赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

「論考小林秀雄」 中村光夫

2005年03月31日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
天気もよかったので、久しぶりに蒲田をめざして歩きに歩く。途中、いつもの通り、これ以上歩いてもなんだからとへこたれて電車に乗っちまっただ。蒲田の茶店で中村光夫の「論考 小林秀雄」を読了する。読了した後の興奮さめやらず「矢口の渡し」駅まで、ワンカップ片手に、また歩き出す。
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▼売れた本に良書なし

2005年03月30日 | ■小沢一派とその仲間たち
ブログ「世に倦む日日」は大人気で日に5000からのアクセス数を誇っている。せいぜい4,50がよいところの当「新平家物語」など、話にもならなず足元にも及ばない桁外れの数値である。一年前はなんと優に1万を越えていたというから驚く。わたしも田中氏の「世に倦む日日」を読むのが楽しみで、毎日訪れては、カウンターを回させていただいているのである。田中氏も、このカウンターの異常な数値の高さに、なにか新しいマルクス主義風の経済価値が見い出せるのではないかと、うれしい悲鳴を上げていた。そこで、一般問題としてホームページであれ、掲示板であれ、ブログであれネットサイトのカウンターの数字というものが本質的に、何を意味しているのかを、もう一度考えてみる必要があると思った次第である。たしかに田中氏の場合は今春、自著「丸山真男の思想がわかる本」を出版されたと聞く。実際に、その御本の表紙の写真が常時記事の横に掲載されている。商品の広告を出しておけば、多少の宣伝にはなる。ネットサイトは、十分に商品宣伝の媒体としての役には立っている。マルクスの言う「価値」を実現させるなら、「世に倦む日日」というサイトの存在が宣伝媒体として効力をしめしているのだから、このことこそ、まさに「価値」と言うなら言えるだろう。思うに、当該ネットサイトの訪問者数、閲覧者数を示すカウンターは、「価値」というより数字の多寡と、その変動を示しているすぎず、数値の高低から他に何の意味を読もうと結局、代替代弁の方便となるにしか過ぎないのではないか。ようするに結果論である。しかしながら、少なくても当該サイトの「人気度」を計る物差しであることは確かであろう。では人気度から、何を知ることができるだろうか。さらに人気度から、いかなる経済「価値」を見出すことができるだろうか。そのことを考えてみるべきだ。私に言わせれば人気度なんてものは、何ひとつ腹の足しには、ならないように思っている。数値から確たるものは何も知ることはできないのである。土台、どこまで深読みしても願望の域を出ることはないように思われる。被宣伝された二次商品が売れた実数だけが広告媒体としての一次商品の「価値」の実体なのである。肥大した自己願望に、いくら理屈をつけても、それはおのずと机上の空論と擬され結果、自分自身がだまされることになる。自己満足に浸るぐらいが関の山なのだ。いつまでたっても自分だけが気付かないのである。テレビの場合だと視聴率というものがあるが、これも人気度以上のものではない。知っておくべきは、視聴率と番組のクオリティは、まったく別問題であるということだ。どういうわけか視聴率の高い番組ほど低俗なものである。こうした事情はネットもジャーナリズムも同じことである。低俗なサイトほどカウンターはうなぎのぼりだ。くだらない本ほどよく売れる。カウンターの数値の向上を狙うならばサイトに置かれたデザインや文章をもっぱら低俗たる方向に傾けていくに越したことはないのである。低俗の度合いこそカウンタに隠された本質ではないのだろうか。名曲に名演奏なしと言う。売れた本に良書なしと言う。かく言う、わたしもカウンターの数値は結構気になって、毎夜午前1時ごろに発表される多寡の知れた訪問者数を一応見ずには眠るに眠れない有様である。なんたることか。願わくば、当サイトを誰が見ようと見まいと、また訪問者の数などまったく気にしない境地にいたり、自己の信念だけにしたがって存分に書きまくってみたいと思っているにはいるのだが、これがなかなかそういうわけにも行かないというのは、不徳のいたすところなり。

<2008.09.18記>
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韓国のTVドラマに感心した

2005年03月30日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
最近よく韓国のTVドラマを見る。話題の「冬のソナタ」はメロメロすぎるようで敬遠していましたから、まともには見なかったが現在放映中の「オールイン」などは、なかなかよく出来たTVドラマだと思って毎日、春休みでヒマをもてあましている息子と一緒に、これを見ずには眠るに眠れないという程までも、入れ込んで見ている。それから李朝宮廷の厨房を預かる女官たちの物語「宮廷女官チャングム」が現在放映されているところだが、見事なものだ。実に丁寧に作られていて感心した。今や日本では映画もそうですが、アニメやコミックなどをのぞいていて小説もそうかもしれないが、もうドラマ作りはあきらめた様な感がする。非常にさびしい現状がある。もちろん、これには異論を持つ方もいるかとは思うが、私は日本はだめだと断言しておく。

日本のTVドラマはだいたい芝居になっていない。演技しない。TVでシェークスピアをやれとは言わないが、セリフをなぜ、あんな風に内緒話風に、こそこそとしゃべるのか。口を開かずに、もぐもぐもぐとしゃべらせ、そんな調子で対話したりケンカしたりしているのです。かと思うと、主役がすぐ切れて、いかにも芝居だなぁと思わせる。ささいなことで興奮する。このどちらかで、開いた口もふさがりません。とりわけ民放ドラマはひどい。TVドラマは決して見ないと決心して久しいのですが、韓国ドラマは良い。人物の表情やセリフ(吹き替えだが、これが良い)をきちんと採録し、演技させているのです。
 
韓国のドラマを見ていて気づいたことがある。登場人物たちが、実によく泣く。たっぷりと涙を流す。わが国がそうだとも思えないのだが、成熟した社会では、もう誰も泣かない。ドラマどころか、実際に東京の街を歩いても、泣いている女など滅多に見かけない。私が物心覚えた当時の記憶をたどれば私もそうでしたが、実によくみんながみんなしてあたりかまわず泣いていた。町を歩けば誰かしか、街角にたたずんで泣いている子どもや若い女がいたものだ。実直というのだろうか。人が泣いている姿からは、人も社会も素直に幸福を求めている心根の正直さのようなものが、伝わってくる。
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▼ネットにおける執着と桎梏

2005年03月29日 | ■小沢一派とその仲間たち
少なくても私にはネットに文章を書き込むさいなども、あなたが言うように、まったく「根拠なし」でゼロから文章を構築できるような能も芸もありませんよ。なにがしかの根拠があるから書くのです。邪推という場合もあるが、できるだけ邪推は邪推だと断った上で書くようにはしているつもりです。あなたが非難する「モコモコさんへの書き込み」とは、私がしきりに彼をして「サツの犬」呼ばわりしているのがお気に召さないようですが、これも彼自身が掲示板の上で、警察に私の情報を持ち込み報奨金を得たと自慢たらたらに書いてきたのですから、サツの犬も同然ではありませんか。他でもない私が彼をしてそのように呼んでいるのです。以後、モコモコ何がしサツの犬と堂々と、実に楽しげに呼ばわらせていただいておるのでござります。ハマコーに対しては前言したように、やや挑発と恫喝が入っている。オフ会のおり、さんざん酔っ払ってズボンのチャックを開けっ放しにして便所から どこぞの美人さんと一緒に出てきたという光景を見たと強弁しているのは、言ってみれば、泥酔状態によくある私の幻想だったのかもしれませんにゃ。いまのところ私の説の当否については誰も判断を下しておりませんし、当の美人さんからは私のところにメールが寄せられて、そのような事実はありませんと、いい加減なことを言わないでくださいと、強く抗議されてしまいました。私の気のせいだったのかもしれませんよね。よくあることです。

いずれにしても私が何度も申してきたように名誉毀損であれ何であれ、当掲示板上にある文章をどうするかは管理人のあなたの判断にゆだねられている。あなたがどうにかする以外に、当否にいたる判断を誰が持ち込んだとしても、無益なことでしょう。投稿者は感情的に自分の言い分を訴えているだけなのです。管理人が判断しないかぎり、どこまで議論しても埒もあかない。あなたの好悪の感に基づく判断を信じて、あとは行為してみるだけでしょう。それでよいのだと思いますよ。削除、アク禁、開設、閉鎖という行為に及べるのは管理人殿ただ一人。管理人が当然の権限として持たされている行為に及ぶのは管理人の独断でよろしいわけですし、言ってみれば行為とは独断のことですから。独断がなければ実際行為はあらわしようもないわけで、その意味では行為とは独断そのもののことなのです。

私は何度か申しているように、私の記事が削除されようと、掲示板に顔を出さないように警告されようと実際にアクセス禁止になろうと不利益もありませんし拘泥もしません。どうぞ管理人さんの思うようにご自由に処理なされませ。警察に訴えるということも立派な「行為」です。時と場合によっては大笑いですが。行為というものは、そういうものです。多くの場合、本人は大真面目で取り掛からなければ行為とは申せませんが、行為の多くが他人から見ると実に滑稽に見えてくるものです。行為こそ政治であり、社会運動に転化しますから反論者がかならず出てくるものです。あなたが米国大統領ブッシュの政治行為を笑っておられるようにです。

それから、私がつくづく申したいことは掲示板でもジャーナリズムでも文学もそうですが、文章から人の内面を探り、善悪のレッテルを貼ったり、特定の傾向を決め付けるということは、原理的には非常に困難なことであり、処断にいたる「行為」こそ公の仕事となるのでしょうが、私は自分でもそうだが、個人としては、そうした話の方向や方法は、できるだけ避けたいと思いますね。文学的でも掲示板的でもない。怒声と不毛な論理ばかりが掲示板に横溢してしまうような気がします。よほど私の漫才風造語(例:サツの犬)のほうが、執着と桎梏ばかりがまかり通り、そろそろ息苦しくなり始めている掲示板共同体の中に、ある種のさわやかな風を入れているだろうという自負があるのです。

<1598字>
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「平家物語」 新潮社

2005年03月26日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
多摩川の河原を歩き、隣町まで食料の買い出しに行く。河川敷の土手にソメイヨシノの並木があるのだがまだ花は見られなかった。写真の桜はソメイヨシノより一足先に咲き始めるオオカンザクラという種類だと思う。買い物の帰りに古本屋さんに寄った。まだ値付けの終わっていない持ち込まれたばかりで山積みになっている古本の山の下のほうに以前から欲しかった新潮日本古典集成「平家物語」(上、中、下)がヒモにかかってあったのを見つけた。1000円でどうでしょうと店主に申し出たら、いくらなんでも1000円では、力仕事の足しにもなりませんぜ旦那といなされたので即座に、では1500円と言い直すと快く本の山を崩して、その三冊を引っ張り出してくれたのである。その他、「山(やません)宣」(上、下 西口克己著)青木文庫を100円。「論考 小林秀雄」(中村光夫著)筑摩書房を1000円で購入した。

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「大森貝塚」 モース

2005年03月20日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
大井町から池上通りを大森まで歩く。途中、「大森貝塚遺跡庭園(品川区立)」に入り見てまわる。大森貝塚が動物学者モース博士によって発見されたのは明治10年のことである。できたてほやほやの東京大学の教官として赴任するためにアメリカくんだりより、横浜港についたモース博士が、次の日、これまたできたてほやほやの鉄道に乗って横浜から新橋に向かっていた途中のことだった。車窓から大森付近でむき出しになって放置されている貝殻の山を見つけたのであった。着任そうそうモースは、ただちに発掘作業にとりかかった。すると貝殻に混じって人骨、土器などが大量に見つかり、ここが約3000年前の縄文後期の遺跡であることを証明したのであった。それまで日本の歴史は「古事記」に記されていた以上の大昔のことは誰一人として知らなかったのである。モースによる「大森貝塚」の発見は、まさにわが国の近代科学と学問のあけぼのを象徴する出来事であった。モース博士が37歳のときである。
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▼一枚のデジカメ写真

2005年03月12日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日は朝方に、ほんの少し雪が降った。さて、私も野良猫の写真ばかり撮っていても、なにか物足りない気持ちがわいてきて、町内の犬にもレンズを向けるようになったのは、ごく最近のことだ。猫に飽きたというわけではないのだが、町内の猫たちからは相当に嫌われているらしい。私が歩いていく方向の、先のほうでは、示し合わせたように猫たちが、さっーと隠れてしまう雰囲気が出来上がってしまっているのだ。考えてみればこの数年、エサも与えず、食事中であろうと昼寝中であろうと猫のネグラに踏み込んで、一方的に写真を撮っていく狼藉がたたった。そのツケが、やってきたらしい。毛嫌いされてまでレンズを向けるずうずうしさが私には足りないのか。写真根性がないと言われれば、返す言葉もない。かと言ってやはり、私から猫の写真をとってしまっては、ホームページの価値が半減する。今後いっさい猫の写真は撮らないと言っているわけではない。写真を撮らせていただく見返りとして、ポケットにエサの少しも携えていくべきかどうかと、悩んでいるのである。ところで、犬も猫も同じで、いつかも書いたが気に入った写真が撮れるのは、たまにあるかどうかだ。まれによさそうな写真が発見できたとしても、決して私の腕がよいとか、カメラの性能のせいにはできない。方法論や技術は二次、三次の問題である。むしろ偶然とか、出会い、または撮る側と撮られる側双方の気分に左右されているような気がしてならない。レンズ越しに彼らの命の存在の大きさのようなことを、ふと感じることがある。それはもう、彼の精神と言ってもよいだろう。多くの場合、行きずりだが彼と出会った決定的瞬間の幸福な経験が、何枚も何枚も撮ったうちの一枚に刻印されていることがある。
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「写真のワナ」 新藤健一

2005年03月10日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
「写真のワナ」(新藤健一)という本を昔、読んだことがある。その本によれば、今では誰でも知っている話だが、例えばロシア革命時に撮られた写真なども、その後の為政者の政治的意図によって、さんざんに改ざんされてしまったというような事例が書かれてあった。群集に向かって演説するレーニンの横にいるはずのトロツキーが消された写真が、われわれが教科書などで見せられてきた写真なのだという。「合成写真」などというのも、その類だろう。さらに、それを言うなら最近の映画には、なくてはならないコンピュータ・グラフィックスなどは、どう解釈すればよいのだろう。

さて、本日、私が撮った上の写真もワナがある。騙すつもりはなかったのだが、私の意図的なトリミングの結果、こうなってしまった。上の絵は、そのときレンズに入ってきた風景のほんの一部なのだ。この絵を見ただけでは小さな子どもが、ずっと先を歩く母親から離れてしまい、あわてて追いかけているように見える。

実際はどうだっただろう。実は、子どものずっと先を歩いている赤いコートの人物は、シャッターを切る前に私が確認したところによると男性のようだったし、子どものすぐ後ろから父親らしき人が歩いていたのである。
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息子の卒業式

2005年03月05日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

次男の某都立高校定時制の卒業式に列席させていただいた。当日、配布された卒業文集に次のような息子のエッセイが載っていた。

数学とは物事を抽象的にとらえた一つの概念である。だから恋愛も数学で解決できる。カタストフィー理論とか呼ばれているらしい。人が一生を生きる間に一時も数学をしない事などありえませんが、なんとも味気ない感じがします。長く数学に親しんだ人でさえ、こんの事を言った人がいる。「これほど高貴で、これほど魅力に富み、またこれほど人類の役に立つ学問があろうか。数学のほかに」(フランクリン)。これは大うそだ。フランクリンが自分の意思を後世の数学者につがせるためについた大うそである。

自分の思うところ、数学とは高貴なものであり、魅力につつまれ、他に類をみないほど人類の役に立ってきた。たしかに人生の4分の1ほども数学と面とむかってくればいままで見えなかったものも見えてくるらしい。だが逆に今まで自分にとって不動だと思っていたものがぐらついて見えなくなってくることもある。私は数学をばかにしていた時がある。勉強は今も好きではないが、以前は、もっと嫌いだった。数学を勉強しだしたきっかけには情けない理由がある。その理由を、「数学は好きですか?」とたずねられた時、思わず、好きですと答えてしまった私には言えない事なのだ。数学は好きなのか、本当のところ嫌いなのか、ただ必死にしがみついているだけような感じがするだけだ。難しいと設問を独自に、だがとてもエレガントとはいえない方法で解いた、その時にやっと好きだと実感できる。何日も何日も一つの問題に取り組み、結局解くことが出来ないとき、気持ちが暗くなる。そんな時、本当に好きかどうかと問われれば自分はなんと答えるか。やはり好きだと言うしかないような気がする。必死にやっていることなら、他人には何も言えない。数学が高貴で、魅力に富み、人の役に立つと言ったフランクリンはうそつきです。なぜなら、数学が好きだと実感しているときの自分が、そう思うからです。「不完全性定理」と呼ばれているものがある。公理系の無矛盾性の証明は、その公理系の内部ではできないというものである。

要は、自分で自分を評価することはできないということ。この定理をゲーテルが打ち立てた時、同時代の多くの数学者が絶望しました。高貴である数学が人を絶望させたのです。魅力に富むといわれた数学は、その魅力のうちに絶望した人を取り込むことができなかったし、人類の役に立ってきた数学は一個人の数学者から希望を奪い去ることもありうるということです。頭のよいフランクリンは、きっと自分の数学好きを言葉として表し、人類のそれにすり替えたのかもしれない。私は数学が好きだと実感するときが、とてもうれしい。数学をやっているうちに、それまで知っていた多くの数学者に似ているような錯覚をするからかもしれません。多くの数学者は数学を研究しながら死んでいった。戦争や貧困、病気が原因で死ぬ者がほとんどだったが、どんな状況でも数学をやめる事はなかった。そんな生き様にあこがれずにはいられない。だが、その数学者は疑問を感じなかったのだろうか。高貴であるとか魅力に富むといったことに。一つ分かることはフランクリン同様に数学が好きでやらずにいられなかったということだ。それでいて、数学はそうした真摯な人たちをとりこにしてしまうのだろうか。そういう数学者にしかみせない魅力があるから高貴だと言うわけだろうか。こうなると訳がわからなくなる。でも、とりあえず自分はそれでよいと思っている。そのフランクリンの言葉にだまされるぐらいまで真摯になって生きてみたい。


息子は先生方の覚えめでたく某夜間大学に推薦入学が決まっている。まずは卒業おめでとう。入学した当初は4年間も通いきれるのかと、いささかの不安がありましたが、ほとんど欠席することもなくたいした事件に遭遇することもなく、むしろ予想以上の楽しい充実した学校生活をおくることができたようで保護者としては喜びにたえないところです。ですが、よい学校でよかったと思うのも、すべて偶然のなさるわざと思うより他には言いようもありません。かならずしも息子自身が率先して探しだし、自ら進んで入学した学校というわけでもなかったのです。小学校以来の地元の仲良しのクラスメイトが息子より一年早く、その定時制に通っておりまして、その彼に誘われてよく分からないままに、ともかく入学してみたというのが実際でした。定時制にも一応入学試験がありますから、入試当日の朝、どうもまごまごしているような、息子に彼から電話がはいり、たたき起こされ、結局その日のお供を彼が買ってでてくれたほどだったのです。彼がいなかったら、入学することもなく定時制はおろか高校とは無縁だったかもしれません。
 
ところで定時制高校にも、いろいろあるようで、息子の入った学校は交通に恵まれた都心にありましたから、毎年さびしくない程度の生徒さんがそこそこ入学してくるよい条件があったのでしょう。上の息子の時も定時制高校に入ったのですが、この学校の場合は、入学してきた生徒さんも指で数えられるほど小数で、長男も嫌になってそうそうにやめてしまいました。実際、多くの定時制が後者のような状態だと聞いています。次男の入った学校はその点、幾分かは学校らしく活発な雰囲気があり、恵まれていたのです。行政は定時制高校の廃止を進めておりまして、その理由にニーズが少なすぎるという事情を持ち出しますが、まさにその通りだろうと納得してしまいます。次男の学校も三年後には廃校が決まっています。数年前からPTAは定時制を守れというスローガンを掲げて早々と廃校反対運動に立ち上がり、集会に誘う通知などが届きますが、私はいまさら反対しても、どうにもならないような気がして、そうした会合には出席しないでおります。定時制を存続させることと、教育の本道はまた別のことだと思うからです。定時制があれば子どもたちが救われると思うのは親の都合から出てくる勝手な論理に過ぎないような気がするからです。
 
事実、次男の学校でも次男にとっては非の打ち所のないほど、よい学校でしたが、一緒に入学したクラスメイトのうちの何人かは一年生が終わることには、すっかり登校しなくなっていたのです。恵まれたよい学校と思うのも、たまたまわが子にマッチしていたことを示すばかりで、とてもそうは思えず通いきれない子どもが出てくるのは、どのような学校でも同じことです。したがって4年間通いきれたという幸いも、あくまで偶然の賜物であり、息子の場合は幸運だったと思うより他になく、わが子の姿を見て、なにかそれらしい理屈や学校教育論が想起されるようなこともないのです。理屈を語っても、それは親バカの自慢話に過ぎなくなるでしょう。でも、私の本音は、やはりうれしかったの一言につきます。以前は当掲示板のみなさんがご存知のように口を開くたびに学校をこきおろすばかりでしたが、今は息子のおかげで、学校というものは、なかなか楽しい所で子どもたちにとって有意義なところかもしれないと考え直したところです。以前は私も、「学校は廃れても教育は残る」とわめいていた理屈も、最近はどうも逆のような気がしてなりません。そこで「教育は胡散臭いものだが、学校にはそこそこ真実がある」とでも、言い直しておこうと思います。

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