赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼雪が降る閏二月二十九日

2012年02月29日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012,02,29 川崎市

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼とある老妻の無罪放免情状酌量

2012年02月28日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 さきほど、ネットのニュースで下のような記事を見たのだが、正直、嬉しくなる。最初、わたしは誤認した。よくあるように、夫が妻を殺したニュースかと。ところがよく字面を見てみると主従が逆転していた。話は逆で、女のほうが行為した事件だとのことなりや。これなら持って来いという感じがする。そこで、当該ニュースの老妻には、拙者から、よくやったと誉めてやりたい心持。これからは公判の日々が待っているのだろうが、どうか、この老妻の場合だけは特例として無罪にしてやって欲しいと思う、今日のよき日のワンカップ。

介護20年…84歳夫を妻が刺殺

介護に疲れ…83歳妻、84歳夫を刺殺の疑い 大阪

(朝日新聞) 2012年02月28日 14時34分

 28日午前6時25分ごろ、大阪府枚方市松丘町の川島博さん(84)方から「口論になって夫を刺した」と119番通報があった。枚方署によると、博さんが腹部を包丁で刺され、搬送先の病院で死亡。同署は自宅にいた妻のすみ子容疑者(83)を殺人未遂容疑で現行犯逮捕し、容疑を殺人に切り替えて調べている。容疑を認め、「長年寝たきりの夫の介護に疲れた」と供述しているという。

 枚方署によると、すみ子容疑者はこの日午前6時ごろ、自宅1階寝室でベッドに寝ていた博さんの腹部を台所にあった文化包丁で刺した疑いがある。2人暮らしで、「夫のおむつを交換したあと口げんかになった」と話しているという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼閏年の二月二十八日

2012年02月28日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 さきほどのニュースでは、明日は東京地方にも雪が降るそうである。今年の冬はひときわ寒くて、散歩するのもままならず、骨身にしみた。おかげで、またぞろ、お腹が出てきてしまった。体重増加を目にするのが怖くて風呂場の入り口においてある、体重計も、電気洗濯機の奥のほうの見えないところに、しまいこんでしまったほどだ。十日ほどまえに、かなり暖かくはなってきたような気がしたのだが、ここにきて、また寒さがぶり返してきてしまった今日この頃である。

 滅多に散歩することもないので、必然、写真も撮っていない。写真については、少々興味が薄れてきたようだ。もっと良い写真を撮りたい気持ちはやまやまなのだが、なんといっても機材の問題がある。良い写真を撮るには高価なレンズが必要だ。金が乏しく、買うことを断念するしかないならば、写真についても、これ以上望むべきものもないという自分を抑制させてくる深層心理が働いているようだ。

 それに、わたしの場合、年末から志賀直哉の本を夢中になって読んでいる。初老者にとって読書は体の毒だとは重々分かっているのだが、久しぶりの読書熱に襲われてしまい、閉じこもり風の日々が続いていたのだ。さらに、あろうことか自分も創作してみたいなどという無謀な願望さえ、湧いてきてしまった。

 志賀直哉の作品には、どういう訳なのか、わたしのような素人にも創作意欲を掻き立ててやまない、いわゆるアマチュアリズムの良質がよく示されている。あるところでは、直哉の文体が、まるで、隣のあんちゃんが、書き記した手紙かなにかのような素朴さがあり、これが読者の誰でもが共感できる著者の心根の誠実さが透けて見えてくるのである。もちろん、作家たるもの計算上のことであるのは、言うまでもないのだが、それがまた読む者に道徳のなんたるかの道筋を立て、教え導いてくれているかのように感じられてしまうのだ。良き書物というものが一般的に持つ、こうした作用こそ、志賀直哉という書き手がまれに見る実直にして正直このうえない人物だとして尊敬に値してくるのである。このことは、わたしばかりが感じたところではないようで、昭和の初期の昔から日本近代文学史上の、ひとつの伝説となっている。

 上手な小説を書くだけの作家なら、明治以降現在に至るも、ごろごろ居たはずだ。爾後、志賀直哉が「小説の神様」と言われている所以の一つは、その文章を持って読者をある道徳的な高みへと誘ってやまない独特な親近性にある。近代の作家の中で、彼ほど、理屈を嫌い、大言壮語を嫌い、装飾を嫌った男はいない。そして感傷を嫌った。そうした手法の中でなお、彼の小説は、いずれもそうだが、幸福に向かって昂揚する精神が横溢しているのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼ヴォーカル大好き<いいぞ がんばれ11歳>

2012年02月25日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 下のほうに、この口笛天才少女の場合、口の中に小鳥でも飼っているのではないかというコメントがあったが、この比喩は、人間が人間たる証の第一として、よく言われている「言葉の原始」の何たるかを上手に言い表しているような気がする。

 言葉の最初は音である。口より先に耳があった。人間の耳に達した美しき音は、何だったのか。小鳥の鳴き声。小川のせせらぎ。風の音。

 それらの美しい音を喉を駆使して模倣してみた。それが言葉というものを人類が発っし始めた最初の出来事であったと思う。喉から発する、単なる音に意味やら理屈やら概念を付着し始めたのは、人類史の中では、つい最近のことなのである。

http://www.youtube.com/watch?v=yVH-U3G2IZ8

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼ヴォーカル大好き<唱歌「美しき天然」>

2012年02月24日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 実際のところ、この「美しき天然」という歌曲が、いわゆる文部省唱歌であったのかどうなのか、わたしは知らないのだが、唱歌であったに違いないように思っている。明治38年に作られたものである。いつか、どこかで、それもたびたび耳にしていた曲だとは思っていたのだが・・・以下の映像を見て、ああ、そうだったのかと、なにもかも合点がいった。それにしても、この映像は、アカデミー賞ものではないか。見事な映像記録作品だ。すくなからず感動してしまった。

http://www.youtube.com/watch?v=a6f6z5UG-ps

 さて、上の映像はようするに笛と太鼓だけの寄せ集め型なる練り歩き演奏なので歌詞が出ない。歌詞は以下のベルカント唱法によるコーラスの映像にある。

http://www.youtube.com/watch?v=FrhvpQ9BB0w

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼赤い車を見て帰る

2012年02月24日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012,02,24 横浜市

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼小僧の神様 Ⅶ

2012年02月21日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

昨日のこと、散歩途上の書店に入って、なにか面白い本はないかと物色した結果、大江健三郎さんの近著があったので、購入したのである。本の名は、「美しいアナベル・リイ」(新潮文庫 平成11年11月刊行 初版)とあって、まずはその書名の女々しさに、笑ったのだが、その本屋には、こんなものしかないとあきらめ、とりあえずは暇つぶしのためとも思って買い求め、喫茶店に入り込み、しばらくは辛抱して読んでみたのだが、十頁も行かないところで、読みきれず読むことを断念した次第である。

私がいけないのか。それとも大江文学というものが、読んでも読まなくても、どうでもよいようなものなのか。謎は深まる一方である。

文藝というならば、わたしは相変わらず志賀直哉に関する本ばかりを読んですごしている。この幸福な私的な現象は年末から続いていて飽きも来ないのである。志賀直哉に比してみれば、大江健三郎というノーベル賞作家なる男性は実のところ、ただの老人は、私が覚えている限り青年期より閉じこもり系生活を良しとした一種の変態だとしか思えないのである。

文庫本の帯には次のようにある。

大江健三郎版「ロリータ」だ!

これが笑いのもとである。思うに、くだらない。

小説家も、ようするに職人としての良心しか、わたしは認めない。

知識?教養?笑わせないで欲しい。そのまえに生活があるはずだ。たまには、息子の光さんを伴って、夏は川にて水遊び、冬は雪山に上って、雪だるまでも、作ってみればよい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼漢字の幸福

2012年02月20日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

昨日のラジオNHKの第二放送で漢字についての講演を聞く。

題目は「漢字と日本人の暮らし」、話し手は関西のどこかの大学の先生岡辻哲次氏。岡辻さんが言うに、現在、世界に通用している文字は、28種だとのことである。話すだけの、文字を持たない言語というなら、世界には、もっとたくさんあるに違いない。それに28種とは、世界の中で日刊されている新聞をもって数えた結果だとのこと。

文字の種とは、アルファベットも、その一つであり、漢字もその一つ。もちろんひらがな、カタカナ、ハングルもその一つ。そういうことらしい。アルファベットはローマ字とも言う。

そこで、漢字の特殊性について岡辻さんは、言う。漢字は表意文字であることは周知の事実。なんと現在世界に流通している28種類の文字のうち表意文字は、漢字ただ一つだけとのことである。墓石などに残されていた古代エジプトの象形文字なども表意文字なのだが、現在使われている表意文字は漢字しかないそうだ。

そこで、われらが日本人のばやい、28種のうち4種類も自由自在に使っているとのことなり。すなわち、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字(アルファベット)の4種もを、である。岡辻さんが、言うに、こんな民族は、世界広しといえど、他には、いないとのことなり。それに漢字かなまじり文は、縦書き横書きの両刀使いである。こんな芸当をやっているのも、わが日本語だけの現象らしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼小沢田吾作動向

2012年02月17日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.02.17 横浜市

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼早春賦 Ⅱ

2012年02月17日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012,02,17 横浜市

 


街道沿いの南向きの土手の斜面にいぬのふぐりが咲いていた

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼円本(えんぼん)を買ふ

2012年02月13日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

2012.02.12 神保町
<昭和三年 改造社 現代日本文学全集 第24編 志賀直哉 定価一円>奥付


 夢殿の救世観音を見ていると、その作者というような事
まったく浮かんでこない。それは、作者というものから、
それぞれ完全に遊離した存在となっているようで、それは
また格別な事である。文藝の上で、もし私にそんな仕事で
も出来ることがあったら、私はもちろん、それに自分の名
などを冠せようとは思わないだろう。

             昭和三年二月    直哉

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼早春賦

2012年02月12日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.02.12 読売新聞

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼茶店にて

2012年02月10日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.02.10 川崎市

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼冬の日の光りたる路上の物体

2012年02月10日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.02.10 川崎市

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼路上の産毛

2012年02月09日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.02.09 川崎市

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする