昔、自分が書いた以下の記事を読み直し、はずかしながら自画自賛の憂き目にあった。読者諸賢にも、どうか、もう一度読んでみてほしいと願う自己愛の湧出を大目にみてほしい。
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10年ほど前のこと。小学校の先生の話を聞く機会があった。その方は、九九の教え方についての実践例のようなものを得々と話されていた。わたしは、疑問にも思わなかった。たいしたものだと、そのときは、そう思った。われわれが昔習ったように九九なども「ににんがし」以下、まるで歌のように暗誦していれば、それでよいものだったが、その先生がおっしゃるに、それでは意味が理解したことにはならず、意味こそ大事で、2×2=4ということにしても、さまざまな教材をつかって、この式に含まれている意味を、論理的に教えるのが肝要であり、ここに今日の教育全般を読み解く鍵もふくまれているという理念的な話にもおよび、保護者としての立場から、その会合に列席していた私たちも心底から、それはその通りだと重々と納得したのである。
それからだいぶたって、私の心には疑念が芽生えてきた。そういうものだろうかと。わたしは算数はともかく、数学たるや、子どもの頃から、まったく毛嫌いしており、つり銭を数えるのも面倒な口なのである。かろうじて自分の年齢が数えられる程度なのである。だが、幸いに九九は、いまでもちゃんと覚えている。どういうわけだろうか。10歳の頃、教室で大声を出しながら九九を暗誦した光景を思いだす。
あの頃は、教師も九九について難しい話など、なにもしなかった。ともかく大声を出して、全員一致、算数の授業の前に「ににんがし」から始まって「はっぱろくじゅうし」にいたり、「くくはちじゅういち」まで、ながながとした歌を暗誦させられたものである。ところどころつっかかる箇所もないとは言えないが、ほぼ完全に覚えている。論理も理屈も関係ない。覚えていればいつでも引っ張り出して、援用できるのである。桁数の多い数字の計算は苦手だが、四則なら、できないことはない。これも、50年も前の算数のおかげだと思っているのだ。
実際が、こうだとするなら、冒頭の先生のありがたくも小難しい教育法というものは、どうなのだろうかと疑うのである。これは九九ばかりではないだろう。総じて理屈っぽくなってしまっているような気がするのだ。不毛なとこに情熱をかけている。退屈きわまりない。
いくら論理や理論が大事だとはいっても、それは学校教育とどういう関係があるのだろう。物事の奥義ともいえる。そうした重大な認識の奥深い問題を、学校で教育できるものなのか。論理や理屈は、そもそも、人の言語体験に含まれる、個別にして私的なものなのではないだろうか。思想的な認識までに直結している重大な問題とは、云えないだろうか。
こんな風に思うと、先の先生の実践と考え方も、逆のことを行っているようにも思えてくるのである。徒労にして不毛な感じもする。子どもたちが、それで喜んでいるというなら、関係のない私が文句を言う資格はないが、なにか考え違いがあるような気がしてならないのである。
さらに子どもに「考えさせえる教育」などという言辞を耳にしたことがある。これも同じことだ。子どもに十分に考えさせるというのだが、眉唾物なのである。そんなことが字義通りにできるのだろうか。考えるということは、非常に個人的な内心の問題である。目をつぶって黙想していれば、それが考えることであるとでも、思っているわけではないだろうが、かりに、子どもたちに向かって、5分間の時間を与えるから、さっそく考えろと言ったところで、なにがどうなるものでもないだろう。
考えろといわれて、やおら考え始めるようでは、考えていることにはならない。考えるということは、集団的な動作でまかなえるようなことは、なにもない。ならば、どうするかということだが、無理は禁物だ。もちろん子どもも考えるということは、必要だとは思う。
だが、考えるということは集団的な行為にはなりにくいということを、わきまえておくべきだろう。誰でもそうだが考えるということは、自問自答の一環なのだ。難問を前にして、さらにその難問を解こうと身構えて、始めて考え出すものではないのだろうか。教師が質問が、考えるに値するほど甚大な意味を持つものか信用できないのである。
教師であろうとなかろうと多くの場合、人から自分に対して発せられた問いは、必ずしも問いにはなっていない。考えるに値する問いは、むしろ自分の内面から、あるひ突然生まれてくる。子どもは、それについて悩みに悩み考えているのである。
このときばかりは、教師も親も不要となる。解答が見つからず、悩めば悩むほど、思考する力が深くなるに違いない。これは学校の授業とは別の問題だと思う。よって、学校における手法として「考えさせる」うんぬんかんぬんとは、私にはウソっぱちに見えてくるのだ。こうしたことは、こればかりではないだろう。
実質がともなわず、それに出来るわけもないのに言葉だけが先走っている。「詰め込み教育」とか「ゆとり教育」なんて言辞も流行ったが、これも何ひとつ確たる内実はなかったようだ。それほど詰め込むのが嫌で「ゆとり」が欲しいなら、最初から子どもには勉強などさせなければよい。
<2008.04.11 記>
当記事の下のほうに「教育を語ろう21掲示板」の管理人泥炭氏がいくつかのコメントを書き込まれている。コメント欄は、当記事のタイトルである「▼習うより慣れろ」の文字をクリックすると全文が閲覧できる。しかしながら、今のところ私には泥炭氏の主張の先が、さっぱり分からないままなのである。不徳のいたすところなり。