苦しさを、どうも根が怠け者なので、さけて通ろうとしている現状に、いささか不満を持っている。ここに、よく言われる才能の限界というものが存在しているのでしょうね。

また行為という問題があるのだと思っている。行為もまた才能を裏打ちする重要な要素ですからね。行為しなければ、何事も始まらないのは、よく分かっているのです。まっ、もう少し生きられるでしょう。苦しい作業に自己を鞭打って向かわせることができるか。それとも、いつものように酒をかっくらって寝てしまうのか。考えればいつだって面白い自己省察の場にさらされてきたのです。わたしは、どちらの自分も、おそらく受け入れられると楽観しています。自分が、どうしても嫌いになることだけはできないのです。自分に甘いのでしょうね。これも才能のうちなのでしょう。楽なことばかり考えている。その代わり、かなりうぬぼれが激しい人間だと思っていますよ。何の価値も無い最低の男であるとは思ってみたこともありません。ほとんど何もしてこなかったことは確かですが、意外に、この年になっても、いつか見ていろなどと、まれに気張ってみたりすることもあるのです。

それに時代遅れの精神性でなにが、どうした。わたすは大江戸に住んでいるような気がしてならない。江戸ではないぞ。大江戸だぞ。「大江戸流行歌全集」でも読んでみろ。脳の足りない今井にも、芸能の本質というものがよく分かるだろう。

 

●今井政幸・・・亀目は言ってることがいつも欲求不満ばかりだから、わたすんとこの掲示板で別名を使って書き込みしても、記事を読めばすぐ亀目だとばれてしまう。よほど毎日くだらない日々を送っていることよの。あほらし老人だ。

 

●かもめ・・・図星にされてしもうたわい。さすが今井殿はするどい目を持っている。まっ許せ。間違いなく拙者のばやいは、欲求不満のかたまりだ。それに毎日くだらない日々を送っている。だが、よく考えてみたまえ。欲求不満のどこが悪い。くだらない日々以上の美しき日常があるとも思えないのである。くだらない日々の、どこに不満があるのだ。くだらない日々で、大満足しているのだから、他人に口を出してほしくはないものだ。どうやら今井君は、わたすのことを買いかぶっているようだね。拙者のばやいは、足の先から頭のてっぺんまで、何一つ取り柄のない、くだらない男なのであったのだったし、毎日がくだらなくて、ふんでこれ以上の満足はないと本人がそう思い込んでいるのだから、ようするに誰がなんと言っても、これでいいのだ!

 

●今井政幸・・・すでに保護者のいない鴨目は、会社がこいついらないと判断すれば簡単にクビとなる。クビとなって生活の糧を失う罰を受けるのは鴨目自身だ。亀目はいったいなにをしにこの世に生まれて来たことやら。これからどう亀目が人間的に劣化していくかがお楽しみだ。

 

 ●かもめ・・・保護者ってのが良く分からんが。半年ほどめぇに95才にして大往生を遂げた、おいらのかあちゃんのことではあるまい納豆。無理を言うなよ。かあちゃんは痴呆症だったんだぜ。痴呆症の年寄りに保護者もくそもあるまい。オイラの場合、自慢じゃないが保護者も財産も田舎もなにもねぇんだ。そうして、やっとこすっとこと、ここまで年をとってきたんじゃねぇか。これぞ、めでたいことだとは思わないのか。

それに会社を首になる、首になると、えらく意気込んでいるが、そん時は、そん時だろうっつーの。仕方もあるめぇ。性格の悪い会社だったとあきらめるより他には、なにがある。もつろん法に照らして会社側のやり口は理不尽だという確信があるなら、裁判でもなんでもやってみればよい。そうだ、そん時は拙者のばやい、大昔に知り合いになった滝本太郎さんという実に立派な弁護士さんがいる。首になったのが承服できないときは、滝本さんに依頼するのも手だわな。おっと、やめておこう、滝本さんには能力が足りてなさそうだ。別の弁護士さんにお願いしようと思っている。

今井君は首が落ちるとか首が回らないとか、他人の首がよほど気になるようだが、昨日も書いたように、そん時はそん時なりに対応するしか、ないのであって、雀の涙の年金でも、ないよりはましだ。これを元手に、拾ってでも食っていくぞという覚悟を表明したまでのことなりや。

とは申せ、対応策のひとつふたつは考えておかねばならない。70を越えて首になった暁には、まずは、今井君の芋に期待すること大なり。70になった翌日あたりから、以後、三日に一度は、芋を送っていただきたい。たまには、米も送っていただこうじゃないか。芋ばっかりじゃ栄養不足で、体が衰弱してしまう。それに、最低限の味付けは必要だ。味噌も醤油も頼むぞ。

このような対応策が、まず頭に浮かぶのも、今井君の人徳というものであろう。遠い親類より、近くの友達が大切だとは、拙者にとっては、今井君のことであったのだった。芋の心配も米の心配もしないで、晩年をすごし、そして無事往生できるとなれば、もうこれ以上の何か望むものなどなにもない。墓場は無用だ。このような実に、さっぱりとした人生を過ごすことができそうなのも、今日まで今井君との友情を大切に育ててきた結果に他ならない。

これからも、よろしくお願い申し上げる次第にござる。いずれにせよだ。そう案ずるな。死についても、おんなじだぜ。死ぬときは死ぬ。じたばたするなってことよ。今井君は、生活の糧を失ったらどうするのかと戦々恐々たるご心配のようだが、これまた、そのときはそのときさ。仕方もあるまい。そうなっちまったんだから。ま、食い物については、拾ってでも当分の間は命をつないで、いこうという意欲と根性だけはありそうな気がしている。そうしたときに試されるものこそ根性と精神だ。汚れ役も引き受ける懐の深い根性が必要だぜ。そうして初めて生きるってことが輝いてくるんじゃないのか。さすれば誰しもが輝くときは輝くのだよ。なにも地位が上だとか、金餅土地餅だけが偉いとは、全然思っておらんからな。拙者の場合。今井君のばやいはどうであろうか。「新潟出身 株の泥沼 ここに永眠する」なんぞと墓石に書かれて、それでよいなら、それでも、よかろうかい?

亀目はいったいなにをしにこの世に生まれて来たことやら。

そこだよ、本質の問題は。われながら若い頃から、自分自身にその問いを問ふてみたことは数知れないのであったのだった。だが一向に、この年になっても、うまい答えを見出すことができないのである。どうしたことであろうか。さきに拙者のばやい、耄碌がすすんでいると告白したが命の先は短いのであって、無理して難しい問いに答える必要は、皆目あるまいと断念したところなりけり。
問うことを止めたというのではない。たまに、問いてはのだ。だが、答えが出てこなければ出てこないで、それでよいのであると、わが身に観念を心したのであったのだった。よって、なにゆえに息をつきつき、心の臓が脈打っているのかは、何ぼ考えても知らぬ存ぜぬ。されば、おめは何のために生きているのか、という問い自体が、一種の念仏のようなものだ。深い念仏の意味は知らないでも、念仏を唱えると、一定程度気持ちが安らぐのは確かなのだから。さても、今井君はどうであろうか。今井君のばあいは、なにをしにこの世に存在しているのだと問われて、答えがあるなら、それに差し支えなければ、正々堂々と発表してもらいたいものである。もちろん無理は禁物だ。答えたくなければ、それでよい。

これからどう亀目が人間的に劣化していくかがお楽しみだ。

今井君もたまには本質的なことを言う。君は僕の、僕は君の、互いの劣化を、互いに笑いあい、嘲笑しあい、小ばかにしあい、これを楽しみながら生きていける幸せがある。これぞネットの醍醐味というものさ。

いずれにしてもだ。まっそうつっけんどになるなよ。君と僕との仲ではないか。インターネットの確立時から始まっている。二十年越しだ。よくも、これほどまでの能タリンかつ算段バラのアホを相手に飽きもせずに付き合ってきたものだとは、一応のところは、思うのだ。察するに今井君も俺も脳タリンの同類だということは間違いない。同類は同類を呼ぶと言う。まっお互い、無理をしないでやっていこうではないか。アホ仲間として、これからもよろしく頼む。なにせ。今井君を見ると小馬鹿にしてみたり、からかってやりたくなって仕方ないのだよ。これは、例の有田ヨシフに対しても同じだ。どうも滑稽に見えてならない。黙ってやりすごすことが、出来かねるのだよ。

昔っからわたすは口が軽いので人様から信用されなかったのだった。性格は軽薄そのものだとガッコの先生から何度も指摘された。だがな。これはもって生まれた性格なのだから、いまさら、変えろと言われてはいそうですかというわけにも行かないだろう。無理は禁物だ。またスケベ根性たるや度が過ぎるとの指摘も何度となく耳にした。無学でスケベで口が軽くて読書嫌いの演歌好き。これで、金持ちになれるわけがない。

いずれ、これらのマイナス性向は、逆転の発想を生かして、趣味と念じる文章や写真撮影の表現活動の中で有効に生かすことはできないものかと、そのように考えているところなのである。それにオイラの耄碌は、ここにきてだいぶ進化したきたようだ。考えておかねばならないことは、誰にとっても間違いなくやってくる、もう一つの客観的真実とは、おっつけくたばってしまうという幸不幸である。よって、今井君にも、くれぐれとお願いしておくのだが、友人を自負するのなら、できるだけ甘えさせてはくれまいか。おいらも偏屈が高じて、どうやらだいぶ世間を狭くして、生き恥さらして日々をすごしているのである。今井君から、見放されたら、今度は、だれを相手に小馬鹿にしたり、嘲笑してやればよいのだろうか。

世間は広いとは申しても、今井君ほどの、こういっては誤解を招くかもしれないが、いわゆる面白い人は滅多にいない。その点だけは、自信をもってネット活動にまい進してもらいたい。ああ、それにしても、よくぞここまで年をとったものだ。自分で自分を笑ってしまう。一般に笑うことは精神衛生上よいことだ。今井君も一緒に笑おう。ばかばかばかばか馬鹿ばっか ばかばかばかばか馬鹿ばっか 

 

●今井政幸・・・馬鹿馬鹿言うな。いま、わたすは、叙々苑で焼肉ランチを食べて帰ってきたのだ。一人12,000円の焼肉ランチにみなは美味しいねと満足しておった。むろんカネはみなわたすが払ったのだがこの日、みんなの満足を引き出せたことだけでも、わたすがこの世に生まれて来た意味と価値はあったのだった。 かもめは頭を使え。わたすは金を使う。かもめに信用はない。ばもめは、自分がやってることに恥を感じないかね。で、貧乏人のかもめは、どうやればわたすのようにカネが儲かるかを知らない。

 

●かもめ・・・まさに、その通りなのだがね。今井君。どうやったらカネが儲かるか、すなわち金儲けの奥義だけは、学校教育の中でもそうだし、一般に誰からもまた誰しもが、誰にも教えたがらないものだと思いますよ。実際、一般に、「カネが儲かる」理屈というものは、個々人にとっては、埒外の話ではないのだろうか。カネが儲かるという次元と、勤労という次元は別のものだと思いますよ。一所懸命、働きさえすれば、カネが儲かるとは、誰もが思っていないのではないでしょうか。カネを儲けるというのは、大仕事のような気がしますね。

一世一代の大ばくちでも打たない限り、そうはやすやすとカネは儲かるものではありませんよ。今井君。つまり今日的に言えば、投資だ。もちろん競馬競輪でもよいだろう。だが、これらに手を出しても、必ずしもカネが儲かるとはかぎらない。一挙に、財布が空になるときもある。

よって、カネが儲かる仕組みを知らないのが貧乏人だと決め付けるのは、いかがなものかと思いますよ。今井君。人々の多くは、少々の貯金を残して、その日暮らしのようなものではないのですか。月々の収入は、賃金の多寡によって決められている。定年退職が宣告されるまでは、ちゃんちゃんと会社なりに通って、給料をもらって、また次の月へと移っていく。これを繰り返しているのではないでしょうか。

盆と正月にはボーナスがでる企業もあれば、ない企業もあるでしょう。こうした収入の道を、黙々と歩んでいるのが、多くの人たちではないですか。そうした人たちは、さほどの金持ちとは言えないと思いますよ。金持ちでないから、貧乏人だと決め付けるのはまた、あまりにも幼稚な理屈だと思いますよ。

それにしても腹が減る。今井様 今井様。ここは一つ、よろしくおねげぇすます。なにしろ、学がないもので、この年になるまで、カネのことなど、何一つ考えてこなかったような按配で。いよいよ貧乏が身にしみてきたところだす。あんまし小難しい教育はごめんこうむりますが。そこは、学の無いわたすに合わせていただき適当に按配よく御願います。さても今井様、腹が減ってはいくさはできません。どうか、まずしいわたくしめに焼く肉を食わせてやっていただけないでしょうか。おねげぇします、今井様。どうか焼く肉を食わせてやってくだせぇ。焼く肉さえ食わせていただければあとは今井様の言うことならなんでも聞きますよ。わたすはウソはつきません。ああ、よだれがたれる。それに、生ビールも飲ませてくだせぇ。一杯だけで、ええんだす。あとは自腹を切って安い酎ハイでもかっくらうつもりだす。ああ、一生の思い出だ。


 

●今井政幸・・・ここなんだよね。貧乏人を再教育というか、カネが儲かるノウハウ、博打じなくて、ただひたすら真面目に働くそのノウハウ。これを教えないから定職につけない。6月は、株の配当金が入るからみんなに焼肉屋に行くかと問うたら、ぜひ行きたいという。んじゃ7月のいつにする?と聞いたら2日か30日というから2日ってことで焼肉屋に予約した。豪華セットというコースランチを。すかす、ばかもめなんかカネもないし、生活費を稼ぐのにひいこら言っている。

わたすなんか入ってきたカネはばかばか使ってる。ばかもめは相変わらず月収10万円。プラス年金ひと月あたり5万円。年収180万円じゃろか。ばかもめに貯えは全くないからこれはきついねぇ。
かもめは親からも誰からも教えてもらわないからますますアホだ。これが貧乏人が貧乏人を再生産する理由だわさ。その他、かもめに言いたいことはいろいろあるけど少しずつ教育していこう。幸福な意義ある一生を送ろうと願うなら、つまらん小説なんぞとは関わらない方が賢いわさ。



 

●かもめ・・・その「ひいこら」が、わたしの血肉となり真性の汗ならば、やがて歌になり道徳となり、ときには哲学にもなるのです。職業に貴賎のないことが、このことから分かるのです。貨幣の力をうやまうあまり勤労の悲喜こもごもを過小評価しては幸福が逃げていきますよ。今井君。

それに意義ある一生とな。ヒトにとっての意義なんてものは自分では判定できないものだよ。第一、何事を持って意義の有りなしを決められるのかね。拙者にはさっぱりわからんぞ。他人相手には、よい本を読んで意義のある人生を送れとか、知を得て幸福になりたまえなんぞと臆面もなく言うが、それらの真意たるやすべてが無責任な社交辞令でしょうや。

今井君の場合はどうかね。どのような意義を求めて日々を過ごしているのかね。一般に当人の価値は、当人が没して、だいぶたってから後世の他人様が故人の悪行をあげつらって玩弄するのが落ちだと思っている。多くの人々は死すと同時に悪も善もなく一気に忘れ去られる。生前も無名だったが死後はほぼ完全に無名となる。

まれに、名のある芸術家が死しても彼の作品だけは永遠に残るはずだなどと主張するメルヘンチックな文学青年がいるが、それはヒト科に特有のうぬぼれた信仰にすぎまい。

とは申しても、ここまでヒト科が残してきた良き作物はヒト科が生存する限り延々と受け継ぎ残してほしいものではある。その第一にはイエスの奇跡を記した『聖書』。後世に残すべき文書は『聖書』だけで良いと断言しては、世界中から文句が殺到するに違いなく、この際第二第三と知ったかぶって列挙したくて仕方がないが、それをはじめては切りもないので止めておく。

 

 

●今井政幸・・・ばかもめの視野狭窄はブサヨのようなてめたちの地位低下防止策で、それは、ソフィストの持つプライドから来る他人を見下した尊大病理なのだ。この病理にかかると物事の本質が見えない。

所詮確固たる信念を持たずただ成り行きでなんとなく生きているばかもめは、取り敢えず眼前の生活費欠乏でなんとか便所掃除を見つけて、それでもいつまで職に把み続けられるか不安と将来を案じている内心をワンカップに紛らわせてる毎日を自らの手で隠蔽する。  だからますます横路に迷い込みとどのつまりがビンボの袋小路に入り込み抜け出せない。いちどきちんと自分は間抜けで才能がない凡人以下だと正しい現実を見据えたらまだ壁を越えられるのに。
 
都会に住むことがどれだけ田舎暮らしより優位なことかわたすは知らんが、都会暮らしに拘るばかもめは自縄自縛単にてめでてめをがんじがらめに縛りつけているだけだ。 普通都会暮らしが田舎暮らしより優位というか有利なのは容易に職を探せてあわよくば高級取りになれることにあるが、都会で貧乏暮らしをしてるばかもめは、だから都会暮らしの優位性を持たない。

ただ散歩するしかカネのないばかもめは、それなら田舎の一本道を歩いてるだけの方がカネもかからず安い年金でなんとかやりくりして生きていけることじゃろう。 見栄で生きてるだけの人生は味気ない。貧乏ながらも毎日労働に励んで、仕事を終えた夕暮れ時に、安酒をかっくらってる方がまだ人生充実してる。

おそらくかつてはあったはずのばかもめの人生設計が全て狂ったのは、どこぞでばかもめが身につけたちんけな詭弁自己誤魔化しテクニックで、それは正確な正しいありのままの自分の姿から目を逸らし、妄想に耽り、尊大に構えることで誇大肥大化する自己に陶酔だけの麻薬に溺れる法律違反者の姿と変わらない。 理想と現実のギャップが人々を麻薬に駆り立てるが、なんてことない、正しく自分が取るに足りない小人と知ってる賢者は麻薬にひたることはない。

本来は、人々を現実の苦しさから救い夢と希望を与える文学がばかもめに与えたのは現実逃避だけだった。これから20年。ばかもめが正しく経済知識を身につけたらばかもめは株でボロ儲けしてなに不自由なく都会暮らしが出来るやも知れない。すかす、視野狭窄のプライドの高すぎる尊大なばかもめは、貴重な時間を無駄にして、経済をなにも学ばず、せいぜいあと数年生きただけで人生を終える。すかす、それもひとつの生き方。誰もばかもめがどう生きるかなんて知ったこっちゃないのであったのだった、まる。

 

今井政幸・・・今日はガストでパンケーキをば。満足、満足。ばかもめには食わせてやらねぇよっと。

 

 

 

以下は十年ほどまえに書いた雑文だが、これをもって物欲俗物白物家電と異名をとる今井政幸君への返答といたす所存。

 


2009.05.06 世田谷区
 
我輩はいたって単純な猫である。しばしば町内の猫族各位から、のん気すぎると馬鹿にされる。思うに我輩の性質として、最初からたくらみや打算を持って猫と付き合うのは得手ではないらしい。その方面の頭が働かない。打算を弄して猫と付き合うというのは、自分の倫理観に差し障りがあるというよりも、いっそう計算能力が試されているようで、腰が引けてしまうのだ。

野良の関係は思うに一期一会でよいと思っている。どこの猫であれ中国の故事にあるように「君子の交わりは、その淡きこと水の如し」のようにありたいものである。相手の心にできるだけ深入りしないですませるのが処世の術だ。用も無いのに立ち入らない。関係性が出来たとしても感情のしこりを残さないように、その場その時で終わりにする。関係の深浅の程度は、もちろん相手にもよるし一概には言えないができるだけ簡便に済ませたいと思っている。

それに我輩は会社や学校などに特徴とされる集団行動や集会というものが苦手だ。とことん苦手だ。だから学校や会社や、また活発に運動している野良猫の各種団体などには、できるだけ関わりをもたないようにしている。協調精神を発揮して集団的意図のもとで上手に立ち回ったり共同で作業したり、誰かから命令されたり誰かを命令したり指導することが、拙者の場合ほとんどできないのである。

その方面の能がからきしゼロだと言われても二言はない。いまや、それが拙者の持ち味だと心得たところなり。ぜんたい他の野良と一緒になにかめぼしい事を行うということについて能力全般が欠如しているようだ。困った猫であることは確かだが、いまや自分で自分にあきらめがついた。結局、付き合いづらい猫ということで収入も乏しくなる一方である。 だが、そのことで取り立てて悩んだり、悔やんだりしているわけではない。それが良くも悪くも我輩という猫のすべてなのだと思っている。それ以上でも以下でもない。たかが猫だが、されど野良というわけだ。 かといって、かならずしも猫嫌いではない。

ネットで知り合った他の猫たちと飲むのは楽しい。また利害関係のない、ほんの少数の会合はいつも楽しい。年末には若い頃に加入し30年近くも毎月ミニコミ紙を出し続けてきた文芸サークル「ふみの会」の集まりがあった。二年ぶりのことで、このときも楽しかった。それから二ヶ月に一度ぐらいの割りで、三年前になくなった妹の、今は一人暮らしをしている連れ合いの家に行く。飲みながら話す。彼も野良型で、とくのほか話が好きである。それにしても、これほどよく話をすようになったのは妹が亡くなってからのことで、不思議な縁だと自分でも驚いている。


特別に長生きをしたいとは思わないし、これ以上たくさんの友達がほしいとも思わない。たくさんの猫たちに、自分の素性や本意、また我輩自身のなにもかもを、理解していただきたいとは露ほどにも願っていない。ときどき拙者の貧しさを見ていられないと、よくモノをいただくことがある。 そこでこの際、野良にはきってもきれない贈与問題について少し考えてみたい。ま、誰でもわかることは、一方通行的に物を与えるといい、与えられるといい決して自慢できるようなことではないと思っている。

 


野良の沽券にかかわる問題だ。モノについてばかりではなく、よくよく考えてみれば、他の猫との関係というものは、その原理からしてみれば、恥ずかしいことではないか。どこかのお偉い猫さんと、このたび晴れて知り合いになったと自慢できるだろうか。これも邪推してみれば将来のエサその他における贈与関係が期待され、自分の懐具合や立場が有利に進捗する予想が立つからである。貧乏な猫と友達になったことを自慢する野良はいない。善行はエサが不足して困っている猫とどう付き合うのかに、かかっている。

むかしポルトガルから流れ着いた中年の野良君といろいろと暮らし向きのことなどについて議論を交わしたことがあるが、討論会の最後にいたり、思い出したように、ポルトガルに古くからある格言を教えてくれた。



富める野良のところには招かれたときに行き、貧しき野良のところには招かれなくとも行けという野良の先祖が残した家訓がある。

善行は黙ってやれとは人間のことばかりではないだろう。これらの道理は猫も同じだ。どこの猫と知り合いになろうが、なるまいが、義理も猫情もへったくれもない。猫倫理にはまったく関係がない話だ。誰からモノをもらおうと、誰にモノを与えようと、私事の範囲のことであり、なんの甲斐にもなりはしない。終始言葉は不要である。物が介在している場合、猫どうしの関係が後日いかような形態をとるにせよ、野良と野良のかかわりなどというものは、一般に自慢できることではないと思っている。

物が介在すれば、なおのこと、それは私的な事柄となる。二匹だけの秘密として最後まで口外されることなく、ひそかに守られたというなら、これ以上の幸いはないだろう。 恋のための恋、友情のための友情などという抽象的な行為が、野良にとっては、あり得ないように、われら野良の感情は、なにもかも暮らしや伝統や世間のまなざしなどに左右されている。「恋」の道行より明日食うエサの心配が先になる。これが野良の伝統と常識である。エサはもらったほうがよいのか、自分で探してきたほうがよいのか。その場その時に、自分で考えてみるよりしかたがなのである。ほしいなら堂々ともらえばよい。もらっても食えないようなものなら、もらう必要がどこにある。

 


2015.12.15 川崎市

我輩も、よく人からエサをいただくが、みなさんよい人で我輩の好みもよく知っていてくれるのか、おいしそうなものを運んできてくれる。一般に我輩はエサをいただいた場合は喜ぶ。相手にもよく見えるように、思いっきり尻尾を振って素直に喜びをあらわにする。そしていただいた物は、相手が見ているその場で食ってしまう。それが人にも裏表の無い、よい性格をした猫だと思われ喜ばれているようだ。我輩の感情はそれだけだ。いただいても食えないようなものだったり、我輩を喜ばせるためではなく別の目的があるような贈与行為が予見されたときは、ただちに、その場を立ち去る。または丁重にお断りする。

これまでも何度かあったことだが顔見知りでもない人間や他の猫から理由も無いのに贈与をほのめかされたりするときは、もちろんすべて断っている。甘言に乗せられると、命を失う羽目になる。後日言い逃れもできないようなえらい目にあう。またタダより高くつくことはないと言う。そもそも我輩は金品は持っていない裸一貫だから、他の猫にエサを与えるということはめったにない。またオゴるよりオゴられる場合のほうがずっと多い。エサをいただいたり、おごられたりした時は素直に喜びたい。

人間様や他の猫のあたたかな気持ちが、我輩にも、よく伝わり嬉しい気持ちになる。嬉しい感情を表すに遠慮は無用だ。尻尾を何度も振ってみれば、それが全身で狂喜している信号となる。ようするにその場その時に率直に喜びを表す。これにつきている。このような率直な態度こそ、なにより相手に対する十全たる返礼になっていると信じている。 いずれにしても野良の人生とは楽しいものである。かといって自慢したり、はしゃぎ回るほどのことはないが、こんな調子で静かに余生を楽しみたいと思っている。できもしないことを考えたり能もないのに無理に背伸びをするから泣きを見るのだ。


繰り返しになるが、我輩、自分がまったく能のない猫であることは先刻承知である。だが野良の中でも全天候型の最強と呼び名も高き団塊野良である。よくぞここまで生きてきた。自慢ではないが団塊野良こそ、今日の野良全盛時代の礎を築いたことは定説である。小さなことにいちいちくよくよしていたのでは、栄えある団塊野良の誇りが許さない。何事もくよくよせず感傷を廃して墓場に向かって前進あるのみだ。空威張りでもよいだろう。そうでもしなければ野良は一日たりとやっていけないのである。野良には野良の誇りと、どこの飼い猫にも負けない生活と哲学がある。

 

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▼深川鈍角屋台のおでん屋

2018年07月02日 | ■今丼政幸君との対話

 

 

 

  

一番聞いてくんねぇ。酔って言うんじゃござんせん。花ちる夜の川端で、涙なみだの浪花節、連れ添ったのも長年のじいさんばあちゃんあんちゃんと別れ別れになる門出だぁ。

とりあえず行ってはみたが隅田公園の桜はまだ全然咲いてねぇよ。こうなったらあたしにゃ界隈の花見なんざぁどーでもいいやい。とりあえず昼休みを利用して浅草参りもそこそこに川端に立ち寄ってみたところ昼日中より酒盛りやっていた酔狂な連中がいて、あたしもどっちかと言えば花より団子の口だから浮浪者ざんまいの輪に加わって一席都知事選の行方なり演説をぶってきた。

花見に喧嘩はつきものだ。無礼講よぉ。あたしゃ祭りと花見は根っから好きだ。さても、いまだ花が咲かぬとは、この暖冬に、いったいぜんたいどういうこったい。花の命は短くてあたしの将来は夢見心地の上の空。散るも残るも桜は桜だぁ。あー例年のことなれば今宵一夜の春の夢かすむピンクの色っぽさ。

数年前の色恋沙汰の、梅坂の坊ちゃんのひたむきな徒党根性が懐かしい。三年前の呼び出しメール。あたしもここぞとばかりに着飾って高田の馬鹿に出向いたものだ。注文したのは生ビールの中ジョッキ。折り入って重大な話があるというので、ビールを飲みたくてもジョッキにはさわらずに坊ちゃんからの話を神妙にまっていた。

重大な話といえば、式場をどこにするかに決まっている。この年になって、プロポーズされるとは望外の僥倖と言えるだろう。屋台でまっていてくれるおとちゃんに一刻も早く朗報を知らせたかった。店に入ったときから、あたしは有頂天だった。だが、坊ちゃんの話は、とんでもない方向にずれてきた。

なんだと思ったら、あたしも共産党にはいって赤旗配りをやるべきだと説教してきた。早くも自転車は駅前のレンタルサイクルを予約しておいたと言う。あまりにも一方的な話で、あたしも頭にきた。頭が真っ白になりビールもそこそこに、おもわずケツをまくった。色恋沙汰も終わりよければすべてよし。イデオロギーのスケベ小僧と中ジョッキに残った生ビールを奴の頭からぶっかけて店を出てきてしまった。

その夜、駅前の桜はまだ咲かず公園の端っこにあった梅が満開だった。梅の木の下の植え込みにはスイセンが咲いていた。さても、なんぼ年を食っても見果てぬ夢のまた夢の世界。当時、酔狂だったのは、なにも梅坂の坊ちゃんばかりではない。あたいが世話になっている、おいちゃん、おばちゃんも達者でいろよ。帰りたくても故郷は遠い。遠くなるばかりの心境だ。どこに行ったか、あのじいさんは。太平洋の果ての果て。

異国の人に嫁がれて青い目をした五番街。移民コミンテルンの兄貴分。ずっと以前のことなれば、九段の桜が大好きで、その中ほどの靖国のお国自慢に花が咲き軍国の母に頭を下げて帰りがけの夜店でワンカップの三杯目。

祭り気分で電車に乗れば、あなたケツがまくれたままですよ、なんて駅員から色目で見られ、やけのやんぱち革命ごっこ。ケツをまくるにゃ銭はなし。ただでいいなら何度でもまくってやらぁ。短気な性格は、昨日今日に始まったわけではないのだが。やっぱし花は隅田の桜にかぎります。来週にでも、もいっかい咲き具合の様子を見に来ます。ほろよいになったらそろりとまいろ。ぶらありぶらありととアンヂェラスでコーヒーとバターケーキで落ち着いていっぷく。

あたしもこれで深川の生まれよ。春のうららの~もうこの生まれ故郷に帰ってかれこれになる。隅田の川端で、あたしのおとちゃんの生業は朝も早よから仕込みに仕込んだ屋台のおでん。

職業に貴賎なし。梅坂の坊ちゃんは親方日の丸ガッコの教師。屋台を引っ張って大川でおでん屋を営む、おとちゃんと人間に差はないだろう。ある日、職業に貴賎ありとする、アメリカ帰りが自慢のバタ臭いじいさんがのれんをくぐった。

吉野家の牛丼を食いに行こうと誘われた。当時吉野家は米国牛肉輸入禁止ですったもんだしている最中。行ってみて注文しても牛丼が出てくるかどうかは分からなかった。じいさんの下心を見破ったのがあたしのおとちゃん。でーこんを口に加えていい気になっているじいさんに文句をつけた。

娘かわいさも、あまりあまった果ての果て。おとちゃんは、じいさんに言った。食えるか食えないか分からないようなファーストフードに娘を連れ込むとはとんでもないじじいだぁ。じいさんがおとちゃんに口答えをしたのがいけなかった。屋台のおでんはファーストフードじゃないのかい、とっつぁん。言い返されて頭にきたおとちゃんは、じいさんを出入り禁止にした。当時トマトを丸ごとおでんにしたのが自慢のおとちゃん。

これがうまい。本邦初のおでんだと評判を呼び、鈴なりの客がおしよせた。しばらく家計は潤って子沢山。今でも、おとちゃんのおでんトマトは日本一だと、あたいは思っている。煮しめるものは、トマトのほかにもいろいろあった。こぶ。ちくわぶ。つみれ。でーこん。ふくぶくろ。こんにゃく・・・たまご、それになんといってもイモがうまい。

話すも涙聞くも涙のスキャンダル。ある年の春、じいさんが屋台に集まる固定客に呼びかけて墨田公園で盛大に挙行した花見の写真が週刊誌に公開されてしまった。参加者全員の面構えが克明に写されている一枚だった。

どうやら宴の輪に混じって官憲に雇われたスパイが潜入していたらしい。次の日、民放TVのワイドショーで、深川の屋台では、トマトのおでんが大評判だが、これは奇跡か嘘かどちらかに決まっているとコメンテーターから、おでんのトマトがさんざんに、たたかれた。

そこで写真をもう一度よく見てみると、参加者のうちたった一人だけ写っていない御仁がいた。それがじいさんだった。なじみの常連客によれば潜入していたサツの犬はじいさんに間違いないというのだが、なにせ証拠不足で、この話はそのまま立ち消えになった。

それにしても事を大きくしてしまった張本人がじいさんであることは周知の事実。花見から三日ほどすぎて、週刊誌とコメンテーターに対してやみがたいうらみつらみがあると申して、顔を真っ赤にして力みはじめた。

何を考えたのか抜き足差し足忍び足下ごしらえの台所に入り込み鍋の底に転がっていた売れ残りの煮しまりトマトを持ち出して、これを宅配の着払いで近くのコンビニから週刊誌編集部に送りつけた。

今や、箸でつつきまわされたトマト 形を失い色あせていた。おでんとはあっためたものを食ってはじめて味が出る。編集部の連中にも試食してもらえさえすれば、おでんのトマトの味は分かってもらえると言っても、冷えたおでんじゃ食えたものではないのだ。

編集部は試食どころがじいさんから送りつけられた形状を失ってぐじゃぐじゃになっているトマトをさまざまな角度からフラッシュをたいて写真にとった。そして、これをなによりの証拠の一品として次号週刊誌の巻頭にでかでかと飾った。トマトの写真は、見るも無残で、原型をとどめていなかった。

あったけぇうちに屋台に座って食えば、五臓ろっぷにしみ渡る、たえなるおでんのトマトの味ってものだ。これ見よがしのトマトの写真が、腹をすかせて食い意地の張った全国の郎党をあおりつけ、たまったもんではなかった。

トマトの産地をめぐって疑心暗鬼に陥った舎弟連中が徒党して連日連夜文句をつけてきた。おとちゃんは、川向こうから石を投げられた。営業妨害だと深川署にたれこんだが後の祭り。週刊誌は売れに売れた。こうして騒ぎは隅田川の両岸をまたいで、トマトおでんの悪評が広がる一方だった。

それにしても、あの時、なにが狙いで、じいさんは煮しまりトマトを編集部に送りつけたのか。謎は深まるばかりだった。おとちゃんの助太刀をしたかったと言っていたが、火に油をそそいだ結果に終わった。

以来、3年半にわたりおでん好きの国民は福祉、教育など焦眉の問題をそっちのけにして、不毛なおでん論争に明け暮れた。さすがにじいさんもこりごりして、ほとぼりを冷ますため、派手なアロハに身を包み飛行機に乗って太平洋の荒波を超え行方をくらました。あのじじいは、お節介がはなはだしく、いらぬ騒ぎを起こしてくれたと、おとちゃんはかんかんだった。

後日、じいさんから、その節は、えらい迷惑をかけたとメールがあったがおでんの売り上げはがくんと落ちた。屋台もこれで人気が商売。しばらくたった夕闇けむる川端くらし。例のじいさんが、死んだはずだよお富さんといういでたちで、ひょっこり屋台に面を見せた。ざんばら髪にこの寒空にひとえの人絹のはかま姿はよかったが貧すればドンするとは、おまえのことだとじいさんに同世代のおとちゃんが文句をつけると、口のまわりにトマトのカスをくっつけたまま腹を立てた。どうやら食うものも食わずに週刊誌の取材攻勢から逃げ回っていたと見え、人が違ったようにやせ細っていた。

往年の自信たっぷりの物言いはすっかり影をひそめ、しきりにトマトをほう張りながら、昔と味は変わらないね、などとお世辞を言っていた。そして頭をなでながら世間様に申し訳がたたないと何度もつぶやいていた。

結局その日、あたしとの関係が最終的に切れてしまった。親分子分の仲にひびが入った。思い返すも別れた後の祭り。その晩、切れてしまったじいさん。やたらめったらおとちゃんに八つ当たりをする。

トマトを食いながら、騒ぎに騒ぎ、深川の巡査がやってきて警察沙汰。席があったまっても、なんのその、おとちゃんからいやみを言われたことも事実といえば事実なり。トマトを口にくわえたまま巡査に引っ張っていかれたじいさん。厳重注意の訓告をいただき仮釈放。屋台には面をみせずに、そのまま飛行機にのってどこかにトン面していった。

風の便りによるならば、ケニアのマサイ族に成りすまし槍を片手に元気に踊っているところを目撃されたとのことなりや。真偽のほどはいかなりや知らぬ存ぜぬ。さて屋台の様子も今は昔の物語。おとちゃんから、「満員だ」と一言、そう言われれば、わかりましたと素直に引き上げるってのが、ものを知った江戸っ子のあるべき姿だ。

じいさんは、週刊誌に書かれたトマトの記事に承知できなかったというわけか。最後の晩はおとちゃんを前にして、ごねて、ごねて、始末におえなかった。それっきり屋台には面を見せていない。

マサイ族に加わって楽しく暮らしているというなら許しもしよう。トマトは煮しめると最高にうまい。深川あたりの住民以外には、この事実をしらないだけだ。思うにじいさんも、おとちゃんと適当な時期に折り合いをつけてほしい。恥ずかしがらずに、屋台に顔をだしてほしい。

おでんのトマトを食ってみれば憂さも晴れるにちがいない。いつかのように盛大に花見をやりたい今日この頃は、店じまいの前に、お客が飲み残していったコップ酒を集めておとちゃんと二人で乾杯だ。

さびしくなった屋台の周囲。週刊トマト事件以来、めっきり客足が遠のいた。いい男は小汚い屋台なんぞにゃ滅多に寄り付かなくなった。商売道具のポリバケツがまるで大昔からそこに捨てられていたかのように夜露にぬれて傾いている。あたしも昔のことは忘れたい。

いっそ雨にも負けず風にも負けず心根のすっぱりした女になりたい。あのバタ臭いじいさんのことは忘れて元気を出そう。川端柳が海っ風にゆれている。来週になれば公園のソメイヨシノも満開だ。あたしもこれで定年間近か。だいぶ体力が落ちてきた。ふんじゃといって引っ込んではいられねぇよ。

負けっぱなしじゃおとちゃんと娘に申し訳ない。どこまで続くぬかるみぞ。一花咲かせにゃおかめ八目。ちっきしょう。やせてもかれても江戸っ子だぃ。 

 

  <2005年 笑記>

 

 

 

 

 

 

 

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▼生まれかわって五月の連休

2017年07月24日 | ■今丼政幸君との対話

 

●今井政幸・・・・横浜駅みなみ口のベケットなう

今日は、わたすの64才のお誕生日。ひとりでアイスティーとチョコレートケーキのセットで祝った。一日中倉庫ののほうで働いて、ちかれたもんな。あ~あ ちかれたちかれた。ふんでも明日から5連休だもんな。わたすは美術館巡りだいーっと。これまで買いまくった中古チケットを13枚はこなさねばねばよっと。ちとハードであるんだよっと。体力がもつかどうかだす。

 

今井政幸・・・・・・ナビ派を見終わって三菱一号館美術館の中庭でひと休み。
3館見終わって今日のノルマはこれで消化。
きつくて死ぬかと思った。
しばらく動けない。
体力が回復するまでこの中庭に居よ。
連休の中日を終えて、こなしたチケットは、13枚中6枚。
あと2日で7枚消化するのは無理か。
13枚の消化と言っても、これはいまの連休中にやってるチケットというだけで、
まだ、チケットの期間は切れてない。
今月中の消化なら十分間に合う。
のんびりゆっくりチケットをこなしてくべさ。
すかす、この中庭、蚊が多い。
悪いのに感染しないよう早めに退散せねば。
だけど、消耗しきって体が一歩も動かないんだよね。正直。やれやれ。

 あ、いまやってるののチケットは都合8枚あった。こりゃ後2日間では巡れないにゃ。

 

 

●ありゃりゃ株が下がってる(今井政幸)

今日、三井物産の株を100株、一株1,498円で買ったら、いま、1,487円になってしもうた。とほほほ。
よーし、こうなったら、また、100万円突っ込んで株を買わねば。株は、下がったときが買いだわさ。

 

●テレビはわたすは深夜に見てるから(今井政幸)

出演者が無名でも見てる方は気にならないかすらん。
すかす、だから、ストーリーの面白さが問われ、より視聴者の厳しい評価にさらされるかもかも。わたすはかつて録画豚とよばれたほどのテレビ人間だったのだったが、朝ドラでブレイクした波瑠ちゃんを見たのも深夜ドラマでのだったのだった。深夜ドラマは掘り出し物が多い。わたすが深夜ドラマを見るのは金曜深夜か土曜深夜で、他の平日深夜は見ないし録画もしない。録画するのは土日だけ。ふんで、昨日の深夜は、孤独のグルメを見てた。わたす的には、深夜では、ドラマよりヴァラエティが好きで、わたすのツボにはまるものがゴールデンタイムより多い。てか、あいついま何してるなんて深夜でやってたしぃ。あんまし見られなくなったというテレビも裏街道の深夜を漁るとそれなりに面白い。ふんで名古屋のテレビの製作ドラマで、タイムマシンもののにフルつぁんが出てたのにはびっくりした。深夜ドラマは侮れない。

 

●人違いだろ。カネに目がくらんでだいぶ視野がせまくなっているようだね。今井は・・・・(古腹)

 

 ●今日は、新橋に行って美術館のチケットをゲット(今井政幸)

 1万円の図書カードも9,500円で買えたけんど文化村のは有効期限が11月末だから、もう2枚買ってくれば良かったにゃ。ああ、これでわたすの教養はとうぶんのあいだ保たれると信じています、まる。

 

●今日はこれから(今井政幸)
川崎でコンサートだぁぃ~ ♪ 

●今井政幸・・・・今日買った中古ソフトのドラクエⅤにはまってしもうた。
ずっとやってたから身体が重だるい。
見るのは見たから帰ろ。

次は横浜ののエロ美術館、このエロっぽさが見逃せない。

 

●かもめ・・・・昨日、赤っ恥掲示板に今井君が中古チケットを用いて鑑賞してきたと自慢かたがた写真を撮ってきた某美術館のポスターをみて拙者も興奮さめやらずだ。花柄のワンピースを風になびかせて路地を歩いていた大女に、小男が突然襲ってきた。犯行のシャッターチャンスをとらえた見事な一枚となっている。女の右足の太ももあたりに小男が全身でしがみついている。ハットをかぶりネクタイをしめているところをみれば横浜あたりの倉庫づとめの中高年男のようだがスカートの裾をかいくぐり大女のまたぐらに手をつっこまんとしている。

かような写真を撮ってきた今井君のばあいは、何を考えて、当ポスターを撮影し、公開に及んだのかね。あ~ん。それとも、相変わらず何も考えず、何も感じることができないのかね。このポスターを見て色もエロも何も感じないというのでは、そうとうに感性がひあがってしまってる証拠だ。君が写してきたんだろ。本人が何も感じないとは不思議だがまっそれはともかく、ひさしぶりにエロっぽくて、とてもよいものを見せていただいき感謝感激。

 

 

●今井政幸・・・・日頃からわたすはここに美術展のポスターとかを貼り付けてきたが、ばかたればかもめはようやく今頃になって反応したことかいね。それにしてもばかもめは感性が鈍すぎる。これは思うに、ばかもめ好みのエロものと、美的センスのないばかもめにも分かる写真のポスターだったからじゃろか。井の中のというか、いつまでも母胎から出れない稚拙なばかもめにはむろん外界を知らないから、いまのにかには、はいて捨てるほどファッション雑誌が溢れていて、そこには良質な服飾写真が掲載されているなんて理解不能なことだろう。商業写真の質の高さをなんと心得る。

さらにばかたればかもめには、現象学や実存なんて知らないから、たかだかばかもめひとりの感性を赤の他人も同じように感じると誤解する。わたすが芋を食ったら、ばかもめが屁をこくのか。あーん?このエロジジイめが。

ポスターを見て人がどう感じるかはそれぞれ千差万別。70近くにもなってまだエロさに興奮する貧乏スケベオヤジといっしょにされてもな。ヤレヤレ、オールドファッションが、いまだにばかもめを挑発し屹立さすのはたすかに洋装デザイナーと服飾を撮影したカメラマンの力量によるが、わたすが休日になると家を飛び出し美術館に出かけるのは、ひとまずエロスは横に置いといても、脳内ドーパミンが噴出しまくる衝撃と出逢いたいからだ。

この感性をばかたればかもめに解れといっても無理なことだろうよ。ばかもめは、いままで、何を見て来たんだ。このスケベジジイが。

ふんでわたすはNISAの限度額までの穴埋めで昨日は夢真ホールデング、今日は、日本駐車場開発の株を100株ずつ買ってしもうたよっと。うしうし。あと100万円くらい買おうと思うけど一年の中で株価がいちばん安いのは10月だから、あとはじっと我慢で10月に買おうかと思うのよね。学校で投資テクニックを教えないとダメだよね。学校で金儲けを教えないからばかもめみたいな散歩ばっかりしている貧乏なおっさんばかりが街にあふれる。外国じゃ、投資のことは、ちゃんと教えている。投資を知ってるののと知らないののとでは、わたすとばかもめのように、この先えらい経済格差が生まれるかもかも。あせ あせ さって寝よ。

 

 

●かもめ・・・・@@@@@@@@@@@@@@@@

昔テレビの討論番組でヒートアップした田嶋陽子氏が、三宅久之氏に 「うるさいハゲ!」 って言ったら三宅氏が怒りだして 「ハゲは言っちゃいかん!私だってあなたのことずっとブスだと思ってるけど、一回でもブスって言ったことないだろ!」 って泥仕合始まったの思い出した。

@@@@@@@@@@@@@@@@


まったくもって、いつもながらのご洞察にはアタマがさがります。で、ご指摘の「ハゲ」「デブ」「ブス」の三題にもう一つ「バカ」を加えると出揃った感じがいたしますね。これら四つのうち、いくつまでが自分に妥当しているかを知れば現代の日本国民の男性、それも中高年から団塊世代にいたるまでの内的自己認識の標(しるべ)となってくること申しても過言ではありますまい。自分の場合を考えて見ますと、連日散歩に励んでおりますし、できるだけ焼き肉のたぐいは口にしないように心がけてきた結果、デブからはかなり脱却しているように思われるのですが、その他よる年波には打ち勝てずアタマがハゲてまいりましたし、幼少のころよりブスであることはどうにも否定しようがありません。それに自分ではめったに了承しかねますが案外バカなのかもしれません。となれば四つのうち三つを罵倒されて、そりゃ差別だと裁判に訴えても勝訴する見通しはでてこないように思われますね。

さて、ここで わたしの親友今井政幸君の場合を考えてみました。彼の場合は上記四つの罵倒語を十分に満たしている、今ではめずらしい現代人です。ハゲて、ブスで、デブで、バカです。おまけにアホとも言われているようですね。このような博物館的現象は子どもたちにも、ぜひ実地に教えておきたいものです。悪い見本として教科書にかいておけばよいとすら思っております。いっそ、生ける標本として今井様には、たまに小中学校の授業に招請し教壇の脇のほうに立たせて子どもたちに、じっくりと観察してもらうのも一興です。教師が今井君を棒で指して言います。この男がめずらしくも、すべての五つ語を全面的に背負った日本人の鏡ですと。今井様のばあいカネの亡者ですから交通費さえ与えればいつでも喜んで子どもたちのまえに立ってくれるはずです。

 

 

●今井政幸・・・・あ~ん。わたすは昔中学校の教壇に立ったことがあるぞよ。教員資格を取るのに。わたすの授業は生徒らにうけていた。わたすは正直者だから最初っから、わたすはハゲでブスでデブでバカだと宣言しておいた。これが功を奏して学校の授業が盛り上がっていいのかどうか知らんがにゃ。ばかもめも一度は教壇に立ってみろ。あ~ん。その後、わたすは本式に郷里の教員になろうと県の採用試験に臨んだのだが、はじかれてしもうた。どうやら風土病の脱腸症状がまだ完全には治っておらず、これで健康診断にひっかかってしもうたのだった。あせ あせ

ふんでyou tubeでバンバン、ゲーム実況を見てたらバケットの20GBを超えて、今日から通信速度が遅くなってもうた。モンスターギガバイトで1000円(税別)出せば30GBの快適ネットが明日から出来るというから、出すと手続きしてしもうたのであったのだった。スマホネット屋は儲け放題なんじゃないのかね。つーことで、せめてものと金曜の今日はセブンイレブンのアイスクリームをタダでもらって食うのだったのだった。まる。

結局任天堂スィッチが手に入らないから3DS LLを買ったんだけんど、3DSのお目当ソフトのドラクエが出るのは来月末でそれまでの手慰みになんぞ他にソフトはないかと、横浜駅西口のヨドバシカメラ別館の斜向かいの中古ソフト屋であれこれ漁ってたら、なんてことない3DSには2DSのソフトも駆動することに気づいて、2DSの中古ソフト3本を税込2,430円で買って来た。ちょっと得した気分だよ~んっときたもんだ。

 

●かもめ・・・・それにしてもなんだな。 拙者もコンビニはよく出入りするのだが使途は決まっている。酒を買うため便所を借りるためそれに毎朝、産経新聞をコンビニで買わねばならない。そこで最近目に付くことがある。それはコンビニの入り口近くに横長に置かれている雑誌コーナーに中高年男性が群がっている情景だ。

ときには若いのもいるにはいるが多くはハゲ男と白髪まじりの拙者に同世代者が多い。何をそこまで夢中になって見ているのかと思いきや、ほぼ全員がせわしなくまるで奪い合おうようにして漫画を見ている。ここには女性はいない。女性が立ち読みが苦手なのは立ち小便や立ち食いそばが苦手なのに同義であるのだろう。男よりは多少は品位が感じられて好ましくも思うのだが、その実彼女たちはさっさと電車に乗ってスマホ三昧にうつつを抜かす。そこでこれ田子よに聞くのだがこうした情景の中にこそ一億総ハゲとハクチ化にいたる悲しむべき道があるとは思わないのか。

いよいよ、この列島に暮らすヒト科というもんは、かようにもアタマがハゲた動物ばかりになってきたようだぜ。ハゲた彼らが見ているものといえばテレビに漫画にスマホだ。この三種によってヒト種ハゲ科の脳内活動は満杯になってしまっている。知にいたる情報源たるや当三種の他にはまったくないとするなら、いまやすっかりハゲあがった彼ら彼女らの中にインテリジェンスにつながる何が産まれてくるといえるのか。はなはだ疑問だ。これタゴよのばあいはどう思う。

 

 

●今井政幸・・・・テレビを見たくないばかたればかもめがテレビを見なくともいっこうに構わない。すかす、ばかたれなばかもめが阿保な屁理屈ヘタレ理論を人様に押し付けるのは許さない。こんな強権的体制派は徹底的に叩きのめすべきだね自由日本は。

 

 

●泥炭・・・・・ところで、今井様今井様。朝鮮半島の緊張たかまる中、韓国市場は何故揚り続けるのでしょうか。馬耳東風と言う言葉はこんな時には使えないのでしょうか? 北朝鮮の核・ミサイル実験を巡る日米の動揺も、トランプさんの雄叫びも、韓国の市場には春風馬の耳を過ぎ渡るが如くに感じられます。 この半年間の韓国市場の高騰には目を見張るばかりです。

(年月:  韓国総合KS11,ウォン円レート,円ベースKS11,変動率)
(2016/07: 2016.19,   0.0911,   183.67,    1.00)
(2016/08: 2034.65,   0.0921,   187.39,    1.02)
(2016/09: 2043.63,   0.0922,   188.42,    1.03)
(2016/10: 2008.19,   0.0928,   186.36,    1.01)
(2016/11: 1983.43,   0.0928,   184.06,    1.00)
(2016/12: 2026.46,   0.0981,   198.80,    1.08)
(2017/01: 2067.57,   0.0971,   200.76,    1.09)
(2017/02: 2091,64,   0.0989,   206.86,    1.13)
(2017/03: 2160.23,   0.0997,   215.37,    1.17)
(2017/04: 2205.44,   0.0971,   214.15,    1.17)
(2017/05: 2347.38,   0.0998,   234.27,    1.28)
(2017/06: 2391.79,   0.0981,   234.63,    1.28)
(2017/07/24 : 2451.53,  0.0994,   243.68,    1.33)

2016年11月8日にはアメリカ大統領選が行われトランプさんが当選しましたが、 以後の朝鮮半島を巡る動きは次のとおりです。

北朝鮮の最近の核実験
Wiki January 2016 North Korean nuclear test
Wiki September 2016 North Korean nuclear test

北朝鮮の最近のミサイル実験
ウイッキ2017 North Korean missile testsによれば
 On April 4, North Korea launched a medium-range ballistic missile which reached the Sea of Japan.
The test came after a day of celebration for North Korea's Eternal President Kim Il-sung.
On April 16, a KN-15 medium-range ballistic missile was launched and failed almost immediately,
according to the United States Military and the South Korean Armed Forces.
The US National Security Advisor, H.R. McMaster, said "all options are on the table" as possible reactions.
In the early hours of April 29, another missile was launched from Bukchang in the South Pyeongan province,
and failed shortly after liftoff.
On May 14, a ballistic missile test was carried out. The missile flew for 30 minutes, covering a distance of
700 km (430 mi) and reaching an altitude upwards of 2,000 km (1,200 mi).
On 8 June 2017 North Korea fired four anti-ship missiles off its east coast, near the port city of Wonsan.
On 4 July 2017 North Korea tested an ICBM. The missile flew for approximately 40 minutes,
falling 930 km (580 mi) away from the launch site in the Sea of Japan.
The missile, named the Hwasong-14, reached an altitude of 2,802 km (1,741 mi).
It is estimated that the missile has the capability of reaching 6,700 km (4,200 mi) on a standard trajectory.

 

:こうした落ち着いた対応は、北朝鮮との有事に備えた地下シェルターがソウル市内だけで3300カ所、全国では1万8000カ所が整備されていることと無関係ではなさそうだ。:

とも言うが株価は核シエルターでは守れないでしょうに。ふんでふんでこの際、わたすはわたすは、なにをどうすればよいと言うのでしょうか。なんぞ良案でもあれば教えてくだされ今井様。朝鮮半島の騒ぎを聞きつけるにおよび、眠るに眠れなくなってしまいました。この先、わたすはわたすは、どのように株式のお取引を行っていけばよいというのであったのだった。あ~ん。

 

●今井政幸・・・・あ~ん、泥つぁんは、いい年こいて生涯親方日の丸だ。なんの理があって、そうもやたらに統計上の数字やら英語記事をそのまんまぺたぺたと貼り付けて喜んでいるのだ。あ~ん法政屋学あがりの今井の場合は数字も英語もしらないと思って小ばかにしているのか。あ~ん、恥を知れ、このくたばれぞこないが。もっ泥つぁんには、うまみのある株情報は教えてやらねぇよっと。なまじっか学のある年よりはこれだから困る。

 

●かもめ・・・・ところでこの際今井君に問うのだが君は新聞なんかは全然よまないのかね。あ~ん。日経の株式市況とテレビ欄ぐらいは読むのかね。あ~ん。で、本なんかはどうなのかね。最近何かハウツーモノでも読んだというなら法螺のひとつも吹いてみたまえ。

 

●今井政幸・・・・ばかたればかもめはいったい何を心配しているのだ。あーん。一億総白痴で何が困る。自分以外みな阿保なら世の中やり易い。自分以外は、みなばかの方が良いではないか。わたすだけが金をもうけて、他人はすべて貧乏人なら、わたすの地位はおのずと伸び上がる。

ふんで、わたすはいま読んでるハウツー物は、竹田青嗣のハイデッカーののと中野京子の「名画のなぞ」だが、それがどうかしたかや。あ~ん。ばかもめにはとてもじゃんが読みきれまい。

あと新聞は、日経ののと東京のの田吾作新聞ののとを読んで、どの会社の決算がどうとか、AKBがどうのことのとか、その他テレビに出ている有名タレントが誰とくっついたとか別れたとかのの、ようするに何をやってるかの記事はベンキョになるから欠かさず読んでるべな。

ふんで、テレビだとテレビ東京の朝にやってるモーニングサテライトはきっちり録画している。ハードディスクが満杯だ。ふんが、録画してもなかなか再生して見る時間がないのがたまに傷なのだが、世の中の流れの雰囲気というか風向きというか動向は録画することによって肌で感じて置かないとな。

ふんでふんで日曜に鏡太郎の孫娘に任天堂スィッチのソフトを買ってやって、孫娘は、すっかりマリオカートにハマったみたいだよっと。あれもゲーム豚の一党一族だ。任天堂スィッチの付属であるマリオカート用のハンドルを買ってあげたら、親子でレースしている。

世の中の常として新しい潮流は子供が夢中となるものが創る。子供達がテレビとかゲームに夢中になっていると知ると胡散臭い大人たちが大騒ぎする。テレビ豚で何が悪い。わたすがそうであるようにのテレビ豚という豚とテレビは、いよいよ幸福の絶頂期を迎える。

缶チューハイに浸ってるばかもめが、コンビニのねーちゃんや若者を見てても世の中の動向は掴めない。いま、一番はやってるものが何か街のど真ん中に進み出てよく見て来い!テレビを否定したら教養と世間の情報はどこから得るのだ。このアホが。

ほれほれ、ほれ見ろ。わたすはわたすはただのテレビ豚ではないのであったのだった。たまには読書もするにはするにはするのであったのだった。ふんで、ばかもめは本を読んでるのか。あーん あ~ん。

 

●かもめ・・・・そりゃおめ上の写真は二年前に中古図書券を使っておめが清水の舞台から飛び降りる覚悟のもとで買うた文庫本の写真でねぇのけぇ~。あきれた男だにゃ~。おめにはこの十年来、会ったこともなかりせば。だいぶ頭皮がハゲてしまったようだね。その写真は二年前からハゲたおめがこれ見よがしに掲示板に何度となくさらしまくっていたコピペッペだっぺっつーの。

●かもめ・・・・そういえば啄木の虚言癖は近代文藝史上有名な話だが石川啄木は明治末年に没している。それから100年程が通過した現代の虚言癖の代表格といえば赤っ恥を自らかきかきして恥をしらない今井啄木である。上の記事に隠された虚言は物欲にまつわる人事の書き順がさかさまになっているということだ。

実は、わたすもスィッチ買おうと思っている。

これはウソだろう。すでに自分のために買ってきてしまったはずだ。物欲俗物の啄木が他人のプレゼントにほしくてほしくてたまらない物を買うはずがない。まず自分が欲しくてほしくて買ってきてしまったのだが、その値段に少々の不満が残った。で、その不満をなんとか取り返し解消しようと、再度購買活動にまい進するのである。できれば、二度目はさらに安価で同商品を買いたい欲求にさいなまれ友人の孫娘に買ってやろうとの夢物語を作り出す。

明治末年に没した啄木は詩歌作成において同様の手法をよくとった。まるで自分が今現在のTOKYOではなく北米のボストン市にでも所在しているかのような架空の詩をつくる。当時革命思想は脱亜入欧の先陣を切っていた思潮にほかならずこれらは文芸上の華美なる幻想を生み出していた。詩集「呼子と口笛」のなかの「飛行機」などはその好例だ。

 

飛行機    1911・6・27・TOKYO

見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
                   

下は明日から黄金週間に突入寸前の五月二日の今井啄木の書き込みである。
明日から5連休だほ~ん。わたすはわたすは明日から美術館巡りだい。これまで買いまくったチケットを13枚はこなさねばよっと。ちとハードであるんだよっと。体力がもつかどうかだす。

今井啄木にとっては明日からの5連休も単純な楽しみではなく大いなる苦痛が伴うことはすでに内心では予感していた。なぜに、そこまでムキになって自宅を留守にして、都会をほっつき歩かねばなければならいのか。せっかくの休日だというに部屋の掃除もせずに近所の人々と挨拶もかわさずに休みの日に限って朝も早くからアパート抜け出していく。帰宅するのはきまって暗くなってからである。

休日をいかに、外ですごすか。その時間を穴埋めするためのチケットの買いまくりなのだろう。なににもまして美術やコンサートが好きだ言うわけではまったくない。早い話が時間つぶしなのである。休日の時間をいかに、外で時間をつぶすか。それが先々まで狂ったように中古チケットを買い求めている事情に相違ない。こうして休日のたびに重労働におよび意識は朦朧とし足腰はへとへとになって帰宅してくる。それもただただ近隣の人々から自分を隠したいというそれだけのためだけに。

二年たっても一向に読みもしない。ふんでこの度読書嫌いの習性を指摘され思い余って部屋の片隅におっぽりだされている文庫本を探し出してきたんだべぇ。これタゴよ。そんな写真よりいっそ田吾作名義の貯金通帳の写真を見せてみろや。あ~ん。今 現在、どこまで小口持ち株の損切りが進んでいるやら通帳がどこまでハゲてきたのか。そこが知りたい。

 

●今井政幸・・・・別にそんなの知らなくともええがな。ばかたればかもめが、地団駄踏んで悔しがるだけだ。かわりに極貧なばかもめの通帳残高がいまいくらなのか出してみろ。なんもカネがないばかもめのそれが現実だ。ばかたればかもめはこの先どーするんだ?あーん?

ん?今はやっているものはなにかとお尋ねかい。そりゃおめ人それぞれだ。ヨニウム君なら相変わらず右か左かの流行病をわずらったまんまだし、わたすはわたすは、やっぱ風の谷のナウシカ以来のミーハーアニメだ。ふんで、そこからやや進んできたところの任天堂のスイッチを金にまかせて押すか押さぬかの境目だ。世間について、何もしらない頭の悪いばかもめは無理するな。わたすは、先日来ちゃんと掲示板上にて、自分の流行病の根源は任天堂スィッチが品切れで買えるかどうかが問題だと書いておる。つーか右も左も分からない年寄りのばかもめ相手にいまさら任天堂のスィッチが何なのか教えても意味ないがな。がぁははっはっはは。さって寝よ。

> 鏡太郎の孫娘に任天堂スィッチを買ってあげたのだが
> いま、任天堂スィッチは品薄というか品切れでヨドバシカメラでは買えない。
> すかす、3月に買ってあげると見栄をきった以上なんとしても買ってあげねばと価格コムで探したら、4万円であった。32400円ほどのが。
> で、ネットで発注して、ゆうちょ銀行にカネを振り込んで、さっき、届いたよーという連絡をもらったが、いま、任天堂スィッチの値段をみたら41000円なんだよね。
> 実は、わたすもスィッチ買おうと思っている。
> 32400円ほどので。
> だからー、なんとかしてくんないかな。
> もっと増産しろ!

 

 

●今井政幸・・・・ファイナルファンタジーⅢにすっかりはまってしもうた

 
これ面白いよ。

よ~く出来ている。

ご報告いたします。

6月30日までに入った株の配当金は50,858円だったのだった。

ドラクエⅤをやり過ぎたら、眼が痛くなって涙がぽろぽろでた。
 日曜は美術館に出かけるどころじゃなかったからじっと家で目を閉じてた。
 眼を閉じてると痛みが少しは和らぐのだ。
で、今日眼科にいったら角膜?離でごそっと抉れてるという。
 病原菌によるヘルペスも同じような症状になるけど、わたすが、かつて角膜?離をやってるから、再発したのだろうと、角膜?離用の目薬を3種類もらってきた。
 目薬をさすと痛みが和らいだので、また、ドラクエⅤをやっているのだ。

やったね。

らんらんらん ♪

 

●泥炭・・・・命拾いしましたって言ったらちょっと大げさですが今井様、今井様。このたびはわたすとしたことが、だいぶのところ命拾いをしました。今井様同様にわたすも少々は株をやっておりやんす。ふんで今週の月曜日は朝から冷や汗をかきました。

実はわたす月曜日にタカタの株を購入する様に注文を入れていたんです。 今井様におかれましては何でそんな株を買ったのかとおっしゃるでしょう。それはタカタがエアバックの爆発問題で窮地に立たされていることは周知の事実でしたが今に成っては、魔が刺したとしか申せません。高田と田中を間違えたといわれても文句のつけようがありません。実は私がタカタごときに投資するなんて、そんな暴挙に出たのは次の記事を目にしたからでした。

タカタ、日本車各社が支援継続 信用不安防ぐ
2017/6/23 10:15

日本経済新聞 電子版
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO18010150S7A620C1TI1000/
:ホンダやトヨタ自動車、日産自動車など国内乗用車メーカーが欠陥エアバッグ問題で経営が悪化したタカタに資金繰り支援を伝えたことが22日、わかった。:

これに感動したんです。実際、6月23日のタカタの株価はスットップ高になって居ます。 1週間前の6月15日木曜日484円で終わったタカタの株は16日にはスットップ安のまま値がつかなかったのでしょうか、週明けの19日の月曜日にもストップ安か1日404円で推移し、22日の木曜日までには110円まで下落しています。それが23日このニュースが出て、160円のストップ高まで上げたのです。

しかも悪い事に私は、たまたまロシアゲートに依る株価暴落を恐れて、それまで持っていた株を処分した現金が株屋さんに預けたままに成って居ました。 その上、その時私の処分した株がその後大幅に値上がりしたのです。 せっかくのチャンスを棒に振っていささかストレスもたまっていたんでしょう。 その失敗を取り戻す好機だと思い込んだのかもしれません。

26日の月曜の朝に成っても私の心配は私の指値200円が低すぎて買えないんじゃないかなんて事ばかりでした。 ところがです、あろうことか、その朝飛び込んで来たニュースは、タカタが東京地裁に民事再生法の適用を申請したと言うのです。頭が真っ白になって、急いでホームトレードのサイトを開いてみました。何故か私の株注文は約定には成って居ません。株価も160円のままです。

で、何故か私は私の指値が200円で、市場価格が160円だからまだ売買が成立していないんだななんて思ったりしていました。完全に思考停止です。 結局、タカタの株はその日一日売買が停止され、私は難を逃れ、救われたのですが、とんでもない事をしでかしたものです。 それにしても、気になる事があります。 タカタの発行済み株式数は8300万株程です。 ところが、22日に23日の2日間の株価売買数が7970万株にも達するのです。 

会社民事再生法を申請した時点では従来からのこの会社の株主は殆ど株を売り抜けて縁を断って居たと言う事なんでしょうか。これもまたびっくりです。言うなれば、わたすはわたすの馬鹿さ加減にびっくり仰天しているところだす。

 

●今井政幸・・・・・連休最後にドラクエⅤをやり過ぎたら眼が痛くなって涙がぽろぽろでたきてしもうた。美術館に出かけるどころじゃなかったからじっと家で目を閉じてたのだった。眼を閉じてると痛みが少しは和らぐのだ。で、今日眼科にいったら角膜離でごそっと抉れてるという。病原菌によるヘルペスも同じような症状になるけど、わたすが、かつて角膜離をやってるから再発したのだろうと、角膜離用の目薬を3種類もらってきた。目薬をさすと痛みが和らいだので、また、ドラクエⅤをやっているのであったのだった。あせ あせ・・・・・

 

●泥炭・・・・・ところで今井様、今井様。お金持ちってへんでしょ。わたすにはさっぱり理解できない。数年前からソウルが建設ラッシュで湧いていて、価格は東京の2~3倍だって。しかも今でも売れ行き好調??? このニュース以下のサイトで知ったんですが、本当なんでしょうか。今井様はどう思われますか。


100万人処刑? "韓国史最大タブー"の教訓
7/30(日) 11:15配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170730-00022707-president-soci


お金持ちになるようなポジティブな人には北朝鮮のミサイル実験なんぞまるっきり眼中にないってこと? トランプさんの怒りなんててんで気にしてないって事?

ああ、記事の主題はそんな事じゃなくて朝鮮戦争当時に起きた戦闘外での大量虐殺の事なんですが。それも恐ろしいけどトランプさんがその気に成ったらソウルだけでも100万人が死ぬって話もある中で、ソウルの土地が暴騰するって理解できますか?

北朝鮮を攻撃すればソウルで死者100万人以上
4/15(土) 7:10配信 BUSINESS INSIDER JAPAN
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170415-00010000-binsider-int


おお こわこわ、くわばらくわばら。

 

●今井政幸・・・・1000万円の投資信託で今日75,000円の分配金が出た。やれやれ。泥つぁんもアホだ。もすこし冷静になって株にとく組む市井が大切だ。わたすのほうはそこそこ儲かっておる。あと、ブラジルので25,000円出そうな出ないのか。あ~ん。円安で外貨が強くなったから、わたすの投資信託もようやく金のなる木になるかもかも。ふんで今日は投資信託ので16,278円入ってきた。やったね。
明日決済のブラジルのもうまくいけば29,000円ほど無傷で入って来る。今月は投資信託の分配金で10万円以上もらえるかもかも。わたすのは外国のの投資信託だから純粋に日本の儲けのカネでこれは愉快。よするにフルつぁんとか泥つぁんとかのの日本のじじばばの投資家って案外世界で存在感あるんじゃなかろうか。

今日、三井住友の口座の投資信託のを見たらまたもうひとつ投資信託ののの方がプラスになっていた。なので、これは16日が分配金の決算日なので慌てて、分配金を再投資から銀行への振り込みに切り替えた。これは、100万円の投資信託なので分配金は15,000円ほどだけど、それでも貰えるものはありがたい。いままでじっと再投資で耐えてたから喜びもひとしおだわさ。いまのじじばばとか、若者とか、なんで真面目に投資の勉強をしないのか不思議。わたすも、会社が定年になるので、慌てて三井住友に飛び込んだり、退職金すべて株に注ぎ込んで儲けたが、これらの金がなかったら、わたすの定年後の人生は惨めだったなぁ。みんな真面目に博打の投資を勉強して欲しい。ホント。

任天堂スィッチのソフト、スプラトゥーン2を発注したのだった。アマゾンで。明日の発売日に届くそうな。いや、わたすではなく、鏡太郎の孫娘のとこに届くのだが。いつもときたまやるランチの時に孫娘におもちゃを買ってやってるから今度の9月の時には、スプラトゥーン2も欲しいけど他にソフトではなく普通のおもちゃを買ってと思ってたそうだが、こっちはこっちで今月は投資信託の分配金が10万円以上ありそうだから太っ腹。スプラトゥーン2がやりたいのならと発注した。孫娘は大喜びだそうな。お金があるとちょっぴりみんな幸せで平和な気持ちになれる。ふんで今日もまたいつもの横浜駅みなみ口のベックスでアイスティーとチョコレートケーキなう。ひとしきり、ここでケーキを食べながらファイナルファンタジーⅢをやって暗くなったら町内会のアパートに帰ろっと。それにしても、あっというまの五連休だったもんな。

 

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▼買い茶づとめの老人嫌い

2017年06月11日 | ■今丼政幸君との対話

 

以下、2008.08.05 記

 

わたすの友人今井政幸君も、わたしが昨日、某掲示板で紹介しておいたNHKスペシャルを観てくれていたそうで、さっそく以下のように番組の感想を書いていた。だが読んでみれば、 あいかわらず今村氏の考えというものは、仮想中流意識のお世間馬鹿以上には出ることもなく失望を禁じえなかった。今村氏たるや、まだまだ若いだろうに早くも生きることを億劫がって年金生活の夢を見ている若年寄のようだ。神は細部に宿るという。生活の細かな工夫の中にこそ人生の幸いがあるというものだ。

ムキになって賃労働に勤しみ、金を得ることだけが人生に豊かさをもたらすばかりではないと思う。いかに限られた収支金品を糧とした個人生活の中で、さらに自分で工夫を凝らし、生活の細部を膨らませて人生を堪能するかということも大事なことだと思っている。人生の知恵とは生活の知恵のことに他ならない。さて今井君の投稿文を見てみよう。


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偶然見たけど、93歳の社長さん、一人暮らしで可哀想。なんで、娘は親の面倒見ないのだ?いくらなんでも93歳で自炊はないだろ。あれじゃ、まるで、姨捨山じゃないか。会社も社員も、一生懸命面倒みてきたちゅうに、あの仕打ちかい。そりゃ、ないだろ。日本はどうなってしまったのか。60過ぎても働けてる社員は嬉しそうだったが、肝腎の社長が一人暮らしで自炊生活は違うと思うな。世の中、間違っておる。幸せの大本は家庭にある。いまでは娘婿が社長をやってるのだから、娘がもっとしっかりせにゃアカンじゃないか。なんか、戦後個人主義の家庭崩壊を見てるようで哀れだったい。娘でも、娘婿でもどっちでもいいが、自分達もそゆ目にあったとき、それでも、我慢してやっていけるんかすら。わたしゃ、娘夫婦は絶対やっていけやしない、って方に賭けるね。うちらどこかで歩んだ道を間違った、とは思うよね。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

「世の中、間違っておる」とお田吾ちゃんは大威張りだが、間違っているのはお田吾ちゃんの頭だ。古腐れた君の頭では、新しい人間的現象を受け入れることができないのさ。ガラクタでいっぱいになっちまった狭量な君の頭が、これまで経験したことのない、見たことも聞いたこともない人間の現実的存在を目の当たりに見せられて、あたかも自分の考え方が批判されているように感じ、とりあえずは拒否したがっているというわけさ。より深く、この問題をわがことのように考えを深化させてみるのが億劫だから、今日のところは、とりあえず排斥しておきたがっているのさ。君の記事を好意的に読んだとしても、思考停止の宣言に他ならない。思考よりガラクタをいじくっていたほうがなんぼか楽だと言うなら一理はある。

さらに君は「いくらなんでも93歳で自炊はないだろ」と非難するが、老人に出来るはずが無いという固定観念こそ旧来思想にすぎない。お田吾ちゃんにとっては番組の製作者の意図など、読み取ろうとさえしないのである。お田吾ちゃんが作品の意図を、読み取れない馬鹿であることは、大昔から天下周知の事実なり。さて、お田吾ちゃんの頭を横溢している固定観念とは社会通念のようなものだが、それを壊すためにこそ、製作された番組ではなかったのか。製作者の意図を、読み取れるかどうかは、そこにかかっている。

老人とはかくあるべし、またかくあるべきではないという、この種のタブーが、どれほど老人の生活を閉塞させてきたか。世は高齢化社会となった。まごまごしているとわれわれは、100歳までいき続けなければならないのである。生きるなら元気に生きるに越す価値はない。寝たりきりのまま古希を祝ってもらって誰が喜ぶのか。元気なお年寄りの姿を見ることは、私たちの視野と人生に対する考え方の根幹に及ぶ、なによりの学びとなる。われわれは元気な子どもの姿を見て心の根底から励まされてしまうように、また元気な老人の姿というものも、思想の根幹を揺るがしてくれるものなのだ。

子どもの姿というものは、奇跡的である。同様に90歳を越えて工場を経営し、さらに自炊しながら豊かに暮らしている老人の存在を、この目にするということもまた奇跡的なのである。脳が、固定観念に覆われてしまい、新しい視野を得ることのできない馬鹿者は、見たくない番組だったのだろう。有りうるはずがないと否定し、曲解した上で、自己の思想の温存を図るのである。結論もとめの代わりに誰かを犯人にしたて上げて、やっとのこと、かろうじて番組を理解したつもりになるものである。こうした現代人の馬鹿さ加減が お田吾ちゃんの言辞に、実によく現れている。

ところで、思い返せば今や昔の4年前。同じNHKスペシャルで放送された「奇跡の詩人」と題された番組があったが、あの時のことを考えた。お田吾ちゃんの言辞を並べてみると、今回と、その受け止められ方が、まったく同じ様相を呈していることに驚かされるほどである。察すれば「奇跡の詩人」の時も、 お田吾ちゃんのような古る腐れた固定観念者が番組で放映されたような事実と人間は現実にはあり得ないと邪推を働かせ、しきりに番組そのものを否定にかかった。とてもじゃないが受け入れられないと主張するのである。たちまちのうちに番組は虚偽の放送であると決め付けられ、当該番組のような虚偽放送を制作しこれを電波に流して国民をだまくらかそうとした犯人は誰だと、まるでネットは裁判所と化した。以後、二年間に渡って、ネットは馬鹿者たちによる犯人捜しに明け暮れたのである。

昨日のNHKスペシャルはお田吾ちゃんによれば否定しておきたい奇跡的老人の存在だったが、「奇跡の詩人」のときは、逆に有っては困る奇跡的子どもの存在が問題になったのである。番組の意図するところがまったく理解できず、むしろ逆の方向に曲解し、いちゃもんをつけ始めた馬鹿者たちの心証を計ってみるに欧化主義という近代のルールとイデオロギーに頭がおかされた、いわゆるガッコ万歳、制度万歳、明けててもくれてもお上頼みで人生をやりくりしようとする、骨の髄まで依存型になりはてた無知蒙昧の輩たちの存在が浮き彫りになる。

番組に登場する社長さんは、愛知県に住む今年94歳になる成瀬さんという男性だ。奥様を3年前になくされて、以来、一人暮らしであるそうだ。どうして子どもさんと一緒にすまないのかと、お世間馬鹿の 今村氏は疑問を呈しているが、それは成瀬さんご自身に聞きにいけばよい。成瀬さんが、一人暮らしで、誰が困っているのか。そんなことは番組では言及されていなかった。つまり、成瀬さん自身も独立して、他で暮らしているという子どもさんも、それで幸福だから、そうしているのだろう。何もしらないお世間馬鹿が、馬鹿のしきたりどおりに、老人は子どもが面倒をみるべきだとか、一人暮らしは危険がおおすぎるとか馬鹿な邪推を投げつけて、成瀬さんのポリシーを、嫌がっているだけなのである。成瀬さんは、一種の哲学者である。お田吾ちゃんらお世間馬鹿に理解できるわけがないだろう。

何度も言うが、成瀬さんは、30数名の従業員を雇用している社長さんである。工場にも事務所にも自宅にもコンピュータを入れていない。帳簿をつけるさいなども、いっさいコンピュータは使っていない。成瀬さんは言う。人間ができることは人間でやればよい。自動化は人類の敵だ。人間が駄目になる。だから、コンピュータを入れないのだと明解に答えている。また高齢のことで、今や歯が一本もないらしい。このことも、成瀬さんには理屈がある。歯があれば虫歯になって痛いものだ。歯がなければ痛くなることもない。歯茎だけで、肉でもりんごでも食っちまう。元気な証拠だ。また成瀬さんは言う。残業は厳禁している。

それに大企業からの下請け仕事は、できるだけやらないようにしている。下請けを下に見て、仕事をやらせてやる、という大企業の態度が気に入らない。大企業は、仕事より金が大事だ。成瀬さんは言う。私は金より仕事そのもののほうが、価値が上だと信じていると。成瀬さんのように、哲学を実地の生活に透徹させている男の物語などお世間馬鹿としてへいこらへいこら生き恥をさらしているチンチン労働者にすぎない お田吾ちゃんが理解するには到底無理な話である。

一昔前よく耳にした話だが、子どもたちが、みな都会に出て行ってしまって年月が経つと老人は伴侶をなくして一人すまいを強いられてしまう。誰が面倒を見るのかと、これが社会問題となっていた。老親は子どもが面倒を見る。子どもとしても、愛する親の面倒は見られるものなら、自分のそばで見て見たいだろう。人情だ。そこで都会で核家族生活をしている長男以下子どもの下に引き取られて行った。今でも、それはそうに違いない。だが考えてみるまでもなく、住環境をはじめ都会の暮らしは長年田舎で暮らしてきた老人には過酷なものがある。狭苦しいマンションの一室を与えられて満足できるだろうか。まったく庭もないという場合も多い。することが何もなくなりボケる一方だ。

何かしようとすると長男の嫁から、おとうさまは座っているか、横になって寝ていればいいんですと叱られる。最初から粗大ゴミあつかいは見え透いている。嫁っ子としても、老親に対して、それ以外の、何ができると言うのだ。教育熱心の親からいじめられている子どもが見ていられなく孫の教育に口を出したりしたら最後、徹底的に邪険にされる。今度は次男のところにおっ飛ばされる。次男がだめなら三男坊。子どもが何人かいれば、たらいまわしにされるのが落ちだ。早晩、施設行きがまっている。施設に入って二年もしないうちに寝たきりになる。ここでもまた同様に、やることなすことを奪われてしまうからだ。

都会に出てきて孤独にさいなまされて夜も眠れない老人を襲ったいくつもの悲劇が報道された。まずは、知り合いがいなくなる。老人は完全に孤立するのだ。人間、パンツさえはいていればよいというものではないだろう。洒落た柄のあるパンツさえはかせておけば、心も癒されるだろうと思うのは老人をコケにした話だ。パンツと人生は別物だ。よく考えろ。いくら洒落た都会風のパンツをはかされてみても、手に触れる自然や知り合いが、まったく無くなってしまっては生きた心地もしないものである。ここを、よく考えろ。田舎の老親の首に縄をつけて、無理やりに秋葉原のパソコン街を引っ張りまわして、おとっちゃんもインターネットをやれば、楽しい余生が送れるはずだと説教こいたりして何が楽しいのだ。

都会生活を上等に見る、この手の社会意識は、おそらく経済の高度成長期以後、国家を上げて加速されて喧伝されてきた社会意識だったが、今やこの誤りは誰の目にも明白である。あらゆる意味で都会は貧しいのである。自然のないところでは、人の心もすれっからしになる。この手の無意味で不毛な家族関係も最近は少しずつ見直され始めてきたようだ。伴侶を亡くし一人きりになった老親も、体さえ元気であれば子どもの世話にはならずに、寂しさは覚悟の上で、これまで通り田舎でのんびりと暮らしている事例が多いと聞く。なにがなんでも都会の子どもと一緒に暮らすというのは、どうしても無理が出てくる。一人暮らしは寂しいものだがゲンダイの寂しさは誰しも同じだ。都会に出てきてしまったら最後、多かれ少なかれ地獄を見なければならない。 今村労働者も少しは考えろよ。一人暮らしの年寄りを馬鹿にすると承知しないのだぞ。

お田吾ちゃんは言う。「一人暮らしで可哀想」と。ガラクタ集めに興じてその日ぐらしの君のほうが、よほど凄惨な貧困生活を送っているように私には見えてくる。君の生活は、都会生活者が強要されてきた生産するか消費するかの二項対立のせせこましい資本主義の範疇より外には出られない。まるで貧乏まるだしだとは思わないのかね。いっそ94歳の成瀬さんに弟子入りして、そのなまくらに粉飾されてしまった精神を叩きなおしてもらってこい。さすればおとっちゃも、 お田吾ちゃんを許してくれるだろう。大地を相手に格闘してきた百姓の根性を忘れるな。都会の二足三文。田舎がある者は幸せだ。

50にもなって、飯のひとつも炊くことができない半端な男は誰だ。もらった給料はすべて自分の腹に収めてしまう。田舎に仕送りしちょるのけ?ほなら少しは許してやるがのぃ。いずれにしても、田舎のおとっちゃんとしては、オタク三昧に明け暮れて能も芸もない息子の惨憺たる有様を嘆いていたというのもよく分かるのだ。田舎のおとっちゃんから米を送ってこられても、芋や米は嫌いだとわがままを抜かし、さっさと外食の豚足を食いに出かけてしまう。どこまでいってもないものねだりの不平不満だ。飯を炊く知恵がないものだから、田舎から米やらイモを送ってこられても面倒臭がって、段ボールの横腹に手をつっこんで好物の栗だけをまさぐるように、せしめておき、残りは箱ごとゴミに捨てっちまう都会暮らしの親不孝がいたと聞くが、あれは お田吾ちゃんだったのけ?

まずは成瀬さんのところにいって飯の炊き方から修行してこい。田舎住まいの親の恩をなんと思っているのか。米やらイモを無駄にしてそれで日本人と言えるか。成瀬さんを見ろ。飯を炊く前に数滴のゴマ油を釜のなかにたらしておくと、ご飯がおいしく炊け食べ終わった後、米粒が釜にこびりつかずに洗う手間がはぶける発見をしたとのことだ。このように93歳になっても、生活の隅々にまで気をくばってやまない。道具やモノを大切にしようと日々、知恵を働かせ工夫を怠らない。中古品やガラクタを集めてきては、部屋中ぶっちらかし放題で足の踏み場もなく、夜な夜な掲示板に出没して関係のない者にまでガラクタを自慢しては悦に入っては、おパソを使って「モノ」語りに打ち興じインテリぶっているオタク根性の現代馬鹿とは、精神のありどころが違うのだ。成瀬さんは心と行為が直結しているのだ。 今村氏のように心と体が、バラバラに捻じ曲がっているために、適当に口先だけで都合よく、くっつけたり離れたりはしないのだよ。

昨日は再放送とのことで、昨年5月に放送された番組以後の成瀬さんの様子が写されていた。それによると秋の頃、足を骨折してしまったらしい。なんと言っても94歳だ。無理はできない体だ。それを機に工場の経営は娘婿さんに譲ったとのこと。引退した後は、こんどはわたすは遊びまくるだよ、と鼻息あらく意気軒昂だ。最近はギターが趣味になったとのこと。「酒は涙かため息か」を上手とはお世辞にも言えないが、真剣に弾いて聞かせてくれた。 お田吾ちゃんは何か音楽はやっているのけ?ガラクタばっかり集めていないで、浜ちゃんのところに尺八でも習いに行ってみたらどうだ。そろそろ老後のことでも考えろ。いつまでもケツを青くして、飯も炊くことができずに、毎夜毎夜ガラクタ相手に法螺を吹いているだけでは人格が疑われる。完全に今村お田吾ちゃんは94歳に負けているよ。

そういえば同じNHKスペシャルのシリーズで、昨年11月の放送を思い出した。そのときも、成瀬さんと同じように元気にされているお年寄りが紹介されていた。一人暮らしを言うならこちらはもっと徹底している。

ユリさんは79歳になる北海道の女性である。何年か前までは夫と一緒に、番屋に来ていたが夫を亡くしてからは一人で番屋に来るようになった。毎年4月から9月までの半年ちかく、二匹の犬をつれて知床 半島の突端にちかい浜辺の番屋に移り住む。周囲には人っ子一人いない。半年間、この番屋にたった一人で寝泊まりしながらコンブ漁を行っている。浜に打ち上げられたコンブを毎日黙々と拾い浜の上で乾かし、乾いたコンブを倉庫小屋に備蓄しておき秋に子どもたちが迎えにきたときに、これを船に積み込み、町に卸すのである。もちろん番屋には水道も電気も電話もない。町からの道路もない。ここには、海伝いに船でくるより方法はない。沢から水を引き浜に打ち上がったイワシで食事を作る。流木を燃やして風呂を沸かしランプの灯りで夜を過ごす。

時々番屋近くまでヒグマが現れるが、ユリさんは驚かない。クマがいよいよ近づいてくると二匹の犬がユリさんを守ってくれる。どんなに便利な都会の生活よりも番屋暮らしが自分にあっていると言って、毎年春からのたった一人のコンブ漁を楽しみにしているらしい。子どもたちは母親の体が心配で、番屋生活はそろそろやめて欲しいと何度も頼むのだが、ユリさんは聞き入れない。まだまだやめるつもりはないらしい。知床の大自然と79歳のユリさんが一体になっているのだ。今や自然こそ、ユリさんにはなくてはならない伴侶なのである。

>わたす、人の絆をまったく評価しない一人暮らし志向には反対なんよ。

と、田子は言うがだからね、お田吾ちゃん。例の番組を素直に、きちんと見れば、それは逆でしょう。成瀬さんは人の絆をまったく評価しない一人暮らしだったのですか?そのように描かれていましたか。まったく反対だ。娘さんをはじめ、従業員、同業者、ダンス仲間など、数多くの人に囲まれて、人とささえあって暮らしていることこそが描かれていたはずだ。それに成瀬さんは、よくいるワンマン社長という性格ではない。君はどうして反対のことばかり言うのだろうねぇ。それは君が番組の意図をほとんど正反対に曲解しているからだよ。番組の意味するところを、ほとんどなにも読み取れていないからだよ。

>わたすは番組の主人公の姿に「無理」な姿勢を感じたから、可哀想だったの。

そもそも例の主人公さんは、番組収録時は93歳だった。再放送時点では社長を退いて94歳になっている。お田吾ちゃんは、主人公の年齢を批難しているだけなのだよ。年齢については、どうしょうもないだろう。いくら若く見えると言っても、元気でよかったねと言っても、93歳は隠せない。見てくれ上の衰えがあるのは当然じゃないか。番組の意図もそこにあった。 お田吾ちゃんは「映像」そのものにしか興味がない。番組が主張しているのは、93歳になっても、はつらつさと活動している老人の精神の描写だ。君にはそれが伝わらなかった。

「無理な姿勢」だと君が見たのは老人の肉体や外形のことだろ。だから可哀想だと思ったのだろ。無理を言っているのは君のほうだ。それが曲解だと言うのだ。 お田吾ちゃんの願望は「ないものねだり」にすぎない。今どき、米をといでいる姿など惨めに写ってしまう、それが都会肌で著名なお田吾ちゃんの生活観だ。私から言わせればそれは田舎出の成り上がり者がよく示す虚勢と虚飾の意識だ。

お田吾ちゃんは老人が薄暗い台所にたって米など研いでいる姿にまずは、納得できないのだ。そりゃそうだ、いかにも寂しげに写ってみえる。だが寂しいのは光景のことであり、そこで米を研いでいる成瀬さんの心はどうなのかね。 お田吾ちゃんには、心などは関係ないようだね。「絵」の映り栄えこそ、映画通たる今村ちゃんには最重要事のことなのである。だが、それは表層のことだ。外形から見えるのは皮相な部分だ。お田吾ちゃんは、一見みじめったらしい老人の姿から昔の「遅れた」生活を感じ取ったのだろう。お田吾ちゃんが可哀想に思ってしまったのは、まさに「絵」の暗さなのである。田吾作の頭は、モノクロ映画は古いと言って排斥する馬鹿同然の頭脳模様だ。馬鹿はどっちだ、お田吾ちゃん。映画通が聞いてあきれる。

油にまみれた工場の様子。隣接する老人の家も暗く写っている。これだけで、もう都会肌の映画通であらせられる お田吾ちゃんには番組の趣旨も、そこに登場してくる人物の気持ちも受け入れることは不能となっていたのである。なによりお田吾ちゃんは、老人の姿など観ても観なくても、これっぽっちも価値がわかない。老人とは、おしなべておいぼれのことである、くらばりぞこないである。百歩譲ってまれに老人がTVに出てきてもよいが、それならそれで、それなりの演奏能力を見せてほしいというわけだ。能力があるなら、老人でも許容できないことはない。能力主義よりは実績主義だ。能のある老人ならば お田吾ちゃんのおめがねにもかなうだろう。成瀬老人がギターを爪弾いていた。だが曲にもなっていないような弾きかただった。これじゃ箸にも棒にもひっかからないというわけだ。

実績主義のお田吾ちゃんには、ますます、くたばりぞこないの94歳にしか見えてこない。どこまで見せられても説明されても、お田吾ちゃんが見ようとしているのは、肉体と能力の美である。人間はそれだけだ。精神?心?気持ち?それはきちんと働いてから、主張してください、というわけだ。映像から読み取るべき最初の関心事は、なんといっても形と色と付随する音楽などだ。老人でも初心者でも許すには許すが、曲にもなっていないギターはTVで見せるべきものではない等々とうとう。これが お田吾ちゃんの番組評のすべてである。

精神?心?気持ち?そんなものは、観るに見えないではないか。食うに食えないものではないか。お田吾ちゃんには、どうでもよい抽象物だ。中古でも新品でも、現物に限る。腹の足しになる現物をもってこいというわけだ。人間は若いほうが元気だし美しいとは自明のことだ。わざわざ、ヨボヨボした老人をTVに写すことはない。見苦しいばかりだ。社会に役立っているのは若者と壮年男子、女性も美しいのは若いうちだ。こんなことは子どもでも知っているいる。それが証拠に、映画を見ても主人公はだいたい美しい若者である。映画であれTVであれ、若者を押しのけて老人がでしゃばってきては困り者だ。老人は、まして90歳以上の老人など、どいつもこいつもくらばりぞこないで、よいのだ。彼らは保護されるべき「可哀想」な存在で、彼らに一人暮しを許しているなど、世の中がどうかしている。

だから昨日、お田吾ちゃんに聞いてみたのだよ。主人公が老人ではなくぴちぴちしたカワイ子ちゃんだったら、君は可哀想だとは思わなかっただろうとね。図星だったようだ。成瀬老人が米を研いでいたのは薄暗い台所だった。その薄暗さが、君には「可哀想」に見えてならなかった。もっとモダンで明るいマンション風のキッチンだったなら「可哀想」には思わなかっただろうし、無洗米という便利なものがある現代で、米研ぎとは惨めったらしいと思った。そもそも主人公が93歳であるという事実、それが君には観賞するには、そもそも無意味なことだった。93歳という年齢を告げられたと同時に、君はほとんど思考停止し、番組に反目した。反目しながら、一応最後まで番組をしぶしぶながら観てた。それだけのことだ。

好悪や美醜を基準とした人を見る習性というものは何にも勝る心性である。いくら老人が元気だと説明されていても、お田吾ちゃんには老人が元気かどうかなど、ほとんど興味のないことだった。周知のとおり、 お田吾ちゃんは、お洒落な映画通である。TVとは言っても映画と同じだ。写し出されている人物、風景なりが、現代風に都会風に「美的」に感じられなければ、なんの意味もない。興味がわいてこない、映画と言い、TVといい、できるだけカッコよい主人公に越したことはない。それが映画だ。TVも同じだ。老人が元気にしていようといまいと、 お田吾ちゃんの興味はそこにはなかったのだからしかたもないだろう。老人はなにをやっても、みじめったらしくしか見えない、天下のTV番組に大手を振って、老いさらばえた姿など、見せるべきことでもない、と お田吾ちゃんはそう主張しているのである。

ま、意見は意見だ。人それぞれだろう。映画通録画マニア勧善懲悪お田吾ちゃん。これにくじけずに、がんばりたまえ。アニメならアニメ、マンガならマンガ、録画なら録画、ミーハーならミーハーなりにとことん徹底してみるのも人生の一興だ。 せっかくだ、次のお田吾ちゃんの書いた文章について質問をしておきたい。

どれだけこの番組を見たお方がいるかわたすは知らないが、番組の人が困っているかどうかは番組では関知していない。おおよそドキュメンタリー番組は、あるがままの姿を映すことをその倫理に掲げているから、「困っている風なこと」があるかどうかは視聴者の感想に左右される。で、わたすは、感想以上のことを語ってはいない。わたすが書いたのは、「可哀想」だ。

上記文の冒頭では、番組の主人公である成瀬さんが「困っているかどうかは番組では関知していない」と、お田吾ちゃんも認識しているわけだ。これは私もそう思し、番組制作者の意図も同じだと思う。にもかかわらず、君は可哀想だと明言した。そこを、もう少し詳しく聞いておきたいのだよ。 お田吾ちゃんの場合は、当の番組を見て、番組のどこから「可哀想」だという感想が生まれてきたのだろう。私はお田吾ちゃんとはまるで、反対の感想を得た。製作者の意図の通りに受け取ったと信じている。可哀想どころではないよ。93歳の高齢にして、工場を経営し、古い車や機械を修理しつつ、また奥さんがなくなられて以後、一人暮らしだが、自分で自炊している。

週に一度、社交ダンスの教室に通っている。すべて成瀬さんの意思に基づく。誰かに強要されて、そうしているわけではない。工場で働くことも私生活もすべて積極的に取り組み、いかにも楽しそうに暮らしている。93歳にして、あれだけ元気に暮らしていることは、視聴者の誰にとっても共感を与え、高齢化社会に向かって加速されている事実の前に、多勢の年寄りを少数の若者が面倒を見なければならないのかと懸念が広がっている中で、何歳になっても元気に一人でやりくりしている老人の姿は、誰にとっても喜ばしい事実ではないのだろうか。実際、番組の中の成瀬さんは終始ニコニコ顔で、やることなすこと楽しげに取り組んでいたはずだ。番組中、一言の不平も不満ももらすことはなかった。

ところがお田吾ちゃんは「可哀想」だと言うのである。私の感想はお田吾ちゃんとは正反対だ。お田吾ちゃんも確認しているように番組は成瀬さんが困っている風には描いていなかったのである。にもかかわらず お田吾ちゃんは可哀想だと言う。番組のどこをどう見て可哀想だという印象が出てきたのだろう。これを説明してちょうだい。成瀬老人のどういう所が可哀想だと思ったのか。または番組のどの箇所あたりが可哀想だと思ったのか。頼むよ、 お田吾ちゃん。よく胸に手をあてて考えてごらん。話は具体的に頼む。

私はその番組は都合二回見ているから、言ってくれれば場面は、すぐに頭に浮かべることができる。繰り返すが、私は番組中、一箇所たりとも可哀想だなどと思ったことはないし、また成瀬さんの姿が可哀想に見えた箇所もなかった。 お田吾ちゃんには可哀想だと見えたとういのが、どうも不思議でならないのだよ。印象はもちろん人それぞれだ。それを話してみて欲しいのだ。番組中、どの箇所を見て「可哀想」だと思ったのかね。どの部分が可哀想だったの。

わたすは、可哀想と感じた部分は2箇所。番組の主人公が(わたすっは実名を垂れ流すのは主義ではないから、こう表現する。)が、得意げに(?)、ご飯炊きの秘策を説明したところと、ラスト(正月版では以前放送したものに、いまの彼の姿を付け加えたものだ。)、いまの彼が手習い始めたギターの腕前を披露したところ。

おかしな人だね。無洗米を使わずにゴマ油をまぶしてご飯を炊いていた姿が「可哀想」に見えたのか。ギターを爪弾いていたことが「可哀想」に見えたのか。とりあえず額面通りに受け取っておくが、 お田吾ちゃんはそうとうの馬鹿だとは感じていたが、ここまでパーだとは想像しなかった。映画通が泣くぞ。

ご飯焚きでのごま油垂らしを見て、わたすは「可哀想」と思ったのであるぞよ。

それだけの理由で、「可哀想」だと思ったとは、実に短絡だとは思わないのかい。君の頭がだよ。何も語っていないだろうに。どうしてゴマ油と可哀想が直結してしまうのかを聞いているのだ。自分の言葉の出所を、よく見つめてみろ。何度言ったらわかるのだ。頭がパーやん。では君はメガネをかけているようだが、めがねをかけているから可哀想なのか。いささか腹が出ているが、出ているから可哀想なのか。そのように人から言われて、へらへらと喜んでいられるのか。デレスケ山が。よく考えろ。可哀想とは婉曲な言い回しにすぎない。君のつっぱった腹を人からああだぁこうだぁと言われることと同じように、君が発する「可哀想」言辞も誹謗中傷の一種に過ぎないのだと気がつかないのかい。

下手な演奏を、一生懸命、まるで、それが楽しいことかのように、何度も間違えた音程を引き流す姿を見て、わたすは、可哀想だったぞよ。

同上で、婉曲な誹謗中傷だ。簡単に言えば本人が楽しんでいるなら「可哀想」もクソもないだろう。君は当老人の親戚か?ギターの教師でもしているつもりかい。本人が楽しんでいる以上のなにを楽器に望むのかね、 お田吾ちゃん。仮に若い女の子が老人と同じようにギターを弾き、同じ曲を同じように間違って弾いていたとしたら、君はいかなる感想をもらすだろうか。君に限っては君だけは(笑)決して女の子の様を「可哀想」だとは言わないはずだ。そのことを、どう思う。そうした自分の心の底にあるものをよく見つめてみなさい。

こうして老人に対する君の偏見が丸出しに露呈されているのだ。ギターが問題ではない。老人がギターなんぞ弾くな!とすら言いかねない、古くされた頭の持ち主は誰だ。それが問題なのだ。君もタチを知りたまえ。 お田吾ちゃん。問題なのは、老人ではない。君の猥雑かつ矮小な醜い頭の中身のことだ。

人を外見からしか判断できない。完全に番組を曲解している。あまりにも偏った強引な印象だとは思わないのかね。見たままの印象ではなく、見た直後に君なりの邪推が沸いてきて、番組の意図を否定したがっているとしか思えないよ。無洗米を使っていないからという因縁をつけて、自炊している当人を毛嫌いするとは恐れ入った。そういう見方しかできないのかね。君は。モノを大切にすることは、都会人には一面、貧乏ったらしく見えるのはよく分かる。だが、修理しながら使っているというのは今日では美徳だよ。君はそうは思わないのかい。

新しいものを次から次へと消費し、古いモノは捨てまくるというのが、君のイメージにある生活観のようだが、それは疑問だね。しかし、君には驚いたよ。ほぼ想定しておいた通りの答えだったが、ここまで俗物根性に頭がやられているとはねぇ。君の根性は、いかにも現代風だが詳しくみるなら経済の高度成長期に特徴的だったものだ。今は、それすら古くなっている。スクラップアンドビルドの使い捨て俗物根性は相変わらずだが今はそれだけではやっていけない。同じ根性でも、もう少し複雑に語られているはずだ。それにしても君の脳みそは単純で分かりやすい。

「なにが悲しゅうて、そこまでして一人で生きていかねばならんの」などと君が成瀬氏を非難するのは曲解もはなはだしい。悲しい気持ちになったのは、画面に出てきた当人の年齢によるのかい。では何歳以上について、君は悲しくなるのかね。70歳までなら一人で生きていくのが正当だが、71歳以上の一人暮らしは、悲しいものなのかい。君は自分のことはどうなのかね。君の一人暮らしだと聞く。君の場合は、後何年ほど経てば悲しくなるのかね。現在子どももいない君は70歳になったら、老人ホーム行きが望みなのかい。ま、それも人それぞれだ。だが基本的に、「一人で生きている」以上の生きている喜びがあるとは思えないよ。

君は考え違いをしている。何歳になっても、それはそうだ。施設に入るのも、子どもの家庭に世話になるのも、体が動かなくなり、誰かの世話がなければ生きづらいという理由ができて、余儀なくして共同生活をするのではないのかね。元気なうちは、自分でやれることはやりたいものだと思うよ。何歳であれ。健康状態というものは、人それぞれだから、何歳になったら、どうしろとは決められないものだろう。そういうことをよく考えなさい。君も一人身とはいえ、いい大人なのだからね。分かったね。ああ、小学生を相手に説教すると、疲れがどっと出る。

高齢化社会という言葉はよく聞くが、問題は自己意識だ。われわれも未知の世界なのである。誰しも自分が90歳にして、ひょこひょこと結構元気に町を歩いているなどと想像外のことなのである。だが、現実は旧来の固定観念に閉ざされていた自己意識を、やすやすと超えていく。あっとい間に、若いと思っていた自分自身が70になり、80を超え、90に手が差し掛かるということも、不思議なことではない世の中となってくる。かなりの部分で、すでにそのような世の中になっているとも言えるだろう。理解より現実のほうが早く進んでいっている。人間の理解は、いつだって現実の後からついていく。

「事実は小説より奇なり」とは、そのことを言う。現実の諸断面を見せられて始めて真の現実に触れることができるのである。理屈は不要だ。理屈で現実を理解しようなどとはかったるい。新しい事物や現象に触れたときの、私の心構えこそ問題なのである。直視する勇気を持ちたまえ。うろたえるな。新しい現実は、どのようなものであれ、私は諸手を上げて歓迎する。人間は弱い。認識力も理解する能力も、自然に比べれば、すずめの涙だ。俺は、俺はの剛直な態度は現実からしっぺ返しを食うに決まっている。 お田吾ちゃんも、謙虚になりたまえ。これまでの歴史がそうであったように、明日なにが起こるかわかったものではないのだから。

さて、老人は社長の椅子を娘婿に譲ってから暇ができギターを習い始めたと番組で紹介されていた。引退したのは昨年秋のことだから、ギターを手にしたとは言っても、まだ間もない。楽器を習いを始めた当初は誰でも、そうは上手に弾けるものではないだろう。当たり前のことだ。それを君は下手だから、という一言のもとに片付けて下手だから「可哀想」だと、さっそく侮蔑する。彼は94歳だよ。それに、なにもギター奏者になるつもりで弾いているわけではないことは君だって承知の上ではないのかね。君はそんなことも分からないのかね。あきれた男だ。君は映画をだいぶ観ているようだが、いつもそんな調子で観賞しているのか。そんな嫌味な感想しか頭に沸いてこないのかい。情けない御仁だねぇ。あいた口もふさがらないよ。

やはりお田吾ちゃんには抜き差しならない旧態にして剛直な固定観念が脳みそを占領しているようだ。「老人というものは・・・かくあるべきである」という固定観念が邪魔をして新しい事実を見ても、 お田吾ちゃんには受け入れられないのだよ。だから自分の都合のよいように番組制作者の意図を曲解した上で観賞し、その後感想を語るしか方法がないのさ。番組を直視し、素直に見ることができない。「NHKスペシャルにんげんドキュメント」という放送はTV番組数ある中でも先進的に製作されていることでは定評がある。

同番組では、これまでも視聴者の常識を覆し、あっと驚くような生活をしている人たちが次々に紹介されてきた。古い考えに犯されて自省のできないた人たちには、番組そのものが受け入れがたいのだろう。このたびの放送も93歳の人間は、あんなはずではない。あの姿にはウソが混じっていると、ついつい誤解し、自分の間尺にあったように曲解して、嫌な番組のことを、やっと忘れることができる視聴者も全国には少なからずいるのかもしれない。 お田吾ちゃんのようにね。

実際の姿は、あんなものではないはずだという憶測を働かせる。事実は画面の裏にあるはずだと邪推を働かせる。93歳にしてニコニコできるはずがないという否定的きめ付けがはじまる。そんな老人は見たことも効いたこともないという経験主義。常識から考えても93歳ならば、その存在がそもそも「可哀想」な存在なのであるという従来観念。ここから発してきた当人を中傷してやまない数々の言辞言説。番組では確かに老人はニコニコしているが、別に喜ばしいことではないと強引に押しやってみる。見てみぬ振りを決め込む。どうしても語らなければならないときは、画面を正視できずにうつむきながら憶測を付け足しては、ぼそぼそと感想を語るまで。

老人は、今はやっている無洗米も使っていないし自炊といっても褒められたことではないという揚げ足取り。自炊するなら無洗米を使わないというのは「可哀想」な証拠だ、という短絡的断定。じっさい、ヨボヨボしながら米をとぎ、下手なギターを弾いていたではないかと、自分を納得させる。

なるほどお田吾ちゃんのヒューマニズムの性質と社会性というものが、とても良く分かりましたよ。それにしても笑うのだが、チミは精神がすっかり萎縮してしまったのか実に心の狭い貧しい男に見えるよ。映画通が聞いてあきれました。よく番組を見れば、成瀬さんの場合も、お田吾ちゃんが次のように言う通りだったのだよ。

なにかあったときはすぐ駆けつけることが出来る場

いわば味噌汁の冷めない距離というわけだろうが、成瀬さんの場合も、工場の経営は娘婿が後を継いだと説明されていたが、そこから分かるのは娘さんもごく近くに暮らしていることは明白だ。成瀬さんも、なにも子どもたちから、ほったらかしにされているわけではないのである。見ておくべきはやはり、成瀬さんの独自性だろう。93、4歳に至るまで、自分の考え方を貫いてきた潔さである。昨日も書いておいたが、社長として工場の技術的側面もそうだが、私生活の隅々にまで、こまかな気遣いを忘れない。

運転している自動車は30年前のトヨタ・パブリカだった。修理しながら乗っているのだ。もともと成瀬さんは自動車修理工だった。工場の工作機械もみな、工場を興した当時の30年前のものを使っている。注文機械の設計担当者も図面を手書きで書いてしまう。パソコンはいっさい使っていない。30数名の従業員の3分の1は60歳以上だ。新聞は3紙を丹念に読んでいる。読み終わった新聞紙は、古紙回収に来る近くの小学生のために、運びやすいように、1ページづつ切りとって、四隅をきちんとたたみ、きっちり一週間分づつ、紙テープで綴じておく。

ビニールなどを使うと、古紙リサイクルで、それを取のぞく手間が出来てしまう。だから子どもが持ちやすいように、そして取り除くものがなにもないように、自分が工夫して、そのように手間をかけているのであるという。また、数年前のことだが、同業者が倒産寸前になった折、成瀬さんに相談の電話を入れたところ、あれこれ聞き出すこともなく即座に借金を肩代わりしてくれ、工場を買い取って、その同業者さんにはいままで通りの工場で操業を続けさせてやったとのことだ。彼によれば、成瀬さんは窮地を救ってくれた命の恩人だという。武士の情けと申せよう。ぐだぐだいわずにやるときはやる、ただちに行動にでる。助けるときは全面的に助けてしまう。成瀬さんは学歴はない。小学校出だ。それが功を奏しているのだろう。人をして説教したり、理屈をたれたり、問いただしたり等々と、いっさい、がたがた言わないのだよ。信念にもとづいて行動している人にとって、言葉は限りなく不要になる。

週一回、社交ダンスの教室に通うのが楽しみだという。骨折してからは、通っているかどうかは知らないが、その教室で、休憩しているときの場面があったが、成瀬さんの真骨頂が出ていた。横に座ったおばさんが、茶を飲んでいる成瀬さんにテーブルにあったヨーグルトを勧める。成瀬さんは言う。わたしは英語の食べ物は、よう食わない。お茶は好きだ。お茶は日本語だと。英語嫌いで通している私もえらく同感したものだ。アメリカにノーと言える日本人、ここにありだ。溜飲を下げた。こうしたことは、単なる新旧の問題ではないと思う。

成瀬さんなりの哲学があるとしか思えないだろう。老いた親を一人暮らしにさせるのか、または子どもと一緒に同居させるのかという問題は、われわれみなが留意すべき重大な問題だが成瀬さんの場合は、悠々とその形而下的問題を超えている。番組のタイトルも「にんげんドキュメント」とあるように、老人問題一般ではなく、成瀬さんの独自的な生き方、考え方を、視聴者にも、分かって欲しかったのだと思うのだよ。 お田吾ちゃん。

言っておかなければならないのは、なんと言っても成瀬さんは93,4歳ということで、高齢も高齢、この元気さは、度が過ぎているように見えるのだ。これまでの常識では考えらない。これが視聴者に、ある種の反発を抱かせないとも限らない。つまり奇跡的な老人であるということだ。だが、私は思う。それは私たちに見えないだけなのではないだろうか。成瀬さんは、自分の姿など何ひとつ自慢することもなく、誰に見せるつもりもなく、こつこつと暮らしてきたのだ。確かに、70、80を越えれば、寝たきりになってしまう老人も多い。これからもそうだろう。

少子化は加速している。どこの街も田舎も老人だらけになってしまう。一方、全国には成瀬さんのように90を越えても、第一線で暮らしている老人も、案外に多いのではないだろうか。われわれの眼に入らないだけなのではないだろうか。成瀬さんの姿が放送されたことで、これまで奇跡的だと思われていたような現象の存在が示されたのである。であるならば、これからますます、成瀬さんのように元気なお年寄りも全国に増えてくるだろう。これは嬉しい予測である。

年を取ってくれば、誰でも足腰が弱くなり耳も目も遠くなる。だがそうだとしても、ほんの少々のことならば、最低限のことならば、できることはできるだろう。何ができるかできないかは、その人によるだろう。便所ぐらいは一人で行きたいものだろう。やらなければ出来なくなるものだ。助けてもらうのが通常だったら、二度と一人では出来なくなるという習性がある。こっちのほうがよほど老化を進めるという説もあるほどだ。やろうとしなければ、誰かが埋め合わせをしなければならない。何歳になっても、成瀬さんのように元気に暮らしていたいと思うのは誰しものことではないのか。

墓場に入る最後の最後まで、できるだけ人の世話にならずに自分のことは自分でやりたいものではないのか。成瀬さんは、人として生まれてきた以上、最後の最後まで人たるプライドや人格を保ちつつ暮らしていく可能性を実際にわれわれに示してくれたのである。80になったら子どもの世話になるばかりが能ではないのである。80になったら寝たきりになるよりしょうがない、のではないのである。

老いたら何もできないのではないのである。老いるという現象さえも人それぞれだ。

 

 

 

 

 

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▼渋谷パーラー田吾作事件

2017年05月27日 | ■今丼政幸君との対話

<2010.03.11 川崎市>

 

以下、赤煉瓦掲示板より



 

田吾は次のように云ふ・・・・

>わたす的にはモコモコ爺は偽証していない。
>確かに3時20分以降、モコモコ爺は、渋谷パーラーにいたのさ。

何度も聞くが、これタゴよ。君は、当のパーラーに行ったのだろう。君自身で、爺さんが、その場に居たのか居なかったのかを見てこなくてなんとする。爺さんや私が、なんと言おうと、君が、他人の言に左右されることはないのではないか。君は、現場に行っていないから、爺さんがああいった、こういったという世迷言に乗っかっているだけではないのかね。あるときは爺さんの言を、排除し、あるときは、爺さんの言を、そのとおりだと持ち上げる。君は、現場を見てきていないから、そういうことになるのだ。君はパーラーには行っていない。君はウソをついている。

しつこいようだが、これタゴよ。わたしが問題にしているのは、どこかのじいさんやばあさんのことではないのだ。君自身の当日の行動なのだよ。そもそも君が発起して、知人さんに願い出て、計画した物事だ。君は姫の疑問(タゴと知人さんが同一人物であるやなしや)を、渋谷にいって、知人に会いさえすれば、解明できると、こいてきた。誰一人として、そんなことを行為化してみても、姫の疑問と、それは別問題であることは知っていた。

だいたい姫の疑問が、そんなところにあるかどうかさえ、もっと深く姫の言辞を解釈してみなければわかったものでもないのであった。姫を同席させもせず、結果、いくらタゴと知人が会ったと、後日、掲示板なりで、法螺を吹くつもりであったのだろうが、これまた言葉の上だけの話であり、一向に、姫には遠い話である。まっ、どうなることやらと、当日の成り行きを見ていたところ、知人が約束の時間に遅れて、タゴは会うことができなかったのである。それだけの話だ。


わたしが疑問なのは、タゴは、事前に知人の一時間遅れるという通知を、知っていて、渋谷には行かずに、仮に行ったとしてもパーラーには行かずに、引き返してきたのではないのかと、そのように主張しているのである。だからといって、別にどうこうという問題ではない。こんな有様になることは、当日を迎えるまでもなく、わかりきった話である。冒頭に申したように、知人にとっては、タゴに会うなんぞは、なんのうまみもない話なのである。

最初から、まったくもって自分には関係のないどこの馬の骨ともしれない姫さんとやらの疑念を解明するために重い腰をあげて、これまた初対面になるタゴのとってつけたような理由のためだけに首都郊外から渋谷まで出て行く、その理由が当日まで何度考えても出てこなかった。よって、婉曲に、遅刻する旨を、掲示板に、直前になって、書き入れ、タゴにもそれとなく知らせておいた。一時間遅れの通知といいタゴに伝わるか伝わらないかの微妙な刻時を選んだのは、ま、知人の頭のよさかもしれない。告知しておきさえすれば、後々約束違反の非難は免れる。


わたしは、タゴには何度か聞いた。君は知人の遅刻通知を、見て知っていたのではないのかと。タゴは、それは見なかったと言い募る。で、実際に、約束の時間とおりに現地、すなわち渋谷パーラーを訪れたと強弁している。ここに実際上の矛盾が、多々生じてくるのである。

タゴの住居は横浜郊外の保土ヶ谷署裏である。渋谷から、ここまでは優に一時間は所要する。わたしが、タゴのケータイに電話を入れたのは、ちょうど4時であった。彼は、自宅に居たのである。当初、知人との約束の時刻は、渋谷パーラーにて午後3時である。タゴは言う、30分は、パーラーで知人を待っていたと。待っても待っても知人が現れず、しかたなくパーラーを後にしたのは、午後3時半ぐらいということになる。3時半に渋谷から電車にのって4時に、神奈川県警保土ヶ谷署裏の自宅まで、舞い戻っているというのは、ありえない話なのである。午後3時に当初の約束通りに、パーラーに行ったというタゴの証言は、真っ赤なウソなのである。まず、午後12時半に、タゴは職場から「これから渋谷に行きます」との書き込みをした。

だが、その後もしばらく掲示板で誰がどのように自分の行動に反応するかが気になって職場を出なかったと思われる。知人の遅刻通知が書き込まれたのは午後1時過ぎ。これをタゴは職場のパソコン上で見た。

知人の記事は、約束時間から一時間ほど遅れるとの通知だが、ようするに今日の会合には行きませんという意味を十分に内包しているものだった。これをタゴは、これ幸いとして読み取った。

では、自分も渋谷には行かないですみましたという按配である。そして意気揚々と職場を後にした。新橋から渋谷方面の電車をやりすごし、通勤に使っている通いなれた横浜方面の電車に乗ったのである。時刻は、午後二時過ぎだった。繰り返す。タゴは、知人の書き込みを、リアルタイムで見ていた。そして、その意味から瞬時にして知人と会合中止に合意したのである。タゴがどれほど、このときの知人の言動に感謝したか計り知れない。


さきほど、タゴは自分の掲示板で、言い直してきた。知人を30分も待っていたのではなくて、それは15分だったという。では、もう一度、時間の経過を丁寧にたどってみよう。

タゴは午後3時15分までパーラーに居た。パーラーから東急東横線のホームに入るまでが、以外に時間がかかる。10分はかかるだろう。渋谷を電車で出発したのは3時半になっている。タゴの東横線最寄り駅は横浜駅だろう。渋谷から横浜までは、急行でも30分はかかる。横浜駅で、すでに午後4時だ。ここからタクシーで神奈川県警保土ヶ谷署裏のタゴのアパートまで飛ばしたとしても、やはり、ここだけでも30分近くはかかってしまうのである。タゴが超人でもないかぎり、午後3時15分にパーラーを出て、45分で、自宅に舞いも戻れる方法は、あり得ないのである。嘘をつくんじゃないのだぞ。これタゴよ。

そもそも君の発案が、途方もないものだったということなのだよ。知人も、うすうす気がついていた。当日になって、君に同調して渋谷まで行く、バカらしさに気がついた。気づいていないのは、タゴだけだ。タゴの行動とは、なにをやっても、こんな調子だ。ネットで姫に自慢したいが、ための行為にしか過ぎないのである。君の計画、行動、すべてが漫画だ。


今日になって、タゴは次のように強弁している。

>わたすと知人さんとが別人であるとの立証は、二人の「差異」が姫に認知できたらことはそれですむから、同席は必要としない。わたすは姫の電話番号を知っとるから、姫に電話をいれ、知人さんと姫とを会話させたらそれで姫には、わたすたちが別人だと判明するのだよ。ばかたれ。

当日、渋谷パーラーにて、知人に会った上で、知人から姫に電話をかけさせ、知人から、タゴとは別人であることを姫に対して縷々説明していただこうという腹づもりであったらしい。それがタゴの本当の目的だった。何度も言うが、知人とタゴは面識がないのである。知人と姫も面識がないどうしで、赤の他人だ。ネットなりで話し合ったこともないのである。いかにタゴという男が、漫画レベルのことしか考えられない男であるかが、よくわかるだろう。もちろん、上のような計画も、今日になって、たまたま思いついた言い逃れじみた強弁の一種にすぎない。

数年前は、知人に会いさえすれば知人とは別人であることが姫に証明されますたと、こき。その次の年になると、渋谷に行きさえすれば、それだけで姫には、自分の思い・・・知人とは別人である・・・は十分に伝わるはずだと、こいていた。これらに比べれば、知人から姫に電話をかけさせるという具体案はやや前進はしているようだが、それにしても自分勝手で、はなから他人の気持ちなど、痛痒にも感じていない点が、相変わらずの脳タリンなのである。


わたしは、界隈ではただ一人、知人とタゴの双方に面識があった。知人が界隈に登場してきた匿名は、「かもめの知人」である。わたしの友人という立場で、登場してきた。その知人とタゴが会おうという算段になった。その意図すると笑止ではあったが、知らぬ同士が会うということは、悪いことではない。それほど会いたいのなら、お二人に、ご協力申し上げるのが、拙者の立場というものである。わたしもまた、自宅のパソコンを見やりながら、知人が出入りしていた鈍角板と、タゴ主宰の、赤レンガ板の双方を見やりながら、やきもきしていたのである。

午後12時半タゴは、これから職場を出て渋谷に向かうと宣告してきた。いよいよ両巨頭というか、両初心者というか、ま、お二人の歴史的会合の時間が迫ってきていた。ややあって、鈍角板を見れば、なんと知人が一時間遅れるとの書き込み記事があるではないか。タゴは午後3時を目指して、いまは渋谷に向かっているところであろう。この書き込みを、見ることができるかどうか。

わたしはご両人は、会えないのではないかという心配が募ってきた。やがて午後3時なった。やがて午後4時になった。そこで、わたしは、タゴのケータイに電話を入れて、会えたのか会えなかったのかを確かめてみたのである。知人の遅刻通知を見たのか、見なかったのか。まだ見ていないというなら、いまからパーラーに行ってみろと、さらに知人の風貌なりを、詳しくタゴに教えてやるつもりであった。それも、渋谷近辺にタゴがいるのであればの話だ。わたしは、そう思った。約束の時間からは、まだ一時間しかたっていない。この時点で、タゴが、まさか、神奈川県警保土ヶ谷署裏のアパートに、すでに舞い戻っていた後の祭りだったとは、夢にも思わなかったのである。

タゴは言う、それなら午後3時の段階で、わたしがタゴのケータイに電話してくれればよかっただろうと。それもそうかもしれない。だが、終始二人の大人の問題だ。わたしが二人を、合わせようとしているわけでは毛頭ない。どうしても会いたければ会えるはずである。今から思えば、タゴも知人も、会いたくないから、会うことを避けたというだけの話なのである。

思えば最初の計画からタゴの話は途方もない自分勝手なものだった。知人の気持ち姫の気持ちなど、一向に忖度しようとはしなかった。最初から漫画といえば漫画だった。

されば知人の遅刻通知は上出来だったと言うほかはない。まかり間違って、この二人が、実際に会ったということになったりしたら、この先、どのような破天荒な漫画がおっぱじまるかと想像すると、夜も眠れなくなってくる。姫さんもアンドの胸をなでおろしているところだろう。世のため人のためには、タゴと知人は結果、会えなくて、それでよかったのである。これタゴよ。正直な気持ちを話してみなさい。お前も最初の最初かっら知人さんには会いたくなかったのだろう?


何度も言うが、そんな他愛もないタゴ固有の問題解決のためだけに、タゴとも姫とも面識のない第三者が半日を使って渋谷まで、ひょこひょこと出かけてくる動機が見当たらない。あまりにもタゴの説明は稚拙なのである。当日、知人との会合の実現を、どこまで本気で考えていたのかどうかは、知らないが約束時間の一時間前、すなわち午後二時前に、知人によって遅れる旨の通知が某掲示板に、書き込まれたのである。土曜日であった。タゴは新橋郊外の職場に出勤し、昼間で仕事があった。

タゴが職場から、ではこれから渋谷に向かいますと、これ見よがしに自分の掲示板に書き入れたのは12時半である。以後、この日は夕刻まで、タゴによる書き込み記事はない。思うに、このときのタゴの記事を、そのまま信じてよいのだろうか。つまり12時半に、タゴは、これから職場を出て渋谷に向かうと、たしかに、そのように書き記してはいるのだが、実際は、職場にとどまって、パソコンを前にして、掲示板を見ていたとするなら、どうだろう。

タゴの職場から、渋谷までは一時間弱である。約束時間の午後三時までに渋谷に行けばよいとするなら、午後二時頃までは、職場でネットを見ていることも可能だ。知人の書き込みは二時前だった。タゴが書き込んだとおり、12時半には職場を出ていたとするなら、タゴはすでに車中の人となっており、知人の記事を見る機会は、なかったかもしれない。だが、職場にいたとするなら、十分に知人の記事を、見ることは可能であった。知人の遅刻記事は、渋谷には行きませんという婉曲なタゴとの会合を断わってきた通知であることは、誰でもわかるものである。

とすればタゴは、この時点で渋谷には、まったく足を向けることもなく余裕綽々として新橋から横浜行きの電車に乗り午後三時過ぎには、神奈川県警保土ヶ谷署裏のアパートまで引きかえすことも、可能である。

繰り返すがわたしがタゴに電話を入れたのは午後4時ちょうどであった。この時、意外なことに、タゴは自宅に帰ってきていたのである。それも、たった今帰ってきたという口ぶりでは、ぜんぜんなかった。インスタントラーメンをたらふく食べおわって、誰にたいする不満もなく、すべてこれ、自分の思うとおりに、世界は回っているという調子で、この世の春を謳歌している最中だった。今日の、出来事も、なにもかも予定通りに、進んでいますという調子だったのである。タゴは言った。もちろん渋谷に行ったのだったが、知人がいないので、さきほど自宅に帰ってきたところだすと。これで、わたすの計画は、すべて順調にことが運んでおりますて、大満足だったのだったと。


ようするに知人の遅刻通知からは、会合拒否の中身が透けて見えている。知人が億劫になった以上に、当日に至ればタゴも、こんな不毛な会合は、できれば回避したかった。タゴにとっては、知人の遅刻通知は、渡りに船ともいうべきものだったのである。面倒なことを回避できてアンドの胸をなでおろしていたに違いない。どれほどタゴは知人の遅刻通知に、救われた思いだったか。頭のよい知人に感謝したことだろう。こうして、不毛にして無意味な田吾作の行動計画は、回避されたのである。おそらく、タゴは、午後二時すぎには、渋谷には足を向けることもなく、新橋から直接、横浜方面行きのJR線に乗車したのである。

繰り返しておくのだが、知人とタゴは、知人の遅刻通知によって、瞬時に合意が成立していた。こうして、この不毛な会合を回避することができたのである。その際、知人の常識的な判断(遅刻通知)によって、という点をわきまえておくことが、大切だろう。知人が、無意味さを感じたように、タゴも内心、どうなることやらと、ひやひやしていたに違いない。

できれば、自分で発案した会合とは言え回避したかった。だが、この時もタゴのほうからは、なにひとつ、このバカらしい無意味な会合から、自分たちの良識を守ろうとする善行にいたる行動はなされていない。行為におよぶ痕跡は、まったくもって見当たらない。

今にいたるも、この古バケツのような男は稚拙な言い訳と見え透いたウソを並べられるだけ並べ底の割れた強弁にまい進して見苦しい孤独な虚言を構築するに大汗をかいている。

 

 <2010-03-11 記>

 

 

 

 

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▼あらためてトーホグ写真集

2017年05月26日 | ■今丼政幸君との対話

 

以下、赤煉瓦掲示板より(但、当記事の時系は下から上に向かってござる)


 

 

▼角館

 花の色が都会とはまるで違っていた。

 

そうか、おれもあんなふうにやりたかったのだと気がついたのがそうするには、それ相応に金がかかると思い直した。

 

当地の名物であるしだれ桜がまだ咲き残っていた。

 

 

 

▼盛岡

 
もりおか歴史文化館前

桜は北国の桜に限ると耳にしたことがある。はなみずきも同様にちがいない。

  

 

黄金週間が終わろうとしているときだったが市中にはまだまだ観光客がたくさん歩いていた。

 

 

 ▼三陸海岸

海の色は美しかったが陸の上ではあちこちで大堤防の工事中で土けむりが舞っていた。

 

 

 


▼遠野

人より猫に出会うことが多かった

 

遠野ではたくさんの写真を撮ったが上の写真が一番だったと自画自賛

 

 

 


▼八戸

のんだくれて飲み屋の女将と喧嘩になりはぐった

 

 

 


▼岩手山

上は、インスタントではない。本物の岩手山だ。
二週間ほど前に盛岡市郊外の国道四号線ぞいから撮ったものである。
元来、拙者はかような絵葉書のような写真は好きではないが、ま、許せ。
この山の姿にほれぼれとしてしまったのだ。

わたしがつかっているレタッチソフトはなんとかというフリーソフトだ。十年来これを使用している。それにしても込み入った使い方は知らぬ存ぜぬで、縮小、トリミング、まれに全体を明るする等々のみのこと。元がたいしたことのない画像ならどのように加工しようとたいした結果が出てくるはずがない。できるだけ加工はさけたいというのがわたしの本音だ

 

 


▼ん?ばかもめは・・・今井政幸 

写真投稿サイトのインスタグラムを知らないのか。
マジで。

 

 

 ▼インスタントとは何事だ・・・かもめ 

おい、今井。

上のうどんはインスタントじゃないぞ。

立ち食いだが立派な讃岐うどんだ。


 

 

 

▼知り合いが、インスタグラムをやってるから・・・今井政幸 

見に行ったら、知り合いの友達の写真がとっても綺麗。
あの写真は、一眼レフで撮ったか聞いたら、iPhoneで撮ったのだという。
それでも信じられないから、なんでiPhoneの写真があんなに綺麗になっているのか聞いたら、
インスタグラムについている画像加工ソフトで加工したのだと。

さっそくインスタグラムのソフトを呼び出したらいろとかシャープさとか、いろんな加工ができる。
暖かさというのもあった。このソフトは凄い!

ばかもめもインスタグラムで投稿すれ。

 

 

 

 

 

 

 

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▼年金で並木通りのカラオケや

2016年12月26日 | ■今丼政幸君との対話

 

2016.11.22 横浜市

 

 

 

南京ハゼ

 

 

 

 

 

本日、わたすがカラオケで歌ってきた日本の歌は以下のように多岐にわたった。
 

名月赤城山

勘太郎月夜唄

潮来笠

雨のオランダ坂

高原の駅よさようなら

上海帰りのリル

赤いランプの終列車

お富さん

哀愁列車

月よりの使者

緑の地平線

涙の渡り鳥

サーカスの唄

東京の灯よいつまでも

ああ上野駅

夢淡き東京

東京ラプソディ

東京の花売り娘

東京だよお母っさん

鳳仙花

津軽のふるさと

越後獅子の唄

ラバウル小唄

若鷲の歌

雨のブルース

別れのブルース

カスバの女

人の気も知らないで

 

などなど・・・・

 

上記のように私の場合は相変わらず懐かしのメロデー専門ですがわたしが心地よく歌える一番新しい歌としても戦後まもなく流行した「お富さん」とか「潮来笠」ぐらいなもので、だいたいが戦前から戦後も1960年ぐらいまでに作られた歌なのです。わたしが小学生の頃といえば、なんといっても文化全般がテレビに占領される前のことでしたのでラジオを中心にたくさんの歌謡曲が生まれてきたのです。巷では都会でも田舎でも大人から子どもまでそれこそ全国民がいつでもどこでも、なんらかの歌を口ずさんでいたのです。現代人には信じられないでしょうが当時の人々は、それこそ一日中自転車に乗っていても歩いていてもまた家事をしながらでもはなはだしきは便所からさえ歌声が聞こえてきました。民謡あり軍歌あり童謡あり、もちろん流行歌あり老若男女の誰も彼もがそれこそ四六時中なにがしかの歌を口ずさんでいた時代でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼カタカナ語はカルト語であるやなしや

2016年06月14日 | ■今丼政幸君との対話

 

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

世に倦む日日 ?@yoniumuhibi  ? 11 時間11 時間前

しばき隊はカルトだ。しばき隊のアカウントをフォローしてはいけない。しばき隊のTwをRTしてはいけない。しばき隊をネットで増殖させてはいけない。しばき隊に入信すると、人は暴力の依存症になる。LKのような凶徒に変わる。しばき隊は封じ込めないといけない。カルトを阻止しなくてはいけない。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


いくら低学歴の拙者でも、「カルト」というカタカナ語の意味は、それとなくわかる。だが、分かると言っても、よく考えてみれば、別に辞書を引いたわけでもなく、世間に蔓延している、空気なようなものを読み取った上で、さらに脳内に、鮮やかに刷り込みされている概念を元として、分かった風な顔をしているだけなのかも知れない。上のつぶやきに、見られるように、世に倦むつぁんは、次から次へとカタカナ語による臭い「屁」を後股間から、やたらにひりだして恥をしらない。まず、拙者のような田舎育ちには、「アカウント」というカタカナの意味内容が、そらぞらしい。それに「フォロー」も、なにやら曰くありげで、腐れた玉ねぎの臭いが充満してくる。「しばき隊のTwをRTしてはいけない」と狂乱ぶくみに叫んでいるが、「Tw」も「RT」も低学歴の拙者には、もはや雲をつかむような隠語として、脳内および脳の頭上はるかを、意味もなく流れすぎていく。それに、「LK」とは、なんだ。誰かの頭文字のようだが、定かには知ることもなし。

カルトを否定することに文句をつけても始まるまい。世に倦むつぁんのおっしゃる通りだ。じゃが、ここまでカタカナ語ばかりを好む習性があるとは、それこそ反日思想に頭がやられた「しばき隊」の亜種と、みられても文句は言えまい。

いいかい、世に倦むつぁん。日本に哲学というものがあるなら、それは徹底して日本語でやるという言語行為における、おのおの方の態度の中にある。それは論者の出自、学歴、趣味傾向、肉体改造および徒党、選挙、金融なんぞは、これぽっちも関係ない。

自分は、いったいなにをしにこの世に生まれて来たことやら。

哲学の最初の事件が、この難問がおのおの方の内心に生まれてしまうことにある。ここから不毛な哲学という近代の悪行に身も心も浸らせなければならないのだ。哲学というなら、この根源的な問いに言語をもって答えることにある。少なくても答えようと行為する、そのことにある。株の売買も行為には違いない。セックスはもちろん朝のジョギングも行為のうちだ。

たまたま頭の中に、なんぞ感想が浮かんだという程度では行為とは言えない。その感想なりを論理的道徳的に明文化して、はじめて行為といえる表現となる。さらにいえば、その明文がカタカナ語満載であっては「はやりすたり」の風潮に逃げ込む算段を最初から、こいているばかりであり、この手の郎党三昧、おちゃらけぽんぽんの言辞が、いかに哲学と呼べる資格があるやなしや。

 


 

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▼がんばれ東電白物家電

2015年09月24日 | ■今丼政幸君との対話

2013.09.09 サンケイスポーツ

 

全社一丸で汚染水対策を 東京五輪決定で東電

2013年9月9日(月)12:37 <産経新聞オンライン>

 2020年夏季五輪の開催都市が東京に決定したことを受け、懸念材料だった福島第1原発の汚染水漏れ問題を起こした東京電力社内でも、「無事に決まってくれてほっとした」(幹部)と安堵(あんど)の声が広がった。

 同社は9日までに、「国を挙げた招致活動の結果、東京でのオリンピック開催が決定したことは大変喜ばしい」としたうえで、「開催に支障をきたすことがないよう、汚染水対策を含めた廃炉への取り組みを全社一丸となって対応する」とのコメントを発表した。

 東電は国際オリンピック委員会(IOC)総会の開催に先立つ5日、英語版ホームページに広瀬直己社長の動画メッセージを掲載。「放射性物質による海水への影響は原発の港湾内に限られており、外洋への影響はない」と強調していた。

 

 

 以下、教育年金掲示板より

●投稿者:馬亀

>泥炭の家では10kwの太陽光発電を設置し、ガスを止めて全電化しました。

そうですか。それはおめでとうございます。太陽光発電で10kwといえば、たいしたもののようですね。面積約30畳にパネルを敷き詰めて初めて10kwのようですね。工事費も一千万円はくだりますまい。お金持ちなのですね泥炭さんは。で、晴れて東電とは縁が切れたのですか。電線は絶たれたのでしょうね。そりゃ、よかったよかった。めでたしめでたし。
ただね。分かっておきたいこともある。10kwの自家発電装置を持てるのは、国民のほんの少数者にしか過ぎないことを。あなたの太陽光装置は、国家国民のエネルギー政策には、なんの関係もないということを。

それにしても、だいぶパネル業者に過激な悪知恵を吹き込まれたようですね。

原発は深刻な害毒を流し続ける・・・・?
東京電力の度重なるミス・・・・・?

さても太陽パネルはようござんすが。雨漏りにはお気をつけなされませ。あんな仰々しいてかてか光る物体を乗せていたんでは、早々に屋根が傷むらしい。

 

 

 
●投稿者:泥炭

そんなにはしませんよ。お金は要りません。全部ローンです。発電した電気は東京電力が全部買い取ります。そのお金でローンの支払いをします。10年程でローンの支払いが終わって、その時にも太陽光発電機が健在ならば、以後初めて太陽発電機が本当に自分のものに成ります。ちょっとしたリスクのある投資ですね。

そういうわけで、今我が家で使って居る電気は従来どうり東電さんのお世話に成ってます。スペースさえあれば誰でも可能でしょう。 勿論、それもままならない人が居る事は確かですが、そういう人は別にする必要はないでしょう。 個人的には家庭の屋根や庭先でする程度の太陽光発電ではあまりメリットはありません。太陽光発電機で発電した電気も東電から購入した電気もどちらも同じ唯の電気です。 その上、屋根の上に余計なものが載ったりしますから美観も損なわれます。 これは贅沢でもなんでもありません。 炭酸ガスの排出量を減らし、地球環境を守るのが唯一の目的です。 社会貢献もしくは社会的義務の一種です。 それ故、発電した電気は東電から購入する電気よりも割高に買い取って貰えます。

私の太陽光発電機はまさに国家国民のエネルギー政策の一環です。 国策への協力です。東電が太陽光発電機で発電された電気を、自らの販売価格よりも高値で購入するのも国法でその様に定められているからです。  

 

 

●投稿者:馬亀

なるほど。今度という今度こそ東電さまさまってなわけですな。

 

 

 


 

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▼昌平橋のはなみずき

2014年09月24日 | ■今丼政幸君との対話

 

2014.09.24 中央区

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<山城赤月名>

2014年09月16日 | ■今丼政幸君との対話

昔は、横書き文も、右から始まって、左に向かって読むのであった。おそらく日本語の場合、書くのも読むのも右からが優先されていたせいであろうと思われる。

縦書き文章は、上から下へと文字を連ね、行を替える場合は、もちろん左側に余白をとって、行をとり、また上から下へと文字を追って書き連ねてくるものであり、また、そのように目を追って文字を読むのが大昔からの通例だった。

そもそも文章が横に向かって書かれているなどという逆転現象は、われら民族には未経験の出来事だったのである。そこで苦慮した結果、横書きの場合も、通例の縦書き文がそうであるように、右から左へと読んでもらおうという結果になったのだろう。このような慣例が、おそらく大正期あたりから、昭和40年近くまで、続いていたように思われる。今日でも、今や廃墟と化した昔の街道の場末のあたりで、ペンキのハゲかかった古い乾物屋の看板の右下のほうに

八四三一(六二)九0 話電 店商井今

などと書かれた文字を、まれに見ることがある。

さて、文章に右利き左利きがあるものか、または無いものか等々の「ご議論」は、後日、おっていたすこととして、今日は東海林太郎氏のデビュー曲として名高い演歌を一つご紹介する。昭和14年に発表され大ヒットに及んだ。真珠湾攻撃に突入せし二年前のことであった。このレコードのラベルが、やはり右からだった。<山城赤月名>とある。

とくに二番の歌詞がいい。定年後、または定年間近の中高年なる日本男子なら誰にしろ、この歌詞ばかりは心にぐっとくるものがあるに違いない。本日は演歌の女王島津亜矢さんに歌っていただいた。ご覧あれ。

http://www.youtube.com/watch?v=hX2fdshLwW4

 

意地の筋金 度胸のよさも
いつか落ち目の三度傘
言われまいぞえ やくざの果てと
悟る草鞋に 散る落ち葉

 

 見事なる七五調である。七五調を馬鹿にするものは美空ひばりに笑われる。

 

 

 

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▼読書の秋のロールキャベツとヒステリー

2014年09月02日 | ■今丼政幸君との対話

 

半月もの間、まるで梅雨のような空模様が続いていた。今日になってようやく快晴の青空を見たと思ったらすでに外気は秋の気配に満たされていた。そこで気分がだいぶ良くなり本でも読んでみようか秋の空という調子で図書館にぞ参りける。

2014.09.02 川崎市

 

  

付属の食堂にて昼食をとる。今日の定食はさばの味噌煮他数種ある中からロールキャベツを選択する。

お膳の右にあるのはサラダの小鉢。赤く見えるのはトマトの薄切り。さても後日拙者をして敵視する左巻ヒステリのカルトっ屁の連中によって、やれ貧乏な鴨目が昼日中よりマグロを食えるはずはないとか昼飯のおかずに堂々と生ハムを食っているのはいかがなものか等々のデマを流されては不愉快につき、この際、以下申し明かしておくところなり。当トマトサラダについてはあくまでもオプションということであり、その点よろしくご理解のほど御願いたてまつる次第にござ候。

 

 

 

本日借り出してきた図書は以下のものなり。問題は二週間後の返却日までにどこまで真摯に著者らの真意を読み取れるかだ。そこで、まずは左から順に読んでいこうと思っている。しかして丸山真男の著作まで読了できるかどうかは神のみぞ知る。

 

 

 

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▼がんばれ自衛隊

2014年08月24日 | ■今丼政幸君との対話

 

2014.08.23 産経新聞より

 断続的に雨が降る中、行方不明者の捜索を続ける自衛隊員ら=22日午前、広島市安佐南区(三尾郁恵撮影)

 

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