赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

自衛隊賛歌

2005年09月17日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
Bさん、「国を守る」ということは必ずしも戦闘するということではないでしょう。国益に準ずるということでしょうね。時の国際関係や政治的環境ということもある。身を守るための銃は所持しているものの、当初決められた額面通り、道路工事や学校づくりに励んでいるのですから、たいしたものだと思いますよ。

国際ボランティアみたいなもんでしょう。私はイラク派遣直前に北海道で訓練している自衛隊の様子を写すドキュメント番組を見たが、彼らが、どれほど深く憲法その他を学習し、訓練に励んでいたか。目からうろこが落ちました。彼らこそ日本国憲法の番人であるとすら思ったほどでした。感動しました。一人の若い隊長が、インタビューに答えて「私は一人の部下も失わず、必ず無事にイラクから帰ってきます。そのために厳しい訓練に明け暮れているのです」と決意のほどを語ってくれていた。

このように銃を持っていても、決して相手を傷つけない、自分も傷つかないという、悩ましい任務を与えられているのがわが国の自衛隊である。かような兵というものが、かつて、あったでしょうか。それを徹底的に血肉化して派遣されているのです。

他の国の兵隊のことはしりませんが、わが国の自衛隊はそうなのです。憲法9条のもとにあるのです。一人の国民として、彼らの存在が誇らしいほどです。銃を持った兵であるにもかかわらず、決して人を傷つけてはならないというのが、彼らに与えられた至上命令なのですから。それだけでも、十分に哲学的ではありませんか。すくなくてものうのうと、クラーのある部屋でワンカップなどをなめている拙者などよりは、何十倍も立派です。

彼らにしても好き好んで妻子と別れ、いまだ煙がくすぶっている遠いイラクに行っているわけではないでしょう。国民の代表として、好かれ悪しかれの議論はあるが、定められた国益を果たすために任務を遂行しているのです。

いわば国益といい、軍備といい、実に相対的なものであり流動的です。その実質は、その場その時の国際情勢に応じて、考えればよい。ただし国内的な権力機構のある部分を、ある程度、武装させておかなければならないでしょう。海上保安庁が丸腰では、領海を侵犯してくる船舶に示しが聞きません。警官から銃を取り上げては、やはり警官に身の危険が及ぶでしょう。その警官を100名ほど整列させれば、たちどこりに軍隊に毛の生えた程度にはなるのです。実に相対的ではございませんか。

憲法9条はどこまでの軍備はよくて、どこからは、だめだと言っているのですか。それがはっきりしていないからら、議論もたえないのですが、ああだ、こうだ言っているうちはまだ平和だからとも言えましょう。

だがそんな調子で、軍備らしきものを一掃できますか。してよろしいのですか。条文には全面撤廃だと、そのように書かれているからと申して完全に非武装にした暁に、さて現実的平和が守れるのですか。それをお聞きしているのですよ。

どう考えても、原理的非武装は無理でしょう。ですから私は、できるだけ拡大しない方向で今の自衛隊のままでよし。憲法も変える必要はない。イラクのように非戦闘が約束できるなら、海外派遣もやむなしと、そのようにのんきの構えているところです。どうしても現実と条文を一致させておきたいと言うなら現実を選ぶでしょう。条文を現実に合わせるというのがリアリストです。憲法にそう書いてあるからといって、歴史の現実を逆立ちさせるわけにもいきませんし、国内から完全に武装撤去することも、実際的には無理だと思いますよ。

それから自衛隊の諸君は、君たちが考えているよりは、はるかに平和主義者ですよ。平和に徹する彼らの姿が、左翼の私の目には、多少立派に見えるだけなのかも知れませんがね。いずれにしても原理主義や教条主義の目で、政治を一面的に解釈するのは国民を間違った道に誘い込むだけです。現実的ではござりません。

話は少々変わるが、一むかし前のこと、「反原発運動」というものがありました。昔といっても、そう遠い昔のことではありません。政党が主導をとって始まったというよりは、草の根運動から燎原の火のように広がったのです。活動家は政党を超えて、手をつなぎ運動にまい進できた市民運動の象徴的存在でした。私は運動にはまったく参加しておりませんでしたが、友人が原発銀座と呼ばれている敦賀地方で運動しちょりました。彼に案内されて憎っくき原子力発電所というものを見学に行ったことを覚えています。

ところが、この反原発運動が、ある頃を境に急に下火になった。時も同じ頃、電気事業会の有名な(今でもそのキャッチフレーズは使われています)TVコマーシャルが流れるようになったのだと覚えているのです。そうです・・・現在みなさんが使っている電力の3分の1は、原子力です・・・というあれです。

否応なく世の中というものは進んでいく、ノーと言うだけなら、単なる願望にすぎません。口先だけならイエスともノーとでも、何とでもいえるのです。そうした言葉のむなしさというものを、この原発の問題から、つくづく考えるようになりました。少なくても、私は、そうでした。アメリカさんの高圧的な態度を批判する口舌というものは、もう昔からありました。戦前からありましたよ。「鬼畜米英」など、その最たるもので、今や同じ事を左翼の人たちが、がなっているのですから、笑います。

考えてもごらんなさい。なぜ、一億郎党が、外国語と言えば、英語を勉強しているのですか。日本の、すべての中学生が英語を勉強しておりますよ。戦後60年ずっと、そうだったのです。この件について、誰か、お国に文句を言ってきたようなためしがありますか?聞いたこともありません。勉強せい、勉強せいと、英米文化こそを、子どもたちの背中を押して注入してきたのではないですか。否応なく世の中は進むと、つくづく私が思うのは上記のようなことを痛切に感じるからです。<2475字>
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銀河氏との憲法9条談義

2005年09月15日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

銀河様におかれましては、「一条、一項も変えさせない」と語調も強く主張なされておられまするが、以下の現行憲法の条文は、銀河様の言とは、矛盾するようにも思われまするが、いかが?つまり手続きさえ、憲法にのっとっているなばら、改正するも民主主義のうちとは申せないでしょうか。むしろ、銀河様のおっしゃるように、「一行一句変えさせない」とするほうが、よほど独善的なファッショ的態度に見えてくる今日この頃のワンカップです。

第九十六条【憲法改正の手続】

1 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを>発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の>国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を>必要とする。

さっそくあなたは次のように切り替えしてきた。

だがイラクでは交戦する。それでいいのか。交戦権を否定している 日本国家なのに交戦してよいのか。

交戦したのですか。交戦するつもりなのですか。私が耳にしたところによれば、自衛隊は、もっぱら道路工事や学校つくりに精を出していると聞いていますよ。よって暫定的な政府や地元民からは大いに喜ばれていると聞く。派遣されてから、すでに二年近くたつが、この間、イラク人に向けては、まだ一発も発砲していないのではないですか。まさに世界に誇る平和の部隊じゃないか。憲法9条のもとにある部隊であることは自衛隊員たちこそ誰よりも一番よく知っているのだ。

自衛隊は違憲であることをはっきり言うべきだろう。

何度も言うが、銀河さんの言っていることは、改憲論者と同じなのだよ。自衛隊が軍隊であることを認めるならば、さっさと、そのように憲法を変えればよい・・・それだけの話だ。なにを悩んでいるのかね。

「自衛隊」そのものが陸海空軍その他の戦力を保持している軍隊ではないか。

だったら、憲法を変えるしかないだろう。

サマワの自衛隊が攻撃されれば反撃するに違いないが、それは交戦ではないのか。

交戦といえば、交戦だ。小競り合いといえば小競り合いだ。予断を膨らませれば、なんとでも言えるさ。拳銃をぶらさげた警察官を100人ほど、行列させてみろと、申したはずだ。それで軍隊が出来上がるだろう。条文を守れることが平和なのか。現実を守ることが平和なのか、そこのところをよく考えてろと申しているのだ。彼らから、拳銃を取り上げれば平和が来るのか。それはマンガだ。被支配に徹する奴隷根性だ。 サマワに置かれた自衛隊の諸君もそうだが、彼らこそ平和と戦争のハザマにおかれて哲学的に悩んでいるのだ。彼らこそ憲法の申し子だ。君ら口先だけの童話モードの、なまくらな机上の平和論などよりは、よほど体を張って平和を守る最前線に立っているということを、思いやりたまえ。安穏として屁をこいているだけの、なまくらな、君たちの代わりに、できるだけ発砲しないように、体を張って思考しているのだ。平和の最前線では、引き金を引くかどうかが問題なのだ。口先だけでは間に合わないのだよ。

国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 と9条にある。

それは戦後一貫して守られてきたように思われますよ。この条項を身をもって体を張って守ってきたのが、他ならぬ「自衛隊」の諸君だというように、私は思っておりまする。さらに9条は続けて・・・ 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 と書かれているが、これもこの60年間、基本的に守られてきたように思います。自衛隊という軍隊に近いものはありながらも、他国と交戦したことはありません。しばらくは今後とも他国と交戦するような事態にはいたらないでしょうし、政府も自衛隊も、そのつもりはないでしょう。専守防衛に徹するという理念は弁明じみてもいるが、結局、このお墨付きが守られていることは事実でしょう。自衛隊の存在があってはじめて平和が守られていると、そのように思っているほどです。彼らには感謝してもしきれません。

公然とした憲法違反を国家が行っていることに対してかもめ氏は容認しているのですか。

 ふ~む、違反しているのか、していないのか。解釈の違いだと思いますよ。いつだって現実のすべてが教義教条に一致しているということはない。また解釈を厳密にするか、緩やかにするかによっても、現実は大違いとなる場合もあるでしょう。銀河さんも私に同世代のようですが、戦後60年、一応、日本という国家は平和憲法があったがゆえかどうかはしらないが、直接、戦争に参加した形跡はないといわれている。だが、そうした耳あたりのよい言説ですら、厳密に検証してみるならば、まったく違う様相を呈してくるということもある。 小競り合い程度の戦闘なら、幾度もあった。二年ほどたちますか。日本海の領海内で無国籍の漁船に偽装された武装船舶を海上保安庁の船が追いかけたことがある。

けっこう激しいドンパチを遣り合っていたではありませんか。その戦闘の様子が、TVのニュースで流れておりました。今後、そんなことはありえないとは申せますまい。軍隊はともかく、どの程度に武装しておくのか、という問題がある。自衛隊も、最初は警察予備隊として発足しました。警察官は、拳銃をぶら下げている。彼らを100人ほど集めれば、結構な軍隊になるのではありませんか。では、彼らから拳銃を取り上げれば憲法の精神は守られるのですか。 私は、現行憲法に反対しているのではないのです。むしろ、あの能天気に歌を歌っているような前文や9条の文言は大好きですよ。したがって私の結論は、仮に自衛隊の武装がさらに進化するようなことがあり、ますます頻繁に海外派遣などがおこなわれるようになったとしても、9条だけは残しておいていただければ、神棚にでも飾っておきましょうという態度です。こうなっては反古同然ですが、教条なんてものは、歌っていられれば、それでよいのです。

せいぜい努力目標ぐらいを内実とする歴史的美文として飾っておくもの、生活の知恵というものかもしれません。 現実と憲法の文意をどうしても同調させておかなければ納得できないと考える左右の教条主義者(銀河さんのような)たちが、員数の上で勝れば、憲法は早晩改正されるでしょう。 それから、これは原理的な話ですが、私はどのような政府がつくられようと、国家を完全に武装解除することは不可能だと思いますよ。たとえ共産党の政府ができようと、憲法がどうであろうと、軍隊は必然的に作られ、社会的発展に応じて武装進化すると思っております。それが良いことか悪いことかは知りませんが、すくなくても右であれ左であれ時の政府は、言うでしょう・・・・軍隊がなければ国は守られない。軍隊があってこそ国家の平和は守られると。 これを否定する理屈というものを私は知りません。あなたが知っているなら教えてください。国家が完全に武装解除して、それで平和が守られる道というものがあるのでしょうか。 それが発見できれば憲法9条は、ますます輝きを増すことでしょう。

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総選挙 小泉自民圧勝

2005年09月12日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
私は自民党員でも郵政民営化論者でもないが、このたびの総選挙ばかりは総理・小泉氏の肩を持って投票日までの各党の選挙戦を存分に楽しませていただいた。去る8月8日、衆院解散のさい小泉氏はTVを通して「国民に問いたい」と繰り返した。この単純にして短いフレーズは、確かに国民の心に届いたように思われる。与党総裁の肉声が、国民の母性本能をくすぐったのである。国民は彼に答えるであろう。少なくても小泉氏は、政治の大道を、実に単純な言葉に言い換えて、政治を国民に解放したのである。たかが一票が、これほど清く重い価値があったとは、国民の誰が、想像したであろう。これぞ選挙である。一票を投じることに、これほど胸躍らされる経験はない。こんなことは歴代の宰相数有れど、明治以来、わが国では初めてのことなのだ。

こうしたことも、また小泉氏一流の、メディアを上手に使いまわしている特有の手法だと矮小化する報道関係者の意見なども聞かれるが、畢竟、評論家、報道関係者一同の上っ面な職業意識とその生態が見透かされるばかりなのである。従来の派閥の論理や談合、料亭政治などを嗅ぎまわっているしか保守党の動きを知ることはできないという業者根性の旧弊が丸出しだった。浅薄な彼らには、一挙に壮大かつ深遠に広がる国民の胸のうちなど分かるわけがない。選挙戦が始まった当時から、一介の国民すみずみにまで小泉氏が宣言したように、確かに自民党の古い体質が「ぶっ壊れ」つつあることがよく分かるのである。

それにしても、小泉氏の「国民に問いたい」というフレーズには、やれ「民主」だ「平和」だと馬鹿の一つ覚えのように、戦後60年間ひたすら、がなっているだけだった左翼政党でさえ追いつかない、大きな民主主義上の内容と内実がありそうだ。小泉氏の「民主主義」は左翼政党の先を行ってしまった。スローガンをわめきちらすだけで、自民党や公明党と見れば、ひたすら反対し抵抗するしか能のない社民党、共産党などは、はっきり言って今や無用の存在になってしまった感すらある。

投票日から4日ほど前の産経新聞では、すでに「自公300議席」の大見出しが一面に躍っていた。そもそも解散当日の小泉氏の「国民に聞いてみたい、国民に問いたい」という切実な演説に、国民は胸を打たれたのだ。野党は見るも無残な負け犬状態に終始していたことは日を見るよりも明らかだ。こうした深部におよぶ政治的内情を、分かっていなかった馬鹿者たちこそ、マスコミ関係者やブンヤをはじめ、その手の業者分際が自慢で、知ったかぶっている者たちだったのだ。国民の胸の奥底で変革されつつあったものが、彼らには一向に見えなかったのだ。

だが、与党が大勝したと言って、いちいち腰を抜かしていられるか。4年以内に、また総選挙がある。その前に参院選挙もある。そこでいかなる政党が頭角を現してくるかは神のみぞ知る。小泉氏が「独裁者」ではないことは、彼自身が、来年9月に総裁任期が切れる、その時点で与党総裁は辞めると明言した上で、解散・総選挙に打って出たことからも明白な事実だ。出処進退に及ぶ一連の彼の言葉に見られた潔さが、直接国民に届き、国民を動かしたのである。
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