<2005.07.15 記>
FCは、介護者の「こっくりさん」であり、本人の表現法ではない。まして、読み書き能力を開発するメッソトではありえない。
滝本太郎弁護士には何度も言ってきたことだけんど決めつけなんだよね。あなたの場合もR少年と同じ様な障害をお持ちの方だというから、実際にどれぐらいFCについて知っているのか、または経験しているのか。その結果として「こっくり」さんだという結論に至ったのか。それを聞きたかったのですがね。ところがあなたの話はなぁんだということになる。素人のわての認識とほとんど大差はない。
TVを見ただけなんでしょ。それならわても見たよ。本人たちは確かに子どもが言葉を出していると確信している。わてもそう思いましたよ。あの番組から「こっくり」さんだというのは、わてなどより、よほど裏付けがあるのかと思ってね。お聞きしたまでだす。ところで、ひとつお聞きしたい。R少年の言葉を全面的に否定するなら、R少年の今後の読み書きを中心とする教育ということでは、いかように考えますか。
どのようなリハビリその他に励めば、誰からも認められるようなコミニュケーション手段。または言語活動というものが可能となるでしょう。それを示さずしてて今少年が使っている手法を否定するのは、あまりにむごいことだと思うわけよ。人でなしだよね。代替法が想定されるから、あなたも全面否定しているのじゃないの。それとも、R少年のような場合(?)は言葉を使わないほうがよいとでも言うのかな。それをいっちゃおしめえよ。だからね。わてもT弁護士などに言ってきたのよ。先生は「少年から言葉を奪う」運動をしているのだよとね。いかがぞな。
少年から言葉を奪う運動ではないです。残念だけれど、自信を持って。その母から、「少年の言葉と思い他に対しては発言する習慣を奪う」ということでの問題は感じていますが。大切なことなので、偶に、かもめさん相手だが、レスしちゃいました。たまに相手をしただけのことで、引き続いて、アラシさんに相手をする義理もなし
どもっ。大切なことなので、偶に、かもめさん相手だが、レスしちゃいました。
>その母から、「少年の言葉と思い他に対しては発言する習慣を奪う」ということでの問題は感じていますが。
あなたもう少しまともな日本語使えないのかね。何を言いたいのかね。何を言っているのかね。オラ、さっぱり意味がつかめねど。オラも相当のテイノウ痔だからな。あなたの責任ばかりではないのかもしれないが、少しは共通語のなんたるかを分かって書いて欲しいものだ。ようするに何が言いたいんだべか。なんとなく重要な事に触れているような気もすっと。もう一度、かみ砕いて説明してちょうだいね、弁護士さん。そんな文章しか書けなくて、滝本はん、仕事になってんのけ。あきれっと。念を押すが、再度レスちょうだいね。弁護士先生。
子供って社会の中で育つ訳でしょ?自分の子供だけ可愛がったり特別にしても何も解決とかになんないと思うんだよね。
実は、君の上の文章がずっと気になっていたんだわ。オラ、異論があるだよ。「子どもって社会の中で育つ」・・・そりゃそうだ。「育つ」という語彙にそもそも「社会化」されていくという本意が含まれているわけだしな。だがよ。オラが言いたいのは、この場合の社会というものをどう保護者なり教師なりが捉えておくかだわ。ここが大事だでや。よく話を聞いてみるとよ。一人一人大きく違っているようだんべや。自分が抱いている社会のイメージを一般化することも、他人に押しつけることなどなおさらできないものさ。
社会とはこういうものであるなどと、決めつけることはできないものだんべな。ねっ。オラげの息子は不登校だったんべな。毎日毎日家に引っ込んでいたと言っても、また違うんだなや。これが兄弟つーてもよ。性格が違うつーう面白れこともある。上の息子は出歩くのが好き。下の息子はそれこそ一人でいるなら何週間でも、なんちゃってなや。いずれにしても、どこかに書いたが、ガッコいかねんならば、オラがセンセ替わりになってやっか?と覚悟を決めたんべば。ほしたら、その家庭内勉強が面白れこと、面白れこと。ムキになる必要はない。幸いにして大きな障害がなかったからだとも言えるけど。楽しい会話ができればよ。おめ、読み書きは別にしてもよ。言語教育なんつーのは、この楽しい会話から始まってっぺな。これも出来なくて、なにが読み書きベンキョになるってんだんべなや。
話が面白くなると、子どももこっちの指図をある程度は受け入れてくれるように納豆。だからよ。オラ毎日、新聞を読んでやったり、本を読んでやったりしたもんだべさ。これがえかったなや。最高の気分だったなや。なにが、どうえがったのけ、なんて混ぜっかえされると、答えに詰まるんだがよ。受験の勉強ではないのだしな。役立たずと言われれば、その通りかも知れねけんどよ。強いていえば、オラと息子との信頼つーうところからよ。さらに確信を持てるのは、これから互いに元気なうちは、なんのかんの言ってもよ。一緒に学びあう、共に楽しく支え合う、そうした共生感覚じゃよ。それも依存じゃないんだよ。
それぞれ実に自立心旺盛だんべな。互いの先行きに指図はしない。自分の先行きは自分の眼だけで見る。そこに家族とはいえ他人のまなざしを考慮しては大きな間違いを犯す。そういうことだんべな。親とはいっても金もない。出きることも出来ないこともある。だからと言って何か文句たれることはなかんべよ。子どもが喜ぶなら、財産なげうっても子どものためにやってやったらよかんべ。見上げた親心。誰が文句言えるか。オラ、根っからビンボだったがよ。この思いは金持ちにひけはとらないぜ。有り金すべて子どもにつぎ込んでやれるものなら、それはそれで立派な親心と言えるだろう。
ただよ。親だったて飯だけは食わなくてはならんばい。子どもが腹一杯だと言っているのに、もっと食えとか言う親がいるらしいが、こういうヤツだなバカ親つーうのはよ。有り金叩いて有名学校入れたのだから、ベンキョせいベンキョせいと無闇に背中押したりな。ま、程度問題だんべけどよ。中には、有名ガッコいれたのに、オラげの息子がなんで出来が悪いのかとガッコに文句つけるバカ親もいる。どうしょうもないわな。こういう精神におけるビンボ人はよ。長くなったのでやめっぺ。オラが言いたいのはよ。意識するにせよしないにせよ言葉というならよ。いわば言語教育というならよ。90%ぐらいは親が伝えているんとちゃうやろか?どんなご立派なガッコにへぇったからって、そうは変わるものでないよ。
確かに新しい知識、資格などが欲しければガッコいくのが一番だんべな。それを否定はしなかんべ。だけんどよ。おおもとの根っこのところの「教育」つーうならよ。意外なことに親なり保護者なりがやってしまっている、つーうことだんべ。それが分かるとよ。不登校なんて屁でもなくなるな。面白れぞ。親が教師がわりしてやるとよ。何やったってよかんべ。英語が面倒ならば中国語、イタリアンなんちゅーてよ。散歩するのも野外学習。なんとでもなっぺな。子どもと料理作ったりしたのも今や楽しい思いで話。こうしてよ。育っていくのとちゃうけ。これがオラが思う「社会化」ちゅーうことだんべな
あの少年。こんな形での意思表出の可能性を、そこまで行かなくても少しづつの意思表示の可能性を、あのドーマン法と、FCが奪っているのではないか、と心配です。
単なる「心配」だけで団扇配ったり国会質問させたのか。半年前から言っているだろう。見てこい。会ってこいと。それをやるのが滝本さんに与えられた役目だったと思うよ。会ってきもしない、よく知りもしないうちに糾弾本出版。あきらかに少年と家族をいじめるための運動だった。いまさら「心配です」もないものだ。この先まだまだ家族に圧力をかけたいのか。それほどいじめたいのか。
ああ、いろんな車椅子ができてきているのだから、まずそれを習得することが本人の喜びになるはずであり、なんで直立歩行のあのキツイ訓練を延々とさせるのか。
車椅子を使おうと自力で歩けるための訓練に時間をつぶそうと、その人の自由、勝手の範囲ではないのですか。あなたに指図できるなんの権利資格があるのですか。あきれるほどの人権意識欠乏症。それでよく仕事が続けられる。
私は何度も言うようにドーマンについてもFCについてもよく知りません。R少年のTV放送を見て、その番組を批判するために出版された「異議あり」(同時代社)という本を読んだ程度です。でもわかることはあるのです。それは、他人が人の暮らしぶり話しぶりなどを偏見からくる予断のもとに全面的に否定をしてはいけないということです。自分個人としては拒否することはできる。だが社会的に抹殺し亡き者にしてしまう権利は誰にもありません。もしFCによってなんらかの被害を被ったというなら、それは個々の問題として処理すればよいのであって、その人が個別的に訴えるなり賠償を勝ち取るなりする以外にはないと思っています。
例えば日本の義務教育学校はほとんどダメになったという話は、あなたもよく聞くでしょう。だからといって学校を全面否定できますか。学校をつぶしてしまえという話につなげてしまうのは、あまりと言えばあまりな話。過激どころの話ではないでしょう。学校が嫌いだから、嫌いな者が集まり徒党を組んでつぶしてしまえというような運動に加わる正当性ってあり得ますか。義務学校とは言っても個人的になら拒否することはできる。これを不登校と言うのですよね。最近では最初から子どもを学校には行かせないで、親が責任持って教育的メニューを考え出して、自分が教師替わりになって子どもと日がな一日一緒に過ごすという方も増えてきているようですよ。こうした学びの方法をホームスクーリングと言ってアメリカなどでは就学児童の約1割が選択していると聞いています。
さてあなたは、以前お子さんのためにドーマン法を実践されていたことがあるとお聞きしましたがFCでどういう被害をうけたのですか。被害の実態があるなら堂々と相手先を訴えて賠償金でも勝ち取るというのが一市民としての真っ当な行動というものだと思いますよ。または身近に、そのような方がいる場合は支援していくということもある。繰り返しますが、あなたに被害があったとしても、相手はリハビリ方法の一つというなら、やはり全面的否定に及ぶ理屈はそれだけでは無理というもの。R少年の場合ばかりでなく、成功事例があるわけですものね。もちろん、私も一見してR少年がTVで実演していた文字盤(FC)は見たことがないだけに独特な手法と道具だとは思いましたよ。独特であるからこそ、人からなかなか理解されないということがあるのでしょうね。聴覚が不自由等の理由から発語できない人たちが手話を交わして会話しますが、この場合の手話にとても似ているとも思いました。
手話というものを見たことも聞いたこともない人は、ああして言葉を交わしているとはとても理解できないのではないでしょうか。声を出してしゃべるということを空気のように機能させて無自覚に暮らしている者は、発声できない人がいる事実さえ教えてもらわなければ分からないものです。見たことも教えてもらったこともなければ手話を見ただけでは、あれで会話しているとは思いもつかないのではないでしょうか。このように、上手に発声できな人たちがいる事実を深く理解していなければ、彼らに対する偏見は蔓延してしまいます。中には、しゃべれないということを持って即座に言葉がない、または言語能力がないとまで断定してしまう。これは外見からしか人を見ることができないからでしょう。無知からくる差別が起こります。この場合など、こうした人の存在をよく知らないままでいる「健常」な人たちのほうこそ罪があるように思いますよ。
> FCは、障害のある人たちが用いている単独のコミュニケーション
> 手段とはまったく別のものです。このことは、R君と同じように
> ドーマン法の訓練を通して、FCを取り入れた友人本人が
> いっていますので、私的には明らかに検証された事実です。
> どういうものかというと、本人に触れただけで言いたいことが
> 全部母親に伝わるのです。だから、文字盤を母親が動かしながら
> R君は全く文字盤を見なくても母親のコントロールで
> 文字がさしていけるのです。
「単独のコミニュケーション手段」とは一人っきりで話せる手段ということなのでしょうが、言葉のもつ性質や原理から言えば、一人きりということで成り立つ部分は少ないように思います。発語する最初の部分からして、単独性はそうそう大切なことではないような気がします。声にしても手にしても道具であると理解しておいて始めて言葉が他人に伝わる形になってくるのではないでしょうか。
どのように豊かな脳が存在していても、手だてがなければ決して言葉は外には出てこないものです。脳波を読みとるだけで明確な文章というものが構築できる可能性があるのかどうかなど、現在の研究がどこまで進んでいるのかは知りませんが、私の実感から申せば言葉とは、むしろ道具に付随して、たゆみ無く連続的に生み出されてくるような気もするのです。私の場合など、パソコンといつも使っている仕様の入力装置(キーボード、モニター等)がなければ、おそらく一頁たりともまともな文章は書けないと思いますよ。筆記道具があるなら、ある程度は可能ですが、もう10年来、文章を書くと言えばパソコンでしたから鉛筆をわたされて、さあ書けと言われてもノートや原稿用紙に向かったまま頭をかかえているに違いありません。筆記道具らしきものが一切ない場合。頭の中だけで人は文章を書けるでしょうか。一行づつなんとか思い描きつつ辻褄をあわせながらも次の文章を書いているうちに前に書いた文章はどんどん忘却していくでしょう。
道具がなければ、よほど特殊な能力のある人でなければ、一頁たりともまともな文章は構築できないと思います。このことをR少年にあてはめていけば、放送で見られたように少年の場合は、まぎれもなく文字盤と母親がセットになって言葉を繰り出す道具となっているのでしょう。もちろん、訓練次第で、どちらも代替は可能でしょうがね。私にしても鉛筆で書くしかなくなれば、難渋することは分かっていても、徐々にまた慣れてくるでしょう。いずれにしても、脳の存在をもってしても道具(喉、声なども道具)がなければ、たいした言葉は生成されていないと思われるのです。
ここで私が言いたいことは、その人が普段つかっている道具を取りあげたり、変えたりしてから、その人の言語能力を計ることはできないということです。出来たとしても能力の一面が結果として出てきているにすぎないということです。私の祖母は無筆の人でしたが、非常におしゃべりが好きで、また上手で興に乗れば、それこそ落語家のように1時間でも話をしてくれました。それも起承転結のけじめのある一編の物語りのようにです。この祖母に筆記試験を与えてみて彼女の言語能力のなにが分かるでしょう。答案は白紙のまま提出されるでしょう。おそらく祖母は、言語能力ゼロと「烙印」を押されて世間に広言されるのが落ちなのです。
> (FCは)普通のコミュニケーション手段でないことを聞いています。
誰だって喉の調子がよければ、発声してしゃべってもみたいでしょう。当たり前ですよね。聴覚が不自由で日本語等の言語体系を音声からは習得出来なかった人、またなんらかの事情により発声ができない人など、聴覚をもってコミニュケーションが出来ないから手話等を使うわけですよね。視覚の不自由な人には点字というものもありますね。先にも言いましたが健常者の場合は二つの感覚機能を上手に使い分けている。だからと言って、これが「普通」のものだと一般化して誰しもに押しつけることはできない話だろうと、私は主張しているのです。しゃべることの困難な人。書くことの困難な人。いろいろいるのです。別の方法をなんとかして編み出したのではありませんか。手話は「普通のコミニュケーション手段」ではないとでもお考えですか。通訳はどうです。点字はどうです。アイヌ語はいかがです。既存の言語体系に正しく従うことよりも、今の気持ちを必要な人に、身振り手振りをふくめてなんとしても伝えることのほうが人にとっては大事なことではないでしょうか。その身振りが見たこともないとか、マナーに反するということで禁止してしまったり、無視したり、一切読みとろうとこちら側の努力を放棄していたのでは、どういうことになるでしょう。コミニュケーションは不全です。いつまでたっても。障害者とのコミニュケーションに困難が出てくるのは、障害者のせいばかりではないのです。彼らの固有なコミニュケーション手法を読みとろうという努力が、われわれに足りない場合が多いような気がしますよ。明瞭に話ができなければ聞く耳持たないというのでは、永遠にコミニュケーションは成立しません。
以前、私の祖母のことを少しお話しました。彼女は無筆であるかわりにおしゃべりが上手で得意だったと。でも、朝から晩まで四六時中くっちゃべって暮らしているわけでは、もちろんありませんでした。気持ちが乗っているとき、それに周囲に気に入った人がほんの二三人いるときに限られていましたね。話が上手だからといって、本格的に講壇に座らせ、さあ時間はたっぷりあるから好きなことをしゃべれなどと言われては、かえって一言もしゃべれずに泣き出してしまうのではないでしょうか。こうした様を見ただけでは、彼女の中には優れた言語能力があるなどと誰が分かるでしょう。そして、こんなことばかり続けていたら、祖母はいっさいしゃべることをやめてしまうかもしれません。まっとうに言葉を使うということと、自分のしゃべくりに格差を感じるからです。しゃべることに罪を感じてしまうのです。ましてや北関東のべぇべぇ言葉。共通語でなければ誰も振りむきもしない、誰も祖母の話など面白く思わない、ということが祖母に伝われば、祖母の言葉は死ぬでしょう。いたって簡単なことです。二度と発信されてこなくなる。
言葉には、こうした側面があるということです。祖母の場合など、聞き手でさえ補佐役なのです。言葉がコミニュケーション手段であればあるほど、言葉は人を選んで、時には寡黙になり、時にはとうとうとあふれるように出てくるのです。ひとえにこちらの発する言葉がよく受け止められ、容認され、喜ばれる予感のもとに、質量豊かなことばが発信されてくるように思われます。いつかTVで見たのですが、30歳になる自閉症の息子さんの様子が写されておりました。視聴者のわれわれには息子さんの言葉の意味がほとんど分からないのです。極端な言い方ですが、ただ、わめいているようにしか聞こえない。でも30年間連れ添って、愛情をかけて育ててきたお父さんとお母さんにだけは、彼の発語の逐一が明瞭に伝わっているようでした。こうしたお父さん、お母さんにこそ私はいろいろな意味から自然と頭が下がるのです。
548 名前:takitaro2000投稿日:02/06/19 19:28
目的は、NHKのまともな検証番組と、流奈君の本の全ての絶版。
見込みはわからんけれど、するしかないっと。
それから、本(「異義あり 奇跡の詩人」)は、「流奈君と一家の叩き」
では決してないです。たぶん、温かい本にできたと思う。
そこまで分かっているなら、もう少しきちんと認識したらどうだ。少年は言葉を発しているんだろ。最初から、そのようにすんなりと納得しておけば、すべて辻褄があってもくるのだ。君の邪推も解決するんじゃないのか。少年から言葉が出ているはずがないというのは、感情論からくる抗弁、詭弁に過ぎないよ。少年の問題ではない、君の言語をつかさどる君自身の脳内問題なのだ。有るものを無いと証明するには、君のように詭弁弁証法が用いられる。有るものを無いと抗弁するには、困難だ。説得力が出てくるはずもない。私も、少年の言語活動を疑問に思う君の気持ちも、多少ならば分からないではない。だが、そうなると現実に写された事象の、なにもかもを否定しなければならなくなる。このたびの運動は、君のような邪推から発せられた感情が組織され運動としてZNHKの番組否定として始まったわけだ。見てごらん、彼らは半年経っても理屈も論理も一歩たりとも進まない。現実と自分の脳内邪推の辻褄があわないからさ。事実としてすでに有るものを無にはできないからさ。こうして君の主張も底が割れてきたじゃないか。
君の結論は強引すぎる。事実として現出してきたものを否定にかかるというのは論理的に言っても容易なことではない。いずれにしても「言葉」というなら、本人の自己申告を容認する以外に科学的検証などという方法はないのだから。こっちが読みとれるかどうかにかかっているようにおもうのさ。言葉は記号だよ。子どもにとっては泣いたり笑ったりすることでさえ、最初の言葉だとは思わないのかい。今回の少年についてオラが最も懸念をしていたのは、例えば国をあげて少年の言葉は少年のものではないと、事実などどうあれ政治的に決着してしまう・・・・ようなことがあれば、それはそうなってしまうのさ。今まで言葉を出していた少年が、二度と言葉を出すことができなくなる、ということはあり得る話なんだぜ。それを政治というんだろう。こうしたセンスに欠けていたのが滝本弁護士だ。想像力が欠如している。自分たちの運動が大きくなってやがて多数派となる夢を見ているだけなのさ。先日国会で某議員から政府NHKに質問が出されたが、あれが運動一派のねらいさ。まかり間違って、国会でなにか決議されたりしたとしたらだよ。少年はどういうことになるのかね。少しはこうしたことを想像してみればよい。
さてかように、事柄を政治的に見るなら、一人の子どもの「言葉」など吹けば飛ぶようなものなのさ。言葉ばかりではない子どもの命がそうであるように、子どもの言葉も社会の庇護のもとにあるとオレは思っている。公社会もそうだが、直接的には親なり保護者なりの力によってかろうじて明日の命が保障されているのが「子ども」というものだ。誰かが守っておかなければ「子ども」は世に出てこないばかりでなく、ときには完全に海の底か社会の底に押し込められてしまうのだ。