なんのなんの。どうしてどうして。思うに、姉歯事件というのもIT時代の申し子のようなものである。記録や法文に金縛りになって、暮らしや生活を基とする現実感覚から出してくるべきはずのまっとうな論理が動かない現象である。実に陳腐な現象であり事件であった。数日前に、姉歯物件になる某マンションでは、すったもんだの末の末に、建て替えが決定されたそうだ。一軒あたり1000万円の持ち出しである。首都圏に建つ当該姉歯マンションはぶち壊されて一件落着なのだそうだ。だが考えて見なければならないのは、この事件が取り沙汰されてからもすでに半年はたつ。この間、何度か震度3程度の地震に見舞われてきた。見れば、当該姉歯マンションはびくともせずに立派に突っ立っているではないか。それらしく震度3の地震に耐えられず崩壊寸前というなら、話も理解でき候や。法制上では震度5に耐えられない設計施工であったればこその問い沙汰である。それは本当なのか。誰が検証したのだ。
姉歯建築士の肩を持つわけではないのだが、震度5違反というのは、口先だけではなかったのか。揺らしてみればよい。揺らしてみろ揺らしてみろ。びくともしなかったら、その法や制度は、どういうものだと聞いているのだ。鉄筋の数が基準を満たしていないと言う。馬鹿なことをもうすでない。民家の多くが鉄筋なんぞ一本たりともへぇっていやしまい。震度5の地震が来れば、3割方は家を失うのは、大昔からの自然の摂理だ。それにしても姉歯マンションは、震度5に耐えられないのか。本当なのか。誰が見てきた聞いてきた。
子どもが襲われる事件が三つ四つ報道されるとパニックにおちいり全国津々浦々、対策が講じられ、タスキガケで、おまわりさんごっこに明け暮れる保護者の面々。馬鹿だとは思わないのかね。付和雷同の尻馬根性。諸悪の根源は社会幻想道にまい進する国民だ。IT化とは自然科学だけのことではない。カールマルクス以来、社会も十分に科学されてきた。社会こそ科学の対象である。IT化の最大の目的地。それは社会主義である。人のロボット化である。社会の学校化である。学校の工場化である。家庭の社会化である。
話はやや変わるが、一昔前のことだった。「教師のサラリーマン化」というお題目が流行した。実のところはどうなのかは分からないし、風評の類だと思って見過ごしていたが、あれなどが要するに「教師パッシング」の嚆矢となっていた感がある。少なからず学校というものが大きな変革を迫られていた時だったように思われる。その中で教師の仕事における本質も、かなり変遷を遂げてきたことは事実だろう。以後、どのような方向に鞍替えされたかといえば、以前どなたかが示唆していたように、あらゆる面におけるプラグマティズム(実用主義)の採用である。
教育とは何かなどと問うひまもない。そもそも、そうした原理的問題は不毛な問いかけだったのかも知れない。教育とは現場にしかない。もう誰も、教師と生徒で交流される倫理や精神などは問題にもしなくなってきた。実際、子どもたちに坊主くさい説教などいくら聞かせても、なにがどうなるものでもないはずだ。そんな時間があるなら、勉強勉強また勉強だ。まれにスポーツという手もある。または音楽や絵画という手もあるにはあるが、いずれにせよ子どもたちの学力向上一本やりである。学力神話という言葉があるが、教育行政も、保護者も教師も、この一点に一丸となって傾注してきた。
他のことはおろそかにされたわけでは必ずしもないのだろうが、冒頭に言ったように人は、見えやすい形に置き換えてしか、ある概念なりを議論することはできない。また評価することも定義することもできない。こうしてますます確固たる物差しが必要だった。実体はともかく批評するためにも教育問題を議論するためにも、物差しが必要だったのだ。学校の物差しといえば、子どもたちの学力以外のなにものでもない。学力は競争の産物である。学校と学校が比較され、地域と地域が比較された。比較する必要から指標や基準が導入される。教師の仕事に、新しいさまざまな物差しが、次々と導入されてきた。同時期、学校だけのことではなくあらゆる労働現場がIT化されてきた、その経緯に同じことだろう。
IT化とは、もちろんコンピュータをのぞいて考えることはできないが、ようするに人の動きの効率化のことであり数値化こそ客観的事実となる。誰でも一様に見ることができるだろう。評価を下す側の現場主義にもとづく信仰である。最終的には教師や生徒の心理にまで及んで数値化することである。あらゆる都市型の労働現場はそうなってきた。結果はもちろんのこと動機もやる気もポイント化される。もとより道徳や精神というあいまいな世界は、教育には似合わなかったのかも知れない。
IT化は新しい宗教である。いまや国教である。教組も不平不満をつぶやく教師の声を集めた程度で雌伏した。教組といえど全体として世の中の趨勢には抗えず、あえなく解体してしまった。教師も、学習塾のアルバイト講師も、その労働になんの違いがあるだろう。子どもを守り、将来を思いやる気持ちに、変わりはないと思うほかはない。学校神話は、今や意外なことにパラドックスのように崩壊した後の祭りである。昔のようには、教師の美談は生まれにくくなってきたということだけが、かろうじて見えているだけだ。