赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼左巻きヒステリと憲法前文

2019年06月21日 | ■ヨニウム君との対話

 

@@@@@@ 以下 2018.01.01 記 @@@@@@@

 

●世に倦む日日・・・解釈で自衛隊を認めていいということ、明文で認めていいということは違いますよね。憲法論として全く違う。長谷部恭男は何を言っているんだろう。明文で自衛隊を認めたら、憲法前文が否定され、平和憲法が平和憲法でなくなる。前文と条文が矛盾する。日本がどういう国家なのか、理念が滅茶苦茶になる。

長谷部恭男を含めて、憲法論として安倍改憲が実現可能と言っている者が多くて驚く。あの9条改定をやったら、憲法の規範性や法典としての一貫性が滅茶苦茶になる。憲法があってなきものになる。法典としての原理性や一貫性を問題にしたから、自民党の憲法草案や石原慎太郎のクーデター論になったのに。

長谷部恭男のこのコメント、憲法学者の発言とは思えないな。「従来の政府解釈を憲法に明文化しようとしたもの」と簡単に言っているが、そんな説明が通るのか。前文はどうなるんだ。9条と前文はセットだから、前文を変えないといけないだろうが。


●かもめ・・・左巻きヒステリと異名をとるヨニウム君の心痛はよく分かるよ、わかるのだがも少し冷静になりたまえ。九条削除論者の拙者の見立てだが現行日本国憲法の九条を改正するには、この先十年はかかると見ている。さらに憲法前文のお花畑風宣言を変えるにはこの先四・五十年ほどかかると思っている。まっ、じっくりと行こうじゃないか。あわてることはなにもない。ヨニウム君のように、そうも、いちいちヒステリになっていたんでは命がいくつあっても物足りない。


●世に倦む日日・・・・憲法の前文に「日本国民は(略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるでしょう。9条2項の戦力不保持の原則は、この決意から媒介されているのですよ。前文に理想と決意が宣言されている。こんな前文を持つ憲法は他にない。だから平和憲法
・・・・前文を変えずに9条を変えて自衛隊の存在を明記するというのは、明らかな論理矛盾で、憲法典として出鱈目なものになる。決意と原則が矛盾する。戦力の保持を明文規定するなら、前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」を削除しないといけない。

●かもめ・・・左巻きヒステリと異名をとるヨニウム君の言うとおりだ。九条をいじるには憲法前文を無碍にしていっそ削除するか、どうにかする以外に論理はつかない。前文こそ最悪の美辞麗句に過ぎないのだからね。武装解除の徹底的容認と占領政策の思想的容認。だがそれは戦後十年ぐらいまでは方便もたっただろうし一般に敗戦国が生き延びていく常道だ。だが、いい加減にしたらどうだね。七十年を経てもまだ気がつかない。その政治的メカケ根性からくる二枚舌と大言壮語の大盤振る舞いによる偽善的プロパガンダを。

 

日本国憲法 前 文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。



そこでこの際申しておくのだが現下の自由民主党安倍内閣もしきりに憲法改正を口にしてはいるのだが、おそらく、なに一つ進展はしないように思われる。この後十年ほどは改正に向けての期待は一切できないように思われる。

ここにもニッポンジンの特性が現出しているように思われてならない。現行憲法が占領軍によって原案が提示され、それをたんに和訳し追認した代物にすぎないようにだ。また黒船さわぎに発する明治維新から始まる近代化がそうであったように日本というお国は劇的な外圧がなければ根本の自己認識には到達し得ないというのが古来からの文化であり、これぞいと優しき風土と国民性だ。

憲法を代えるには、それ相応の劇的事件が必要なのだよ。近隣国の武力によってニッポン人が多数ブチ殺される羽目をみてこちとらもそれ相応の備えが必要だとやっとこすっとこ重い腰をあげるにいたる。良いか悪かは別にしてもそれが古来よりのニッポン人の政治感覚であり特性だった。

おっつけ北のミサイルが領海内にまで届くだろう。またはどこかトーホグの日本海側の地方都市が直撃されるかもしれやせぬ。予想できることは外海で操業中の漁船なりが北から飛んできたミサイルに直撃されて船は沈没し乗組員のおおぜいが死ぬ。このようなことは想定内のことになりつつある。また尖閣諸島におかれては共産兵による八露軍の末裔が恐るべき無敵の便衣兵をともなって上陸作戦を開始してくるやもしれやせぬ。こうしてはじめて国民諸君が重い腰を上げ憲法論議が現実的になるという次第だ。

または突拍子もなく何を言い出すか分からない米国トランプ政権のもと、いい加減にてめぇたちの国はてめぇたちで守れとかの政治学的には正論じみた最後通牒を言いわたされ実際に在日米軍が沖縄をはじめ全国から引き上げてしまう。こうした時点にいたってはじめてわがお人よしで能天気の国民はわが国にも相応の軍備が必要なのだと認識するにいたるのである。九条をして後生大事におしいだいたままでは結局日本は沈没してしまうとの政治的真実が現実のものとなり70数年ぶりにニッポン人の眼前にさらされてくるのである。さあさあさあどうするい。

 


2018.01.13 産経新聞

 

●世に倦む日日  ・・・だっからあのね。国家間の紛争は話し合いで解決するというのが、日本の国是で憲法の原則なんだからね。北朝鮮と外交で対話しないといけないですよね。王毅に頼んで大連で外相会談をセットしてもらうとかモンゴル政府に頼んでウランバートルでやってもいいざんしょ。10億円ばっか都合してやるからミサイル発射やめとけよとか、やり方はいろいろとあっぺな。

 

 

2017.08.25 産経新聞オンライン

 中国爆撃機 紀伊半島沖に飛来

 
【北京=西見由章】中国国防省は24日、中国空軍が同日に遠海(飛行)訓練を実施したと発表した。申進科・空軍報道官は声明で「中国空軍が遠海訓練を常態化させているのは国際法と国際慣例に合致している」と主張。訓練は「実戦能力を高め、強軍事業を推進するものだ」とし、「どのような妨害に遭おうとも、中国空軍はこれまでと少しも変わらない。これからも頻繁に飛行訓練を行う」と主張した。 

 

●世に倦む日日・・・だっからあのね。要するに北朝鮮の目的は米国が北朝鮮の体制保証をすることで、それを要求して暴れているわけだから日本が外交で仲介の労をとってやればいい。よしよしオレが口利いてやるからおとなしく我慢してろという感じで米朝が合意できる条件案を日本が斡旋してやればいい。ノーベル平和賞取れっぺな。

 

●かもめ・・・なにを寝ぼけたことを茨城弁を使って弁じておるのかね。左巻きヒステリと異名をとるヨニウム君は。憲法前文について一言いわせていただくならば、あれはなにやら悪さをした小学生の反省文だね。昨日までのわたしは悪うござんした。全面的に、こころを入れ替えやり直しますと宣言している。だが、文言は前もって教師(占領軍)が下書きし用意してあったものを生徒(敗戦国民)が面従腹背の魂胆を押し隠しつつ大真面目に棒読みしているという図が透けてみえる。

早い話、親を否定しろと言っているようなものだ。親より民主主義を大事にせよだと、そんな道理がどこにある。昨日までの日本の歴史を全面的に否定しろと言っているのだよ。1945年8月15日以前の日本の歴史は忘れろと言っているのだ。この際、日本の歴史を美化しろとまでは言わない。だが一国の独立宣言たるその憲法に極東の島国に世界に冠たる文化の花を咲かせた黄金の国ジパングについて一顧だにしないとはどういうことだ。

自国民と自国の歴史を卑下して喜んでいるような下司な独立宣言と憲法がどこの世界に存在するのか。現行日本国憲法は世界に対して何一つ独立宣言なんぞしていない。すなわち真の意味での憲法とは呼べないのである。こうして占領軍から与えられた隷属憲法に70数年たっても相変わらずのうのうと甘んじているのが日本国民の政治的かつ牧歌的現実ということだ。

 

 

以下2017.08.29 毎日新聞オンライン

<北朝鮮ミサイル>日本通過、襟裳岬の東に落下

09:58(毎日新聞)

政府は29日、北朝鮮が同日午前5時58分ごろに同国西岸から弾道ミサイル1発を発射し、北海道・襟裳岬の上空を通過して、午前6時12分ごろに岬の東約1180キロの太平洋上へ落下したと発表した。政府は全国瞬時警報システム(Jアラート)を12道県に配信。日本への被害や落下物はなく、自衛隊のミサイル防衛システム(MD)による破壊措置は実施しなかった。

 

●世に倦む日日・・・ありゃりゃら。またまた北朝鮮がミサイル発射して北海道の上空を通過だとよ。これじゃまた安倍晋三の支持率が上がってしまうべぇ~や。あ~ん。われら左巻きにとっては本当に迷惑な話だっぺつーの。だっからあのね。安倍晋三と北朝鮮は裏で繋がっているんだっぺな。米朝間の緊張を極限まで高めたいという点では両者の利害は一致しちょる。北朝鮮は緊張を沸騰させて米朝対話に持って行きたいし安倍晋三は緊張を破裂させて米朝戦争に持ち込みたい(日本も参戦する)んだっぺなゃ。最終ゴールは違うが手前のゴールは同じだっぺな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼ 『転居のいきさつ』 感想

2019年06月19日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

  

 

 

新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/book/910048/

  

 

 

●第一感

その本は昨年刊行された小説集で、出入りしているネット掲示板の中で聞き知って興味を持ちさっそく最寄の書店に取り寄せてもらい今朝ほど入荷したむねの連絡があり受け取りに行き近くのカフェに入って読み続けつい先ほど読み終えた。上等な小説に出会った時には決まって湧き上がってくる幸福な満足感が胸中に広がった。久しぶりに小説らしい小説、作品らしい作品を読ませていただいた。この本にはまえがきもなければあとがきもない。そうした余計なおしゃべりの類よりは主人公の青年の言動が文体にじかにつながっていて何か途轍もなく弾力に富んだスプリングが表表紙と裏表紙の間にはさまっていた。

 

 

2016.12.28 横浜市

 

 
●第二感

当のご本はただいま同居している次男に強引に貸し出し中です。読んでごらんと云ったらめんどうくさそうに「いいよ」と断ってきたので、著者の経歴などをひとしきり説明したら顔がほころびはじめてきてニヤニヤしながら本を持って自室に戻っていきました。さても、ずいぶんと古い話で著者には不満かもしれませんが白樺派の、それも志賀直哉を読んでいるような感じでした。1967年、米国はP大学に集っていた日本人留学生の一団もまた白樺派だったような気がします。主人公の西河原は彼らの中でわずかに抜きん出ていた。その自由度において一筋縄では行かないものを持っていた。明治末年当時白樺派の中では、それが志賀直哉でしたから。さて、わたしにとってもこの本は事件でした。そこで、おれ様もこのままうずもれてしまっては半年前に九十五歳にして往生を遂げた母ちゃんに申し訳ないとわが身に活をいれたところです。わたしもまもなく七十になりますから。

 

 

2017.01.04 足立区


葉が散らずに年を越したはなみずき

 

 

 ●第三感

作品の最後に次のような一節があった。

わたしも夏にはプリンストンを去ることにした。こうしてボルスキーの研究所は消滅した。荷物いっさいを六十一年型のフォードに積み込んでプリンストンを出たとき国道一号線からGC寮の塔の背後に真っ赤な夕日が沈んでいくのがみえた。わたしはくるまをハイウェーのわきにとめて塔の写真をとった。それはわたしがプリンストンにきてはじめてとった写真だった。

主人公西河原には三度笠がよく似合うなどと不埒なことを考えた。股旅物とは言わないまでも西河原は旅人だったのだ。

 

  

 2017.01.06 横浜市

 

  

 

 2017.01.08 足立区

 

 

 

 2017.01.21 横浜市 

 

 

 

 

●第四感

私が有田さんにお知らせする前の時期にPGMさんは別ルートで(自分で調べてか?)
MOKUMOKUさんの個人情報(私のとは別口の個人情報・住所氏名など)を知っていましたね。

上の記事を載せてきたのは、どこのあんちゃんなのか。十数年前のたかだか掲示板上の矮小政治を、あれこれと持ち出してかかわってきた御連中どもを再び興奮させようとの目論見と、その発想が矮小だ。使い物にならないしょぼくれた老人の金玉模様だ。

有田芳生氏(現民進党参議院議員)は日本共産党の二軍なのだよ。どこまでいってもだ。有田氏の場合は、姿を変え、所属の組織を変えても根っからの現代共産主義者ですよ。小沢一派であろうと民進党であろうと彼にとっては自身の売名活動のために、組織も有名人も、いかに自身の売名のために利用できるかの価値しかない。その意味では世渡り上手だ。だが、彼の場合なんと言ってもポピュリズムに奉ずるしか手法はないのであり、その思想の薄っぺらさといったら全国民に周知されている事実だ。

ある人が世間から褒められるのは「一芸に秀でる」という現象を自ら世に示すしかないのです。MOKUMOKUさんの小説集『転居のいきさつ』(新潮社)を読ませていただいて、つくづくとそのようなことを考えましたね。

政治家ならば政治という泥にまみれなくてはならない。今井君のように金儲けだけが人生だというなら実際に金持ちにならなければならない。年収600万円で金持ちだと自慢できますか。こうしてネットでは中身のない口ばっかりが達者になった空っぽ人間の能無しが安直手法に乗せられて、やれラインだツイッターだフェイスブックだと雨後の竹の子のように面を出してきては、この世にたった一つの「わたし」の心の一節さえも歌うことなく傷つきつぶされていく。


本当に惨い実害が出ているのです。MOKUMOKUさんの実名、
自宅の住所、電話番号勤務先などがあちこちに貼り付けられているのです。渡邊さんも、 ご存知ですよね。


仮にも、そのようなことがあったとしてもだ。最初の最初にネットや電子メールに、自分の個人情報を偉そうに記した当人の責任である。MOKU氏は渡邊さんあてに長文のメールを送付した。後にモクモク文書と呼ばれたものである。このメールの末尾にご自分の個人情報を書き付けた。ニューヨーク在にして米国の某大学の教授職とうとう・・・。

なんのために、そのような余計な言辞を記したのか。おそらく、それらの個人情報が多少は権威となり渡邊さんを説得させるに役だつだろうとの思いからである。だが、これは誰が見ても不純なやり口だ。

MOKU氏が、もし東京の下町在にして、当時のわたしがそうであったような無職の初老男だったなら実名も住所もメールに書き記す必要性は毛頭なくなる。もとより、この話題は同時的にいくつかの掲示板で喧騒を極めていた。なぜ掲示板で議論せずに渡邊さんこそ渦中の中心人物と見なされていたとはいえ特定者あてのメールにしたのか。末尾のいかにも高級な個人情報を、これ見よがしに知らしめて後、渡邊さんをして説き伏せんとしたことは明白ではないか。これがMOKU氏によるメールにこめられた真の狙いだった。権威を盾にして有田氏擁護の立場をとっていた渡邊さんに圧力を加えんとした。

当メールによって有田芳生氏が一方的に誹謗中傷されていると判断した渡邊さんによって当の有田芳生氏に末尾の個人情報を含めてそのまま転送された。ただちに有田氏によってMOKU氏の個人情報だけが取り出されネット上に拡散されてしまったのである。何度も言うが十数年前のことである。誰が悪い彼が悪いという問いは二束三文の瑣末な話に落ちる。畢竟、MOKU氏の個人情報をばらしてしまった最初の張本人はなんといってもMOKU氏自身なのであるからして。

また、もうひとつの考えがある。ご自身の個人情報が世間にさらされてしまうことはMOKU氏にとっては、もとより想定内のことであり折り込み済みだったとしたらどうだろう。まさにMOKU氏の「いたずら」だったのかも知れやせぬ。

MOKU氏の小説『転居のいきさつ』の主題のひとつが、この「いたずら」の出来不出来にある。それもだいぶ高級な「いたずら」だ。下司はひたすら当の「いたずら」に反応発奮して犯人探しに右往左往する。

ところが実際にはそうではなく通り一遍の月並みな対応に追われた。MOKU氏は自分の個人情報がさらし者になったと怒り心頭に発した・・・ように少なくとも傍目にはそう見えた。渡邊さんはMOKU氏からのメールを有田氏あてにそのまま転送してしまったことを認め以後の断交宣言とともにMOKU氏に謝罪した。わたしは渡邊さんが謝罪する必要はまったくないと論陣をはった。

十三年前もしくは十四年前の話である。当時、有田芳生氏は参議院議員になる前で、まだ一介のジャーナリストではあったが日テレの何とかと言う番組にコメンテーターとして連日出演されていた。これが彼の人気をささえていた。共産党くずれは事実であったとしてもリベラルの旗手として視聴者に映っていたことは間違いない。またどこの誰よりもネットの使い手を自認していたようだ。こうして彼のホームページ及び掲示板は盛況を呈し一家言をぶらさげた一癖も二癖もある諸氏が集いあっていた。

ともあれ、おそらく、このときの「いきさつ」こそMOKU氏をして『転居のいきさつ』を書かせしめたもっとも重要な動機となったのではないかと、わたしなりに楽しい憶測にふけっている。

 

 

2017.02.01 横浜市

 

 

 

●第五感

先日、「モクモク文書」すなわちMOKU氏が渡邊さんにあてた長文メールについて、その末尾に自分の個人情報を記したのは、権威をちらつかせることによって、渡邊さんに圧力をかけたのだと書いてしまいましたがもう少しよく考えてみますと、それだけではないようですね。

メールの中身は、有田氏に対する一方的な誹謗中傷だと受け取ったのは当時いささか神経が過敏になっていた渡邊さん固有の受け止め方だったという見方もありそうです。

たしかにメール本文は、知られざる有田氏のプライベートを暴露するなどという部分もたしかにあった。有田氏のばあいは講演先などに取り巻きがいて仲良くしているとうとう。だが、そうした振る舞いは一般的に、わざわざ取りざたされたり非難されるような問題ではありません。

改めてわたしが着目したのは、その文体です。有田氏批判はそれとしても、またもう一面から読んでみれば、それこそ、どこかのいたづら坊主が面白しおかしく遊び友達の生態を、まるで漫談のように楽しそうに書かれています。梅雨時に大きな芋の葉の上を転がって遊んでいる水玉のような文章でした。決してだれそれをしておおげさに糾弾しようなどという考えはいささかもなかったようにも思えてきます。

ささいな誤解を解きたい一心だったのかも知れません。当時MOKU氏は70にして大学教授を退官する直前のことでした。ネット「界隈」では最高齢者であることは暗に周知されていた。それらのことを踏まえて、もしかしたらモクモク文書とは、この人に特有の「いたづら」心から発した文章だったのかも知れないとは、すでに申しあげました。

 「いたづら」としての一面もまた内在していたことを渡邊さんに読み取る余裕があったならMOKU氏からのメールをそのまま有田芳生氏あてに転送してしまう愚はさけられたはずです。

しかしながら当メールに差し出し人としての「私」の正直さを表明しておこうとするあまり個人情報を記してしまったのは、なんといってもMOKU氏の誤りであることにかわりはありません。

 

 


自室にて 

 

 

 ●第六感

ノンポリとは現在では死語と化してきたようで幸いなことだと思っている。ノンポリとは1960年の安保闘争以後に流行した思想腑分けの弁方だった。左派のいずれかの党派に属していることに優位性を得ていた諸君が、一向に旗色鮮明にしようとしない優柔不断にして中間的な、それでも時々デモなどには顔を見せてくる青年諸君をある意味見下して呼ばわった蔑称である。

ノンポリは語義通りのノン・ポリシーでは決してなかったことが『転居のいきさつ』(新潮社)にまざまざと描かれている。ノンポリこそ世紀を超えてしたたかに生き抜いてきた。ノンポリこそ健全な政治的生態だったのだ。この小説の主題はまさにここにあると確信した。

口を開けば「信仰告白」かスローガンをがなっているばかり。人を見れば色眼鏡を架してイデオロギー上の腑分けにかける。このような不全な徒党根性は敗北するのである。いやすでに敗北している。

彼らこそ「転居」しなければならない。そして新しく生まれ変わらなければならない。

 

 

 

●第七感

>神山幹夫先生の『転居のいきさつ』には文学の香りがする。

http://ameblo.jp/tta33cc/entry-12279816486.html

君だったのか。昨年末の某掲示板の書き込みにおいてわたしにMOKUMOKUさんの『転居のいきさつ』(新潮社)の刊行を教えてくれたのは。君によってMOKUMOKUさんの近況と思想の一端を知ることができたのだ。なにはともあれ君には感謝する次第。さっそく『転居のいきさつ』を最寄に書店から取り寄せ息つく暇もなく一気に読み終えてこれは近年にない事件となった。もちろん、ごくごくわたしにとってと云う意味に過ぎないが。『転居のいきさつ』の著者は「畔井遠」氏と記されていたのが、これはペンネームということだったのだね。いずれヒトの名とは難儀なものですね。上の「神山幹夫」も、私は今日はじめて耳にした。わたしの頭にあるのはMOKUMOKUさんというネットで使用されていた匿名だけしかいざ知らず、これまでこれだけで済ませてきたので。畔井遠さんといい神山幹夫さんといいなんだか縁遠い話になってくる。もちろん、これは作品そのものの文芸的な価値と巧拙には関係のない話としておかねばならないのだが。

 

 

●第八感

> 畔井遠  クロイ・ウェン

> 1936(昭和11)年京都市生まれ。1967年(昭和42)年東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。医学博士(専門:免疫化学・血液学)。同年よりプリンストン大学、パリ大学分子病理学研究所、コロンビア大学を経てシートンホール大学大学院教授。2005(平成17)年退官。1974(昭和49)年よりニューヨーク市に在住。

どうやら畔井遠の名はペンネームということならば、その下に記された略歴は何の意味を成さしめるのか。誰の略歴なのか。ペンネーム者のそれか。または、ペンネームの裏にいる本物の世俗のそれも今生きている最中の著者の略歴なのか。そこが不審だ。その彼が、これ見よがしの金銀ぎらぎらの略歴を公に発表したがるその魂胆の底の底にあるものは、いかなるものにござ候ぞ。

 

 

 



 

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▼没後二十年 江藤淳展

2019年06月04日 | ■今丼政幸君との対話

 

神奈川近代文学館 5月18日~7月15日

 

以下、赤煉瓦掲示板より

 

●かもめ
ほかでもない江藤淳氏の展覧会と云ふなれば拙者としても重い腰をあげて閲覧することあたわず。 来る6月1日(土)にでも現地に参じてみるつもりなり。 そこで提案だが、どうであろうか久方ぶりに今井政幸氏にも、お会いしてだなや。これまでのことは一切水にながしたてまつりけりにて候や。 旧交を温めてみることにいたしたく存知候にてにゃ。今井殿をはじめ年はとっても、おのおの方の根性のありどころをさらしたまえり、たまには一堂に参じてみるのも何かの縁だ。 この際今井政幸氏をはじめ、界隈のフルつぁんはっつぁん泥つぁんその他長屋住まいの下々の覚悟と、その存念をお聞きしたい。

 

●今丼政幸
ほう。 わたすもいまの君の姿をつぶさに見たい。 が、土曜日はだめだ。  昨日も今日も残業で、いまが帰りという具合に、土曜日は、いつも家でくたばっている。 なので、日曜の2日なら良いぞ。  日曜2日、江ノ電の由比ヶ浜駅に、12時だ。 お昼刻だから駅前の食堂でなんぞ美味しいものをご馳走してあげよう。 かといって、鄙びた駅前に良いところがあるかどうか知らんが。 そゆことで、よろぴく。

 

●かもめ
どうやら今井殿は勘違いをなさっているようだ。横浜には詳しい今井殿が、江ノ電などというので、わたしも鎌倉まで行きはぐったところなり。鎌倉ではあるまいに。県立神奈川近代文学館は横浜は「みなとの見える丘公園」内だ。若かりし頃、ここには今井殿に案内されて、一緒に入ったことがあったではないか。バラ園をめぐって坂を下りていったところが、それだ。15年前のことなりき。ちょうど三島由紀夫展が挙行されていた。三島の墨書が展覧されていた。三島は20歳になったばかりで徴兵検査を広島で受けた。徴兵検査は戸籍上の本籍地にて受けることになっていた。いよいよ兵隊になるのだとの決意を東京の親にあて手紙を書いた。三島の手紙を、わたしが興味津々で閲覧していると出口のほうで今井殿が手招きをしているではないか。腹減ったから、はやく飯を食いにいこうよと言うのである。だが、まだ入館して5分もたっていなかった。


●今丼政幸
おお、そっちの文学館だったか。 わたすは、三島のは、群馬の大泉の軍事工場で働いてたというのが興味深かった。 わたすは、当時、いまはなき三洋電機の仕事を扱っていて、大泉の工場は、三洋電機になっていたのだった。 あそこなら、みなとみらい線の元町・中華街駅で、そこなら、フレンチの霧笛楼がある。 2日なら、霧笛楼のフレンチをご馳走してあげたのに残念だ。


●かもめ
拙者の勤務スケジュールからして六月一日は譲れないのであって、あまつさえフレンチとは何事だ。拙者はおフランスには行ったことはないけれど、かの国については、なにもかもが大好きなのだ。その言語といい革命といい文学といい音楽といい、たしかに西洋文化の粋がある。だがおフランス自慢の料理だけは大嫌いだ。なんじゃね、あれは。大皿の真ん中あたりに冷えた肉片の少々を盛り付け、その周りに濁った小便のカスのようなものをやたらめったらジグザクと対角線上に振りかけて素材の妙味をごまかしている。あんなもんは料理といえない。やはり料理といえば中華にかぎる。炎と油の料理だ。作るほうも燃えているが、食うほうも燃えている。チャーハンといい麻婆豆腐といい焼き餃子といい舌が焦げるほどの勢いだ。さて、きたる六月一日、県立神奈川近代文学館にて13:00。拙者は、江藤淳になる最大の問題作『閉ざされた言語空間』の手書き原稿が展示されている、そこいらあたりにいることにいたそうぞ。声をかけてくだされればありがたき幸せ。当日、拙者のありようは野球帽をかぶりて黄色いワイシャツの袖をまくった姿で、そこにいるはずである。


●今丼政幸
3月に元派遣のおばさん(今は正社員)らと、4人でみなとみらいのアリスでフレンチを食べた。 その前にみんなで集まったのは去年の暮れで中華街で中華を食べた。 どちらも値段はひとり1万円のコースなのだが、わたすは、やっぱりフォアグラがあるフレンチが落ち着くな。 フレンチは美味しいぞ、食べてみな。  食わず嫌いは、大成しないよ。 わたすも、昨日も夜10時までの残業で、今日もそれくらいだから、土曜日はくたばったいる。 ひとりで文学館に行ってきてくれ。 で、江藤淳展がどんなのだったか書いて、みんなに教えてくれ。 わたすは、もう年で働くのも億劫になったし、所詮労働者で働いても全然カネにならないってことに気がついた。 なので、わたすは、フリーランスに転向する。  転送速度が速くなる5Gが日本でも来年から始まる。 なので、これからはネットが主流になる。 ばかもめはカネがないからやってないだろうが、去年、携帯を機種変更したとき、電話もソフトバンクにしたから、ネット通信もソフトバンクに変え、家ではW i Fiだ。 これだと携帯のギガ不足なんてなんも関係ない。 なので、わたすは、毎日、ネット三昧で、とりわけYouTubeにハマっている。 このYouTubeをやると、カネが稼げる。  無論わたすの登録者を最低10万人以上は確保しないとダメだが。  登録者10万人がわたすのYouTubeを見てくれることで、わたすに、宣伝料が支払われるという仕組みだ。 これだと、わたすが寝ててもカネは入ってくる。 これからは、これだね、カネを稼ぐには。  無論センスのないばかもめは、そんな大勢の登録者を確保出来なくてカネは入ってこない。 カネを儲けるには、誰からも見てもらえるYouTubeをたちあげねばならない。 で、わたすは、これからの金儲けのためにYouTubeにチャレンジするのだ。 わたすも、ばかもめも、古い人間だから、例えば、江藤淳展の文章を書いて、それを本にしてカネを儲けると、考えてしまうが、いまは、広告収入の方が、はるかに本の出版よりカネになる。 なので、江藤淳展紹介動画を全てタダで見せてしまってなんも問題ない。 むしろ、タダでばら撒くほど集客出来る。  遅かったが、働かないでというか、仕事に出ないで、フリーランスで動いた方ががっぽりカネが稼げる時代なんだね、いまは。


●かもめ
今井殿も、だいぶ年を取られた由、働きに出ることが億劫になったとな。最終的に倉庫会社のほうを辞めるってわけかね。新橋には、もう通いたくないって話だな。会社で相当いやなことにあったのだろう。この能無しのクソオヤジとか、言われたのだろう。体を動かそうとしない、掃除一つできないで食っちゃ寝食っちゃ寝のアホだったからな。今井君のばあいは。ふ~む。フリーランスとは聞こえはよいが、ようするに隠居するってことだろう。リタイヤするってことだろう。思うに今井君にとっても拙者にっとってもだが、これからが本番だと考えてみたまえ。案外長生きするかもしれないのだぞ。この後30年も生きるとなったらどうする。足をひきずりひきずりでも世間に弱みをさらして生きていくか。さもなけれは、恥をかくのが怖いので、どこか暗いアパートの一室から出ることもなく、そして誰知ることもなく野たれ死ぬか、まぁ、いずれふたつのうちのどちらかだ。

 

●今丼政幸
わたすがいつどこで死ぬかは知るよしもないが、わたすは心臓が弱いから、普通なら、自宅で心臓が止まって死ぬことだろう。わたすは、いつどこで死んでも構わない。困るのは、後片付けをしなきゃならない親戚だ。わたすは困らない。で、これからフリーランスになって、たとえ30年生きても、わたすには蓄財があるからそれを使い切る事なく死んで行く。ばかもめには関係ない。せっかくわたすが日曜でもトイレ掃除の勤務に出かけるばかもめに、会社勤めをしなくてもカネを得る方法を教えてあげているのに馬鹿なばかもめはフリーランスを理解出来ない。例えば、テレビで、これからは旅人の時代だと言っておった。ばかもめが、わざわざ、港が見える丘公園の文学館に行く。その江藤淳展の様子をレポートする。これを、動画と文章でレポートする。その動画と文章を、世界が、ネットで見て読む。馬鹿なばかもめの間抜けな道中記があざ嗤えて面白いから、評判になる。馬鹿丸出しレポートを、世界がばかもめに求め、ばかもめは、繰り返し、どこぞに出かけて、旅をして、報告をアップする。このレポートに、大勢が見たり読みにくるとなると、そこに目をつけた広告代理店が、CMを出したいといってくる。このCM料が、月に100万円となれば、ばかもめはトイレ掃除してるより、旅人をやった方が儲かるから、休日に勤めに出る必要はないのだ。ばかもめが、いつまでもトイレ掃除で食べていきたいなら、無理強いはしないが、わたすは、会社勤めより、フリーランスを選ぶのさ。司馬寮太郎の『街道を行く』のような、考察にたけた江藤淳展のレポートを期待しているよ。才能がないとフリーランスはやっていけないからね。

 

●かもめ
なにはともあれ、がんばりたまえ。今丼殿よ。誰しも年を取れば会社勤めの賃労働から足を洗わにゃならん。友達もいなくなる。家族からさえ孤立する。とてつもない孤独と退屈をなめさせられる。強情をはって若作りに急いても寄る年波には勝てないものさ。こうとなったら蓄財なんぞ何の役にもたちはしないよ。大事なのは何なのか。少なくとも金ではないよ。それらのことが老人個々に心底から試されるに違いないのだ。いずれにせよ苦難が待っている。これに耐えなければならんのだ。

 

●今丼政幸
やはりばかもめはなにも分かっていなかった。わたすが、会社仲間や鏡太郎家族と3ヶ月に一回ランチを楽しんでいるのは食事代をすべてわたすが払っているからだ。カネの意味を理解していなくて、貧乏自慢で生きてきたばかもめもようやくせっぱ詰まった人生の終焉を迎えたようだ。孤独なのは、ばかもめにカネがないからだ。寄る年波に勝てないのは生きがいを持たないからだ。わたすはいまYouTubeを立ち上げるためにプログラミングの本をも買い漁っておる。ばかもめには読書の趣味がないことが致命傷だ。Excelの本をちゃんと読み表計算ソフトをマスターしていたら、下請けで小遣い稼ぎは出来たものを。読書能力があるかどうかが人生を決めるよね。日本はどこでも図書館があるから、いつでもどこでも本が読める環境が整っている素晴らしい国だ。で、友達なんぞ、ネットで世界中で作ることが出来る。自殺の善し悪しは一概に下せないが、わたすは市川の(今は北海道にいるが)のから、今井は仕事好きだから、死ぬとしたら、会社で突然心筋梗塞を起こして、みんなが見ているところで死ぬと言われておる。ばかもめよ、ばかもめ。世の中は変わらない。ばかもめがいくら頑張っても変革出来ない。変わるのは、自分が変わるしかない。自分が変われば、世の中は、ばかもめにとって素晴らしいものとなる。ばかもめが自分を変革出来ないから、ばかもめは孤独なのだ。いま、わたすは、YouTubeをマスターすることで毎日が忙しい。孤独感なんてまったくないぞ。で、幸せに暮らしている人のやっていることを真似ろ。幸せな人が、どう考え、どう行動するか、パクってみたら、ばかもめも幸せになる。もっともカネがないばかもめには、わたすのように、みんなをランチに誘って食事代を払ってあげるなんて出来ないけどね。

 

●かもめ
「いま、わたすは、YouTubeをマスターすることで毎日が忙しい。 孤独感なんてまったくないぞ」と今井君は威張っているが端的に申してそりゃ今井君が鈍感だからさ。人生とは食っちゃ寝食っちゃ寝だけで、すべてだと、うそぶいて己がひり落とした糞の後始末を完了したつもりなら、なんぼかめでたかろうぞ。まっその調子でやりたまえ。それが君の流儀となる。

 

●今丼政幸
わたすの記憶に間違いがなければ、ばかもめが最初に雇ってもらったところでは、70になったらお役ごめんで解雇され、70になって辞める年金生活のアパート暮らしの人が、この先やっていけるだろうかとばかもめがいきり立っていたが、80まで雇ってくれるようになったのだろうか? いくらばかもめが働く喜びに萌えたところで、会社は、勤務中死亡されるのが怖いから、そうそう老人をいつまでも雇わないけどね。 わたすの主張は、ばかもめの萌えどころと論点が違って、わたすはもう日本人は会社勤めをやめるべきだという主張だ。 ばかもめと違って、わたすは通勤も辛いし、頑張って会社で働いてもボーナスが出ない。 頑張り損と知ったから、会社勤めがアホらしくなった。 いまは、ネットの発達のおかげで自宅に居ながら稼げる商売がある。 これを利用しない手はない。 まだなんもスキルを持たないわたすだが、習うより慣れろだい。 なんとか居ながらにして稼げる三段、じゃなかった、算段をつけるつもりだ。 で、出来れば、暇はたっぷりあるがカネはまったくない老人も、見よう見まねで稼いでもらいたい。 カネを稼いで、たくさんカネを使って貰わないと、日本経済が伸びて行かない。 勤めを辞めた、勤めを辞めさせられた老人の自宅での金儲けを考えてもらいたいというのがわたすの意見だ。 なんも考えていないばかもめは、安い給与に満足して80まで会社勤めをしてくれい。老人にカネがないのは当たり前? どうして? リタイヤした老人がカネを稼げないなんて誰が決めたのだ。 日本人の思考が生活の基盤は会社勤めにあると洗脳されているからデマを鵜呑みにしてしまう。 短絡思考はいけないな。 かつてばカモメですら、内職で校正をやってて月5万円の小遣いを稼いでいた。 会社勤めをしない仕事はいくらでもある。 人材を求める需要と、どこから仕事を得たら良いか知らない供給側がミスマッチなだけだ。 すると、高速ネットのいま、そんな需要と供給のアンバランスを解消する仕事斡旋のホームページが日本全国どの自治体のホームページにもあれば良い。 その自治体のホームページも、経費削減のため、老人に作成をやらせたら良い。 日本が真面目に経済活性化を願うなら、老人人材を使うのが一番手っ取り早い。 で、それらホームページには、最低限英文を併記するバイリンガルが必要だから、英語が出来る人材も必要だ。 もつと言えば、いまはネット広告で稼げるから、民間でその職業斡旋ホームページを立ち上げたら良いのだ。 人材不足なんて真っ赤な嘘で眠っている人材を適正に使いこなせていないだけだ。 それは、会社勤めででしかカネを稼げないという固定観念に毒されたから、資本主義の需要と供給のマッチングという基礎の基礎を分かってないのだ。 需要と供給を適正にマッチングさせさえすれば老人もカネは稼げるのだよ。 愚か者! わたすは、もつと便所掃除の仕事が増えてもらいたい。 もっと頻繁に掃除をしてもらわないと公共トイレは汚い。 老人が稼いで、税金が増えたら、そのカネで清掃人を雇える。 雇用が増える。 老人がカネを稼ぐよう日本が思考を方向転換したら、日本経済は安泰だ。 なんも考えが及ばないばかもめは、80まで仕事にせいをだせ。 たわけ!まだ、ばかもめは分かってない。ばかもめが、ばかもめの流儀で生きて孤独感を感じているから世話がない。どうしたら、ばかもめは孤独でなくなるのか真面目に考えろ。世の中のみんなが、ばかもめとは違う流儀で生きてて満足している。孤独でさいなまされているばかもめは、どうしたら現状から脱せられるのか、すこしは努力しろ。ばかもめは、どうして鈍感になれないのだ?鈍感になって孤独感に苛まされはことなく生きてけばいいだけよん。達者で暮らせよ。

 

●かもめ
いいかい。拙者が申しているのは感傷から沸きあがってくる「孤独感」がどうのこうのではないのだよ。人が老いることによって自覚せざるを得ない、その絶対的孤独のことさ。いわば存在論的孤独のことだ。もっと云うなら、年々、わが身からただよってくる老醜を自分の鼻でかがねばならないという現実だ。君の云う感傷から来る安っぽい「孤独感」など十歳の子どもでも感じることができるだろうさ。

 

●今丼政幸
ばかもめは救いようのない馬鹿だな。  「人が老いることによって自覚せざるを得ない、その絶対的孤独」って、  人が絶対的孤独など感じられる訳がない。 ばかもめは、言葉の意味を理解出来ない。  「絶対的」とは、現実的には、ありえない。  絶対零度のように人が実際現場に立ち会えることもあるが、それですら、  定義として、エネルギーが最低となることと規定するから、量子学的には、  原子の振動がとまることはなくて、エネルギーが最低になることはない。  「絶対的孤独」とするのは、妄想だ。 ばかもめが妄想で出口なしの寸詰まりにもがくのは、他人にとって無関係だ。 ばかもめの絶対的孤独は、十歳の子供が感じる安っぽい孤独感以下の陳腐なものだ。  現実的には、現象がすべてで、自分がどう感じているかの感傷こそが  存在論的存在そのものだ。  「わが身からただよってくる老醜を自分の鼻でかがねばならない」とは意味不明だが、  老人臭は、本人より、臭い匂いを嗅がされる周りが迷惑で、当人自体は、  たいしてなんともないものだ。 わたすは、嫌悪感からばかもめが自殺しようと止めはしないから、 ばかもめは勝手にやってくれい。 ばかもめの悩み?を聞かされること自体がわたすにとって不快で迷惑だ。 たかが一個人の悩みが、全世界にとって意味あることでもない。  死にたいなら、一人で死んでくれ。 わたすには好きな歌がある。 この曲をばかもめに送ろう。  人生は素晴らしく美しいものだ。↓
https://youtu.be/RfHnzYEHAow

 

●かもめ
さて、いつまでも今井君を相手に馬鹿馬鹿しい話にうつつを抜かしていては、こちらまで本物の馬鹿になりそうなので表題に戻らなければならない。公知した通り六月一日、県立神奈川近代文学館にて執り行われていた『没後二十年 江藤淳展』に参じてまいったところなり。想像していた通り、文士の展覧会とは、何が展覧されているのかといつでも多少の疑念が残るが、やはりこれは画家や彫刻家のそれとはちがって、ようするにまずは文字を読んでもらうほかには手法もないのであって部屋の壁にそってしつらえられたガラスケースの中には、刊行当時の著書と、その自筆原稿、または手紙の類が次から次へと開示されていた。だが、周知の通り、原稿を書く道具とは万年筆である。したためられた文字を記しているところの物質はインクである。江藤淳が書き記した原稿も、今や半世紀が経たんとしているのであって、読むには難儀するほどインクも、かすれていた。以前、藤原定家になる明月記の墨書をみたことがあったが、それはそれは黒々した文字が踊っていた。もちろん、このことは近現代の文士の責にはできない問題だ。さて、文字を読む作業から解放されるうれしい一時があったのは、江藤淳自身が写されているたくさんの写真が飾ってあったことだ。江藤淳は、どの写真を見ても、いつでも微笑んでいる。深刻ぶったところがひとつもない。このニヤけた表情が、彼の著作を読みもしないうちから、わたしに江藤淳と云ふ文士にたいして誤解を持った所以のひとつであったことは相違ない。まずは、江藤淳の書いた物を読まねば私にとっての江藤淳は、なにもはじまらない。

 

 

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▼ヴォーカル大好き<全世界民主青年の歌>

2019年06月02日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

以下、十五年前の記事なり。描写されている内容は実に半世紀前のことであり、いまさらながら懐旧の念したたるも、いずれ幻想的なゴッコ遊びの世界であったことは間違いない。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

<2004.10.17 記>

ゴンマイ殿が70年の大学紛争決戦の秋を覚えてごじゃるとは驚き桃の木山椒の木。さてはゴンマイ殿も悪名高き団塊世代なのけ。そうよ、オラも指導部から、そう言われて現場に出向いたものだ。勤労青年諸君も、セクト存亡の雌雄をかけた決戦に臨んでいるわが党の輝かしき明日を担うインテリ舎弟たちを守ってこいという指令だった。そうさなぁ、オラが町工場の残業が終わるのが夕方も6時だからな、取るものもとりあえず旧第一高等学校、すなわち天下の最高学府東京大学の駒場キャンパスにかけつけたのは70年というよりは69年だったと覚えている。寒かったことを覚えているならば、さては冬も間近のことなれや。正門を入れば、噂にたがわず、そこは荒れに荒れたまさに戦場だったな。ガキの遊び場だったと言う人もいる。さても、暗闇のことで、なにがなんだか訳もわからず、オラたち町工場勤労青年にとっては、ようするにそこでなにが起こっているのか皆目見当もつかなかった次第にごわす。闇の中ではインテリ舎弟たちの表情もよく見えず、ときおり、各セクトを誇示するためと聞かされていた、さまざまな色に塗られたヘルメットをかぶり角棒を持った兵隊もどきの若き出稼ぎ学生の阿呆どもが、われらの目の前をこれ見よがしに、運動会の練習でもやっているのか、駆け足風示威行動に出ておったな。隊伍を組んでいるつもりなのだろうが、その有様は戊辰戦争に刈り出された、みじめな百姓がなれない槍でも持たされて隊伍を作っている姿以上でも以下でもなかった。インテリ学生というものは栄養不良でガニ股が多いというのが、オラが得たなによりの第一観だった。さてオラたち勤労青年は、もちろんヘルメットも角棒も支給されず、ぼけっとして指定された場所に突っ立っておっただけだ。すぐそばに古くされた建物があった。学生たちの「寮」だと聞かされた。中を除いてみれば、そこは荒れ放題で部屋と廊下の区別もつけられないほどだった。見ようによっては、若者たちの暮らしぶりがうかがわれて、一種の親近感と憧れの感情が脳裏をよぎったことを否定しても始まるまい。その建物こそ旧第一高等学校の名残をしのばす天下の駒場寮であることをオラが知ったのは、ずっと後になってからのことだった。指導部のお達しによればヘルメットの色はいろいろある中で、ようするに黄色いものをかぶっているガニ股部隊が現れたら、彼らこそ我らがお守りすべき、未来のお笑い前衛党の幹部候補生たる一味に間違いないとのことだった。だが、いくら待っても黄ヘル・ガニ股集団は一向に姿をみせず、その夜は他セクトの角棒におびえきってしまい駒場東大のどこの穴蔵に隠れてしまったのか一度も敵前に姿を見せることはなかった。それで、われら中小企業零細町工場代表の勤労青年応援部隊としては、後ろ髪を引かれる思いで、一向になにすることもなくしびれをきらしていた。ここで夜を明かすことはできない相談。当時はコンビにもなかった。そこで明日の労働のためとはいえ、泣く泣く解散の憂き目をみたのであった。勤労青年一行は駅に向かった。だが、正門から出たところでリーダーがわれらに声をかけた。「諸君、このまま電車に乗って帰るだけでは、わが輝かしい前衛党に申し訳もたたない。みんなで腹いせに大声で、歌のひとつふたつ歌って、せめて青白きガニ股部隊黄ヘルのインテリ舎弟たちにエールを送ろうではないか」。と言うので、それはよい考えだと勤労青年一同も大賛成だった。そこで正門の向こう、駒場寮の暗闇の方に向かって大声で歌った歌の一つが以下にごわすよ。すなわち、これぞ天下にその名も高い「民青の歌」なりし。


 
 
我ら青年 平和と幸もとめ
誓いは固く 我ら戦いぬく
山川ことなる 世界の青年
腕をとり 隊伍くみ 声たからかに

いざともに 歌え歌 平和のちかい
はばむ者には こたえん高き歌声
ああ 青年のこの熱情はけせない
平和を愛する熱情 ちかいはかたい

 

 

 

 

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