赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼朗読を聴く <吹雪>

2016年07月25日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

林芙美子には「吹雪」という佳編があった。一昨夜の寝入り端に枕元のラジオで、その「吹雪」の朗読を聞いた。全編の朗読を聞いても一時間ほどだったので小説としては長いものではない。一時間で読める文言は原稿用紙にしてせいぜい五十枚程である。

もう一度、黙読してみたいと思い林芙美子のどの本に、この短編が所収されているのかと、いろいろと調べてみたのだがいまのところ見つからない。全集があるなら読めるのだが、林芙美子全集は、どうやらいまだ編纂も刊行もされたためしがないようだ。

林芙美子は宮本百合子に同じく1951年に没している。「放浪記」の著者である。「老菊」の著者であり、成瀬巳喜男監督作品映画「浮雲」の原作者である。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼習うより慣れろ

2016年07月24日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

昔、自分が書いた以下の記事を読み直し、はずかしながら自画自賛の憂き目にあった。読者諸賢にも、どうか、もう一度読んでみてほしいと願う自己愛の湧出を大目にみてほしい。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

10年ほど前のこと。小学校の先生の話を聞く機会があった。その方は、九九の教え方についての実践例のようなものを得々と話されていた。わたしは、疑問にも思わなかった。たいしたものだと、そのときは、そう思った。われわれが昔習ったように九九なども「ににんがし」以下、まるで歌のように暗誦していれば、それでよいものだったが、その先生がおっしゃるに、それでは意味が理解したことにはならず、意味こそ大事で、2×2=4ということにしても、さまざまな教材をつかって、この式に含まれている意味を、論理的に教えるのが肝要であり、ここに今日の教育全般を読み解く鍵もふくまれているという理念的な話にもおよび、保護者としての立場から、その会合に列席していた私たちも心底から、それはその通りだと重々と納得したのである。

それからだいぶたって、私の心には疑念が芽生えてきた。そういうものだろうかと。わたしは算数はともかく、数学たるや、子どもの頃から、まったく毛嫌いしており、つり銭を数えるのも面倒な口なのである。かろうじて自分の年齢が数えられる程度なのである。だが、幸いに九九は、いまでもちゃんと覚えている。どういうわけだろうか。10歳の頃、教室で大声を出しながら九九を暗誦した光景を思いだす。

あの頃は、教師も九九について難しい話など、なにもしなかった。ともかく大声を出して、全員一致、算数の授業の前に「ににんがし」から始まって「はっぱろくじゅうし」にいたり、「くくはちじゅういち」まで、ながながとした歌を暗誦させられたものである。ところどころつっかかる箇所もないとは言えないが、ほぼ完全に覚えている。論理も理屈も関係ない。覚えていればいつでも引っ張り出して、援用できるのである。桁数の多い数字の計算は苦手だが、四則なら、できないことはない。これも、50年も前の算数のおかげだと思っているのだ。

実際が、こうだとするなら、冒頭の先生のありがたくも小難しい教育法というものは、どうなのだろうかと疑うのである。これは九九ばかりではないだろう。総じて理屈っぽくなってしまっているような気がするのだ。不毛なとこに情熱をかけている。退屈きわまりない。

いくら論理や理論が大事だとはいっても、それは学校教育とどういう関係があるのだろう。物事の奥義ともいえる。そうした重大な認識の奥深い問題を、学校で教育できるものなのか。論理や理屈は、そもそも、人の言語体験に含まれる、個別にして私的なものなのではないだろうか。思想的な認識までに直結している重大な問題とは、云えないだろうか。

こんな風に思うと、先の先生の実践と考え方も、逆のことを行っているようにも思えてくるのである。徒労にして不毛な感じもする。子どもたちが、それで喜んでいるというなら、関係のない私が文句を言う資格はないが、なにか考え違いがあるような気がしてならないのである。

さらに子どもに「考えさせえる教育」などという言辞を耳にしたことがある。これも同じことだ。子どもに十分に考えさせるというのだが、眉唾物なのである。そんなことが字義通りにできるのだろうか。考えるということは、非常に個人的な内心の問題である。目をつぶって黙想していれば、それが考えることであるとでも、思っているわけではないだろうが、かりに、子どもたちに向かって、5分間の時間を与えるから、さっそく考えろと言ったところで、なにがどうなるものでもないだろう。

考えろといわれて、やおら考え始めるようでは、考えていることにはならない。考えるということは、集団的な動作でまかなえるようなことは、なにもない。ならば、どうするかということだが、無理は禁物だ。もちろん子どもも考えるということは、必要だとは思う。

だが、考えるということは集団的な行為にはなりにくいということを、わきまえておくべきだろう。誰でもそうだが考えるということは、自問自答の一環なのだ。難問を前にして、さらにその難問を解こうと身構えて、始めて考え出すものではないのだろうか。教師が質問が、考えるに値するほど甚大な意味を持つものか信用できないのである。

教師であろうとなかろうと多くの場合、人から自分に対して発せられた問いは、必ずしも問いにはなっていない。考えるに値する問いは、むしろ自分の内面から、あるひ突然生まれてくる。子どもは、それについて悩みに悩み考えているのである。

このときばかりは、教師も親も不要となる。解答が見つからず、悩めば悩むほど、思考する力が深くなるに違いない。これは学校の授業とは別の問題だと思う。よって、学校における手法として「考えさせる」うんぬんかんぬんとは、私にはウソっぱちに見えてくるのだ。こうしたことは、こればかりではないだろう。

実質がともなわず、それに出来るわけもないのに言葉だけが先走っている。「詰め込み教育」とか「ゆとり教育」なんて言辞も流行ったが、これも何ひとつ確たる内実はなかったようだ。それほど詰め込むのが嫌で「ゆとり」が欲しいなら、最初から子どもには勉強などさせなければよい。

 

<2008.04.11 記>

当記事の下のほうに「教育を語ろう21掲示板」の管理人泥炭氏がいくつかのコメントを書き込まれている。コメント欄は、当記事のタイトルである「▼習うより慣れろ」の文字をクリックすると全文が閲覧できる。しかしながら、今のところ私には泥炭氏の主張の先が、さっぱり分からないままなのである。不徳のいたすところなり。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼ヴォーカル大好き<古関裕而>

2016年07月18日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

本日もまた一人カラオケ。今日は以下に掲げた古関裕而作品を集中的に歌ってきた。中でも夏の高校野球は地方大会がたけなわの時期ということもあって、「栄冠は君に輝く」を何度も歌ってきた。古関作品は、いずれも歌っていて気持ちがよいのだ。「潮来笠」や「名月赤城山」などの、いわばまた旅物の流行歌も大好きで、わたしのレパートリーからかかすことはできないのだが古関作品は、これらの流行歌とは一線を画しているようで、気品があり勇壮で格調が高く若い頃から大好きだった。

 

「暁に祈る」(1940年 作詞:野村俊夫)
https://www.youtube.com/watch?v=7WOVJbs4pOM

「若鷲の歌」(1943年 作詞:西條八十)
https://www.youtube.com/watch?v=r7y9JKAP1Bc

「雨のオランダ坂」(1947年 作詞:菊田一夫)
https://www.youtube.com/watch?v=bQI115H-S90

「栄冠は君に輝く」(1948年 作詞:加賀大介)
https://www.youtube.com/watch?v=a9ycZoatCs0

 

 
古関 裕而(こせき ゆうじ)  作曲家 1909年(明治42年)~1989年(平成元年)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼カフェにて

2016年07月14日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

2016.07.14 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼つゆ草のうた

2016年07月13日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.07.13 川崎市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼新しい憲法は新しい人たちの手で

2016年07月10日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

青山繁晴さんの演説動画を見ましたが、青山さんは次期の日本国憲法は、子どもでもわかるような憲法にしてほしい、ぜひとも、そうするべきだと訴えていましたが大賛成です。

古代日本には、聖徳太子が作ったと言われる十七カ条の憲法というものがありました。もっとも人口に膾炙されている文言は「和をもって尊しとする」ですね。

国家に武力が必要か不要かを国民に問うて、どうしますか。戦争が好きか、嫌いかを国民に問うて、どうしますか。そんな問いかけは、憲法でもなんでもないのです。それこそ最悪のポピュリズム現象でしょう。すでに日本は世界に冠たる国家なのです。この、まれに見る平和国家を衰退させてはいけません。

極言に聴こえるかも知れませんが、わたしは子どもたちに新しい次なる日本国憲法を提案してほしいと思っています。このたびの参院選から、18歳以上に投票権が与えられました。ならば彼らの感覚に依拠したい。日本のこれからを、どう規定するのか。どのように日本人は生きるべきなのか。高校生たちに、とことん考えてもらい彼らにこそ、新しい憲法を作ってもらいたいと思っています。

 

 

 

 



 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼きりきりしやんとしてさく桔梗哉 ・・・ 一茶

2016年07月06日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.07.06 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼竹の葉に願い事書く梅雨晴れ間

2016年07月01日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.07.01 横浜市 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする