赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼夜間中学参観記

2002年01月22日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

在籍する公立中学校の三年生としての一年間をほとんど不登校のまますごした息子が卒業期を迎えている。この春からの彼の生活と所属をどうしようかと思い悩んでいるとき、夜間中学校の募集広告が居住する区の公報に載っていた。都内にも八ケ所にしかない夜間中学が幸いにも我が区にあるということは知っていたし、どのような内容なのかと気にもかかっていた。

そこで、さっそく区の教育委員会に問い合わせてみたら、十五歳を過ぎても義務教育を終えていない人にのみ入学資格があり、この原則はますます厳正になってきていると言われた。つまり中学校を卒業している者は入学できないということなのである。このときの対応が気持ちよく私も気分をよくして「では、私の息子も普通中学を卒業しないほうがいいわけですね」などと冗談のつもりでそう言うとクスッと相手が笑った。詳しいことは、夜になったら当の学校のSという先生が担当だから電話してみれば教えてくれるというのでその夜、S先生に電話をし、二日後に息子とともに学校を参観しに行くことを約束した。

参観には、今後夫婦の間で意見が違っても困るだろうと考え一緒に見ておこうと妻も誘った。下の子も留守番させておくよりはと思い、連れていった。こうして結局一家四人で午後六時、区立S中学校の校門をくぐった。教員室の入口に「2部教員室」とあり教員室・教室とも昼間の中学生たちが使う教室とは分れている。夜間専用の教室が大小十ほど用意されている。生徒は総数五十名ほどか。学習習熟度および日本語習熟度によって一年生から三年生までそれぞれ三クラスに分れ、その他日本語学級が二クラスあった。総勢五十人がこれだけのクラスに分れて勉強できるのである。

昼間の仕事の関係などで欠席遅刻する生徒も少なくはないらしいが、見たところ一クラス三人四人で授業を受けている。識字教育からのクラスなどもあってその教室では七十九歳の人が背筋をきちっと伸ばして片仮名をノートに書き写していた。黒板には「ス」という字が大きく書かれてあった。この人は一年間無欠席で登校しているのだとS先生は自慢していた。S先生の案内で廊下から窓ガラス越しに参観していた我々と目が合うと生徒の誰もが笑みを返したり、頷いたり、挨拶を返してくれた。

授業は五時四十分から九時までで、四十分授業が四時限ある。一時限が終わると三十分間の給食がある。五人で囲める丸テーブルが十ほどある食堂に教師も生徒も一堂に会して楽しい食事が始まる。この日のメニューはスパゲッテ・ミートソースとサラダ、そして牛乳二百CCであった。場末の大衆食堂といった感じでなごやかである。それぞれのテーブルで会話が弾んでいる。暖簾ごしに調理のおばちゃんたちの働く姿が見える。スパゲッテは大盛りで下の子などは食べきれなかった。

S先生が「K君、あの先生を見たことない?」と息子に隣のテーブルの若い女の先生を示した。するとその女の先生が近寄ってきて、「私、昨年までO中学校にいたのですよ」と言う。O中学校は息子が在籍する学校である。「K君のこと知ってますよ。演劇部で文化祭のとき主役をやっていたでしょう。見ましたよ。とても上手だったわ。さっきからね、気になっていたの。O中学校の生徒が参観にくるからとS先生から聞いていてね。K君、あのころ髪が長かったでしょう。それに小さかったから。ずいぶん背が伸びたのね」その女の先生のことは私も妻も、すでに二年生のときから休みがちだった息子にも覚えがなかった。U先生というその先生は数学の授業を受け持っている。食事が終わると生徒はそれぞれ食器を下げながら、調理の人たちに「ごちそうさま、おいしかった」と声をかけていた。

この日はたまたま、都立高校の受験日だったので、三年生は授業がなかったらしい。それでも授業があるつもりで出てきていた生徒がS先生に「先生今日は授業はないの、ないのなら帰るぜ」と屈託なく話す。S先生は「今日は授業なし、俺もやるつもりはないから帰っていいのさ」とこちらも軽く応対する。三年生の多くはやはり高校を受験するのだという。もちろん年齢は15歳を超えている。S先生は言う「形式卒業はさせないでくれと機会があるごとに中学校の先生方に言っているのですが」。

一年間ほとんど不登校でも卒業させてしまうのが最近の義務教育学校の傾向とやり方なのである。あとは野となれ山となれという感じがする。不登校児童をもった父母の気持ちは動揺する。ここで卒業できなかったらどうするのかと。だが卒業してしまったらもはや公教育を受ける権利はない。公教育とは国庫の負担で行う義務教育のことである。したがって原則的には無料である。この権利をこどもに残してやるべきか、とりあえずは義務教育修了の肩書きを与えた方がよいのか、つまずいているこどもを持つ父母は悩むのである。

悩む背景には情報が足りないということもある。明治以来の根強い形式主義的な学校神話ということもある。現状では父母の形式主義の前に教師たちも多かれ少なかれ巻き込まれていて、つまずいている生徒に対する有効な情報をほとんど学んでいないので助言も手立ても持っていない。不登校のこどもは教師が真っ先に「おちこぼれ」というレッテルをはってそのこに対する職業的義務を自らの判断で免除してしまうのである。

並の大人以上に体も大きい思春期のこどもが一クラス五十名近くいる。これが日本の教育の悪の根源なのだが、どのように優秀な担任であっても五〇通りの人生設計への責任を背負いきれるものではない。わかりきっていることなのである。いきおい十束ひとからげの教育・指導が通常となる。担任は自分が任されたクラスを縄で一束にしておかないかぎり仕事は不可能なのである。校長は全生徒を一束にしてしか思考できない。それが習性となり教育思想となる。その上でしか自分の職業としての賃金労働は成り立たない。不登校のこどもになどかまけていたら、せっかく一束にしておいた集団が縄をほどき逃亡を企てる。

私の場合にも、この一年間に二度息子の担任と面談を持ったが二度ともこちらから申し入れ、職場を半休して学校に出向きやっと実現したものだった。昨年十月に話し合ったときは、担任から「教育相談室に連絡を取られてみては」さらに「S中学校の夜間学級に行かれてみては」と助言をされたのだが、それでは教育相談室の電話番号を教えてくださいといったら、教員室に戻ったまま先生がなかなか帰ってこない。なにをしているのかと教員室を覗いてみると、電話番号を探しているのであった。家捜しという感じで同僚の教師とともに大騒ぎしながら大童となっている。

私は内心ほとほとあきれながらも「まあまあ先生、そんなもんは電話帳を調べればすぐにわかりますから」とこの場を救済して、再度席につくよう促して「ところで夜間中学校へはすぐ今からでもこどもさえその気になれば入れるのですか」と聞くと「ええ、もちろん大丈夫ですよ」と言ったのである。ところが実際は違うのであった。

つまるところこのような実情なのである。教育の専門家がひとたび形式の枠から外れたこどもになにを助言できるか、「高校受験技術」以外の進路についてはなにも知らないのであるから、なにもできないのはあたりまえと言えばあたりまえである。不登校(長期欠席)に陥っているこどもは息子の学校でも全校で一〇名いる。一クラス一名の割合で放置され家庭の裁量にまかされている。ではその子たちの親は情報をもっているのか?すくなくとも学校からは何一つ有効な情報はもたらされないと自覚するべきである。

二時間近く案内していただいたS先生に息子も少し打ち解けたようだ。表情が明るい。カルチャーショックだったと思う。こんな学校があったのかと。その差異の大きさにわが家族は一様に驚いたのである。小学校三年生の下の子が言う「いい学校だね」。二時限目が始まっていた。U先生の数学の教室は生徒四人だった。U先生は四つの机を自分の周りに半円に囲ませている。大きな声を出す必要はないのである。廊下ですれちがう生徒・教師の誰もが微笑みながら「今晩は」とあいさつを返してくれるのであった。こここそ本当に学校の名にふさわしいと考え、すっかり陽気になってわたしたちは家路についた。(記:1993.02.23)

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PTA総会です

2002年01月20日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
商店街に通じる街道の桜並木がそろって散り終わる頃、PTA総会の出欠票及び委任状が息子の級友によってわが家に届けられた。息子は中学一年生の初めから学校へは行っていない。四月から二年生に進級し組替えされた結果、新しいクラスと担任を得てはいたのだが、やはり登校できないでいるのであった。新学年当初ということで何かとプリント類が多いらしく毎日のように近隣の級友が下校時に届けてくれる。

総会の日付を見れば私が呼びかけて地域に作った、「不登校の親の会」第一回の例会の三日前だった。それで、同校の父母たちや教師などにも息子たちの置かれている不登校についての状況や私たちの会の紹介をしておこうと思い、この度の総会にはぜひ出席しようと決め、次の日新しい担任の先生への顔つなぎということも兼ね、出欠票を提出してきたのである。半年前から私は失業中のことであり時間はあった。

二人の息子が六歳違いなものだから、彼らの小学校時代から数えれば計十八年ほど義務教育就学者の親として過ごしてきているわけで、PTA会員としても十八年の大ベテランということになる。だが夫婦して常勤で勤めてきたことで、役員を引き受けたことは一度もなければ、時間が合わずほとんどその活動に参加したこともない。

PTAは意志的に忌避しない限りは入学時に自動的に会員となってしまうので、脱会するにもなかなかエネルギーを必要とするのであった。会費だけは着々と預金口座から引き落とされているからでもあるのだが、会員としての権利と義務については訳のわからぬまま、ともかく会員であり続け会費もとどこおりなく支払っては来ていた。だが息子たちが登校しなくなって以来PTA会員であることはほとんど無為で意味のないものだ、という気持が強くなってきてもいた。実際脱会しようかと考えたことも何度かあった。

学校のPTA総会に出席したのは十八年間で初めてのことなので、今さらのように批判がましく偉そうなことは言えないのだが、会長を始め役員を決めるさいには自らの指針をもって出馬するような父母は皆無らしい。あらかじめアミダくじが用意されているような学校もあると聞いている。

この日は木曜日の十五時半から教室の一つを使って開催されたのだが、週日の昼間開かれるのはどこの学校でもそうらしい。校長・教頭の勤務時間内に済ますべきものとしてこうした時間が選ばれるという声を聞いたことがある。だから常勤で勤めている親は総会ばかりでなくPTAの集まりには、よほどでないかぎり出席はできない。

共働きの私たちからすればPTA活動からシャットアウトされていると不満を抱きがちなのだが、仕方なく役員を引き受けている父母から見れば、反対に私たちのような親は非協力的だと写ってしまう。会長は父母の中から選ばれてはいるのだが、これは表面だけのことで、学校側の強力な院政の元に活動しているというのが実態なのだ。防犯上の理由からということで、数年前から生徒名簿が作成されなくなっているため、会員の一覧名簿すら存在しないまま運営されている。正確な会員の把握は学校でしてくれているという訳だ。

せっかく週日の午後開かれるというのに、教師側から出席したのは校長、教頭の二人だけだった。一般に小学校の場合は教師の多くが列席するらしいが、中学校となるとこれが常なのだと後に事情通の父母から聞いた。だがこれは随分父母を馬鹿にした話ではないか。民主主義を教えるべき教師が当の現場でそれを否定しているのである。教師はすべてPTA会員である。

実際に総会に出席したのは初めてだったが、出席しようとしたことはあった。息子が小学生の五年生のときだった。休みがちになり、このままでは完全不登校になると予感した私は、学校への疑問をそこでぶつけてみたかった。だが、やはり総会は勤務中のそれも週の中で仕事が一番忙しくなる金曜日の午後ということで怒りを持ちつつあきらめた。あきらめた変わりにPTA会則を仔細に点検して、会長あてに手紙を出した。会則では慶弔金についての規定が変だった。同じ会員でありながら教師に厚く、父母に薄いのである。総会において会則の是正を求めた。手紙を出してから一週間ほどして会長から電話があった。「そうは言っても○○さん。私はただ頼まれて会長をひきうけているだけでして。すいませんがこれは議題にできません」と言い訳してきた。

そう言えば会則の中の特記項目に「校長はすべてのPTAの会合に出席できる」とあった。院政システムの法的根拠がここにある。逆に言えば校長の認可しない父母だけの会議は認められないという意味にもなる。

さて父母側は男の性である私を除けばすべて女性、すなわち母親ばかりだった。見知った人は校長を除けば一人もいなかった。校長、教頭が着席するとすぐ、反対側の席に座っていた司会者が立ち上がり開会を宣した。続いて四五〇名の会員のうち出席者は二三名、三百四十通の委任状によって総会は規約通り成立していると報告があった。それにしても会員の五%しか出席しないとは驚きだった。それが毎年の通例で当たり前のことらしく、校長も着席したときから満足気に笑みを絶やさず、父母たちへの顔面サービスを振りまいている。すでに年度末に新しく選出された今年度の会長が「よろしくご審議のほどを」と一言述べ、続いて一会員であるべきはずの校長によって越権とも思え、かつ冒頭にしては長すぎる発言があった。

「昨日、区の校長会がありまして今年度の教育財政についても相変わらず厳しい状況であることが伝えられました。その中でも喜ばしいことに区内の全中学校に新しいパソコンが配置されることになりました。ご存じの通りパソコンは一年たてば使いものにならないと言われており、やっとわが校でも新しいパソコンが設置されることになったわけです」と、校長の話の中で私が気になったのはそれだけだった。一年で使いものにならなくなるパソコンを区内の全中学校に配備して、それで来年はどうするのかという疑問が湧いてくる。

つまるところ校長としては「財政難の中、私たちとしても懸命に教育環境を良くしようとして努力はしています」と言いたかったのだろうが、私には何か弁明しているようにも聞こえたのである。校長会という会議の性格もほのかに見えてくる。区内の校長らが一堂に会して、学校教育論に花が咲くというのでは全くなく、そこでは予算とか、与えられる物資の目録に目を通すとかの、いわば報告・通達の類を「お上」から承ってくるために列席するという意味しかもっていないらしい。

さて議題は昨年度決算の承認、今年度予算の承認とすすみ、その度に議長がなにか質問はありませんかと聞くのだが、だれ一人手を挙げる者もなくここまで十分とかからず終了してしまった。次は今年度の活動予定の説明があり、これも五分ほどで終わってしまった。最後に用意されていた「その他」という議題になったので、私は手を挙げ発言したのである。私の上着の内ポケットには昨夜ほとんど徹夜で仕上げた自分の発言のための草稿が隠されていた。以下がその文面である。

-★-★-

十三才になる息子は当学校に学籍はもっているのですが、一年生の時からほとんど登校していません。現在十九歳になる上の子の場合も六年前この中学校に在籍していたのですが同じような状態でした。十年近くも二人の息子たちの不登校と付き合ってきたのですが、昨年夏、私は長く勤めてきた会社を退職し、少しはゆっくり物事を考える時間ができましたので、登校拒否という現象について同じような親御さんたちとしっかり話し合ってみたいと考えました。

そこで「不登校の親の会」という会を作り、懇談会を企画したのです。チラシなどをつくり区内の全小・中学校へ案内文を配布したり、また多少ともつながっている地域の親御さんたちに呼びかけました。三月の初めに一回目の懇談会をこの近くの地区会館で開催したのです。当日何人来てくれるか心配だったのですが、十七名もの父母が参加してくれました。悩みあり、模索あり、はたまた自信ありの自由討議でしたが、参加されたみなさんが一様に「悩んでいるのは私だけではなかった」と感想を述べてくれました。

みなさんもご存じとは思いますが、現在日本中で十万人近くの小・中学生が登校していません。区内でも合計すれば四百人前後の子どもたちが登校できないで苦しんでいるということなのです。この数字には改めて驚いてしまうのですが、今後ますます増えていくと予想する人はいても減るから大丈夫という関係者は皆無です。すっかり「いじめ」「不登校」という問題は社会的な話題となって新聞でも毎日の記事にことかかない有様です。有効な手だてもほとんど見つかっていません。

あと何年かしたら、教室の三分の一の机には生徒はいないと言った光景はどこの学校でもみられるというふうになってしまうのではないでしょうか。実際に高校ではこうした光景が日常的に見られるようになってきました。たいした理由もないのに学校を休む、遅刻する、早退する、登校しているのに授業には出ないという生徒が溢れています。このままでは日本の学校が崩壊するのは時間の問題といってもいいでしょう。いったいどうしてこんなことになってしまったのでしょう。高校の場合は子どもたちが志願して入学したという前提があるので、私にとっては対岸の火事ぐらいにしか思っていませんが、義務教育最中の小・中学校の場合は親の悩みも想像以上に深刻なものがあるのです。

一週間ほど前に学校信仰や教師聖職論の発祥の根がここらへんにあるのではないかと常々訝(いぶか)しく思っていたこともあり、しっかり批判してみるつもりで壺井栄の小説『二十四の瞳』読んでみたのです。これは一九五二年に出版されました。作者が五三歳の時でした。二年後に作られた木下恵介監督の同名の映画も名作でしたが、私はこの映画を何度か見たことがありますが、まじめに原作を読んだのははじめてだったです。

みなさんもその内容はご存じのように物語は戦前から戦争を挟んで敗戦直後までの二十年間の瀬戸内海の小豆島という小さな島の分校の物語です。昭和四年に新任で十二名の生徒しかいない分校に配属されてきた女性教師・大石先生と子どもたちの厚い友情の物語なのですが、当初の私の意に反してとても感動してしまいました。先生も子どもたちも、心の持ちようといったものが今の学校とはまったく違うのです。何が違うのかこの一週間の間ずっと考え続けているのですが、少しだけですが分かったことがありました。

息子が一年生の最後の日、私は一年間ほとんど欠席したままで心配ばかりかけた担任の先生への挨拶のため学校にきました。職員室の前の廊下で少しの間でしたが、なかなか手のあかない先生を待っていたのです。そこに予定表などを書き込む大きなボードが掲げられています。右側第一行目に大きくこう書かれてありました。

「テストが終わっても気をゆるめずに」と、そしてたしか文末にはびっくりマークが添えられてあったはずです。その横には各部活の春休みのスケジュールが、これまたびっしりと書き込まれてあったのです。私にはこの一文のいわんとしているところが理解できませんでした。家にいる息子がそれを見ても多分理解できないでしょう。テストが終わったら、なぜ「お疲れさま、ゆっくり春休みを過ごしてくれ」と言ってやることができないのでしょう。

ここに書かれてあったテストとは学年末三学期の期末テストのことなのでしょうが、テストが始まるまで子どもたちは回りのすべての大人たちから一点でも良い成績をとるように尻を叩かれてきたのではないのでしょうか。そのテストが終了し春休みを前にしても相変わらず「気をゆるめてはならない」と子どもたちは迫られているのです。子どもたちにこうした言葉しかかけてやることができないのかと、大人の一員として実に寂しい気持ちを味わいました。

けれどよく考えて見ればこの一文は子ども達に伝わっているのでしょうか。この標語通りに実践する子どもがもしいたとしたら、いまごろ病気になってしまっているのではないでしょうか。つまり子どもたちに、この日本語はほとんど伝わっていないというのが実際のような気がするのです。そう気が付いて再度見てみると、「あの人は要領がいいね」というその要領を教えるための標語のような気もしてきたのです。先生方もちゃんと分かっているのです。むしろまじめに取ってしまわれては先生方の方が困ってしまうという類の言葉なのではないのでしょうか。

これは単に努力目標だからまじめに受け取らなくてもいいのだと分かっていながら、なぜ無意味とも思われるようなこうした標語を掲げなければいけないのか。家庭でも同じようなことが言えるのです。「ベンキョしなさい」「早くしなさい」と繰り返し繰り返し大人たちから連発され、子どもたちはこうした口先だけの大人たちの言葉が無意味で空疎なものでしかないと感じ始めています。子どもたちは大人たちから毎日毎日競走馬のように鞭を入れられ、心を痛めているのです。

『二十四の瞳』の大石先生は少なくとも本の中では、こうした意味不明な言葉は決して発していません。家の仕事が忙しいからと言って学校へこれない子どものことを自分の職業的存在をかけて心配しています。子ども達の髪の毛が汚れているからなんとかしなければとバリカンやシラミ退治の薬の算段を真剣に考えているのです。毎日毎日を全体として見れば貧しい家庭のそれぞれの子どもたちの健康と将来を真剣に思いやっているのです。

ベンキョができるできないはまったく子どもの個性であると確信をもっていますから彼女が発することばは全て子ども個人との生活的な対話から成り立っているため、先生の全ての言葉が子どもたちの胸に響いてくるようです。集団としての子どもたちに号令をかけたり命令したりする場面は少なくとも本のなかでは一切ありません。戦争をはさんだ時代ですから、国の方から出されてくる標語が腐るほどあるのですが、大石先生はそれを嫌います。要領だけを教えるような標語的言葉を彼女はけっして子どもたちの前で口にしなかったのです。戦争遂行への先生の不信感はやがて村や学校の中で知られることになり、このことが原因で大石先生は教職を離れなければならなくなりました。

作者の壺井栄自身は高等小学校しか卒業していません。今の中学校です。その彼女が戦争遂行中の時勢という反面を除けば、幼年期に受けた学校教育を素材としてこれほどまでに教師と子どもたちの交流を肯定し賛歌しているということは、当時の学校教育が子どもたちの実感上、かけがえのない大切なものとして受容されていたことを示しているのです。この作品をもう少し深く読み込んでいけば標語的なものと生活的なものとの教育上の対立なども見えてきます。それはとりもなおさず大人と子ども、あるいは戦争と生活という対立であり、国家と庶民という対立でもありました。子どもの立場にたつか、大人の立場にたつのかという二分された苦悩を自覚する教師の物語であったと私は理解したのでした。壺井栄は主人公の教師を時勢に流される大人たちから、あくまで子どもを守る立場にたたせています。それを作品の中で一貫させていたのでした。

言葉が伝わるか伝わらないかという問題では木下順二さんの戯曲『夕鶴』の中に好例があります。いつか助けてやった鶴が恩返しをしようと、美しい女性「つう」に化身して「与ひょう」の元にやってきます。二人は夫婦となり、鶴の化身「つう」は自らの羽を引き抜いては布をおり生活を助けます。ある日、その反物が評判となり「与ひょう」のところに出入りしている仲買人がもっと沢山織れば、えらい金儲けができるぞと素朴な「与ひょう」にたらし込みます。「与ひょう」は「つう」にもっとたくさん布を織ってくれと頼みます。金を儲けて都に遊びにいくんだ、と言います。

けれど金の話になると「つう」にはその「与ひょう」の言葉がまったく通じなくなってしまうのです。知らない外国語でもきいているようにチンプンカンプンとなってしまいます。けれど「つう」は「与ひょう」が自分を好いてくれていることだけは確認できましたから、最後の愛をしめし、決して仕事をしているところを覗いていけないと言い置いてから自分の羽を引き抜いていきます。「つう」の存在を、もはやそのままのものとして受け取れなくなっている、いわば知恵という雑念を得た人間となってしまっていた「与ひょう」は「つう」との約束を破り障子を開け覗いてしまいました。こうして反物が織り上がると「つう」は元の鶴となって、約束を破った「与ひょう」から去っていってしまうのです。

職員室の前の廊下に書かれてあった一文は『夕鶴』の「つう」に伝わるでしょうか。残念ながら通じないでしょう。大石先生ならば決して口にしなかったろうと思うのです。こうした公式標語は子どもたちに届かないばかりでなく大人たちとの間のいっそうの断絶を予告しているようにしか思えないのです。先生方には酷な言い方かもしれませんが、私には戦争中に流された幾種類ものまがまがしいスローガンを読んでいるような気さえしたのでした。それらの標語は国家から庶民へという伝達システムの元に掲げられてはいたものの、実際に作用した事実では大人たちから子どもたちへと伝わったのであり、また男たちが女たちへ一方的に押しつけようとしていたものであったことは半世紀後の今日から見れば余りにあきらかです。

話がとても長くなりました。私は当学校のやはり登校できないでいるお子さまを持つ父母と連絡をとってみた結果、それぞれに情報を交換し励まし合うことができるならばと「親の会」を作りました。それで初の会合を三日後の日曜日に、この近くの会館で開きます。こうした問題で困っている方がありましたら是非ご参加ください。また皆さんの回りにそのような方がいらっしゃいましたら、チラシを持ってきておりますので知らせてあげてください。

-★-★-

だが私はこの草稿をついに内ポケットから取り出さなかった。当日そのまま読むことをしなかったのは深夜に書いた恋文のように、思いこみが一面的に過ぎ学校批判のみが主題となってしまっていたからである。また余りに長すぎてこの場にふさわしくなく、このままでは招かれざる講演者か演説家になってしまい父母にさえも嫌われそうな心配が出てきた。加えて重大な勘違いをしているらしいと気付いたからだ。草稿の中で鬼の首を取ったかのように指摘している職員室の廊下のボードは生徒会が使用するものとしてそこにあり、標語のように書かれていた一文は教師が書いたものではなく、生徒自身が書いたものではなかったかという疑問がわいてきたからだった。そう言えば大人の書いた字とは思えないような気もしてきたのである。

総会の後、それとなく確かめてみるとやはりそうだった。子どもが子どもに競争をあおっている内情が浮かんでくる。背後から子どもにそれを書かせているのは誰なのか。気をゆるめっぱなしのわが息子などは、学校の中では級友たちからでさえ排斥されかねないという思いが湧いてきて、いっそう背筋が寒くなるのであった。この日実際に私が発言したことは、不登校児童の全国的加速度的な増加は学校存在の危機・公教育の危機であり、とりもなおさず子どもたちの学習権の危機であること。不登校のこどもたちが毎日をどのように過ごしているか。大部分の子どもたちは家に閉じこもりがちでマンガやテレビゲームで時を過ごしていること。将来の見えない子どもを前にしての家族の混迷。一部の子どもは親たちによって運営されているフリースクール、フリースペースなどに通っているけれど、公的助成が全くなされていないため個人的負担が大変であること。最後に日時の差し迫っている私たちの会の宣伝を言うにとどめた。

さらに「校長先生の話では、一年で古くなるパソコンを今年度一新するとのことですが、私の息子はこうした恩恵にも全く無縁なのです」と釘をさしてもみた。だが「不登校の問題は単に学校や先生方を批判するだけではなんら解決の方向を示してはいないのです」と学校に対するゴマすりのようなことも付け加えてしまい、草稿の主題とは随分違った内容になってしまったのであった。三分ほどのスピーチだったが、私が着席するとすぐ補足しなければ立場がないと言わんばかりに校長が議長を無視して立ち上がった。

「○○さんが言うように」などと私の言葉を引用して追従し「不登校のこどもたちは一人一人その原因も状態も違い、学校としましても対応に苦慮しているところです。他の中学校ではだいたい十人以上の子どもが登校していないという状況ですが、幸いわが校は現在三人しかいません」と、予想に反して柔らかかった私の話に安心したのか、「わが校は周囲の学校に比べてみても、落ち着いたよい環境が出来上がりつつあると思われます」と締めくくった。だがそれは冒頭でのパソコン発言よりもさらに弁明的だった。私の上着の内ポケットには草稿とともに「不登校の親の会」の案内チラシが十枚ほどあったので、その一枚を隣の母親に「これです」と渡すと、前から後ろからと母親たちの手が伸びてきた。チラシは校長が話している間のうちになくなった。校長の頭上あたりに掲げてあった大きな丸い時計を見ると十五時五十五分だった。始まってから二十五分しか経っていない。こうして年一度の総会は閉じられた。意見を持って発言した者は校長の他には私だけだった。(記:1997/04/19)<9024字>
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▼北田論文注釈

2002年01月07日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

以下 1987.09.16 記

新日本出版社刊「文化評論」一九八七年一月号所収、北田寛二著「どういう『視覚』で労働者を視てはならないか――ある文学同人誌の特異な労働者観」(以下「北田論文」と略す)を読んだ。本文冒頭で北田氏は、季刊文学同人誌「葦牙(あしかび)」第六号(一九八六年夏季号)所収の特集「『高度成長』と労働者像の変容」の「まえがき」を対象として同論文が書かれたことを述べている。またこの特集は五篇の「現場からのレポート」と編集同人による「まえがき」とから構成されていることを紹介している。北田論文を読み終えて、私が最も興味を抱いたことは″労働者観″をめぐる双方の「視角」の相違といった所ではなく、北田論文そのものだった。「まえがき」批判を造形する上での文体論上の方法と構造にこそ目を見張らせたのである。その意味で私にとっては実に興味深い文章であった。北田論文はマルクス、エンゲルス、レーニンの古典的著作からの過多にわたる引用と″階級的民主的労働組合″″科学的社会主義″″自覚的民主勢力″″史的唯物論″等などの一部の人々にとっては多義生を激しく忌み嫌う単語がキーワードのように重大な意味をさずけられて使用されている。

同論文は、おおむねこの二つの方法を駆使することによちって「まえがき」を印象操作していくのである。私はここで、北田論文からその文体論上の特徴をよく示していると思われる個所をいくつか書き写し、それに対する私のコメントをさしはさみつつ考察するという方法をとった。このような方法は多分に恣意的で揚げ足とり的であるかも知れないという自責の念がないではないが、今のところ私には双方の″労働者観″に深く立ち入って論評できる程の前もっての研究も、能力も無い。北田論文のはなはだしく独善的な文体の裏側にあるものを早く明晰にしてみたいという時間に対する欲求の方が一層強かったのである。まず表題である。どういう「視角」で労働者を視てはならないか。ある文学同人誌の特異な労働者観・・・。これでは余りに唐突な感じがするし、尊大で陰湿である。タイトルでは「ある文学同人誌」と含みを持たせて置きながら、本文第一行目の冒頭から「『季刊 葦牙(あしかび)』の……」と当の雑誌名が明記されている。

本文冒頭から明記してさしつかえないのなら、表題にも正式誌名を記して欲しかった。論争を提起する者としてのそれがフェアな姿勢であろう。そしてまた、読者と被批判者に対するそれが礼儀であるとも思う。「ある文学同人誌の特異な労働者観」はサブタイトルなのだが、「文化評論」一月号では、メインタイトルは無しで、このサブタイトルのみが大きな活字で同誌の表紙を飾っている。編集者の裁量の領域であるとは思うが、「文化評論」の長い間の読者のひとりとして失望を禁じえない。「どういう『視角』で労働者を視てはならないか」がメインタイトルである。私が尊大さを感じたというのは、もちろん「視てはならないか」などという言い方に対してである。陰湿さを感じたのはサブタイトルの方だった。「広辞苑」で″特異″の項を引いてみると、″特別に普通と異なること″とある。。「ある文学同人誌」の″ある″を、また「広辞苑」で引いてみると″どれと具体的には示さず、そういうものの存在だけをにおわせて物事に言及する時に使う語″とある。この二つの語を巧妙に並べることによっていわく言い難い差別感のようなものがかもし出されてくるから不思議だ。

北田・・・「編集同人」の「まえがき」は(略)争議件数の参加人員の低下にみられる「労働組合の『低迷』と『退潮』の根源を、独占資本・支配層の反動攻勢と、その一翼をになう労働組合の右翼的潮流の策動によるよりも、労働者と労働組合の「実体の変化」、とくに労働組合に「結集している労働者そのものの中」にもとめる文脈で論旨をすすめていく。

八七年一月十九日付の各紙朝刊は、十八日付で発表された労働省による八六年度労働組合基礎調査の結果を報じている。それによると雇用労働者に占める労組員の比率は二八・一%(前年比〇・七ポイント減であった。七六年以来十年間にわたる低落傾向が続き、ここのところ毎年最低記録を更新している。パートタイム労働者が増えている卸売・小売業・飲食店やサービス業などでは特に組織化が低迷している。また若者の組合離れ現象もここ最近顕著になってきているという。この切実な数字的事実を構成する一人一人の労働者が何を思い、何を考えているのかという「視角」が、今こそ必要とされている時代はない。北田氏の「視角」でとらえる労働者とは、次に書き写したように、まるで心のない物体のようにレーニンを引用しつつ数量化され図式化されてしまうのである。

北田・・・レーニンは、そしていうまでもなくマルクスもエンゲルスも、労働者階級の数の増大を、労働運動の発展の基礎的条件と考えていた。しかし、そのことは、数の増大が一直線に労働運動の発展と高揚をもたらすというのではなく、……(略)かえって古いあやまり(略)を再現するものであること、そのあやまりは「労働運動の成長」そのものが生みだすものであり、その克服のためには「精力と注意と時間」を、「新兵」の「訓練」につかわなければならない、とレーニンは述べているのである。これが事態の発展の弁証法的な「視角」というものであり、「膨大にふくれ上った」労働者が「日本の労働運動を活性化するよりは停滞させる方向へはたらいた」という「まえがき」の「視角」とは異質のものであるといわなければならない。

この文章の直ぐ前に二十一行にわたるレーニンの著作『カール・マルクス』からの長い引用がある。一行二十七字詰である。奇異なのは、「まえがき」の視点がレーニンの視点とは異質であると、ことさらに強調するのだが、北田氏の個人的見解はまったく語られず、氏自身の姿すら、レーニンの背中の向うに隠れてしまって、顔を出そうともしないのである。レーニンの『カール・マルクス』は半世紀以上も前のマルクス主義の古典だが、自身の研究に基づく見解のかわりにレーニンの文面を生のまま長々と引用する神経に私は空虚なものを感じてしまう。「まえがき」がここで言っている事は「視角」などと言うものではなく、もはや一般に認められた公然たる事実である。

北田・・・「まえがき」が「日本の労働運動を……停滞させる方向へ働いた」という「三次産業」の少なからぬ労働組合がむしろ階級的民主的労働組合運動を発展させるためにたたかってきている。

北田論文に引用されている「まえがき」からの正確な文章は「膨大にふくれ上った第三次産業就業労働者の存在」とある。ここでは「労働者」が「労働組合」とすり変えられて、あたかも「まえがき」に論理的矛盾があるかのように印象づけている。私は″階級的民主的労働組合″を「広辞苑」で引こうとしたが出ていなかった。市民権を得ていない概念を論争上の切札として多用するのも北田論文の特徴である。

北田・・・日本の重化学産業の大企業労働組合が、「労資一体」で賃金闘争、「合理化」反対闘争をすら放棄する状態となっているのはなぜか。それはさらに詳細な論及を要する問題であろう。しかし「まえがき」のように、労働組合運動の右傾化を「高度成長」による「急激な産業構造、就業構造の変化」にもとめる「視角」が的はずれであるのはあきらかであろう。

北田・・・共産党員をはじめとする階級的・民主的活動家に対する差別・迫害、労働者大衆からの隔離、政治活動をはじめ文化・趣味のサークルをふくめ労働者の自主的活動への介入・禁圧、そうして資本の側からの徹底した反共主義・企業主義の思想の注入、右傾化した労働組合の、この資本の攻撃への全面的な協力、このような稠密なる支配の網の目の強化に対する共産党員・自覚的労働者の長期にわたる苦闘、これら全体の関連の中でとらえてこそ、現代の労働者の実像はあきらかにできるであろう。

北田氏の「視角」である。これはこれで優れて真摯な立場であると卒直に思わざるを得ない。だが「まえがき」のような「視角」もまた″的はずれ″なととは言えないであろう。一つの問題の解明のためには様々な″視角″が必要なのである。「活動家に対する差別・迫害、労働者大衆からの隔離」「労働者の自主的活動への介入・禁止″″徹底した反共主義」等々、まったく北田氏のいうとおりであるし、一層そうした資本からの攻撃が強くなっていることは否定できない。だが資本の攻撃は今にはじまった事ではない。反撃する側自身の弱体化が資本を増長させたという言い方でさえ可能でなくはないであろう。活動しても活動しても、いっこうに″労働者大衆″がついてこない、となれば、ついてこない労働者の質的なものに注目せざるを得ないし、″階級的・民主的活動家″が、本当に″労働者大衆″をひっぱって行きうる活動を展開しているか、どうかという問いもまた生まれてくるのである。問題は「共産党員、自覚的労働者の長期にわたる苦闘」がありながら、どうして事態を打開できないのかという深刻な事実認識からの出発であろう。北田氏は「まえがき」がどうして″的はずれ″なのかの説明をしていない。あえて言えば「まえがき」の中に「苦闘」が描かれていないから″的はずれ″なのだ、と言っているようだ。少なくとも「まえがき」では、北田論文に引用された文面からでも、こうした事実の上に立脚して、労働者の心の中はどうなのだろうと、極めて文学者らしい問題の設定をしている。北田論文は、この複雑な問題については、「それはさらに詳細な論及を要する問題であろう」と言うのみで実際に論及することをさけてしまう。

北田・・・「まえがき」は、資本主義の生産関係が変革されたのち、それにとってかわった社会主義の生産関係のもとでも「生産力の発展は必ずしも人類社会の幸福につなからない」、″チェルノブイリを見よ″というのである。(略)そのことによって、「まえがき」は、「生産力の発展」そのものに不信をなげかけ、さらに社会主義国家に対する不信をしめしている。

日本国民の圧倒的多数が社会主義国家への信頼度という点のみに関して言えば、北田氏の意見とは異にするばかりでなく、氏の見解を『広辞苑』どおりに″特異″というであろう。自称″社会主義国家″例えばソビエト連邦についきみ言えば、私もまた大いなる不信感にさいなまされている。アメリカ合衆国をも上まわる高い離婚率、先進国中最高といわれる乳幼児死亡率、アルコール中毒患者の急増、芸術家、科学者などに対する国家・党を批判した罪での裁判・迫害、やむにやまれぬ亡命、政治的な見解をたとえ口にしたとしても、党の公式方針をオウムのように繰り返すことしかできぬ市民、自主的大衆運動への事前の弾圧、報道を隠ぺいする秘密主義、これらが、私の知る限りでのソ連国民の数量的な幸福度である。チェルノブイリ原子力発電所事故は、不幸にもその種の事故としては世界最大のものとなってしまったが、一九五七年末から五八年初めにもウラル地方のキシュナム付近で大事故が起っている。今なお謎につつまれたこの事故はソ連当局によってひた隠しに隠され、事故があったことすら公表されていない。

1973年、ロンドン旅行中にソビエト市民権をはく奪された生化学者ジョレス・メドベージョフの著書『ウラルの核惨事』(1982年「技術と人間」社刊)によれば、彼はウラルの惨事が平和時に起った世界最大の核の悲劇であったことは疑いの余地がない」と断言している。同書の中に次のような、事故当時ウラル地方に住んでいたという目撃者の証言が掲載されている。この証言は1977年、イギリスにおいてテレビで放送された。「一度私はスペルドロフスクの病院にイボを取りに行きましたが、友だちの一人の医者は、病院中がキシュナム大惨事の犠牲者で、すし詰めだと語っていました。彼は(略)すべての病院が同じように満員だと言っていました。病院はかなり大きく、数百のベッドがあります。犠牲者はみんな放射能の汚染を受けたのだ、と医者は言っていました。私はほとんどの人が死んだと聞きました」この目撃者は当然、ユダヤ人であることが推測されるが、事故後ソ連からイスラエルへ移住し、証言する自由を得たのである。


北田・・・またこの問題はさらに理論的探究がつづけられなければならないのは当然である。しかし、ここ「まえがき」にうかがわれるような″生産力不信″論、史的唯物論の基本的な命題に背反する場合からの″探求″がけっして理論的な成果をもたらさないことは明言しておいてよいであろう。

「またこの問題」とは、いわゆる先進国革命の問題をさしている。「まえがき」が懸命にこの問題について模索しているにもかかわらず北田氏は何の説明も加えずにまたまた逃走してしまう。そして、そんな事は考えるべきでないと叱責せんばかりに″しかし、ここでうかがわれるような″と自分で勝手に作った土俵の上に「まえがき」を引っばり上げ論難する。土俵は彼の言う″史的唯物論″という縄で、当初より作られている。何ゆえにこうも居丈高に書けるのだろうか、と感心するのだが、のんびり感心できるような個所ではない。″背反″という穏やかならざる言葉が出てくる。また「広辞苑」だが″道理にそむくこと。相容れないこと″とある。これが「背叛」になると″裏切ること″とある。いずれの単語にも″そむく″という意味は含まれている。そむいたと言うからには、かつて「まえがき」執筆者は史的唯物論の立場であったということになる。だが、その事実は北田論文中まったく明らかにされていない。方法論的に明らかにされていない、と言ってよい。タイトル同様、一般読者を軽視している個所で、不快である。北田論文は、解る読者にのみ解るという「しかけ」のある論文で、多分それが私を不快にするのである。この方法はいわゆる「村八分」「いじめ」「魔女狩り」など少数の人々、あるいは特定の個人を孤立化させる上で、最も有効な方法である。北田氏は「まえがき」の立場からでは″理論的な成果はもたらさないと明言する″と言っているが、そもそも「まえがき」は作家・文学者によって″労働者像の探究″を意図して書かれているのである。″文学的な成果″をこそ自らに期待しているのであって″理論的な成果″の程は、労働運動研究家としての北田氏にこそ望まれる所であろう。「まえがき」は″生産力不信論″であると北田論文は断定するのだが、正確には次のように言っている。「チェルノブイリ原発事故などに象徴されるように、生産力の発展が必ずしも人類社会の幸福につながらないのではないかという問題」があると書かれている。″必ずしも″という限定の意味を付け、問題提起をしている個所である。これが北田氏にかかると″生産力不信論″と、たちまちレッテルを貼られてしまう。

北田・・・日本の科学的社会主義の党、日本共産党をはじめ自覚的民主勢力が、いかに理論戦線・思想戦線においてもたたかってきているか――これらの「視角」、すなわち、現代の階級闘争の中の重要な一分野である思想闘争の「視角」が「まえがき」の「視角」からはまったく欠如しているのである。

北田氏は″日本共産党″や″自覚的民主勢力″のたたかいが「まえがき」には欠如していると、ないものねだりをしている。作家・文学者が労働運動や労働者像を語り、書くときに″日本共産党″のたたかいを必ず挿入せねばならないのであろうか。特定政党名が明記されたことを特記しておく。この事が北田論文の本質を見きわめる上で、どのような意味を持つのかは後述する。ここでは、労働者階級に科学的社会主義の意識を形成する前衛党=科学的社会主義の党の役割、その必要、その活動はまったくあらわれてこない。科学的社会主義の意識の形成が科学的社会主義の党の意識的な活動なくしてあり得ないことは周知のレーニンを待つまでもないのである。北田論文では、この後つづけてレーニンの著書『何をなすべきか』から七行にわたる書き写しがある。『何をなすべきか』は一九〇一年に書かれたレーニンの名著だが、実に八十六年前の著作である。例によって北田氏は、「ではこの方が『まえがき』を批判しますから」とレーニンを紹介する。八十六年間、マルクス主義に理論的進歩はなかったのか、あるいは北田氏が理解する″科学的社会主義″とは創造的な理論ではなく、引用の宝庫すなわち″教義″のことなのか。たった二つの文の中に四つもの″科学的社会主義″が繰り返される。こうなると″教義″というよりは″教条″に近くなる。中国共産党風に四つの科学的社会主義と一つのレーニンとでも要約すべき個所である。北田氏はむりやりに「まえがき」とレーニンや前衛党を対置させ、引き離そうとしている。こうした北田論文の強引さは筆者の精神の不自由さばかりが目につき、哀れな気がする程である。確認しておきたいのだが、「葦牙」編集同人は作家・文学者である。政治家でも、労働組合幹部でもない。さらに「まえがき」ではレーニンについても前衛党についてもふれていない。ふれられていない、という事がここでは批判されているのである。

北田・・・「編集同人」の「まえがき」の「視角」と「現場からのレポート」がつたえる状況の乖離は何人にもあきらかであるだろう。

この文章の前に「現場からのレポート」五篇の中の「地方『行革』下の自治体労働運動」という一篇より十行にわたる引用がある。本篇を編集したのも同人であることを北田氏はすっかり忘れているようだ。本篇への数行の賞讃、「まえがき」への一万五千字余りに及ぶ批判。「葦牙」編集同人に対してのみ特定された大きな予断と恣意にもとづく北田氏の執筆動機が推量できる。さて北田論文の結論部分である。「編集同人」の「まえがき」の「視角」は、これまで見てきたとおりである。その「視角」は一九七〇年代半ばからの、戦後第二の反動攻勢の中での、労働戦線の右翼的再編の進展、社会党の右転落等によって、労働組合運動の階級的前進、革新統一戦線の結果の展望を見失い、そして何よりも、日本共産党の路線の正しさに確信を失った人びとがおちこんでいる敗北主義の「視角」である。

日本共産党の路線の正しさに確信を失った人々がおちこんでいる敗北主義″とある。二通りの読み取り方が可能な個所で、いずれの読み方をしても、ここには重大な意味が含まれている。一つの読み方は、″失なった人々″とあるのだから、過去には失なっていなかった人々であると読む方法。すなわち「葦牙」編集同人は北田氏の関知するところでコミュニストである、あるいは、あった、と推測すれば北田論文全体の風通しがよくなり、例えばタイトルの″特異″などという言葉を、私は「広辞苑」でわざわざ引いてみる必要も無かったのである。北田氏の言う″展望″と″確信″とは、日本共産党の部外者にはけっして強要することのできない性質のもので、党員にのみ求められている路線及び思想である。党の中で「まえがき」は″特異″な思想であり、″敗北主義″の思想を持っていると北田論文は断定している。一人のコミュニストがある特定のコミュニストを、広く市販されている雑誌の上で批判、論難したのである。日本共産党の憲法とも言うべき綱領には次のような条文がある。

北田・・・党は知識人の生活を擁護し、研究、文化活動の自由が圧迫され制限されている状態を打開するためにたたかう」「党は日本文化の意義ある民族的伝統をうけつぎひろめ、教育、科学、技術、芸術、スポーツなどの民主主義的発展と向上のために、また思想と表現の自由のためにたたかう

第一の読み取り方を取る場合、すなわち「葦牙」同人がコミュニストであることを北田氏が前もって関知した上で、同論文を執筆、掲載したとするなら、北田氏は日本共産党綱領の精神に反するばかりでなく、「党の内部問題は、党内で解決し、党外にもちだしてはならない」と定めた、「日本共産党規約」に明白に抵触していると言わねばならない。もう一つの読み取り方は「失なった人々」を「失なっている人々」とあえて読む方法である。すると、「日本共産党の正しい路線」に現在確信を持っていない人々はすべて「敗北主義」である、となる。現状では、同党の路線を支持する国民はその一割に満たない。日本共産党の名において北田氏は国民の大部分を「敗北主義」と決めつけたことになる。これは「民主主義的発展」すなわち「民」のためにたたかうと宣言した党綱領への重大な背反となる。「まえがき」批判を強引に進める余り勇み足となり「日本共産党の正しい路線」からも逸脱をしてしまう。理の当然の事で、「民」の口を党の名や「科学的社会主義」あるいは「史的唯物論」などの一連の教条をもって批判するという発想が、そもそも、反民主主義的であるからである。当面の革命を「民主主義革命」とする「日本共産党の正しい路線」の根幹は現実路線のあらゆる場面でその性格が民主主義のための闘争となるべきはずで、「史的唯物論」や「科学的社会主義」を大上段に振り回し、それを国民に押しつけることではないと私は同党綱領を理解する。「どういう視角で労働者を視てはならないか」などの言いぐさの中にひそむ北田氏のきわめて排他的・独善的な考えを私は危険だと感じるのである。

北田・・・われわれは「まえがき」とは異なった見方で労働者階級の状態をとらえることにつとめ、労働運動の前進のために力をつくすであろう。(略)このような視点にたって、「社会主義の理論に関する……空想や幻想をかたづけ」つつ前進するであろう。

北田論文の末尾である。「われわれ」とは文脈上、日本共産党の「中央」をさすことは言うまでもない。前記したように「葦牙」編集同人がコミュニストであったとするなら、北田氏の、ここでの発言もまた「党規約」に抵触する。一般雑誌の誌面の上で特定コミュニストを組織から排斥しようとしているのである。どのような組織上の権限があって北田氏は、こうも自信ありげに言うのかが疑念とされるところである。北田論文が「このような視点にたって」と言う場合の「このような」は、私が(略)とした部分をさし、そこには九行にわたる前掲書『カール・マルクス』からの引用がある。先に書いたように半世紀以上前のレーニンの著作である。半世紀以上前のレーニンの説いた立場に立って、北田氏は、「われわれ」は前進する、と高らかに宣言するのである。北田寛二その人の言葉を何一つ付け加えることない。

また、最後の「」無いの文章はエンゲルスの初期の著作「イギリスにおける労働者階級の状態」初版への序文(一八四五年)の中の文章で、百四十二年前のものという事になる。この著書は一八四四年から四五年にかけて、当時二十四歳の若きエンゲルスによって執筆された。カール・マルクスとの生涯にわたる共同作業はまだ始められたばかりであった。後年、エンゲルスは当時の自分が抱いた″社会主義″の概念について次のように述懐している。「一八四四年には、近代的な国際社会主義はまだ存在していなかった。それはその後、とりわけ、そしてほとんどもっぱら、マルクスの業績によってひとつの科学にまで完成されたものである。私の書物は、国際的社会主義の萌芽的な発展段階の一つを代表するにすぎない」(前掲書一八九二年ドイツ語版への序文)

北田氏は不用意にもエンゲルス自ら「萌芽的な発展段階にすぎない」と断わっている一八四四年~四五年当時の「社会主義」理論をたずさえつつ「前進する」と声高に決意を表明してしまっている。自身の感情を述べる際にまで、マルクス、エンゲルス、レーニンなどの著作から都合のよい文面だけを無解釈、無批判的に切り取ってきて、あたかも自分の言葉であるかのように「」をつけただけで代替する。こうした文体上の教条主義的な悪癖を何と言うべきか。社会科学の専門家からみれば、作家・文学者などによる文章に、少なくない理論的な誤りが指摘できたとしても、それはむしろ当然のことである。

 

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▼学校便所物語

2002年01月06日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

一九九四年二月一九日の夕刊で、日本テレビのバラエティー番組「ウンナン世界征服宣言」が昨年末、埼玉県戸田市立戸田第一小学校(山屋敬典校長、七百五十人)の校内のトイレにカメラを設置し男子児童の排便姿を撮影、放映していたという記事に接した。学校側はトイレ内の撮影を許可していたが、保護者の父母や児童には事前に知らせていなかった。放映後、父母からは「子供の人権無視では」と行き過ぎを指摘する声が上がっているという。

番組の取材があったのは昨年十一月二十二日で、同番組の出演者であるタレント二人が放課後の同小三年一組を訪れ「学校でうんちを我慢した人はいませんか。『勇気を出してトイレに行こう』のキャンペーンに来ました」と自己紹介し、ギターを片手にキャンペーンソングを子どもたちに歌わせた後、「トイレに行きたくなった人は」と手を挙げさせ、男子三人を次々とトイレに行かせたのだという。 学校トイレ(和式)の壁際にカメラが設置されており、子どもはトイレに入って初めてカメラに気づいたが、そのまま排便したという。昨年十二月三日深夜の番組では、排便の姿が名前入りで放映された。いわゆる「隠しカメラ」とか「どっきりカメラ」の手法がとられた。校長は「排便を我慢するのは体にも悪いということで、子供を(我慢する苦しみから)解放しようと思った。子供はトイレに行けばカメラがあることが分かるので隠しカメラではない。放映前に保護者の了解も取っている。それほど教育的に悪いとは思わない」と話している。

日本テレビのプロデューサーは「放送内容については父母に了解を取った。小学校低学年の男の子の撮影方法としては、テレビの常識からいって、問題はないと思う」と実にしゃあしゃあとして弁明している。日本テレビ広報局は「市教委の紹介を得て、学校側の賛同を得て撮影した。手続きに問題はないと思う」と説明している。ある女性弁護士はこの問題を次のようにコメントしている。「明確なプライバシーの侵害をなぜ校長が認めたのか、理解できない。児童が学校で排便をするのに抵抗があるという実態は確かだが、学校内で話し合いで解決すべきこと。教師というものは、子供のためになると判断すれば手段を正当化しがちで、子供の人権の視点が欠けている」。

このように弁護士の視点ですら学校便所に関わる子どもの視点からはほど遠いのである。「学校内で話合って解決」できることかできないことか、そもそもこうした問題で話合う土俵が学校内に存在するかしないか、弁護士である前に女性であるというこの人間には分かっていないようだ。同市内の別の小学校でも同じ内容の取材があったが、この学校の場合は「トイレにカメラを持ち込む話は知らなかった。ひど過ぎる内容」と同テレビに抗議し、放映を取り消しさせていた。市教育委員会が撮影主旨に賛同し、二三の学校をテレビ局に紹介していたという。

放映後、問題が大きくなってきてから市の教育長は市議会の中で質問され「もっと配慮すべきだった」と反省しているのである。また、次の日の某スポーツ紙の中である放送評論家は「子どもの排便姿を放送すること自体が人権問題に発展することはないだろうが問題があるとすれば、その番組に排便姿まで盛り込む必要性があったのかどうかという点だ。過激さがエスカレートしているバラエティ番組に対しての警鐘にはなるかも知れない。ただ、いずれにしても大人がめくじらを立てる問題ではないと思うが…」と語っている。私は二人の子どもの父親で、さらに数十年前、学校内及び下校途中で何度か失敗してしまった経験からも、めくじらを立てられるだけ立ててみたい。各紙に登場しコメントしているのはすべて大人である。

以上、事件の概要と、それに対するさまざまな立場の大人たちのコメントを列記してみたのだが弁護士の発言を含めて、私にはこの問題の本質に迫って、心から同感できる議論が一つも見えてこないのがもどかしかった。いくつかの新聞をあさり、排便の我慢を強いられている子どもの立場からの発言を探してみたが、今のところは見あたらないのである。私がここで問題にしたいのは、テレビのお笑い番組の質を問うことではない。『ウンナン世界征服宣言』とやらも確認したことはないが一連の低俗を競う番組なのだろうと想像できる。低俗番組の傾向は下ネタづくしの新たな物笑いのたねの発掘だから、学校便所での子どもたちの排便姿とは、またかっこうの材料であったのだろう。

だがこれが家庭の中でのこどもの排便姿ならお笑いの材料にはなりえない。男の子がめったに使用することのない学校の大便用トイレで排便するというところに、大人たちの共通感覚として前提された「笑いを取る」根がある。少なくともいくつかの新聞を見た限りでは、学校便所と男の子の実際の関係を深めるように踏み込んだコメントは見られなかった。テレビ局が、もの笑いの対象として撮影しに来たことを戸田市教育委員会は分かっていたのか分かっていなかったのか、テレビの取材と言われれば質を問わずにハイハイと喜んで了解してしまう、マスメディアに対する大人たちの屈従性と貧困性がここにはもろに見えている。この貧困性を利用してテレビ局は「教育的」なそれらしい理由づけをして取材し、さんざんに撮影していった中から「お笑い」部分だけを恣意的に抜き出し、編集する。

放映されたものを見て、すっかり性質が違うことに気がついても後の祭りとなる。行政当局は問題が指摘されて始めて、さも当初から批評性を持ち合わせていたかのように「こどもたちに、学校で排便することは恥ずかしいことではないことを教えようとした」などと取ってつけたような理由を出して自己弁護に終始し、本質を覆い隠くそうとする。テレビ局の目当てはいずれにしても「もの笑い」にすることしか頭にはなかったものの、担当タレントが「かって自分も学校での排便について苦しい思い出があるから」として着想したらしい『ウンチをしようキャンペーン』というタイトルからは、考えてみればさまざまな学校現場の問題が浮き彫りにされている。

テレビ局の狂言回しによってではあったが、埼玉県戸田市の「学校排便問題」をめぐる騒動から、奇しくも日本の子どもたちは一般に学校ではウンチをガマンしている、しなければならないという事実の存在が浮かび上がっている。この問題は、某放送評論家が言うように「大人がめくじらを立てるほどのことはない」どころか、日本の学校で子どもたちが苦渋を強いられているさまざまな問題の根底を明かす鍵が隠されているのではないかと、私は考えるのだ。

ギターを弾きながら「勇気をもってトイレにいこう」と叫んだタレントは よく心得ているではないか。とくに男の子の場合、学校の大便用トイレに 入るにはことのほか勇気が必要なのである。恥ずかしくて入れないのは 未熟な男の子の羞恥心ばかりではないと思う。 新聞紙上でのコメンターたちは一様にこの事件の底にあるものは子どもの 羞恥心であるとして一蹴してしまい、子どもの立場や子どもの心の中まで にはいって物を言ってはいないように思えた。

例えば家庭の中で、ウンチをするのが恥ずかしくトイレに行きずらいと 感じる子どもはまずいないであろう。駅とか公園とかにある公衆便所の 大用にはいることは大人の男でも誰かが小用していたりしているときは、 やや恥ずかしいのは事実だが躊躇っている場合ではない。 この次元では子どももやはり躊躇うだろうが、果たさないわけにはいかない のである。ところが学校のトイレでは絶対に入らないという暗黙の鉄則が、 私たちが経験した数十年前と同じように未だにあるのだから公園の公衆便所 とは次元が違う、その事に私は怒るのである。

教育行政者はなにを考えているのかと。さらに子どもたちの教育という職業を専門とした人間が自らの責任を棚にあげて隠しカメラの設置された大用トイレに「恥ずかしいことはないのだから」と甘言を用いて子どもたちに、入ることを勧誘したとなれば、この大人にして「先生」と呼ばれている人間は一体、何者なのだということになる。番組を着想したタレント同様、私もまた数十年前、小学校でトイレにいくことが恥ずかしかった。朝から下痢気味で授業中に失敗してしまったこともあるのである。なぜトイレにいかなかったのか。

私はずっと疑問ではありつつも、自ら理由もはっきりさせないまま、その時の自分の体調にすべての責任があるように考えていて、あまり他人には話すこともできないまま、心は傷ついていた。学校はつらい所だった。しばらくの間、私にとって学校での最大の心配事はそのことで、便意が来ないようにと祈りつつ登校したものである。私は小学校で授業中に便を漏らしたことは鮮明に覚えている。けれど、学校のトイレで排便したことは記憶にない。現在でも同じように学校ではこどもたちがウンチをがまんしている、その事実に驚愕したのである。子どもたちに苦渋をしいる不当な慣習が、数十年たっても、何一つ前進も改善もされていないのである。これが大人社会ならば、どのような厳しい労働現場であろうと便意をがまんしなけらばならないという現場があるなら、これはもう労働基準法違反である。

ところが学校では一般に、授業中にトイレに行くことは禁じられているのではないのだろうか。すくなくとも授業に参加している子どもたちは、そのように認識しているのではないだろうか。教師から言わせれば「どうしてもがまんできない」子は手を挙げて許可を得さえすれば行かせないというようなことはないと認識しているだろうが、授業主導者としての教師にしてみれば、授業を円滑に進めるためには授業参加者がたびたびトイレに行くために中座するのでは、授業は成り立たないという認識上の前提がある。けれど、ここで考えなくてはならないのは、教師は大人であり相手は十歳前後の子どもである。表象される論理が対等に切り結ばれるわけはない。教師の意向は一般にその意識の中に潜在するところも含めて、子どもたちには反論できない。教師が、例え人格上に欠落があった場合でさえ、直接子どもから論理的に反論されることは極めてまれである。端的に言えば授業中トイレにいって欲しくない、という教師の意向が生徒の価値観となっているのだとしたらどうだろう。子どもは最終的な段階までもガマンせざるを得ないのである。

私が小学生のときに授業中失敗してしまった時はそうだった。自分を責めたのである。教師は臭いといって一斉に窓を明けさせた。そして「なんで、便所さ、いかねんだ」と言った。それで私はますます混迷し、クソまみれとなっている自分をさらに責めたのである。トイレは授業が始まる前の休み時間に済ませておきなさいと、 こどもたちは言われている。これは一般論としても間違っていないだろうし 授業を主導する教師が生徒に要求する物事として論理は通っている。 だが、「行きたい」と言う子どもになに一つ付け加えずに、 教師は「ハイ、行ってきなさい」と言えるだろうか。一言つけ加えるであろう 。「授業が終わるまで我慢できないの」と。一言、言わずに済ますことの できるような教師を、残念ながら現状で、私は想像できない。

この言葉は暗に子どもを非難している意味を含む。すでに、こどもは我慢 できない状況を自覚しているから勇気をだして手を挙げたのである。 もちろんそれは教師にも分かっている。分かっているから結局は行かせざる をえない。だが問題は残るだろう。さらにトイレから教室に戻ってきた子どもに何も言わない教師を想像できるだろうか。ここでまた一言いわずにおられないだろう。「今度からは授業の前にすませておきなさい」と。 教師はそのように言うことが指導のつもりだろうが、子どもにとっては単にイヤミである。「授業中に大便を、しにいった」などという子どもがその後クラスの中でどう見られるか、私は心配してしまう。ここで「イジメ」の最初の、そもそもの発端としての口実ができあがるという仕組みだ。今や油汗をかいてこらえている彼はそれらすべてを認識しているのである。

さあ、どうするか。自分の下着の中に排出するか、教師のイヤミやら級友たちのカラカイやらを無視して「トイレに行きたい」手を挙げることができるだろうか。彼の今後にとって十分予想される、この先の様々な苦難を乗り越える決心のもとに、自分の生理的欲求をしっかりと主張し、権利を行使する、そのような子どもを良しとして、日本の学校は指導しているだろうか。自主的で個性豊かな子どもを育てようと考えているのだろうか。NOである。

「休み時間のうちに済ませておきなさい」とは、ニッポン全国、どこの教室でも日常的に教師によって乱発されている、決まり文句の定型である。子どもは教師から言われる決まり文句を日常的に頭にこびりつかせている。だから授業中にトイレに行くことは、やはり「しないほうがいいこと、できれば、やってはならないこと」と判断しているのである。六歳にして学校に入学したときから、そのように指導されている。入学当初は、どの親も自分の経験からそれを知っているから口うるさくわが子に言ってきかせる。「休み時間のうちにすませておくのよ」と。だから子どもは、できれば我慢してみようとするのである。学校では、できるだけ排便しないで家に帰るまで我慢しておこうとするのである。これが「学校便所」にまつわる真実ではないか。

したがって、私には記事中の教育委員会・学校側のコメントは信用ができない。その場かぎりの二枚舌としか思われないのである。「学校で排便することは恥ずかしいことではない」という指導を本気で子どもたちに伝えようなどとは決して学校も教育委員会も考えていないと、思わざるを得ないのである。 本気でこの問題を考えるならば現在のような学校の建築形式と学校運営は根本的に改善されなければならないと、私は考える。

現在の学校は刑務所とか収容所とか、多数の人間を効率的に一括管理する ための建物によく似ている。そこには子どもたちこそ主人公という思想は ほとんど感じられない。トイレにしてもしかりで、特に男の子用のそれは 小、大用と様式が別の造りになっているから、大用のトイレに入ることは、 たとえ休み時間ではあってもずいぶんと勇気のいることなのである。 ましてや学校全体でトイレは数ケ所にしかないのである。休み時間には、全ての教室から、まるでそうしなければならない儀式のように生徒が一斉にトイレに押し掛ける。小用するためだけに。

学校では 排便することは避けるという暗部の考えを注入されていて、さらに休み時間の 小用トイレに群がっている大勢の級友たちに注目されるなかで、すぐ隣の 大用トイレに入ることはできないのは考えてみるまでもない。 このような形式と構造を私は収容所のようだというのである。 学校とは子どもにとって居心地の良い場所でなければならないと願うのは 私ばかりの突出した考えではないだろう。数十人が一日の大部分をそこで 生活する教室ごとに一つのトイレがあってなぜいけないのか。 そう考えるのが普通の思考ではないのか。

授業中であれ、休み時間であれ生理が要求した時に、誰に断る必要もなくトイレに行ってなぜいけないのか。今日、一般にわれわれ大人たちがあたりまえに享受している権利を、なぜ子どもたちに与えることができないのか。四階建て鉄筋コンクリート造り、数百人が生活している建物、そこにトイレは数カ所にしかないなどということが常識からいって考えられるだろうか。大人たちは無視しているのである。見ないふりをしている。あるいはほとんど鈍感で気付かない。だが子どももやはり自分の下半身のことは親にも内緒にしておきたい。これがニッポンの子どもの美意識である。なんと言っても教師のいうことが正しいのであるから。

私は、学校に排便の自由はないと思う。排便姿を放映される以前に、すでにニッポンの学校建物の構造が子どもの人権を考慮していない。 排便の自由を著しく制限しておいて、「排便することは恥ずかしいことではない」などとよくも言えたものである。子どもたちは、家庭では実にいきいきと屈託もなく快適に排便しているではないか。 「自主性を養い、個性を伸ばし、国際人を育成する」などとキレイ事を言ってみても、排便にいたるまで管理しなくては気がすまない学校で、どのように自主性が養えるのか。

ウンチをガマンさせておいて「国際人」たれ、とはよくも言えたものである。子どもの排便姿を見てヘラヘラ笑っているニッポンの大人の姿と、「学校で排便することは恥ずかしいことではありません」などと今さらに子どもに諭そうとしている日本の教育行政者の的はずれで陳腐な姿こそテレビ局は取材すべきなのだ。

 

<1994.04.20 記>
 

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