赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

能と芸と職の話

2006年02月02日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
芸術の話については、私がごとき無学な田舎者には、なにもわかりません。一言だけで失礼させていただきます。思うに、「芸術とは何か」という命題は近代人だけの悩みです。近代以前は、芸術も生活も労働の多くが同じ概念だったような気がしてなりません。むかしは芸術も芸術家もありえませんでした。芸人と職人がいただけです。おそらく百姓でさえも広義には職人であり、その労働は芸事の一つであったかもしれないと思っています。「芸術」という概念が肥大化され、言葉だけが独り歩きしはじめたのは、あきらかに近代以降のことであり、その実態たるや、よく分からない迷妄の一つではないでしょうか。

いずれにしても非常に難しい概念だと思っています。「芸術とは何か」とは、おそらく「人間とは何か」という問いに同義でしょう。私はいっそ人々が夢を見、求めている一切の抽象物、具体物を作りだそうとする努力、また作り出すための実際の作業、そして作られたモノ。それが「芸術」だと考えております。昭和文学に異彩を放った文芸批評家の小林秀雄は文学者というより一般美学を追求していた思想家でしたが、最初の出発から死にいたるまで、彼が常に考えていたことはたんに文学のことばかりではなく、芸術一般のことだったように思います。

文壇にデビューした最初の論文が「様々なる意匠」で、27歳のときに書かれたものですが、その中で「芸術家にとって芸術とは感動の対象でもなければ思索の対象でもない。実践である」と簡明に力強く述べています。実践とは誰にとっても生活そのもののことです。換言すれば芸術とは人間の活動一般に問われるエッセンスのようなものだということでしょうか。小林も、若い頃は「芸術家」とは書いておりますが、これが晩年にいたるに「芸術」も、徐々に世俗的に敷衍され一般化され、芸術家などという近代に造語された言葉は使わなくなってきたように思います。

後年書いた非常に短いエッセイの中に「花の美しさなどというものはない。美しい花があるだけだ」という一文がありますが、これも芸術とか美の所在を、なにか架空の観念物にしておくのではなく、どこにでも転がっている、人々の実践と生活に讃辞を送っているように思われてならないのです。これ以上の偏見のない人間賛歌はありえません。小林秀雄は、インテリという近代の幻想を嫌ってやみませんでした。同じように芸術家を嫌い文学者を嫌っていた。最後は出版文化、ジャーナリズムまで馬鹿にしておりました。芸術と形は違うものです。人は形にだまされる。形こそ人をだまします。芸術は形にしなければ、なかなか人には分かってもらえませんが、芸術の本義は、決して形ではないのです。

小林秀雄が好きだったのは芸や職に打ち込む実践家だけでした。黙って実践している芸人や職人、さらに敷衍すれば働いている多くの民こそ生活の達人であり、人生の達人であることを見抜いていました。良きもの、美しいものを求めて、ひたすら生活している人々の刻苦する日常に中にこそ芸術の根源を見ていたようです。少なくても耳あたりよく科学風に凝らされた凡百の理屈の中に芸術は存在しないということを生涯、主張していたように思われます。つまるところ芸術とは結果論であり、それ以上には、何一つ説明するべきではないとすら私は思っておりまする。実践あるのみにござります。芸術家とは芸に打ち込んでいる、その人のことに他なりません。<1425字>
コメント
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